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2013年4月23日 火曜日

書評

『パイの物語』ヤン・マーテル
Life of Pi by Yann Martel (2001)

【ネタバレ注意報】
映画版ではなく、原作のリビューです。(映画の方は見たらまた書きます) これはとてもいい小説で、なおかつ、最後のどんでん返しが強烈な作品ですので、重大なネタバレにご注意ください。はっきりとは書かないし、最初にいきなり書くようなことはしないつもりなので、途中まで読んで興味を持った方は、それ以上読むのはやめて先に原作を読むことを強くおすすめします。それだけの価値はある、おもしろい本なので。映画を見た人はたぶん大丈夫です。
あと、ソフトな表現ではありますが、原作は一部にグロ・ショッキングな描写あり(首や四肢切断からカニバリズムまで)なので、そういうのを苦手な方はご注意ください。

 この本のことは、翻訳の初版が出たときから気になっていた。いちおう私の本業は英文学者だったので、ブッカー賞(イギリスの権威ある文学賞)受賞作ということで読まなきゃだめかなと思って。「少年がトラといっしょに太平洋を漂流する話」というのもおもしろそうだと思ったし、トラ大好きだし。それが結局手が伸びなかったのは、童話っぽいかわいらしい表紙やタイトルに違和感を覚えて、なんか子供だましみたいな感じがした‥‥ほかにもなんかあったような気がしたが忘れた。(ちなみにこのイラストは原書の表紙と同じ)
 しかし、今回映画化されて、それをきっかけに翻訳も文庫化されたので、たぶん映画は見るだろうし、それなら先入観を植え付けられる前に原作を読んでおこうと思ったわけ。(視覚イメージは強烈すぎるので、映画を見た後だと、原作のイメージが固定されてしまうので)

 ストーリーは至って単純。(まだネタバレは心配ないです) インドの動物園経営者の息子、16歳の少年ピシン・モリトール・パテル(愛称パイ)は、カナダへ移住するため、家族(両親と兄)と動物たち(カナダやアメリカの動物園に売れた動物)と共に、太平洋を横断してカナダに向かう日本国籍の貨物船ツシマ丸に乗り込む。ところがこの船が太平洋のど真ん中で遭難・沈没し、かろうじて救命ボートに逃れたパイは、ベンガルトラのリチャード・パーカーと二人っきりで、227日もの間、漂流することになる。

 とりあえず、私がいちばん気になっていたのは、ストーリーなんかよりもトラの扱いだった。ご存じのようにファナティックな動物フェチである私には、特に大好きな猫、その猫族の中でも最も大きく最も強いトラは神にも近い存在で、そのトラについて非科学的なウソを書かれたらイヤだなと。映画だけど、『トゥー・ブラザーズ』(2005年7月18日の日記参照)なんか、ほんとに腹立ったからね。
 中でも、トラとか、ホッキョクグマとか、シャチのように、恐れ多くも畏くもカッコよくて凶暴な動物を(もちろん「凶暴」というのは人間視点でだが)、まるでぬいぐるみかなんかのように擬人化して、愛らしくかわいらしいものとして描かれるのがいちばんキライ。(私はシャチのぬいぐるみをかわいがってますがね。もちろん本物じゃないことは知っている!) そんなんだったら途中で読むのをやめようと思った。
 しかし、それは杞憂であった。パイのお父さんは素人ながらによく勉強していて、動物を心から愛している一方で実際的だし、そのお父さんに教育されたパイも、動物には詳しいし優しいがちゃんと距離を置いている。まあ、作者がちゃんとリサーチして書いてるってだけだが。
 でも「檻に入れられた動物は不幸か?」論争については、私が以前に書いたこと(どこに書いたかは忘れた)によく似たことを書いていて、すごく納得。あと、「サーカスの動物についての真実」もすごくわかる。
 最初は救命ボートには、トラの他にもオランウータン、シマウマ、ハイエナの3頭の動物がいたのだが、それらの動物の力関係もよくわかっている。物まねが得意な、おっとりして愛らしいオランウータンは、実は人間の腕ぐらい軽く引っこ抜けるほどの力があるとか、見た目が情けなくみっともないので馬鹿にされがちなハイエナは実はものすごく危険だとか、だけどトラはそれらより比較にならないほど桁違いに強いとか。
 それより何より私を魅了したのは、「実家が動物園」というパイの夢のような境遇。いや、もちろん実際の動物園経営の大変さは百も承知だが、それでも子供にとっては、特に私のような動物好きの子供だった者にとっては夢としか言いようがない。私は「実家が水族館」でも、「実家がシーワールド」でもいいですけど。

 というわけで、インドでのパイの生活を描く前半は、善良だけどちょっと風変わりでずれた子供の成長をコメディータッチで描き、微笑ましく楽しい。しかし漂流が始まってからは、打って変わって過酷なサバイバル物語の様相を呈してくる。

 というところで、実は私はこの手の冒険談が死ぬほど好き。というと、意外な気がするかも知れないので少し補足すると、私は自分が体験するのは死んでもごめんだけど、海や山や極地で人が生死の境をさまよいながら生き延びたり死んだりする話が死ぬほど好き
 だから、子供の頃から海で漂流したり、砂漠で漂泊して、自分の小便を飲んだり、ラクダの血を飲んで生き延びるようなノンフィクションのサバイバルものを好んで読んでいた。中学の図書館にヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記 』とか、へディンの『さまよえる湖』とかの、古典を集めた全集があったのでそれもすべて読破した。自分がやはり山に登るのなんか死んでもお断りのくせに、登山家の実録もの(それも山で遭難する話)を好きなのも同じ理由。
 やっぱり人の不幸は楽しい、じゃなくて、すごいあこがれるけど自分では絶対にできない体験だから好きなんだと思う。だいいち、人が本を読む最大の理由は、実人生では絶対に体験できない世界を知ることができるからだし。あと、こういう極限状態に追い込まれると、人間というものは本性が出るので、人間観察としても興味深い。
 ちなみにこの手のノンフィクションで私がいちばん感銘を受けたのは、いわゆる「アンデスの聖餐」事件を追った『生存者』(P・P・リード 新潮文庫)。これの映画化『生きてこそ』も(事実は相当ゆがめてあるが)映画としては傑作なので、この手が好きな人はぜひ。

 ただ、サバイバル物語好きとしては、『パイの物語』はいささかぬる過ぎるなという感じはした。第一に語り手のパイの老いた姿が先に出てしまって、パイが生き残ることは読者にはわかっているので、サスペンスがそがれるのはどうしようもない。
 漂流記でいちばん誰もが苦労するのが、水と食料をどうやって確保するかだが、パイの乗った救命ボートには非常用の水や食料はもちろん、釣りセットだの、海水から真水を作る装置だの、ごていねいにサバイバルマニュアルまで備え付けてあって、最初からイージーモード(笑)。まあ、それぐらいじゃないと素人の子供が生きられるはずもないけど、魚はトビウオの群れが向こうからボートに飛び込んでくるし、水は雨がじゃんじゃん降っていくらでも飲めるってのは、あまりにもイージーすぎるしリアリティーがない。外洋というのは「水の砂漠」と言われるぐらいの不毛の地で、魚なんかそんなにいないのに。

 ただしパイには、普通の漂流者にはないハンデがあって、それが成長したオスのベンガルトラ、リチャード・パーカーである。
 ていうか、この名前だけでもギャグなので、あんまり怖くないな(笑)。リチャード・パーカーというのはこのトラを捕獲したハンターの名前なのだが、トラを購入したときに付いてきた書類で、ハンターとトラの名前が入れ替わっていたためにこういう名前になってしまったというお話。おまけに主人公のパイがふざけた名前(フランスの水泳プールの名前)なので、よけい笑える。
 たしかにリチャード・パーカーはかっこいいしかわいいんだが、案に相違してパイを脅かすより、船底に隠れていることのほうが多くて、トラ好きとしてはいまいちだが、でも現実はそんなものかもしれないと思い直す。トラにとってはありえない、異常すぎる環境だし、野生動物の本能としてまず隠れようとするのはわかる。
 ただ、トラの存在におびえながら暮らすよりはと、パイがリチャード・パーカーを「調教」し始めるあたりは楽しかった。「友達になろう」とかしないところがいいね。

 とまあ、サバイバル物語にしてはなんだか楽しそうだったんだが、さすがにそのうち食料や水が不足し、トラも人間も消耗し、体調を崩して病気になる。その譫妄状態の中でパイは人の話し声を聞く。(衰弱しすぎて目も見えなくなっている)
 最初、パイはそれをリチャード・パーカーがしゃべっていると思い込むのだが、話しているうちに、相手はフランス人で、自分と同様、ボートで太平洋を漂流している遭難者だということがわかってくる。
 ありえねー! 絶対にあり得ないでしょ。太平洋の真ん中で遭難者同士が出くわすなんて、トラが話すよりありえないよ。だから、とうとうパイは気が狂って幻聴が聞こえるようになったんだと思っていた。ところがこの「人物」は、パイのボートに乗り込んで、パイを殺そうとしたあげく、リチャード・パーカーに食われて死んでしまう。
 マジで? じゃあ、ほんとにいたの? パイはまもなく視力を取り戻すのだが、死体はリチャード・パーカーが食い荒らしてしまっているので、どこの誰かはわからない。

 ここまでのストーリーがリアルだったので、このエピソードはなんとも唐突で、なんとなく釈然としないが、孤独と恐怖と絶望のあまり、パイの精神状態がおかしくなってきていると思えば納得もいく。
 しかし、この後ボートがたどり着く、「ミーアキャットの島」に至っては、もう口あんぐり。人食い植物でできた浮島で、なぜかミーアキャットの大群だけが住み着いているんだが、夜になると酸を出して、地上の生物を食い尽くす島なんである。あー、アフリカにしかいないミーアキャットが太平洋に? 人食い植物?
 インドが舞台ってあたりでそうじゃないかとは思っていたが、これってはやりのマジック・リアリズムの小説だったのか。それにしちゃ、漂流前の部分はやけにリアルだったが、言われてみれば、トラと漂流という時点で普通じゃないし、マジック・リアリズムならべつに不思議でもなんでもない。
 でも私はもう一ひねりしてありそうな気がした。つまり、マジック・リアリズムと思わせて、実はすべてパイの幻覚だったというのじゃないかと。そもそもリチャード・パーカーそのものが、遭難のショックで生み出されたパイの妄想の産物なんじゃないかと気づいたのだ。それならトラが決してパイを襲わない理由もわかるし。

 キャロル・オコンネルの『クリスマスに少女は還る』のパターンね。この小説はかなり古いから、もうネタバレしちゃってもいいかな。幼い少女が変質者に誘拐監禁されるのだが、いっしょに誘拐された友達と励まし合い助け合って、どうにか生き延びて救出される。でも最後まで読んでわかるのは、彼女の「友達」は誘拐後すぐに殺害されてしまっていたこと。極限状態に置かれた少女は、無意識に存在しない友達を作り出して心の支えとしていたということが最後になって明かされるのだ。そこまでして生き延びようという少女のいじらしさと、かわいそうさで泣ける。
 パイにとってのリチャード・パーカーもまさにそんな感じ。パイはトラにおびえる一方で、「おまえがいなかったらぼくは生き延びられなかった」と何度も言っているし。というわけで、この時点で私はこの小説をすべて理解した気でいたのだが‥‥

 そんなこんなでパイは漂流の果て、メキシコの海岸に漂着する。リチャード・パーカーは着くやいなや「さよならも言わずに」姿を消してしまうのだが、パイは救助され、病院に収容される。そこに訪ねてきたのはツシマ丸の沈没について調査をしている日本の役人、岡本と千葉。パイはここまでの物語を2人に話して聞かせるのだが、当然ながら彼らはその話を信じない。すると、パイは「だったら別の物語にしましょうか?」と言って、もうひとつの物語を語り始める。それはこれまでの物語にくらべると、ずっと短くて無味乾燥で、しかし恐ろしい物語だった。
 「真実の話」を知って呆然とする2人にパイは尋ねる。「どちらの物語が気に入りましたか? 動物の出てくる物語と、動物の出てこない物語、よりよい物語はどちらでしたか?」(引用訳はすべて唐沢則幸)
 要するにパイは妄想に駆られたわけでもなんでもなく、知っていながらあえて嘘をついたことになるのだが、はたしてこれでいいのか?という疑問は残るけどね。

 子供時代のパイは、宗教に取り憑かれている。本来の宗教であるヒンズー教の他にも、キリスト教とイスラム教に心酔して、全部をいっぺんに信仰してしまうのだ。当然ながら両親は困惑するが、当のパイは平然としている。彼にしてみれば「よい物語」は全部正しいらしい。
 この宗教の部分がやけに長いので、おそらくこれが小説全体のテーマなんだろうと思っていたが、最後に至って、この「よりよい物語」というキーワードが生きてくるわけだ。それと同時に私の感じていた違和感の理由もわかった。

 パイに言わせると、不可知論者は「よりよい物語」から目を背けて、「自身の理性的な自己に誠実で、乾ききって、酵母の欠如した事実に執着する」のだそうだが、まさにその手の不可知論者である私に言わせると、宗教とは、現実に目を背けて、口当たりのいい嘘と妄想に執着するものに他ならない。ここでパイがやったことがまさにそれだ。
 もちろん、今さら事実を公開したところで、死んでしまった人々が戻ってくるわけではないし、かえって人を傷つけるだけだというのはわかる。だけど、大勢の人が現実に死んでいるのに、こんなおちゃらけたファンタジーでごまかしてしまっていいのか? 遺族に真実を知る権利はないのか? 事故原因は結局わからないままなのだが、原因究明に協力する気は皆無だし。臭いものには蓋って、結局これも宗教のやり口だよな。
 というわけで、個人的にはパイの思想にはまったく共感できないけど、物語としてはおもしろかったし驚かされたことは認めないわけにはいかない。そもそも私も、「動物の出てこない物語」より「動物の出てくる物語」のほうがずっと好きだし、そもそもトラが出てこなかったら、この本を買って読むこともなかったし。

 ちなみに作者のヤン・マーテルはスペイン生まれのカナダ人作家。それがなんでブッカー賞?と思ったが、あれって英国内だけでなく、「英連邦の作家が英語で書いた小説」すべてが対象だったのね。
 ここからは単なる読者ではなく批評家としての感想だが、確かにおもしろいが賞とるほどの作品か?とはちょっと思った。キャロル・オコンネルがおもしろいのと同レベルにはおもしろかったし、ラストのどんでん返しには驚かされたが、キャロル・オコンネルのあれはミステリだしねえ。でもワンアイディアだけで引っ張るというところは似ているし、純文学としてはどうも物足りない。もっとも現代では純文学と大衆文学の区分けはほとんど意味がないといっていいし、文学賞なんてその程度のものと言ってしまえばそれまでだが、個人的にはブンガクにはもうちょっと知性と深みと精神性がほしいなあ。
 あえて言うなら宗教部分がそうで、もちろんそこが審査員にもアピールしたんだろうが、私はまったく受け入れられない思想だし。
 これはある程度は意図したものだろうが、まるでおとぎ話のような文体の素朴さ(言い換えれば稚拙さ。おかげで非常に読みやすいのだが)にはネイティブではない作家の限界も感じられる。主人公のパイも含め、登場人物がまるでリアリティーのない、マンガチックなところもちょっと。
 そのぶん登場人物はみんないい人たちで、かわいらしいんだけどね。特に、こういう話で日本人が出てくると普通はろくな役柄じゃないのだが、(ましてツシマ丸はパイの不幸の原因だし、政府の役人だし)、ところがこの2人がなんか漫才コンビみたいな愛嬌のあるおっさんで、しかもラスト、事実に目をつぶって「よりよい物語」を選択して報告書を書くあたり、あまりにもいい人たちなのでうるうるしてしまった。
 パイの両親や、おじさんや、先生や宗教指導者たちもいい人ばっか。まあ、やっぱり寓話ってことなんだろうな。

 それに漂流といえばカニバリズムというのは、(特にイギリスで人気のある)ギャグの定番なので、私は途中まで「漂流記なのにカニバリズムがないなんて(笑)」と文句を言いながら読んでたのに、実際にそれをやっちゃうのはギャグにしかならないと思うんだが。

 とまあ、プロの目(笑)から見るとアラもあるが、とりあえず楽しめるし考えさせられる小説には間違いなのでおすすめ。あとは映画だな。監督のアン・リーは個人的にあまり好きでないのが気がかりだし、予告編見た感じでは、やけにこぎれいなファンタジー調なのが気になったが、まあお手並み拝見。
 個人的にはあの臭いが描けてれば及第にするが。いや、あのボートはすごい臭いだったはずなんだよ。2人とも魚を生で食べていて、パイはともかくトラはその食べかすをため込んでるし、2人とも栄養不良のせいですごい下痢をしているし、おまけにトラも人間もおしっこで縄張りのマーキングをしている(笑)んだから。その臭いが映像から伝わってくるようならよし、キレイキレイで終わったらダメということにさせてもらう。

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