映画評
やっぱ最近はポスターをいっぱい作るのがブームみたいで、これも役者個人のも含めて15種類もあった。本編よりかっこいいからみんな保存しましたけど、なぜかこういうのって、本編にはないシーンばかりなんだよな。 |
えっ、これレオナルド・ディカプリオが主演だったのか? 適当に選んでカゴに放り込んできたのに、なんか狙ったようなチョイスになったな。というわけで、前章の『T4』のリビューに書いた、私が惚れ込んだ子役四天王のひとり、レオナルド・ディカプリオ主演の『インセプション』のリビューへ行きます。あとはリバーの主演作があれば完璧なんだけど、彼は死んじゃったし。
この映画について知ってたのはクリス・ノーラン監督ってことと、夢についての映画だってことで、これはノーランお得意のサイコスリラーが見られると思って。あと、渡辺謙が出てるのも知ってた。
ただ、話の流れから言ってレオの話をしておかなきゃならないんだろうな。ちなみに、なんでこの人たちのことは馴れ馴れしくファーストネームや愛称で呼ぶかというと、ほんの子供の頃に好きになって、ずっとその名で呼び慣れているせい。
少年時代の彼を好きになった理由と見放した理由は前章に書いた通りだが、「見るに耐えない変な顔のデブ」で終わらせるのもあんまりなので、〈これがファンかよ!〉、少し補足させてほしい。もちろん私も彼の演技力にはなんの異存もないです。もともとそれで好きになったんだから。
ただ、この子のもうひとつの魅力は、「変ちくりんな顔だけどそこがかえって愛嬌があってかわいい」ところだったのに、若い頃、大目に見て『タイタニック』ぐらいまではそれが通用した。だけど誤算だったのは、変ちくりんで愛嬌がある童顔のままおっさんになってしまったこと。いや、そういうおっさんがいてもいい。嫌いじゃない。ただ問題なのは彼ほどのスターとなると、演じる役柄はほとんどが大人のヒーローだってことだ。
私もいつもデブだのブスだのチビだの人の肉体的欠陥ばかりあげつらって下品なやつだと思われるだろうが、役者の場合は特別だ。だって役者は顔や体が命だから! いや、体はクリスチャン・ベイルみたいに、その気になればいくらでも変えられる。だけど、顔と身長だけはどうにもならない。っていうか、やろうと思えばSFXでなんとかなるけど、それも限度があるし。そこまで変えちゃうならその役者使う意味ないし。
幸いレオは体はでかくなった(6フィートぐらいか)のだが、中年になったら横にもでかくなってしまった。その大柄な体に、あの童顔がちょこんと載っているだけでもアレなのに。
キャスティングは映画の成否を決定する大事な要素であり、キャスティングをおろそかにするような映画製作者はどこにもいない。逆にひとりのミスキャストは映画全体の足を引っ張ることになりかねない。まして主役は!
しかし、ここのところがハリウッドのスターシステムの弊害なんだが、これほどのビッグバジェット映画は、使える俳優の選択肢が極端に狭い。つまり、ビッグスターのお墨付きを得た俳優の中から選んで使わないとならないのだ。しかも、映画の仕事は非常に時間を食うので、たとえばクリスチャン・ベイルがいい役者だからって、どの映画もクリスチャン・ベイルばかり使うわけにはいかないし、興行的にもそれじゃ成り立たない。そのため、監督は限られた一握りの俳優の中の、しかもそのとき体が空いているやつから選んで使うしかない。たとえ明らかなミスキャストでも。
ボロクソ言われてるかわいそうなリオ。しかしそれは愛するがゆえだからね! 確かに顔そのものは今でも可愛いのだが、それと体や役柄とのアンバランスが! |
そういえば、レオがなんでここまで人気が出たのかも謎だ。変な顔なのに。普通に考えれば『ロミオとジュリエット』や『タイタニック』のヒットで婦女子の心をつかんだってことだろうが、それでいて男っぽい作品にも出てるのが解せない。何度も言うが、演技派だから監督は使いやすいのはわかるが、いわゆるアメリカン・ヒーローとは縁もゆかりもない、一般に人気の出るような顔じゃないと思うのだが。
まあ、これもアメリカだけの異常現象だが、「有名人崇拝」というものがある。つまり人気のある人は有名になるから、ますます人気が集まって、人気があるだけで人気者になれるというおかしな現象が起きる。まあ、レオは演技力もあるけど、そんなところ見ている映画ファンはまずいない。
もし彼がまったくの無名の俳優だったら、たとえどんなに演技が上手でも、この役にディカプリオを使う監督はひとりもいないだろう。だって顔だけ見たらこの人は、出てくるなり真っ先に撃ち殺されるマフィアのチンピラ顔としか言いようがないからだ。
特に最近、『シャッター・アイランド』(あれ? そういえばこれのリビュー書いてなかったか? これもロンドン行く途中の飛行機で見たんだが)とかこれとか、内面の傷がじくじく痛むタイプの神経質な心を病んだキャラクターを演じているが、なんかあんなおむすびみたいな顔で悩まれても‥‥。だって、顔の横幅のほうが縦幅より広いじゃん。そっちのほうが気になってしまって、そこに縦皺刻んで悩まれても演技に集中できない!
その演技にしても、確かにこの人は演技ができるのだが、あの顔のせいでギャグに見えてしまうんだよ。逆にそういう神経質そうな顔した人(いっぱいいる。たとえばキアヌー・リーヴスとか、この映画に出ている人だとキリアンとか)だと、何も演技しないで立っているだけで悩んでるように見えるのに。それをカバーするためか、どうしてもオーバーアクションになるのだが、そこがまたマンガチックに見えてしまう。
だいたい、私はあの太い猪首とでかい尻を見ただけでイライラが最高潮に達するんだよ! 体なんか痩せればどうとでもなるんだから、なんで痩せようという努力をしない! せっかく背が高いんだし、痩せてたころはスタイルだけは良かったのに! 〈あまり人のことを言えた義理では‥‥〉
まったく前章でエディーのことをデブだの「見る影もなく変わり果てた」だの罵倒したが、レオよりはエディーのほうがまだ痩せてるし、顔だってまだハンサムじゃないか! 渡辺謙と並んだツーショットをたくさん見たのだが、いいオヤジの渡辺謙のほうが、彼よりよっぽどハンサムだしスタイルもいいじゃないか! まったくこの映画はキャスティング以外にもいろいろ問題抱えてるんだから、冗談は顔だけにしてくれよ!
ふう‥‥。言いたいだけ悪口言ってせいせいしたから、以降は決してレオのルックスの悪口は言わない‥‥つもり。ストーリーの話はややこしいから、先にキャストの話を片付けてしまおう。
やっぱり好きな役者が出ていないと映画の楽しみは半滅。そこで今回の私のお目当てはというと、渡辺謙。
えっ?と言われそうだね。私が渡辺謙のファンだって、前に書かなかったっけ? 『バットマン・ビギンズ』のリビュー(2006年8月3日)で書いたはず‥‥、と思って探したが、確かに気に入ったようなことは書いてるが、映画が嫌いだったのでいい加減なリビューしか書いてない。(『硫黄島からの手紙』で書いてますね。探してリンク貼るのがめんどくさいけど)
しかし、レオはともかく、渡辺謙とかキリアン・マーフィーとかマイケル・ケインとか、ちょっと意外な(私にはうれしい)キャスティングに見えたが、監督のノーランは『バットマン・ビギンズ』でもこの人たち使ってたんだっけ。キャスティングの才というか、キャスティングの好みは私と似てるんだな。だったら、主役のコブもクリスチャンでやってよ! と言ったら身も蓋もないが、少なくともクリスチャンもアメコミ・ヒーローよりはこっち向きなのに!
とりあえず渡辺謙は、日本の映画やドラマは1本も見たことがないし、若い頃は知らないのだが、白人俳優にまじっても顔と体と声でまったく引けを取らない日本人アクターっていうだけでも、涙が出るほど好きだよ。だいたい、私がいちばん好きな日本人男優って今でも三船敏郎だし(笑)。主に黒沢作品だけど、彼の若い頃ってほんとぞっとするほどセクシーでハンサムだったんだから!
でもやっぱり意外に思われるだろうな。前章とか読むと、私まるでショタコンだもん。まあ、実際そうだったわけだが、筋肉や男っぽい男も嫌いじゃなかったという証拠がこれ。その半面、日本の子役とか、女みたいなきれいな男ってまったく食指が動かない。おそらく日本の男はただでさえ幼く、女っぽく見えるからだと思う。もっとも欧米での渡辺謙の人気や、彼以前に最も人気のあった日本人役者は三船敏郎だったことを思うと、いつもの伝で私がガイジンだというだけか。
インタビューを読んだら、ノーランはすごく渡辺謙を気に入っていて、なのに『バットマン・ビギンズ』では出番が少なかったことを後悔していたので、(確かにいかにも中途半端な役柄だった)、このキャラクターは最初から彼のために書いたし、レオに次ぐセカンドビルを与えたんだって。ほー? だったらレオじゃなく渡辺謙を主役にしろよ。と言っても、これがまたハリウッドの掟でダメなんだけどね。黒人を主役にすることはできるようになったが、まだ「アメリカ人、またはアメリカ人のようにしゃべれる白人」以外を主役にするのは許されていないから。
とりあえず、渡辺謙のキャラクターはかなり無理やり押し込んだっぽくて無理が多いのだが、彼はかっこよかったのでそれでいいことにする。しかし、もうちょっと英語の発音勉強しろよ。短いセリフはほとんど違和感ないぐらいまで上達したのだが、長いセリフはどうしてもカタカナになってるぞ。日本人役なんだから流暢である必要はないけど、せっかくルックスがかっこいいのにセリフがカタカナだとギャグになっちゃうのよ。(日本のマンガでガイジンがカタカナでしゃべるようなもの) この年だと発音の矯正はむずかしいんだけどね。
変な着物の渡辺謙とマリオン・コティヤール。好きだからでかい写真で。 |
コメントする気も起きないエレン・ペイジ |
なんだかいやらしいキリアン・マーフィー |
渡辺謙の次に気に入ったのが、レオの奥さんの役を演じたマリオン・コティヤール。名前でわかるように生粋のフランス人。なかなか国際色豊かで、そこも気に入った。見ての通りすごい美人。そういえば、こういういかにも華やかなスターらしい美人女優って、なぜかハリウッドでは駆逐されてしまったね。私は女も美人の方が好きです。(おっと、ナタリー・ポートマンがいるか。彼女は確かに美人なので好き)
しかもこの人は私の「おばさんフェチ」にムラムラと訴えるものを持っている。この当時まだ35才だが、あと10年ぐらい熟成させて頂きたい。なんか日本では役柄のせいか、「怖い」とかいう声が多いようだが、怖くて何が悪い! おばさんは怖いほうがステキじゃないか!と、「怖いおばさんフェチ」の私は思う。
それにくらべて私的には「オエー!」なのは、ヒロインのアリアドネを演じたエレン・ペイジ。ロリ顔だからか、日本ではけっこうな人気みたい。っていうか、この手の女がもてるってことは、ハリウッドもおたく文化に浸食されてる?
でもブスじゃん! どう見ても! 典型的なオカメ顔のうえに、とにかく顔でかすぎ。そのでかい顔に細くて短い手や足が生えてるとしか見えない。アクション映画のヒロインにこういうの使うなよ!としか。
一方、同じノーラン監督の『バットマン・ビギンズ』の悪役の「ヘビのような目つき」があまりにもステキだったので大期待のキリアン・マーフィー。だけど、今回はどう見ても甘やかされたボンボンの若社長にしか見えなかったな。いや、そういう役柄だからそれでいいんだが、私が彼に求めてたものと違うのでちょっとがっかり。まあ、この子は同じアイルランド人ということで、あくまでジョナサンの予備に取っておいただけだから。
レオの相棒のアーサー役のジョゼフ・ゴードン=レヴィットは初めて見る顔だが、ちょっと奇妙な顔立ちがおもしろいかも。ツルンとした、アメリカの田舎劇団の舞台俳優にいそうな感じの顔。と言ってもなんのことかわからないだろうが。顔は残念だが、すばらしい熱演だった。
あと、ちょい役だが、レオのお舅さんにあたる教授役でマイケル・ケイン、キリアンのお父さん役でピート・ポスルスウェイトという、私の好きなジジイ役者が2人も出ていたのでちょっと興奮。とにかくキャストはレオとエレン・ペイジを除けばすばらしかった。でもこの2人が実質ヒーロー、ヒロインなんだよな(頭を抱える)。脇の役者がみんなすばらしすぎるので、この2人がルックス以上にお子ちゃまにみえちゃうんだよ! これはもう明らかなミスキャスト。この映画の第一の穴だな。
それで問題はストーリーなんだが、頭が痛いね、これ。というのも、このストーリーがいろいろな問題を抱えているからなんだが、いちおう思い切り簡略化してみるとこういう話。(もちろんネタバレ満載なので注意)
ここは他人の夢に入り込んだり、人と夢を共有する技術が開発された世界。主人公のドム・コブ(Leonardo DiCaprio)は他人の夢から機密情報を盗み出す企業スパイをやっている。彼は仲間と巨大企業のCEO斉藤(渡辺謙)から情報を盗み出そうとしたのだがそれに失敗、逆に斉藤に弱みを握られ、ある仕事を頼まれる。斉藤の会社のライバル企業の跡取り息子、ロバート・フィッシャー(Cillian Murphy)に、夢を使ってある考えを植え付ける(これがタイトルのinception)仕事を引き受けることになったのだ。
このミッションに参加するのは、コブのほか、アーサー(Joseph Gordon-Levitt)、イームズ(Tom Hardy)、ユースフ(Dileep Rao)というプロ集団に加えて、女子大生のアリアドネ(Ellen Page)、もちろんフィッシャーと斉藤も加わる。
ところでコブはある問題を抱えている。彼は妻のモル(Marion Cotillard)殺害の容疑で国外逃亡しているのだが、彼女の死には実は秘密があった。簡単に言うと、2人で潜った夢の世界で、モルは現実と夢の区別がわからなくなっていまい、現実に帰れなくなりそうになったので、コブが「これは夢で現実じゃない」という暗示をかけたのだが、現実世界に戻ってもこの暗示が消えず、モルは本当の現実に戻ろうと、自殺してしまったのだ。コブは彼女の死の責任は自分にあるという罪悪感に悩まされており、それが夢の中で妻の形をとって何度となく彼の邪魔をし、彼を苦しめる。
フィッシャーをはめるためのミッションは用意周到に用意されたものだが、当然のようにいくつもの手違いが生じ、一同は何度も危機に陥るが、最後はみんな揃って生還してミッションも成功しめでたしめでたし。コブは斉藤の手助けでアメリカに戻って愛する子供たちに再会する‥‥かと思いきや‥‥
というお話。
すでに“007 meets Matrix”とか言われてるようだが、私に言わせれば、Mission Impossible meets Matrix +007という感じかな。Mission Impossibleというのは、(ついまだ『スパイ大作戦』と書いてしまうのだが、映画は原題に戻ったんだっけ? 映画は1しか見てなくて、あきれてそれ以後見てないから知らないが、ここで言うのはあくまでオリジナルのテレビシリーズの話です)、チームのメンバーがそれぞれの特技を活かして、ターゲットをハメるために事前にいろんな仕込みをして、いざ決行となると秒刻みでいろんな仕掛けが発動するピタゴラ装置みたいなストーリーがそっくりだと思ったから。この頭脳的な作戦が『スパイ大作戦』のおもしろさで、これが決まると本当に脳みそがジンジンするほどかっこよかったのだが、映画の『MI』は凡庸で退屈なアクション映画になってしまっていたので絶望した。
それはともかく、『スパイ大作戦』には必ずひとり変装の名人がいたのだが、ここでもイームズがそれをやっているあたり、モロに意識してるような‥‥。
『マトリックス』というのは、夢の世界の作りが、『マトリックス』の仮想現実世界にそっくりだからだ。特に現実世界そっくりなんだけど、物理法則は違うし、現実じゃないから好きに改造できるというところが。もっとも、『マトリックス』でもそれができるのは限られた人間だけだったのと同じく、ここでもできることにはかなり制約がある。(でなかったら、話にならないしね)
あと、アクションシーンだけは、やたら派手だけど妙に古風なアクションなので『007』というわけ。
こういうふうにまとめると簡単なようだが、実はめんどくさいことがいろいろある。めんどくさくなる原因を作っているのは、夢についてのいろいろなお約束。
こういうファンタジーやSFは、通常あらかじめルールができている。たとえばゾンビは脳を破壊しないと死なないとか、吸血鬼は十字架をこわがるとか、そのたぐい。タイムトラベルみたいなもっと複雑なものでも、いちおうの暗黙の了解がいろいろできている。そういう誰でも知ってるお約束があって初めて、ストーリーを組み立てたり、そこにアレンジを加えたりできるのだが、この映画みたいにまったく新しい世界を創造するには、まずルール作りと、それを観客に理解させるところから始めなくてはならない。
『マトリックス』もそうだったので、ああいう「チュートリアル」があった。ここでもアリアドネを完全な初心者に設定することで、彼女に対するレッスンを観客へのチュートリアルにするつもりなのは明らかなんだが‥‥
じっくり解説ができるし読み返すこともできる小説と違って、限られた時間内に理解させなきゃならない映画では、とにかくこういうルールは単純にしなくてはならないのだ。『グレムリン』だったら、例の「3つのルール」みたいにね。なのにこの映画は、いかにもおたく趣味に走って、そのルールを複雑にしすぎてしまったため、観客の間に混乱を招くはめとなった。
どんなルールがあるか、ためしにいくつか書き出してみると、(これも私の誤解があるかも)
だんだんわけがわからなくなってきたでしょう。これでもほんの序の口。さらに、映画の中でははっきり説明されていなかったけど、脚本家の頭の中だけに存在する「自分ルール」が無数にあるようで、それがこの映画をわかりにくくしている最大の原因。
そのため、ユーザーコメントを見ても、「何がなんだかわからない」、「自分が夢の世界に入ってしまった」という感想多数。この意見は正しい。私も何度もDVDを巻き戻して、ついでにあとからIMDbも見て、やっと全体を把握したもの。ストーリーの流れは雰囲気でわかるんだが、どうしてそうなったのかがよくわからん。
「そんなことねーよ。簡単じゃん」という人、それなら問題です。
現実世界 (シドニーからLAへ飛ぶ旅客機の中)
フィッシャーに薬を盛って眠らせ、夢に引きずり込む。
第1層 (街) ドリーマーはユーセフ
これが夢だということを知らないフィッシャーを誘拐したふりをして、彼の父親の腹心で、フィッシャーの名付け親でもあるブラウニングに化けたイームズが、父親の遺言についての話を吹き込む。さらにフィッシャーからランダムな数字を引き出す。ユーセフは眠っている人々をヴァンに乗せて橋からダイブし、それをキックにする。
第2層 (ホテル) ドリーマーはアーサー
さっきの数字がホテルの部屋番号になる。さらにイームズが父親の遺言についての嘘を吹き込む。ホテルの床を爆破し、下の階へ落ちることがキックになる。
第3層 (雪山) ドリーマーはイームズ
例の数字は金庫のコードになる。フィッシャーは雪山の中にある建物の金庫を開けて、死んだはずの父と対面し、「自分のようにはなるな」というメッセージを植え付けられる。建物の床を爆破することがキックになる。これらすべてのキックは完全にシンクロしていなければならない。
リンボー (海と崩壊する都市と日本の城) 共通領域なので誰の夢ということはない
ミッションには入っていなかったが、途中で死んだ斉藤とフィッシャーを助け出すため、そしてコブが妻の亡霊と縁を切るために、ここへ潜ることが必要になる。
リンボーにある斉藤の「城」の内部 (本当に外見は城なんである。どんな金持ちでも城建てた日本人はいないな。どうせならそこまでやってほしいな) |
こういうふうに書くとわりと整然として見えるけどね。実際はせわしないスピーディーなアクションの合間合間にストーリーが差し挟まれるので、もっともっとカオスになっている。だいたい、これを読んだだけでも突っ込みどころありすぎだし。
そう、元々複雑すぎるルールと筋立てに製作者が完全に酔ってしまっているから、いろんな矛盾が生まれてくる。そのため、見ている人間はますますわけがわからなくなってくるわけ。
誰でもわかるような、いわゆるgoofs(失敗)もそうですけどね。たとえば、フィッシャーに薬を盛るのに、なんで目の前で入れるような危ない橋を渡るのか?とか。この飛行機会社そのものが斉藤の所有物で、スチュワーデスもグルなんだから、ギャレーで入れてくればいいのにね。
そういうのを突っ込んでいったらきりがないし、そういう重箱の隅はけっこう言い逃れる方法もあるので、むしろ私が気になるのはもっと根本的な矛盾や、納得いかない点。これも数限りなくありすぎるんだが、思いついたことを順不同で記すと‥‥
あー、もう疲れてきたからやめるけど、この調子で書き出していったら50や100はすぐに思いつくよ。やっぱりこれはプロットが暴走しすぎで破綻した典型的な例だなー。おもしろくないわけではないから、そこがあまりにも惜しいんだが。
そのためか、IMDbにはFAQページができていて、視聴者の素朴な疑問に答えている。(上の私の疑問のようなのは素朴すぎるのか載ってない) それにマニアらしき人がいちいち答えているのだが、この回答者そのものが『インセプション』の矛盾した世界に捉えられ過ぎているから、やっぱり似たような「自分ルール」の押し付け合いになってしまって、映画に輪をかけてわからなくなってしまっている。あー、疲れるってば!
疲れすぎたので疲れない話に行こう。アクションだ。ノーランは『メメント』や『インソムニア』の印象が強いから、こんなアクション巨編だとは思わなかった。『バットマン』やって変わったのか? というか、これだけ金を集めるためにはアクションやらなきゃすまされないんだろうけど。
というわけで、さっきも書いたように、ややこしい話の合間にめまぐるしいアクションシーンが挟み込まれる。しかもその展開が早いので、とにかく疲れる! しかもそのアクションが上に書いたように古くさくてつまらないのだ。特に雪山のチェイスなんて、誰でも『007』を思い出すだろうが、ストーリー上なんの必要があるのかもわからず、あの連中がなんのために存在するのかもわからず、それこそ手を振って消しちまえばいいのにと思うと、無性にイライラする。外でのんきに戦っている間も、建物の中ではサスペンスが続いているので、戦いなんかどうでもいいからストーリーの続きを見たくてイライラするのだ。
アクションシーンそのものがいけないと言っているのではない。たとえば、『ターミネーター』(の1と2ね)や『マトリックス』なんかは完全なアクション映画だが私は楽しんだ。問題はこの映画では主人公たちがどんな危険にさらされようと攻撃されようと、ちっともスリルもないし、ハラハラしないということ。だって夢なんだもん(笑)。死んだり傷ついても、現実に戻れば元通りになるのがわかってるのに、そうなると邪魔をしてくる敵は単にうるさいハエみたいなものでしかない。これじゃアクション映画としては成立しようがない。
だいたい、この手の映画で戦うと言ったら、精神戦に決まってるだろうが! 何が悲しゅうて、夢の中で銃をバンバン撃ちまくらなきゃならんのか? それも『マトリックス』のカンフーぐらいぶっ飛んでればかえっておもしろいが、これはただただ退屈。
とにかくこれは映画的には完全な失敗。アクションはまったく不要なばかりか、知的でストイックな映画の雰囲気を壊した。あれもこれもと欲張りすぎても一兎も得ない。
折り畳まれる街 |
次、美術と特撮。と言っても全部CGだからさ、今さらねー。
おっと、「ペンローズの階段」は実物を作ったんだっけ? それは大変な苦労だったと思うが、エッシャーの絵ってなぜか現実に見せられてもちっとも感動しないんだよね。これも「へー」で終わってしまった。それ以外の、人が逆さまになったりするのはCGならべつにどうってことないし。上の「畳まれた街」もそう。これ、文章で読まされたら絶対興奮したと思う。だけど、目で見るとやっぱり「へー」。CG自体のできもかなり悪くて現実味がないし。
これによく似たものとしては『ダークシティ』(リビューは2006年2月21日)のあれを見ちゃったからなー。あっちのほうがはるかに幻想的で、あり得ない光景で、圧倒された。そういえば、夢の映画はあれがあるからなあ。この映画の製作者全員、あの映画の爪の垢でも飲ませたいわ。
美術はこれも上に写真を載せたが、斉藤の城がけっこう良かった。日本人には、「これじゃ中国だ!」とか難癖つけるやつが必ずいると思うけど、それは『千と千尋』的な国籍不明のキッチュ趣味ということで楽しかったな、私は。外国で日本のイメージというとこうなってしまうのは、もう私はあきらめた。この城の崩壊シーンも美しかった。
というところで問題のラストシーンへ。問題の、っていうか、ここはわざと論争を巻き起こそうと意図的に作ったのは見え見えなんだけどね。その狙いはまんまと当たって、論争になっているようだけど、作り手の意図は明白。
どういうラストかというと、アメリカに戻ったコブは、やっとのことで子供たちの待つ自宅へ戻ってくる。ドアの外に、こちらに背を向けて遊んでいる子供たち(小さい男の子と女の子)が見えるのだが、この場面は彼が自宅を去るときに見た光景にそっくりで、すでに何度も夢に見たものでもある。彼はテーブルの上で自分のトーテムであるコマを回して、それから子供たちに会いに庭へ出て行く。カメラは回り続けるコマを映し出す。
というもの。実はこのコマが倒れずにいつまでも回り続ければそれは夢の中、コマが倒れれば現実ということになっているのだ。
これがハッピーエンディングならば、コマが倒れるのを見せてから終わりになるだろう。しかし、映画はその前に終わる。これはつまりコブがまだ夢の中にいるということ。実際、彼がリンボーからどうやって戻ったのかはまったく描写されていないのだ。それに外の子供たちは夢の中の子供たちとまったく同じに見える。そんなことがあるだろうか? というのが「夢派」の根拠。
しかし、画面が消える寸前、コマはわずかに揺らぎだしている。これは止まる前触れのように思える。子供たちの様子はこれまでとまったく同じに見えるが、よく見ると服の色が違ったり、よほど気を付けて見ていないとわからないような細部が変わっていて、明らかに同じシーンの繰り返しではないことがわかる。これが「現実派」の根拠。
それで私の結論はと言うと、まことに夢のない話で申し訳ないが、製作者はもちろんどっちにも解釈できるようにエンディングを作ったのだろう。いわゆる「宙ぶらりん型エンディング」というわけで、どっちでも好きな解釈をどうぞってことで。
まあ、クソミソ書いたようだが、それでも最後まで楽しく見たし、オリジナルのアイディアは悪くないだけに、あまりにも惜しい感じのする映画だった。これを私が編集し直すとしたら、まず上映時間を3時間に伸ばして、最初にていねいに「ルール」の説明をする。言葉でするのがダサければ、わかるようなエピソードを入れる。物語中でも何がどうなっているのか、なるべくわかるように作る。アクションシーンはかなりの部分をバッサリ切って、ストーリーを邪魔しないようにする。
うーん、これでだいぶ良くはなるだろうが、それでもなんかなー。私もこれまで無数の夢の映画(あるいは夢のような映画)を見あさってきたが、そういう映画のどこが好きって、現実がぐらりと揺らぎ、崩壊していくときの、あのムズムズするような感覚なのだ。そのムズムズがこの映画にはない。というのも、ラストを除けば、夢ははっきり現実と区別されている、わりにはぜんぜん夢っぽさがないからだ。その意味、これを私の「夢映画」の系譜(それこそ『カリガリ博士』に始まる)に含めるのはどうにも抵抗がある。
まあ、ちょっとアイディアがおもしろいアクション映画、と考えるべきなんだろうね。そう思えばまったく腹も立たないし、十分楽しめた。