2008年9月の日記

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2008年9月3日 水曜日

Saw IV (2007) directed by Darren Lynn Bousman
(邦題『ソウ4』)

(謎解きも重要な映画なのでネタバレはなしです)

 だいたいにおいてシリーズものというのは、特に最初から3部作とか4部作とかを意識したわけではない、たまたま当たったから続編が作られただけの「柳の下のドジョウもの」というのは、あとへ行けば行くほどつまんなくなる、というか、1作目以外は見られたものじゃないのが普通だ。その点、この『Saw』シリーズは、4作目になってもまだ最初の水準を維持している、というか、これまでにない密度とテンションの高さなのに驚いた。
 というわけで、私はこのシリーズをかなり高く評価している。えげつないスプラッタ表現ばかりにみんな目がいっているようだけど、(それで実際、かなりえげつないが)、先の読めない展開とか、登場人物の複雑な心理とか、随所にばらまかれた伏線や手がかりなど、決してただの阿鼻叫喚スプラッタではない。それがパート2以降になると、そういうややこしいものはすべて取っ払って、わかりやすいB級ホラーになってしまうのが常だが、このシリーズはあとへ行くほど凝った、マニアックなものになっているのがただ者ではない。
 しかし、その時点で、一般のホラーファンを拒絶してしまっているのも確か。実際、日本でのこの映画のコメントを見ると、「話がわけわからない」、「人物が誰が誰やらわからない」という感想が大半を占める。一方、普通の映画ファンは、まずあのスプラッタだけで引くから、結局残るのはおたくだけ。つまり実に私好みの映画になっているわけだ(笑)。
 普通こういうシリーズは、監督も毎回コロコロ変わるのだが、2作目からはずっと同じ人が監督しているのもめずらしい。やはりこれはSawが好きで好きでたまらないSawおたくによって作られたSawおたくのための映画なんだろう。
 1作目のリビュー(2006年5月28日)にも書いたが、もともとのアイディアはまるっきり『セブン』のパクリである。主として被害者が不条理な二者択一 ―― 一方を選べばすごーくいやな痛い目に遭うが、もう一方を選べば確実に死ぬ ―― を迫られるというところだが、でもここまで来ればパクリを越えたと言っていいだろう。

 1作目は完全に被害者の側から見たストーリーで、だから観客は被害者の痛さを共感できたのだが、ジグソーと呼ばれる犯人の正体が割れてしまい、おまけにその犯人も死んでしまった今作では、むしろ犯人視点に変わってきている。それで私はこっちのほうが楽しい。というのもジグソー=ジョン(Tobin Bell )が好きだから。いや、こういうことを言うとまた誤解を招くが、ジグソーみたいなことをするのが好きというのではなくて、こういう虚無的な目をした異常者っぽいジジイが好きなんで。ちょっとクリストファー・ウォーケンに似てるね。
 でも死んじゃったからもうトビン・ベルが見られないのかと思ってがっかりしていたが、死してなお大活躍で、今回がいちばんいっぱい見られたぐらい。それだけでも満足ってぐらい好き。
 だいたい、殺人鬼がモンスターじゃなく、死にかけた(死んだ)ひ弱なジジイというところもこのシリーズのユニークなところ。異常さにしろ複雑さにしろ、鬼畜なのになぜか哀れを誘うところにしろ、このキャラクターだけは、本当に何考えてるんだかわからない『セブン』のケヴィン・スペイシーよりはるかにいいよ。ささやくようなしゃべり方も好きだし、セリフもけっこう重みと深みがあるし。
 というように、すっかりジョンに感情移入しつつ見てしまうものだから、かんじんの拷問もあんまり残酷に見えなくなってくる。すなわち、観客もジグソーの言う“See what I see / Feel what I feel”を地で行ってしまうわけで、そこまで計算して作ってるとしたらたいしたものだ。

 あまりストーリーに突っ込むとネタバレになってしまうので言えないのだが、あえて難癖を付けると、ジョンが死んでしまった(病で動けなくなった)ため、別に実行犯を用意しなくてはならなくなったのだが、それがちょっと話の焦点をぼかしてしまっているような気がする。もちろん毎回、犯人捜しの謎が用意されているのだが、ジョンが犯行に及んだ気持ちは大いに理解できるものの、他の人がなんでそこまでやるのかというあたりがいまいち納得できないような。まあ確かに犯人が瀕死の病人というところがユニークではあったが、私としてはジョンが健在で、犯行を続けてくれていてくれたほうがうれしかったかも。
 あと、ジョンの奥さんがすごい好き。疲れたみじめそのものの様子でいながら、なんか腹に一物ありそうで、けっこう不敵なところが。今後はこの人がなんかの鍵を握るような気がするのだが。

 スプラッタについては、慣れてきてしまったせいか、衝撃度は弱まったように思う。私はむしろ心理的にこわいのが好きですね。ただ、見ていて「すげえ!」と感動したのは、冒頭のジョンの司法解剖シーン。グロに弱い人はジグソーの犯罪以前に、ここでアウトでしょう。
 でも解剖シーンをこれだけリアルに見せた映画は初めて見た! いや、見たことがあるわけじゃないが、ミステリとか読んでると、微に入り細に入った解剖の描写がよく出てきて、すっかり覚えちゃったので(笑)。明らかに間違ってるのは、解剖医が黙って作業をしているところだけか。(実際はやっていることをいちいち口に出して録音に記録している) 特撮用のダミーも実によくできていて、こっちのほうがジグソーよりよっぽどこわいよ。

 映像も凝っている。今回気づいたのは(前からやってたのかもしれないが、忘れた)、シーンからシーンへの切り替えをうまくつないで、まるで前のシーンの延長のように見せる技術。カットバックも多用して、さらに過去と現在が交互に出てくる編集も凝っている。この辺も並みのB級ホラーではない。

 ちなみにこれを読んで見てみたいと思った人は、これだけ見てもダメです。1から順に見て、できればDVDで繰り返し見ないと話がわからないはず。もっともこれを繰り返し見るだけの神経がある人はあんまりいないと思いますが(笑)。
 こういうのこそ完結したらDVDボックスセットで買うべきなんだが、どうもいまひとつ購買意欲がわかないのは、やっぱりなんか足りないんだな。美学かしら? 『セブン』はアラはあったが、デイヴィッド・フィンチャーの映像美だけでも買う価値あったし。とりあえず、次作にも期待。

28 Weeks Later (2007) directed by Juan Carlos Fresnadillo
(邦題『28週後』)

 導入部はすごいおもしろくてどうなるのかワクワクするのだが、途中でクソおもしろくもないぜんぜん別の話になり、最後は苦笑するしかなくなるダニー・ボイルとアレックス・ガーランドの『28日後』(2006年1月27日の日記参照)の続編である。ここではボイルとガーランドは製作総指揮にまわっているが、まあ、前作が前作だけにぜんぜん期待はしてなかった。『28日後』の良さといえば、キリアン・マーフィくんの美貌と、無人のロンドンの街の美しさだけだったが、今回はキリアンも出ないので興味反滅。だけど、代わりに主役をつとめるのがロバート・カーライルとあっては、やっぱり見ないわけにはいかなかった。ロンドンの景色を見るのに50円、ロバートに50円なら出してもいいかなと(笑)。
 だけど、導入部からしてすごくつまらない(生き残った人々が民家に立てこもったところにゾンビ軍団が襲ってくるという、いつものアレ)のを見た時点で、これは前作以下だなと。
 だいたいが、全速力で疾走しながら追いかけてくるゾンビなんか嫌いだ! ゾンビはゾンビ歩きしかできないから哀れでもあり、恐ろしくもあるのに。特に白昼の野原を駆け回るあたりは、みんなで楽しく遊んでるようにしか見えない(苦笑)。
 いちおうお話はというと、あれから28週間が過ぎ、英国はほぼ壊滅。ゾンビたちも獲物を全部食っちゃったので餓死(笑)。そこへ復興のためにアメリカ軍が侵攻してくる。たまたまスペインに行っていて無事だった子供たちと再会したロバート・カーライルは数少ない生き残りのひとりなのだが、ゾンビにつかまった妻を見殺しにして逃げたという秘密を持っている。
 生き残りの人々はロンドンのアイル・オブ・ドックスに集められ、米軍の監視下に置かれているのだが 、子供らはこっそり抜け出して自宅へ戻る。そこで死んだはずのお母ちゃんに再会するのだが、彼女は免疫を持っていて、ゾンビにならずに生きのびていたのだ。ところがロバートが妻にキスしたために、免疫のない彼はゾンビ化してしまう。パニックになった民衆は街へ逃げ出し、米軍はお得意の殲滅作戦(感染者も非感染者も皆殺し)を実行する。
 ふーむ、『28日後』はストーリーだけ聞いて、『アウトブレイク』みたいなのかと思ったら違ったが、ここでやっぱり『アウトブレイク』になるんだな。ウイルスとくれば当然の反応だが、『28日後』がゾンビ映画として凡庸だったのと同じく、これもウイルス映画としては見るものは何もない。だいたい隔離体制も検疫体制もまるでなってないし。
 で、結局はこの子供たち(と、良心的な米兵を含む数人の大人)がどうやって生きのびるかが話のキモになるのだが、たぶんみんな死んじゃうってことがだいたい途中で予想がつくので、そのサスペンスもない。で、やっぱりその通りになって、良心的な兵隊さんが子供ら(母親と同じで保菌者だが発病しなかった)を、ドーバー海峡を越えてフランスへ逃がしたので、今度はエッフェル塔の下をゾンビが走り回る(苦笑)。

 しかし、ロバート・カーライルもなんでまたこんな役引き受けたんだろう? だって、ゾンビなんだから、コンタクトレンズつけて、血糊を顔に塗りたくって、「がおー!」と叫んでるだけなんだから。こんなのどんなダイコンの大部屋俳優だってできる。これがロメロのゾンビなら、哀愁を漂わせた泣かせるゾンビにすることも可能だったのだが。恥を知りなさいよ。
 ガキもかわいくないし、結局見るべきものは‘London's burning’のシーンだけだったな。あれは本当にきれいだった。『28日後』ではマンチェスター炎上を楽しみにしていたのにほとんど見られなかったから。

The Prestige (2006) directed by Christopher Nolan
(邦題『プレステージ』)

 かなり昔に見た映画なので、記憶あいまいですが。どういう話かはまったく知らず、単にクリストファー・ノーラン監督というだけで借りてみた。それで見ながら妙な既視感に悩まされた。いや、確かに見るのは初めてで、予告編とかも見たことがなかったのだが、なぜか見ている途中で、最後の落ちがどうなるのか知っていたのだ。それで実際にその通りになったので、残念ながら、あっと驚くどんでん返しの驚きはなし。
 その理由はクレジットを見てやっとわかった。私はクリストファー・プリーストのこの原作小説、ずっと前に読んでいたのだ。例によって記憶力ゼロでストーリーをすべて忘れていたのと、邦題が違っていたので気づかなかった。ただ、あのラストだけはさすがに「これはないだろー」と思ったので、覚えていた(笑)。
 というわけで賛否両論、というか、あまりの掟破りについていけない人続出のあの落ち、作者がプリーストとわかればなんの驚きもないわけです、はい。というのも、ずーっと昔にサンリオSF文庫で読んだ(最近、創元SF文庫で再版されたらしい)プリーストの『逆転世界』と言えば、異常きわまる世界設定と「なんだ、こりゃー!」というラストの落ちで、日本のSFファンのドギモを抜いた作品。例によってストーリーなんかすべて忘れている私も、奇想SF作家としてのプリーストの名前だけはいまだに忘れていない。だからこの原作もすごく期待して読んだのだが、(やっぱりSFでは食べていけないせいか)ノンSFではこんなものかと、かなり落胆したのを覚えている。プリーストといえば奇想、プリーストとしてはこの程度は奇想のうちに入らないっす。でも、SFを読み慣れない一般の映画ファンにはショックだったんだろうなと思うと、ちょっとうれしいけど。

 ただ、ラストのアレを別としても、いまいち納得できない部分多いよね。特に主人公の2人のマジシャンがなんであそこまで強烈なライバル意識を持つのかとか。最初は単なる意地悪だったのがどんどんエスカレートして、誘拐、殺人、おまけに○○も辞さないってところまで行っちゃうんだから。
 とりあえず、原作にはない映画の魅力といえば、クリスチャン・ベイルとヒュー・ジャックマンの、文字通り四つに組んで火花を散らす演技合戦。これは確かに見応えがあった。ヒュー・ジャックマンはどう見ても貴族のお坊ちゃまには見えないが(笑)。
 脇もいい。すっかり年を取ったマイケル・ケインは、最初見たときはけっこうショックだったが、年とればとるほど味が出て、何とも言えずイイ感じの爺さんになりましたな。
 ニコラ・テスラを演じたデイヴィッド・ボウイもはまり役。この人はどんな映画の中でも宇宙人にしか見えなくて浮いた感じがするのだが、奇人ニコラ・テスラならば納得。
 その助手にアンディ・サーキスを持ってくるセンスもすばらしい。『指輪』でゴラムを演じた人だが、素顔も十分異常でおもしろいので、ぜひ他の映画でも見たいと思っていたのだが、ゴラムじゃなくても十分変だしおもしろいことを証明した。こういう役者すごい好き。

 というわけで、役者がいいので(それにやはりノーランは演出や編集がうまい)、原作よりいい映画になりました。でも原作では想像するしかなかった華麗なマジックショーの場面は、いまいちだったかな。その意味では下の『ロード・オブ・イルージョン』のほうが華やかだった。あくまでラスベガス風のショーだったけど。

Lord of Illusions (1995) directed by Clive Barker
(邦題『ロード・オブ・イルージョン』)

 ついでだから、もうひとつマジシャンもの。
 クライブ・バーカーはホラー作家として偉大すぎる人なので(少なくとも私的には)、B級ホラー映画なんかあんまり撮ってほしくないのだが、たまたま『ヘルレイザー』が当たってしまったためか、本人がハリウッド大好き(ゲイは派手好みなのでこれはありそう)なためか、最近は映画が本業のようになっているのがちょっと悲しい。

 というわけで、バーカーの映画は私はあまり評価していない。『ヘルレイザー』だって、原作の「苦痛は快楽である」という思想が十分映像化されているように見えなかったし。唯一、気が狂うほど好きなのが『ミディアン』で、最愛のクロネンバーグが異常殺人鬼役で大活躍してくれるということを別としても、大量出演するモンスターたちの造形の見事さだけでも忘れがたい。
 だいたいにおいて、バーカーの作品では善と悪、光と闇が逆転していて、作者も主人公もダークサイドに荷担していることが多いのだが、これはその究極。なにしろ怪物たちが怪物だけの安住の地を求めて、怪物の救世主に率いられて戦う話だから。そのモンスターがひとり残らず、ユニークで、グロテスクで、かっこよくて美しいのだ。私はこれの画集も持っている。
 バーカーは画家でもあるので、こういうビジュアルセンスがいいね。『ヘルレイザー』もピンヘッドのあの造形がなければ、あれほど有名にはならなかっただろうし。というわけで、ビジュアルはお手の物、作家だからお話も書けるとあっては、映画監督としては恵まれた立場にいるようだが、いかんせん、映画というのはそれだけではだめなのだ。だから、私もバーカー作品というとつい『ミディアン』の再来を期待して見てしまうのだが、期待はずれに終わることが多い。(ああ、あと『キャンディマン』も好き。あれも美しかった)

 で、最初に言ったようにこれもマジシャンの話なのだが、実は彼のマジックはトリックではない本当の魔法だったという話。スワンという名前のこのマジシャンは、かつてニックスという魔術師に師事していたのだが、ニックスの邪悪さを恐れて、仲間の弟子たちといっしょに彼を倒す。ところがそれから十何年たって、ニックスが墓から蘇り、スワンと仲間たちに復讐し、人類を抹殺しようと追ってくるわけだ。
 なんかあまりにもありきたりのホラー話だねえ。あえてちょっと違うのは、ストーリーがスワンの目からではなく、第三者の私立探偵ハリー・ダムーアの目から語られているところ。バーカーに言わせると、ホラーとフィルム・ノワールをミックスさせたかったのだと言う。それはけっこううまくいってると思うが、かんじんのホラー部分がどうも。
 スワンはニックスを倒したほどの力の持ち主なんだから、魔力でもって戦うかと思いきや、脅えてすくんでいるばかりで、結局ぜんぶハリーが拳銃でやっつけるんだからね。だいたいニックスも魔王というにはあまりにも情けないし、派手な魔法合戦もなし。これはCGやSFXにあんまりお金使えなかったせいかもしれない。
 低予算は一目瞭然で、有名俳優が使えないのはもちろん、ニックスが地面に開けた「地獄への穴」に落ちるとき、体がちょっとぶつかると穴の壁がゆらゆらと揺れるのには、エド・ウッドみたいで情けなくて泣けた。ところどころCGも使われているが、これも20年前のCGみたいで安くて涙が出る。

 というわけで、結局見るものは美術と脇役だけ。ああ、ちなみに映画監督としてのバーカーが嫌いなのは、「こんなのどこで見つけてくるの?」と言うほど醜悪な役者ばかりを主人公にするせいもある。このスワンもかなりのもんです。ハリーは、ゲジゲジ眉毛、でかいあご、眉間のしわというハードボイルド探偵の典型だけど。
 しかし、そういう醜い役者はモンスターを演じさせればいいわけで、今回はモンスターこそ出ないけど、ニックスのカルトの信者たちの狂いっぷりとグロテスクさはなかなか。
 中でも最大の見せ場は、ニックスの死後、普通の生活に戻った信者たちが、彼の復活を知って馳せ参じる場面である。ごく普通のアメリカの庶民の家の内部が映り、男がうれしそうにいそいそと荷造りをしているのだが、クロゼットを開けると中には妻が血まみれになって死んでいる。なのに男は死体に気づいた様子もない。平凡な家庭の主婦が、キッチンで(自分が包丁で殺した)子供の死体をまたいで歩き回っているシーンもかなりショッキング。殺すところは見せないで、いきなりそういう場面を見せるからよけいショッキングだ。やっぱりこういうのがあるからバーカーは見放せないな。
 と思ったら、このシークエンスは劇場ではカットされ、ディレクターズ・カットにのみ収録されているんだそうだ。うーん、監督は予算獲得だけじゃなく、そういう検閲とも戦わなきゃならないんですね。やっぱり楽じゃないな。
 この連中はニックスのアジトに戻ってくると、帰依を示すためか、ハサミで自分の髪をジャキジャキと切り落とす。こういうなんでもないシーンが、どんなスプラッタより不気味だ。虎刈りなんてものじゃなく、お岩さんみたいにべろんとむき出しになった頭皮のところどころに長い髪が残ってるの。これだけのことで他にはなんのメーキャップもしてないのに、普通の人が底知れず不気味で気ちがいじみて見えるから不思議だ。
 中でもニックスのお稚児さん(やっぱりゲイなのかね?)バタフィールドが印象に残る。やせっぽちの若造で、眉を剃り落として片目にコンタクトレンズ入れてるだけなのだが、すごい気持ち悪くて、変に色っぽいのよね。観客をこわがらせるには予算なんかなくても、これだけで十分なのに。

 美術もいい。美しいとかそういうものじゃないが、ニックスのアジトには至る所に不気味な絵が殴り描きしてあったり、奇怪なオブジェが飾られたりしているのだが、これもいかにもバーカーのセンス。
 バタフィールドは特製の手術用具を大事にしているんだが、これはクロネンバーグへのオマージュと見た。

 こういう非凡なところもあるのに、ラストはとってつけたようなハッピーエンド(ニックスとその一党は全員死亡。ハリーはスワンの美しい未亡人と仲良くなってめでたしめでたし)なのが、なんとも残念。

2008年9月5日 金曜日

Beowulf (2007) directed by Robert Zemeckis
(邦題『ベオウルフ/呪われし勇者』)

 いちおうこれ、私の専門です。これでも(元)英文学者なんで、原作のアングロサクソン叙事詩『ベオウルフ』も大学院受験の時に読んだはず。(もちろん原語じゃなく翻訳でだが。原作は古英語なんで私には読めません) 例によってほとんど忘れてましたけどね(笑)。

 しかし、オールCGだってことは、予告編見ても気づかなかったな。監督ゼメキスってことで、『ポーラー・エクスプレス』のあれをまたやってるんですね。モーション・キャプチャーで俳優の動きをそのままCG化しているんだが、それがかえって不自然で、いっそすべてCGだけで作ればいいのにと思った。でも『ポーラー・エクスプレス』は人間の顔が死体か人形みたいで気味悪くて見てられなかったが、これはさすがにあれより進歩していてあまり違和感はない。それにお子様向けの『ポーラー・エクスプレス』と違って、こちらはエログロもあるし、中世ものだから汚しも入るし、これぐらいやってくれれば私も満足だし、最後まで楽しんで見れた。ただ気になったことがいくつか。

 まずはストーリー。例によってうろ覚えなんだが、グレンデルのお母ちゃんって、息子と一緒にベオウルフに殺されたんじゃなかったのか? それにドラゴンがベオウルフの息子だなんて聞いたことないぞ! おまけにグレンデルも先王の息子? あわてて資料を捜したが、うちの混沌の書庫じゃ見つからず、Wikipediaで調べるとやっぱりそんな話は出てこない。
 ということは、これは映画版のオリジナル・ストーリー? ほほー、とちょっと感心。感心したのは、もちろんその方が話がぐっと複雑になっておもしろくなるからだ。単なる怪物退治の話よりも、因縁が加わることで話に深みが出るし、息子と知りつつ殺さなくてはならないベオウルフの苦悩も加わる。

 CGはOKなんだが、どうしても違和感があるのは馬。人間の表情のほうがずっと複雑で、作るのはむずかしいはずだが、それをクリアしたのに馬がああなのはなんでか? なんか顔も足も短くて丸々してブタみたいなんだよね(笑)。プロポーションも歩様もおかしいし。馬はモーション・キャプチャーで撮るわけにいかなかったのか? それとも人間ほど力を入れて作ってないせいか。
 それを言うならグレンデルがまさかああいうのだとは、想像したこともなかった。なんか『指輪物語』のゴラムのでっかいのみたい! でなきゃシェイクスピアのキャリバンのイメージか。気になったのでこれも調べてみたが、グレンデルとその母の姿かたちについては、原詩では何も描写がないんだね。だから自由に解釈可能というわけで、これはこれでおもしろい解釈と言えよう。
 ドラゴンも動きはいいが、姿がかっこよくない。こういうのを見ちゃうと、つくづく『ロード・オブ・ザ・リングス』の造形はすごかったと思わずにはいられない。

 そうそう、『ベオウルフ』の研究家でもあったトールキンが、『指輪物語』を書くのにこれを下敷きにしたのは有名な話。「英国には神話がない」と嘆いたトールキンだが、いちばんそれに近いものだしね。(舞台は北欧だが、これは英国最古の文学である) そのせいかどうか、映画も『ロード・オブ・ザ・リングス』をモロ意識。まあ、原作も確かに似てるから似てしまうのはしょうがないんだが。
 役者陣から言えば、『ロード・オブ・ザ・リングス』よりずっとメジャーな役者を揃えてるんだから、いっそ実写で撮ればよかったのにと思ってしまうが、これを実写で撮ったらCGよりもっとお金かかるんだろうな。『ロード・オブ・ザ・リングス』があれで低予算っていうの、何度見ても信じられないよ。

 ついでに役者の話も。といっても、人物は全部絵に描いたものなんだが。なんか奇妙な気がするのは、役者そっくりに描いてるキャラクターと、そうでないのがあるんだよね。アンジェリーナ・ジョリーなんかはほとんど本人そのままなので誰が見てもすぐわかるし、アンソニー・ホプキンズやジョン・マルコヴィッチはあの声だけでもわかったが、主役のベオウルフはこれ誰?
 あとから調べたら、レイ・ウィンストンというイギリス人俳優なんだが、本人はただの太ったおじいさん。蛮族の筋肉ヒーローとは似ても似つかない! まあ、CGなんだから顔も体も好きなように変えられるんだが、それならなんでそもそもこの人をキャスティングしたのかが不思議。特に声がいいわけでもないし。
 だったら、グレンデルの母だって、何もアンジェリーナ・ジョリーでなくなって、どっかのデブのブスでもいいわけだよね(笑)。あ、これも『接続された女』だ!
 大好きなマルコヴィッチはちょい役で残念、ていうか、あの顔であの声だから、見てるとどうしてもあれが『指輪』の「蛇の舌」に見えちゃうんだよね。そう思うと、今度はホプキンズ演じるフロースガール王がセオデン王に見えてきてしまう。あの館もセオデンの館にそっくりだし。影響受けるのはしかたがないが、やっぱり『指輪』とくらべると子供だましに見えてしまうのが難点。ただ、「蛇の舌」はやっぱりマルコヴィッチにやらせたかったな。ブラッド・ドゥーリフも好きなんだけど。

 でも時代考証とかの細かいところはよくできていて、アニメだからといって手は抜いていない。あの館もバイキングの家そのものだったし。

 ベオウルフがグレンデルと戦うとき全裸になるのって、あれも原作にあったんだろうか? それはいいが、必死で局所を隠すのが笑えてしまって戦いの緊張感を著しく殺いだ。CGだからアングルも自由自在だし、縦横無尽に跳んだりはねたりするベオウルフの股のところが必ず何かで隠れてるんだよね(笑)。むっちゃくっちゃ不自然で、そっちが気になって戦いに集中できなかった。べつに見せたっていいじゃん。ただの絵なんだから。ここだけ見たらコメディだと思うぞ。

 とはいえ、アニメにしては演出も上出来で、特にベオウルフのキャラクター、大言壮語が先行する血の気にはやった青年期、王者らしい風格が身に付いてきた壮年期、そしてすべてに倦み疲れた老年期の描き分けがきちんと決まってるあたりがよくできてると思った。王妃ウィルソーも脇役にもかかわらず存在感がある。フロースガールを憎んでいるような愛しているような微妙な態度とか、ベオウルフの側室との奇妙な友情もおもしろい。グレンデルもドラゴンも原作では単なる怪物なのだが、因縁話がついたために、妙に人間くさく哀れな生き物に見えるところも良い。グレンデルの母のあのキャラクターは、いかにもな妖婦でちょっと興ざめしたけどね。
 ドラゴンと相打ちになって死んだベオウルフの葬儀のシーンは美しい。これははっきり原作と違うのだが、こっちのほうがいいよ。船に乗せて沖に出し、火をかけて船ごと火葬にするのだが、海と燃える船が悲壮な美しさをかもしだす。そういや、『指輪』でも死んだボロミアを船に乗せて川に流していたが、こういう葬儀も実際にあったような気がする。
 「英雄物語」らしい壮大な剛胆さも悲壮感も十分だし、最後まで楽しめたいい映画だった。だいたいにおいて、神話とか伝説というのは物語自体がよくできているしおもしろいのである。そうでなければ、何百年も語り継がれてはこなかったはずだから。でも、映画はそれをさらに身近なものにしてくれるし、基本的に「時代物」が好きな私は楽しめた。
 今度は何がいいかな? 北欧神話はぜひ一度きちんと映画化してほしいですね。こないだの『トロイ』といい、ギリシア神話はしょっちゅう映画化されてるのに、北欧は少ないような気がする。あっちのほうがはるかに壮大でドラマチックなのに。

Babel (2006) directed by Alejandro Gonzalez Inarritu
(邦題『バベル』)

 菊地凛子のオスカー・ノミネートで日本じゃすごい話題になった映画だが、今まで見なかったのはきっと私のタイプじゃないという予感があったからだが、見たらやっぱりだったな。私、こういうのダメ。お芸術映画にありがちな群像劇で、悪人じゃないのにみんなちょっとずつ悪いことをした人々が、みんな不幸になる話。だから?って感じよね。
 意味ありげなタイトルからして、私はてっきり「コミュニケーション不全」がもたらす悲劇の話なのかと思っていた。菊池凛子が聾唖者役というのもいかにもそれふうだったし。でもほとんど関係なし。あえていえば、菊池凛子と父親の関係はそうだし、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットの夫婦も、異国で死にかけてよりを戻すという話だけど。でも、ピットとブランシェットの話はあまりにもありきたりだし、全裸の娘と抱き合うことでコミュニケーションが成立する父親って、異常すぎてぜんぜん共感できない。
 だいたい、四つの話がぜんぜんつながってないよね。いちおう1丁のライフルがすべてをつなぐんだけど、ほとんどこじつけとしか思えないつなぎ方だし、直接の関連は何もない。モロッコ、メキシコ、東京と、わざわざ「エキゾチックな」場所を舞台にしたこともいかにもわざとらしいし。
 日本じゃもっぱら日本編の「勘違い」のオンパレードが非難の的になってるようだが、『キル・ビル』みたいに意図的にやってるならまだしも、これは私もかなり引いた。どうして日本っていうとコギャルなのかねえ(苦笑)。しかもそれを26才の菊池凛子にやらせるというだけで、ほとんどグロテスク。しかも、母親の自殺と父親の無理解で傷ついたからと言って、白昼、新宿の路頭で酒とドラッグに溺れ、かかりつけの歯医者や刑事にまでセックスを迫るニンフォマニアって、コギャルが外人にどう見られているかがよくわかります(笑)。以前、アンドレの話で書いたように、あのミニスカートだけでも外人にはひんしゅくものなのに、ノーパンで股開いて男を誘惑するって、クルクルパーにしか見えなくて、逆立ちしても同情できない。だいたいあんなことしたら男は全部逃げるって。実際逃げられてるけど(笑)。それにオスカーっていうあたり、アカデミー賞の選考委員の頭の中味が知れますね(笑)。
 だいたい、問題のライフルの出所が日本っていうだけでも「ええっ?」と思った。日本じゃ銃がどれだけ入手しにくいか知らないんだろうな。居間の壁にトロフィーを飾り、(トロフィーというのは、もともと狩猟の獲物の首とかのことです)、倒した獲物の死体に足をかけた写真を飾っているみたいな、アメリカ映画に出てくるようなこんなハンターは日本にはひとりもいない!ってことだけは断言してもいい。ついでに、たとえどんな大金持ちでも、この親子が住んでるような、ホテルみたいなマンションに住んでる日本人もひとりもいないことも断言していい。
 後進国の貧乏な人たち(モロッコの親子とメキシコ人の乳母)は不幸な結末に終わるのに、アメリカ白人と日本人(要するに金持ち)は曲がりなりにもハッピーエンドになるあたりも実に不愉快だ。この調子で突っ込んでいくときりがないし意味ないのでやめるが、とにかく見てるだけで苦痛な映画だった。

2008年9月10日 水曜日

 どうもすいません。日記の更新が遅れてるのはマジで仕事してるからです。実は生活のために翻訳を引き受けたんだけど、これがまあやってもやっても終わらなくて、この夏はほぼ家に缶詰で仕事仕事。
 なんて言うと、「毎日が日曜日のくせに」と言われちゃうんだけど、毎日が日曜日ってことは日曜日はないのといっしょなのよ! ほんとの話、私はこの10年ぐらい、泊まりがけの旅行に行ったことは1回しかないし、それ以外で丸一日仕事しなかった日は一日もない。まあ、店とかはどこまでが仕事でどこからが遊びか区別がむずかしいけれど。


 で、この翻訳が問題なのだ。どういう本かというと、まあ一言でいっちゃうと「欠陥ソフトウェアの経済学」。なんでメーカーはバグや(ハッカー攻撃に対する)脆弱性があることがわかっているソフトを平気で出し、なぜ我々はそれを文句を言いつつも使ってるかを、経済学の観点から検証したもの。それはそれで興味深い話だし、言ってることももっともなんだけど、この原文が見たこともないほどの悪文なのだ!

 とにかくこの著者は代名詞を一切使わない主義らしい。英語というのは代名詞をとにかく多用する言語である。というのも英語は繰り返しを嫌うからだ。それにくらべて日本語は代名詞を使わない、というよりあまり「彼は」、「彼女は」を使うのは日本語として美しくないので、普通我々が英文和訳をするときは、代名詞をいちいち元の単語に置き換えるのが普通だ。
 繰り返しを嫌うのは代名詞以外でもそうで、たとえば同じことを言うのでもわざわざ同じ意味の別の単語で言い換える。英語に同義語があれほどたくさんあるのも、そのせいである。
 ところがこの著者ときたら、すぐ目の前にあるのと同じ単語をいちいち律儀に繰り返す。それも、「トムはトムの犬をトム自身の車でトムの家に連れて帰った」ぐらいならまだいいの。でもその名詞が「software application manufacturer」だったらどうなるか想像してみて下さい。しかも4行ぐらいの長さの文に、「software application manufacturer」が5回ぐらい出てくる。ということは、文のほとんどを「software application manufacturer」が占めてしまい、結局その文は何もたいしたことは言っていないことになる。それがえんえん続くので、読んでると(学生のでたらめ英語を読むのとは別の意味で)頭が爆発しそうになる。
 繰り返されるのは名詞だけじゃない。いわゆる「前文すべてを指すit」(受験生ならわかるね)も使わない。前の文をそっくりそのまま繰り返すのである。最初はなぜ同じ文が二度出てくるのかわからなくて、誤植かと思った。
 内容自体もやたらと繰り返しが多い。やたらと「that is」とか、「in other words」とか、「as mentioned above」とか、「as discussed previously」というのが出てくるのだが、要するに同じことを言いますよと言ってるだけ。そもそも「in other words」じゃなく、同じ言葉じゃん!と叫びたくなる。ほとんど段落ごと、章ごとに同じ説明が繰り返されるし。
 学生相手の講義なら、私もそういうしゃべり方しますけどね。あの人たちには何度も何度も同じことを繰り返して言わないと耳に入らない、というか耳には入っても脳みそまで届かないから(笑)。だけど、本でこれはない。「それはもうわかった!」と本に向かって怒っている。
 それ以外にも、かんたんな言葉で言える形容詞やなんかを、わざわざ見たこともないような長い単語で言う、素人にはわからないジャーゴンを使うなど、これはもう典型的な理科系の悪文。いわゆる専門バカで文章を書き慣れない人の書く文だ。しかし、編集者はこれ読んでよくOK出したな。
 そんなわけで、弟(もちろん、こいつが私の編集者だ)に言わせると、理科系の翻訳では「超訳(アカデミー出版のあれ)」が当たり前なんだそうだ。でも小説なら超訳も可能かもしれないけど、いちおう論説文だしねえ。私が勝手に作るわけにもいかないじゃん。そんなわけで、なるべく無駄な繰り返しは避けて訳してるけど、本気で全部繰り返しを切ったら、本が半分の厚さになりそう。ていうか、こんなの箇条書きにすれば数ページにおさまってしまうと私は思ってるのだが。


 パラリンピックが始まったが、私はそれどころじゃない。ワールドカップの最終予選が始まったからね。というわけでバーレーン戦は朝まで起きて見てましたよ。で、無理して起きてた甲斐はあったね。勝ち負けは別として、中村俊輔の矢のように正確なフリーキックと、遠藤のコロコロPKという「必殺技」が両方見れたから。このふたりの技だけは間違いなくワールドクラス。世界じゃこれぐらいの技がないと勝てない、というか、バーレーン・レベルならその技だけで勝てるということでしょうかね。
 しかし遠藤のあれは見てるとすごく簡単そうで、誰でもできそうに見えるんだけど、もちろんそうじゃないんだろうな。俊輔は司令塔としての役割も果たしていて、FK以外に派手さはないけど、大事な要石ということでベッカムに似てるなと思った。
 しかしあいかわらずフォワードはなにやってるんだか。玉田も田中も動きは切れがあってキビキビしてよかったんだが、点が入らないことにはねえ。フォワードにはひとりは強さのある選手がほしいのだが、高原の復活はもうないんだろうか。
 3点目を取ったとたんにバタバタになって失点するのも日本代表らしいし、トゥーリオのオウンゴールもある意味彼らしいし、最後までハラハラさせるという意味でもおもしろい試合だった。
 おまけにレーザー光線攻撃だって?(客席から日本選手の目に向かってレーザーを発射するという妨害行為があったらしい) ワールドカップとなると本当になんでもありだな。この過酷な世界で予選突破はむずかしいと思うが、サッカーバブル崩壊が言われる今だからこそ、がんばってほしい。
 私が応援しているイングランドは、新「ワンダーボーイ」ウォルコットが開花してきたようで、これが本番でピークに達するようならすごく楽しみ。


 夕刊を開くと、キャスターの草柳文恵が首つり自殺のニュース。もうおばさんなので、あまり知ってる人はいないかもしれないけど。
 私は高校でこの人と同期でした。個人的面識はなかったけど。評論家の草柳大蔵の娘で、大学生の時にミス東京に選ばれたりして、青学っていうのは、もともと有名人の師弟が多いんだけど、無名人の私は早くから有名になった彼女を見て、ゲスのやっかみでなんとなくむかつくなんて思ってたのだ。(ちなみに青学は美人も多いので、彼女はぜんぜん目立つほうじゃなかった)
 でもずっと華やかな世界に生きてきた同い年の彼女は自ら死を選び、ひたすら裏街道を歩いてきた負け犬の私はまだ生きてる。世の中ってのはそういうものだ。


 ローカルな話題ですみませんが、書泉西葛西の閉店にショックを受けている。書泉というのはお茶の水に本店のある、有名なおたく専門書店(専門というわけじゃないが、おたく関係の書籍がすごく充実している)。私は今では新刊書なんかめったに買わない(買えない)のだが、新刊のチェックに重宝していたし、近所に書泉があるというだけでも誇らしい気分だったのに。(私はお茶の水生まれなので、この書店にはとりわけ思い入れがあった)
 確かにつぶれて当然という気もするんだけどね。そもそも、これだけ専門性の高い大型書店が、なんで西葛西みたいな普通の住宅地に出店したのか不思議だったし。(支店はほかには秋葉原のみ) 結局、そのために品揃えも迷走していた。書泉だけにマニアックな本が多かったのだが、客は「近所の本屋」感覚で利用するところにギャップがあったように思う。普通は大型店に負けた小規模店がつぶれるものだが、ここではその逆だったな。
 西葛西が気に入っていたのは本屋や古本屋が多くて文化の香りがするところだったが、古本屋のほうはもっと深刻で、古くからある店がどんどんつぶれていく。これは間違いなくブックオフに駆逐されているのだが、ブックオフは駅前にないんだよ!
 それでも残った新刊書店のうち、2店は小さいながらも相当に凝った品揃えなところが面目躍如だ。

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