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2012年2月21日 火曜日

映画評

春休み映画劇場 その2
Shelter (2009) directed by Mans Marlind and Bjorn Stein

『シェルター』

 続いての映画は、単にジョナサン・リース・マイヤーズが見たいだけで借りてきた『シェルター』という映画。例によってどんな映画かについての事前情報は何も知らない。
 オープニング・シークエンスを見ていたら、「これはもしかしてすごい映画かも‥‥」とわくわくした。まあ、早い話が『セッション9』リビューは2006年4月24日みたいなのを想像していたのだ。
 とにかくなんか変なのだ。場所はアメリカのどこか政府関係の建物の一室。審問会みたいなのをやっているのだが、最初に映るオヤジは白い紙一面に落書き(と言っても、単にぐちゃぐちゃの線で塗りつぶしているだけ)してるし、他のお偉方らしき人々もそれぞれに妙な表情をしてあらぬ方向を眺めている。とにかく部屋全体が異様なムードでテンションがみなぎっている
 中でもずっとしゃべっているジュリアン・ムーアは、ギンギンに緊張した様子で、しまいにはすすり泣いているので、最初はてっきり彼女がなんかの査問にかけられているんだと思った。でも実際は彼女は精神科医で、ある犯人についての医学的所見を述べているだけ。その所見もなんだかすごくて、12才の少女を拉致監禁してレイプし、卵巣を取り出そうとしてカッターナイフで腹を切り裂き、失血死するまでビデオカメラで撮影していたという異常殺人鬼についてのもの。いったい何が起こっているんだー!
 しかし、種を明かせば、ジュリアン演じる精神科医カーラは、自分の診断が死刑判決につながるので泣いてるだけだった。ましてやこの殺人犯の話はストーリーにはなんの関係もなし。そう思って見返すと、他の面々は単にあきれて退屈してるだけのようにも見える。なんなんだー! 結局スウェーデン人の監督たち(モンス・モーリンド&ビョルン・スタイン)がちょっと遊んでみたかっただけみたい。確かにオープニング・シークエンスというのは、大事な「つかみ」なので、みんな凝るところではあるけどねー、内容に関して誤解させるのはよくないね。

ジョナサンとジュリアン・ムーアのセッション

 とにかく序盤でわかってくるのは、カーラ(Julianne Moore)は「多重人格なんて存在しない。多重人格と称している患者はみんな演技」という持論の持ち主だということ。(これは正しい。詳しくは『セッション9』のリビュー参照) ちなみにカーラは夫を殺され、幼い娘サミー(Brooklynn Proulx)をひとりで育てている。彼女にはミュージシャンをしている独身の弟スティーヴン(Nathan Corddry)がいて、娘を預かってもらったりして非常に姉弟仲が良い。
 娘と同じ精神科医だが、娘とは違って多重人格の存在を信じているカーラの父(Jeffrey DeMunn)は、彼が発見した患者デイヴィッド(Jonathan Rhys Meyers)をカーラに引き合わせる。カーラはいやいやながらデイヴィッドを面接するのだが、その人格の違いに驚かされる。
 デイヴィッドは温厚で優しい性格だが、彼の別人格アダムはふてぶてしく冷笑的な印象。それより何より、2人の人格の間には単なる演技ではすまされない違いがある。事故で脊椎を損傷して車椅子生活のデイヴィッドに対して、アダムは歩けるのだ! さらにアダムは色盲なのにデイヴィッドは正常な色覚を持ち、おまけにこの2人はレントゲン写真すら違う!
 ちょーーーーー! ありえねー! というあたりで、多重人格の話は完全な眉唾だということがわかってくるのだが、その間にもデイヴィッドの人格はさらに増え続ける。それをカーラが調査していくと、それらの人格はすべて実在の人間であること、デイヴィッドとは似ても似つかないこと、にも関わらず、デイヴィッドは彼らの完全な記憶を有していること、そしてとどめは彼らは全員死んでいることが明らかになる。上質なサイコ・スリラーを期待して見始めたのに、オカルトかよー!
 おまけに、彼に関わった人々は、みんな首の後ろに腫瘍のようなものができて、それが背中に広がり、やがては口から黒いものを吐いて死んでしまう。んんん? これは伝染する病気みたいなものなのか? しまいにはカーラの父、父の友人でカーラを可愛がっている医者、カーラの弟、カーラの娘までが感染し、絶体絶命!というところでクライマックスへ。

 最初ふくれ上がった私の期待はここでもう完全にぺしゃんこ。だから一気にネタ明かしをしてしまうので、読みたくない人は以下は読まないで。カッコの中は私の突っ込み。

 「デイヴィッド」の正体は、昔、アメリカの山奥の貧しい集落(またレッドネックかよ)に現れた牧師。当時、インフルエンザが流行していて多くの村人が死んでいったのだが(猟奇殺人をさんざんほのめかしておいて、たかがインフルかよ)、牧師は呪術的な信仰治療を否定し(これって正しく人道的な態度だと思うが)、キリスト教を説く。しかし彼は信仰を失い(なんでか説明なし)、自分の娘にだけ予防注射をしていたのだ。
 それに怒った村人は(いくらなんでも「ずるい!」ってだけでそんなに怒らんでも)、グラニーという呪術師(土人かよ?)に扇動されて、牧師の娘たちを殺し(子供にはなんの罪もないのに)、グラニーは牧師に呪いをかけて、「不信心者の魂のシェルター」(なにそれ?)にしてしまう。この牧師こそが「デイヴィッド」だったのだ! 「感染者」の背中の腫瘍は、呪術師が牧師の背中にナイフで彫った呪いの印、口から吐くのは「魂が戻らないように」牧師に食わせた土だった。

 ここでやっとタイトルの「シェルター」が出てくるのだが、「不信心者の魂のシェルター」ってなんなんだよ? もういっぺん見直してわかったのは、「犠牲者」はすべてなんらかの意味で信仰を失ってしまった人たち=不信心者であること。つまり、牧師の肉体はそういう人々の魂を集めるための入れ物みたいなものだってこと。それで彼は魂を乗っ取った人たちの人格を持つようになるのだ。

 あー! もう突っ込みどころありすぎ! だいたいそれってちっとも復讐になってないし! まあ、不信心者が減るからそれでいいのかもしれないが、そもそもウィッチ・ドクターを信じてるような奴らが信心深いって笑わせるぜ!
 それに犠牲者たちは、ロックミュージシャンみたいな一部のごろつき(笑)を除くと、悪魔の手先でもなんでもなく、身内を亡くすなどの不幸な出来事でたまたま心が揺らいだだけの人たち。どっちかというと同情に値する人たちなのに。そもそもカーラの父や娘がどうして感染したかっていうと、カーラの夫が無惨に殺されたので、それで神を信じられなくなったというのが理由。娘なんてまだ幼児なのにひどすぎる!
 って、まじめに怒るのもバカバカしいけどね。信仰とかなんとかいうのは単なるかっこつけで、要は怪談が撮りたいだけだから。むしろ社会的正義を訴えたくて、ゲロゲロホラーを撮ってたロメロとはえらい違いだ。もっともロメロはゲロゲロホラーも愛してるけど。
 細かい突っ込みはいくらでも入れられるんだけど、もうなんかバカバカしくなってきたのでやめた。

ジョナサンとジュリアン・ムーア

 そしてクライマックスはジョナサン(あれ? いつのまにか役名じゃなくて役者名になってる。でも実際彼はデイヴィッドじゃなかったわけだし、これでいいや)とカーラの対決になるのだが、もう展開見えてるからどうでもいい。娘を出したのは、もちろんカーラの弱点として、そして最後には「母は強し!」ってところを見せて、娘を助ける展開になるのはわかりきってるから。
 ただ、その対決が「幼い娘が憑依したジョナサン」対カーラってところがちょっとおもしろいと思った。つまり入れ物はおっさんだが、中味は幼女なのである。ここで私はいやでも『サイコ』を思い出してしまう。
 いや、ヒッチコックじゃないよ。『サイコ』の3だか、4だかの、確かアンソニー・パーキンズが監督したやつ。ノーマン・ベイツ(『サイコ』のサイコ野郎)は若い女性に恋するのだが、彼女を死んだ母親と思い込み、泣きながら彼女を殺そうとする。でも彼女はノーマンが母親に逆らえないことを知っているので、とっさに母親のふりをして、ノーマンを御そうとする。若い女性が中年男を子供として叱りつけたりあやしたりする変態性と、正気と狂気の崖っぷちに立って、幼い男の子と殺人鬼の間を行ったり来たりするアンソニー・パーキンズの鬼気迫る迫真の演技がすごくて、永遠に忘れられないシーンなのだが、ここでのジョナサンとジュリアン・ムーアにそれができるかというと、もちろんできるわけがないのである。
 泣きじゃくるジョナサンを、カーラはお母さんらしくやさしく抱きしめる、かと思いきや、地面の杭に叩き付けて殺してしまう。ひでー! だって、中味は実の娘なんだぜ。そしたら死んだはずの娘が生き返ってハッピーエンド。ご都合主義にもほどがある。まあ、「シェルター」が壊れたから元に戻ったとも考えられるけど。
 そのあと、「実は娘が新たなシェルターでした。ジャジャーン!」というB級ホラーの定番のどんでん返しがあったような気もするしなかったような気もするが、どっちにしろ覚えてないぐらいちゃんと見てなかった。

 いやー、ロメロの(ロメロじゃないってのに!)あとで見ると、すがすがしいほどどうでもいい映画だったな。これ、おもしろくする方法はいくらもあったと思うんだけど、才能ないってのは悲しいことだね。とにかく誤解する人多いと思うので断っておくけど、これ、サイコスリラーじゃなくて、ただのオカルト怪談ですから。そのぶん、こっちのほうが日本人受けするような気がするが、私、こういうのって何が怖いのかさっぱり。

ジョナサンのアップ。うーん‥‥

 というわけで映画はやっぱりどうでもよかったので、あらためてジョナサンについて。
 このところずっと“The Tudors”にかかりきりのはずなので、やはりここでも短髪、ひげ面でヘンリー8世が抜けてないな。行き倒れてたところを病院に収容されたという設定だからそれはいいとしても、なんかなー。
 あのガラス玉のような青い目も、ぽってりとした誘うような唇も、毛ばたきのようなまつげも、何も変わってはいないんだけど、若い頃のジョナサンの、あの悪魔的な美貌と色気は失われて、ただの線の細い枯れたおっさんになっちゃったという気も
 いや、枯れたおっさんとはあんまりだ。30過ぎてもそんなに老けたという感じはしないし、ご覧の通りまだまだ十分ハンサムなんだけど、十代のジョナサンはこの世のものじゃなかったからなー。
 実は私は内心彼が年取ることにも期待していて、というのもこの人ならまさにアンソニー・パーキンズの系統の、(晩年のキチガイ面しか知らない人は、若い頃の彼がアイドルスターだったことを知らないはず)、イケメン・サイコ野郎になってくれるのを期待していたので。でもほんとに異常者演じてるのに、あんまり異常者っぽくない、というのも不満。あー、せっかくの変質者役なのに残念!
 でもねっ、これはきっとヒゲと髪型のせい。役者なんて作品によってガラッと変わるんだから、まだまだイケル、と信じたい。

 そこでジョナサンの演技力について。多重人格者というのは、実は役者冥利に尽きる役柄だと思うんだよ。だってまさに演技だけで、別人格が存在することを観客に信じさせないとならないんだからね。で、見ての感想はというと‥‥うーん、ちょっと苦しかったかな。いや、アダムの方は地でできるからいいんだけど、善良なデイヴィッドはやっぱり下手な芝居にしか見えなかったな。
 いや、私はジョナサンの演技力はかなり買ってるんだ。ていうかイギリス人(アイルランド人だけど)役者でダイコンのほうがめずらしい。ただこの人は正式の演技の訓練は何も受けてない人で、こういうむずかしい演技が要求されるところでは、ちょっとボロが出てしまったかなという程度。

 ついでにヒロインのジュリアン・ムーアについても。久しぶりに見たらこの人は老けたなあ。ただ、おばさんフェチの私としては、老けるのはいっこうにかまわない。だけど、この人は顔そのものが嫌い。ハリウッドでは珍しく、知的な女性を演じられる女優で、その意味では貴重なんだけど、(見るからに頭パーの娘っ子が医者や学者を演じるのはもううんざり)、いいところはそこだけだな。私はおばさんでもたくましくて強いおばさんが好きなので、こういうやせっぽちの神経質そうな女は嫌い。
 むしろ彼女の父親役をやったジェフリー・デマンとその親友のチャールズが愛嬌のあるかわいいおっさんで好きだった。
 あと、デイヴィッド(本物の)のお母さんがすごく良かった。キャラクター的には禁欲的な狂信者で、私が最も嫌うタイプだけど、それと息子を思う気持ちの間に揺れる演技がすごいリアルですばらしい。

 あと、なんかあったっけ? そうそう。人格の交替が起きるのは、なんでなのか説明がないけど(単に説明が付けられないので無視したと見た)、電話で「○○を出してくれ」と言われたときだけ。『サイコ』を思い出したのはこのせいもあるんだ。あの映画でも電話が重要な小道具として使われてたから。
 この電話が鳴るとデイヴィッドがギクッとするのだが、私もいっしょになって飛び上がっていた。なにしろ私は電話恐怖症の上、この呼び出し音が、携帯の間抜けな着メロでもなければ、プッシュフォンの「トルルルルル」という電子音でもなくて、昔の「ジリリリリリ!」っていう、人を責め立てるような音なんだよ。これは怖い。拷問並みに怖い。この電話がこの映画でいちばん怖かった(笑)。

 終わり。

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