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2009年6月15日 月曜日

映画評

Diary of the Dead (2007) Directed by George A. Romero
ジョージ・A・ロメロ監督作品 『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』

 待望のロメロの新作映画、それもまたもやゾンビものというだけで、ロメロ信者としてはひれ伏して拝みたいぐらいうれしい。今回は劇場で見逃したので、迷わずすぐに(と言っても中古が出るのを待って)DVDを買った。と、簡単に言うが、これは私的にはたいへんなことなんである。
 私が見ないでDVD買うのは、もうロメロの新作ぐらいになってしまった。というのも、もううちはこれ以上ソフトを増やせないうえに、金もないというわけで、ハズレの可能性のある映画なんか買う余裕はないのだ。まして、私は買った映画はそれこそ穴の空くほど何度も見るのだ。最愛のクロネンバーグですら、もう一度見たいかと言われると、「ちょっとなー」という映画はあるのに、ロメロにはこれまで一度も失望させられたことがないというだけでも、えらいことである。
 それだけの鑑賞に耐える映画、しかもそれがゲロゲロのB級ホラー(ちなみにこれはほめ言葉。なんなら「偉大なる」という形容詞を頭に付けてもいい)だっていうんだから、ますますえらいことなんである。この愛と信頼は今回も裏切られないかどうか、それは見てのお楽しみ。

私のロメロ愛、ゾンビ愛についての参考文献
    『リビング・デッド』三部作評
    『ランド・オブ・ザ・デッド』評
    『URAMI 〜怨み〜』評

 と、気を持たせておいて、いきなり結論言ってしまうと、やっぱりロメロはロメロだった! なにしろ最後のほうでヒロインが、例の、'They are us. We are them.'というセリフ(『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』のラストの決めゼリフであり、ロメロのゾンビもののすべてに共通するテーマ)を口走るのだ。もうこれだけであとはなんにもなくてもいい!というぐらい感動した。

 で、終わらせてもいいぐらいなのだが、まじめに最初に戻る。
 三部作から『ランド・オブ・ザ・デッド』まで、ほぼ時系列に沿って進行してきたロメロのゾンビ映画だが、ここでいきなり一番最初、初めて「ゾンビ現象」が起こり始めたころに戻る。(背景は現代なので、現実の時系列とは一致していない) ロメロに言わせると、「初心に帰りたかった」そうで、いろんな意味で、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』に回帰した作品と言える。しかし、もちろん内容はまったく違う。

 全編を主観撮影(カメラが文字通り主人公の目となる撮り方)で撮った、疑似ドキュメンタリー仕立てになっているというのも、かなり思い切った趣向。主観撮影ではないが、疑似ドキュメンタリーとしては、最近、『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』(2008年3月21日)に大興奮したので、いやが上にも期待が盛り上がる。
 お話はというと、卒業制作の映画を撮っていた映画専攻の大学生グループと付き添いの教授が、ゾンビ現象に遭遇し、トレーラーであちこち逃げ回るというもの。ゾンビ映画といえば、どっちかというと孤立した密室の籠城戦だったのに、その意味これはロード・ムービーでもある。(ダニー・ボイルの『28日後』はそうだったが、あれはどっちかというと記憶から消し去りたい)

 監督のジェイソンをはじめとする9人の学生たちは、卒業制作として、人里離れた森の中で安っぽいミイラ映画を撮っていたのだが、ラジオから流れるニュースを聞き、さらに生き返った死人を目の当たりにし、さらにテレビのニュースは編集された偽物であることに気づいて、「真実を世界に伝える」ために、自分たちが見たものすべてを撮影し、ネットにアップロードすることに決める。
 というわけで、一部のニュース映像(ほとんどがストック映像)と、監視カメラの映像を除けば、ほとんどすべての映像が、ジェイソンが撮影したものを、後にガールフレンドのデブラ(Michelle Morgan)が編集したということになっている。おかげでジェイソンは主人公なのに、ほとんど声だけで画面に映らない。
 ドキュメンタリー仕立てのゾンビのロード・ムービー? これだけ聞いても、なんか今までとはずいぶん趣向が違って、思い切った冒険だと思うが、はたしてどうなりますか。

 まずはその主観撮影の話から行こう。
 これは見ている側からすると、「手持ちカメラがグラグラして、見ていると酔う」ぐらいで、あまりおもしろいものではない。(『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は酔っただけでぜんぜんおもしろくなかった) しかし撮る側としては非常に手間がかかって骨の折れる手法である。だいたいカメラが1台しかないので、細かなカット割りができない。当然ながらカットなしの長回しが増える。みんながちゃぶ台囲んでしゃべってるだけの映画ならまだしも、アクションとトリック撮影主体のゾンビ映画では、スタッフもキャストも万全の下準備が必要になる。だいたい、失敗するとそれこそ学生の自主製作映画みたいになって、目も当てられない。
 ロメロはそこをさまざまな方法でカバーしている。まず、ジェイソンが撮っていることになっているが、実際はもちろんプロのカメラマンが撮っているので、そんなにぶれない。(コメンタリーでは、「観客が酔ったら困るからね」と、ちゃんと配慮していたようだ) 途中からカメラが2台になるので、多少はカットの切り替えもできるようになり、いくらかまともな映画らしくなる。ほかに、観客にはわからないようにカットを切り替えたり、編集でいろいろごまかしたりもしているようだ。しかし、ドキュメンタリーらしさを出すため、あえてピントのぼけた映像やぶれた画像も使っているし、ほとんど撮り直しなしのワンテイクで撮っている。

 撮るだけでも大変なのに、さらに主観撮影だといろいろな制約が加わる。第一に、ほとんどがロングショットになり、クロースアップがあまり使えない。ゾンビが犠牲者を食いちぎる場面なんか、普通ならいくらでも寄ってディテールを見せることができるが、ここでそれをやったら、「撮影者は何やってんだ?」ということになって、おかしいからね。それを言ったら、かんじんのゾンビもロングショットが多く、せっかくのメイキャップがあまりはっきり見えないのも残念。その意味では娯楽性をかなり犠牲にしている
 結論としては、技術的にはそつなくまとめたが、はたしてそんなに苦労してまで主観撮影にこだわる必要があったのかという疑問は残る。普通の映画の中に、ジェイソンが撮った画像をはさみ込むだけでもよかったような‥‥
 ドキュメンタリー仕立ての最大の利点は、映画にリアリティを与えることである。その意味、作り話とわかっているのに現実の話と思いこんでしまった『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』は大成功だったのだが、その最大の原因は(シャム双生児ってところを除けば)、いかにも現実にありそうな話だったからである。でもゾンビの話を現実と思えと言われてもねえ(笑)。
 いや、もちろん嘘とは知っていても、これまでのロメロのゾンビには現実以上に感情移入し、大いに感動したのは言うまでもない。でもそれは脚本や演出の力でそう見せていたのであって、ドキュメンタリーにすればよけいリアリティが増すってものでもないと思うのだが。

 次に、これは立派なメディア批判の映画である。映画というものも一種のメディアと考えれば、文字通り映画を撮ることに命をかけるジェイソンは、ある意味で監督の分身で、一種のメタ映画になっている。
 さらに、公共メディアによる情報操作の危険性、ブログやYouTubeのおかげで誰もが情報の発信者になれるというネット社会の利便性、それとは表裏一体の、いい加減なデマ情報があふれかえって真相が覆い隠される危険、だいたいそんなのって気持ち悪くね?(ここだけ私の個人的見解)、といった、あまりにも今日的なテーマも要所要所に盛り込まれている。
 実際、こういう時事ネタを扱っているので、風化しないうちにと制作と公開を急いだのだという。このお年(69才)で、これだけ新しいものに敏感なだけでもえらい。さすが社会派ロメロ、とまずはほめておこう。
 ただ‥‥と、これも保留が付いてしまうのだが、最初のうちこそ、10分でアクセスが何万増えたとか興奮したりしているが、世界中でゾンビ現象が起こり、インフラも社会も崩壊しつつあるのに、YouTubeがいつまであるか、っていうよりネットなんていつまで生きてるかねえ?
 「記録しなければなかったことと同じになる」というジェイソンの主張はわからないでもない。今見る人がいなくても、何十年後か何万年後かに文明が復興したとき、貴重な記録になるとは思うが、問題はデジタル・メディアの寿命がそこまで保たないってことで(苦笑)。むしろ石に刻んだほうがいいんではないか?という、意地悪な突っ込みも可能なのだ。

主人公の面々。左から、マックスウェル教授、エリオット、トレイシー、ジェイソン、デブラ、トニー
(メアリ、リドリー、フランシーン、ゴードーはいない)

 次、出演者について。前述のように長回しが多いので、役者はすべて舞台経験のある役者を選んだという。(普通の映画は細かいショットの積み重ねだから、映画俳優は直前に次のセリフを暗記するだけでいい。だけど舞台は全脚本を暗記していなくてはならないので) それはいい。例によって無名俳優ばかりのキャストだが、それなりに重みのあるキャスティングになった。
 だいたい、こういう大学生グループって、普通のホラーだとまず愚かしい食われ役と相場が決まっているのだが、この人たちは多少の知性を感じさせるし。
 だけど、現役大学教師の私にとっては、これが足かせになっちゃうんだよね。大学生って聞いただけでなんか引いてしまって、感情移入がむずかしい。(すいません、でも本音)
 だから、最初はかなり意地悪な目で見ていたのだが、それにしてはあんまりいやな感じじゃない。と思えてくるだけでも立派だが、それにしてもいつものロメロ・キャラにはめいっぱい感情移入できるのに、残念ながらそこまでは行かない。

 まずはジェイソン(Joshua Close)だが、まったくタフガイではない、ナイーブで繊細で知的なキャラというところがまず気に入った。普通ならすごい好きなタイプなんだけど、なのに彼がはっきり映るのは最後の独白の部分だけという皮肉。カナダ人のジョシュア・クローズは、『ランド』にもウブな新兵として食われ役で出ていたが、主役への大抜擢。
 余談だが、ロメロはなんでかカナダ好きだね。これも確か『ランド』もカナダで撮ってるし、登場人物はなぜかカナダへ逃げる話ばかりしている。もちろん、アメリカから地続きで行ける外国だからだろうけど。少なくともメキシコへ逃げるよりましに思えるし。アメリカ人から見ると、カナダってある種の桃源郷に見えるのかな。私もカナダ好きですけど。
 話を戻すと、ジェイソンは最初はまるで異常者だ。なにしろ目の前で友達が殺されていくのに、助けようともしないでビデオを回し続けるのだから。だから、最初は仲間の猛反発を食らう(特にガールフレンドのデブラに)のだが、しだいに彼の異常な情熱が仲間たちにも伝染していく‥‥というあたりの展開はうまい。

ゾンビ(リドリー)に食われつつもカメラを放さないジェイソン

 自分の死さえもなんとも思わない虚無的キャラは、これまたロメロの十八番だし、これはすごーく好きなので、とりあえずジェイソンはマル。惜しむらくは、ほとんど画面に登場しないことだけ。とにかく終始カメラの後ろにいたのでは、ストーリーに関わりたくても関われない。その意味でも全編、主観撮影はやりすぎだったかも。
 ただ、『ランド』の主人公、ライリーのことを「傍観者」と呼んだけど、その意味ではこのジェイソンはその究極の形かもしれない。
 彼は最後、ゾンビと化したリドリーに襲われて、命は助かるのだが、噛まれてしまう。そこで‘Shoot me.’とガールフレンドのデブラに頼むのだが、英語のshootには「撃つ」と「撮る」の両方の意味があるので、ここではその両方に引っかけてある。「俺を撃て」と「俺を撮ってくれ」を同時に言っているのだが、いつもながらロメロのセリフはかっこいいな。
 そしてデブラは表情ひとつ変えずに彼を射殺すると同時に、カメラに収めることは言うまでもない。

 というわけで、ジェイソンに代わる実質的な主人公なのが、ヒロインのデブラ(Michelle Morgan)。やっぱりロメロは強い女が主人公なのはいい。『ランド』のヒロインみたいなアバズレ姉ちゃんでなく、知的で冷静な女性というところもいい。それはいいんだが、問題は私がデブラそのものを好きになれないこと。
 なーんか、いかにもいそうな、ただのよい子ぶり、お利口ぶった、優等生にしか見えないんだわ。(実はそういう学生がいちばん嫌い) えらそうに正論を振りかざすタイプね。ここでもえらそうにジェイソンに文句たれるばかりで、ならば自分は何をするかと言えば、「おうちに帰りたい」というだけ。まあ、現実にはそんなものだろうが、ヒーローが行動しないヒーローなので、そこは彼女にカバーしてほしかった。もちろん彼女はジェイソンの未完の映画を完成させたんだから、それだけでもいいってことになるが。

 実は学生たちの中で、いちばんいい役をさらったのはリドリー(Philip Riccio)。彼はジェイソンの映画の主演男優(ミイラ男役)で、大金持ちのボンボン。これが卒業制作でなかったら、さしずめスポンサー役だわね。甘やかされたガキで、軽いお調子者だが、根はいいやつって感じ。ゾンビのニュースが伝わってきたとき、彼は「俺は帰るぜ」と言って、ガールフレンドのフランシーン(Megan Park)を連れて、さっさと画面から消えてしまう。
 しかし、苦難の旅を続けるジェイソンたちのところへ、リドリーから電話がかかってくる。どうやら2人は無事で元気なようだ。行き場を失った一行は、「要塞みたい」と言われるリドリーの屋敷へ向かう。しかし着いてみると、どうも様子が変だ。リドリーは元気そうだが、両親も使用人もフランシーンの姿も見えない。怪しんだみんなが問い詰めていくと、結局、全員がゾンビ化し、リドリーだけはなんとか生きのびたものの、気が狂ってしまったうえ、自分もゾンビに噛まれていたことが明らかになる。
 このときのリドリーの、異様な陽気さの影から徐々に狂気が覗いてくる演技が迫真の出来で、この映画の演技賞もの。それにくらべると、ゾンビになってしまってからのリドリーはつまんないと思えるぐらい。

 いちばん謎めいた人物が、ただひとりの大人のマックスウェル教授(Scott Wentworth)
 そもそも、私が彼の立場なら、何よりもまず学生の身の安全を確保することを考え、その場を仕切ろうとすると思うが――別に学生思いだからってわけじゃなく、教師の本能です。だから教師なんて割に合わないんだって――ゾンビが出てきて大騒ぎになっても、この人はひたすら酒をあおっているだけで、何もしようとしない。
 それを見ていて、なるほど、これは『ナイト』のクーパーの役柄だなと思った。いちばん分別のあるはずの年かさの男が、実はいちばん役立たずで、みんなのお荷物になるばかりか、人の足を引っ張って惨事を招く役どころだなと。
 ところが、(おそらくそういう観客の予想を予期した上でだと思うが)、この予想は見事に裏切られる。いざ、ゾンビと対決となると、このおっさんがバッサバッサとゾンビをやっつけて、学生たちを助けるのだ。それもなぜか銃よりも中世風の武器を好むらしく、弓矢と剣で(笑)。
 弓の方は、若いころ、アーチェリーの名手としてならしたということをポロッとしゃべったが、(相手がゾンビとはいえ)人の頭を一刀両断にできるほどの剣の使い手なのはなんでだ! ありえねー!
 そうじゃなくても、マックスウェルには謎が多い。どうやら家も家族も持たず、世捨て人同然の暮らしをしているらしいが、どうしてなのかまったく説明がない。アル中のニヒルな世捨て人で、戦闘の達人の大学映画科教師? いねーよ!(笑) っていうか、これだけ謎めいた人物を出すなら、あとで何かの説明があるはずと思うものだが、そんなのはない。
 結果としては彼が学生たちの守護神のようなものなのだが、それにしては学生たちとの心の交流が全くなく、孤高を保っているのも変だ。
 とりあえず、登場人物の過去やバックグラウンドを何も説明しないのはいつものロメロ調でいいんだが、それにしてもこんな荒唐無稽な人物が出てきたことはない。本当に何者なんだ、こいつは? と、いろいろ考えさせてくれるところがおもしろいんだけどね。とりあえず、中年の星ってことで、やたらかっこいいので許してしまう。(学生さんたちは口は達者だが、行動力に欠ける)

 それ以外の登場人物はみんな食われ役、と言いたいところだが、それなりに個性と人格を持たせたあたりが、やっぱり凡庸なゾンビ映画と違う。

 もうひとりの女の子、トレイシー(Amy Ciupak Lalonde)は典型的なブロンド美人だが、むしろデブラより強い。彼女は映画の主演女優(つまりミイラ男に追いかけられる役)で、典型的なスクリーム・ヒロインと思わせておいて、実は気丈で負けず嫌いってところがいい。やたらテキサス出身ということを強調しているが、テキサス女は強いんだな。
 そのボーイフレンドのゴードー(Chris Violette)はタフガイ・タイプだが、早々にゾンビにかじられて消える。もちろんとどめを刺すのはトレイシーだ。
 クイーンズ出身のトニーもタフガイ・タイプだが、むしろこういう人たちが戦闘では役立たずで、メガネをかけた見るからに理系のナードのエリオット(Joe Dinicol)がゾンビ相手に大立ち回りを演じるといったひねりもいい。
 メアリ(Tatiana Maslany)は最初に死ぬ(自殺)のでいちばん印象が薄い。

 しかし人数が多すぎる! やっぱり主要キャストは『ドーン』の4人ぐらいが限度。これでは人数が多すぎて、扱いが甘いキャラが出てきて、死んでも「誰だっけ?」という感じで感情移入がしにくい。(これを書くにもキャスト表と首っ引きで調べなきゃ思い出せなかった) どうせ途中でバタバタ死んで、2〜3人が残るんだろうと思っていたが、けっこうしぶとく生き残るし。
 あと、ジェイソンは別としても、他の奴らも冷血すぎ! ゾンビ映画のいいところは「愛する人を手にかけなくてはならない」葛藤だが、デブラもトレイシーも、ボーイフレンドを射殺しなければならなくなるのに、あっさりしすぎ。これも人数が多くて、愁嘆場に時間かけていられなかったせいだと思う。人数が多いと個々の人物の登場場面も減るから、感情移入するひまがなくて、死んでもあんまりかわいそうに見えないし。
 それを思えば、ゾンビを数人轢き殺したぐらいで自殺しちゃうメアリは、ある意味いちばんまともだったのかも。

 次に彼らが途中で出会う人たち。ロード・ムービーだからして、さまざまな出会いが物語を形作る。

 個人的にいっとう受けたのは、聾唖者の老農夫サミュエル(R.D. Reid)。彼は車がエンコして、ゾンビに囲まれてしまった学生たちをかくまってくれるのだが、このおっさんがまたユニークでかわいくて、すぐに殺されちゃうのがもったいないぐらい。
 ロメロはこのエピソードはギャグのつもりで入れたらしいが、観客には大人気なので驚いたようだ。死に方も派手で、ゾンビにつかまると手に持った鎌で自分の頭もろともゾンビを串刺しにするという豪快な最期を遂げる。

 でも、ロメロのゾンビ映画に付き物の、「これならまだゾンビの方がかわいく見える」ほどの極悪人が出ないなーと思っていた。だから、略奪者上がりの自警団(全員、屈強な黒人)に捕まったときは、これが『ドーン』のバイカー集団に相当するんだと思って見ていたら、実はいい人たち。最初こそすごんでみせるが、結局は必要な食料や物資を持たせて送り出してくれる。うんうん、黒人が悪い人なわけないんだよな。なんて言ってると、きっと次の映画では意図的にひっくり返してくれるのだが。

 ところでメイキングを見てハッと気づいたのだが、これってカトリーナ台風の風刺でもあるのね。ほら、白人はみんな安全なところに避難して、逃げる手段や逃げる先のない黒人だけが町に取り残されたってやつ。この人たちは助かってほしいな。十分な物資はあるようだし、見るからに強そうな男ばかりだったから大丈夫そうだけど。

 それでそのあと、州軍に出くわしたときは、学生たちは「助かった!」と喜ぶのだが、見ているほうには、こいつらは悪者だってことは見え見え。権力や白人男は信用できないってのがロメロの合い言葉だから。
 で、案の定、彼らはとっくに職務を放棄して暴徒と化している。とりわけ、リーダーの男のニヤニヤ笑いがいかにも悪いやつって感じだったので、何をやらかしてくれるのかと思ったら、物資だけ奪ってさっさと行っちゃうので拍子抜け。
 というわけで、今回は極悪人なし! これはちょっと寂しいなあ。ならばゾンビの皆さんが、そのぶんがんばらなくちゃならないんだけど‥‥

 すでにバブとビッグ・ダディというゾンビ・ヒーローを生んだロメロだが、ゾンビに個性や人格を持たせることができたのは、彼らが「進化した」ゾンビだからできたこと。この段階では、ゾンビはまだ頭の空っぽな歩く死体にすぎないのでちょっと無理。
 というわけで、ゾンビについてもかなり割り引かれる。先に書いたようにアップになることが少ないし、出てきてもすぐに殺されちゃうしね。
 印象に残ったのは、リドリーの家で屋内プールに閉じ込められていたゾンビたち。(水中にいるんだが、生きて歩いている) と言っても、単にデブラの、「プールには人間金魚が浮いてるし!」というセリフに大笑いしたので印象に残ってるだけだが。
 あと、黒人たちのアジトで、頭に硫酸をかけられたゾンビの頭がシュワシュワと溶けていくところ。これはもちろんCGで、昔ならワンカットでは撮れなかった映像だからというだけだが。

見るからに人の良さそうなロメロおじいちゃんと出演者たち

【おわび】 このあと、まだ続くはずなのですが、今のところここまでしか書けてません。そのため公開してなかったのですが、このあとの『サバイバル・オブ・ザ・デッド』が出てしまったので、やむなくこのまま上げました。続きはまた時間ができたら書きます。













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