2009年4-5月の日記

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2009年4月25日 土曜日

日記更新の遅れのおわびといいわけ

 どうもどうも、またも更新遅れてすみません。こんなものでも気にして読んでくれている方々はいるようで、中には死んだんじゃないかと心配してメールくださる方々もいたりして。

 理由はいろいろあります。ひとつは例の翻訳のせいで、すべての気力が失せて、いつも以上に無気力になってたこと。もうひとつはそれを口実に、いつも以上に怠惰になってたこと。あと、前に書いたようにゲームにハマってたこと。

 でもなんかそれだけじゃない、根本的な理由があるような気がしてならない。この日記――日記というのは名ばかりで、実際はエッセイか評論集みたいなものだってことは、すでに読んで下さってる方はご存じだと思いますが――中学生の時から書き始めて、こんなに中断したことなんて一度もないんですよ。私的にはこれはかなりゆゆしい事態なわけ。
 それで理由をあれこれ考えていた。今だって書くことがないわけじゃない。むしろ書きたいネタや書かなきゃならないネタが山積みなのに書けない。自分でもなぜだかわからないんだけど、ふっと思ったのは、「誰にも見せないで自分だけのために書いてたときのほうが楽だったし、楽しかった」ということ。
 いや、当時も「これを誰かに読んでもらえたらなー」という願望はあったんです。だからインターネットというものを手にして、日記を公開し始めたころは本当に楽しかった。でも最近、それがかえって重荷というか、負担になりつつある。なんでだろ? やっぱり一般読者というものを想定してしまうと、書ける内容にも、書き方にも制約がかかるからかな。そんなの意識せずに書こうとはいつも思ってるんだけど、やっぱりそうもいかないしね。自分用と公開用と二種類の日記を付けようと思ったこともあるけど、とてもそんな時間の余裕がないし。
 だったら公開なんかやめちゃえ。ただでさえネットには日記サイトがあふれかえってるんだから、というのもひとつの選択肢だけど、一度人に読んでもらう快感を味わってしまうと、それもなかなかむずかしいというジレンマ。

 というわけで、サイト閉鎖も含めて、今後の方針を模索中。でも書かないという選択肢はないので、今後もできるだけ書くように努力はしますが。

ToME礼賛

 というところで、この春休みをまるまる奪ったゲームについて、やっぱりまとめておかなくちゃ。いや、我ながら、いい年こいてゲームにハマって徹夜なんかしているのは本当に恥ずかしい。でも恥ずかしくてもこれにケリを付けておかないと次のことに移れないので。ローグライクやってない人には何がなんだかわからなくてつまんないと思うけどごめん。
 というわけで、3月11日の日記に書いたToME、マジでハマってしまいました。ToMEに限らずゲーム掲示板では、「私はこれで会社辞めました」とか、「これで大学辞めました」なんて投稿を見るけど、それも嘘じゃないかもと思ってしまうぐらいハマった。そこでToMEのどこがおもしろいかを書いてみようと思う。(もうめんどくさいので細かい説明はできるだけ省きます)
 ちなみに現状は、錬金術師でのみ*勝利*(ゲームクリアのことをローグライクではこう言う)。今はいろいろ「実験」して遊んでるところ。

(変愚蛮怒との比較がよく出てきますが、これは単に私が他には変愚しか知らないからで、べつに変愚をけなすつもりはまったくありません。3月11日に書いたように、あれはまったく別種のすごくよくできたゲームだし)

その1 ペットが好き 

 味方のモンスターをローグライクではペットと呼びます。変愚蛮怒でもペットが楽しいと思ったけど、ToMEはペット関係が充実していて、ペット使いの醍醐味が存分に味わえる。ToMEではプレイヤーとの親密度によって、中立、友好、ペット、仲間と分かれている。「中立」のモンスターは単に敵対しないというだけ。「友好」的なモンスターはいっしょに戦ってくれるが、自分の意志だけで行動していてコントロールはできない。「ペット」はある程度コントロールできる上に、ペットが敵を倒しても経験値がもらえるのだが、プレイヤーが別の場所に移動するとそこでお別れ。
 でも「仲間」はどこまでもいっしょ。逆に言うと死なない限り別れることはできない。これは変愚にはなかったもので、すごくうれしい。変愚でも移動の時は「モンスターボール」というものに入れて持ち運ぶことはできたんだけど、それがすごい面倒くさかったのだ。あとペットは寝返って敵にまわることもあるけど、仲間は決して裏切らないなど至れり尽くせり。
 なんでペットがうれしいかというと、パーティープレイができないローグライクは、基本的にすごく孤独で心細いゲームなのだ。そこに仲間がいてくれると、それだけでも心強くてうれしい。
 さらに、敵の攻撃でいちばんいやなのは(当然死因のナンバーワンでもある)、大量のモンスター召喚。自分がやられていやなことは、敵にとってもいやなはず。よってペットは強いというわけ。

 そこで噂にしか聞いたことのなかった「101匹ドラゴン大行進」に挑戦してみました。変愚でもペットは飼ってたけど、大量にいると維持費が高すぎて、ほとんど実用にならなかったのに、ToMEでは仲間は維持費がかからないし、ペットが召還したペットには維持費がかからないので可能なのだ。
 おまけに、そのために専門職に就く必要すらない。「動かないペット召喚の巻物」というのを町のペットショップで売っているので、それをダンジョンの深層階に持って行って読む。動かないペットでも強いやつは強力な召喚を持っているので、ガンガン召還させて、その中から強そうなやつを選んで仲間にする。仲間にするには「モンスター知識」というスキルがいるのだが、それは賞金首クエストをこなすことで無償でもらえる。これでペット関連の職業でなくても、ペットを作り放題。
 でもってこれが楽しくて楽しくて。なにしろ自分はぼさっと突っ立ってるだけで、部屋いっぱいのモンスターをペットが全部片づけてくれる。「敵を見つけて殺せ」という指令を出しておくと、勝手にワーッと進撃して、敵を片づけたあとはいっせいに@(自キャラのこと)のところへ戻ってくる。それで、@のまわりをはね回っている様子が、「やっつけたよ! えらいでしょ!」と言ってるみたいで、犬みたいでかわいくてかわいくて。
 ただ、さすがにドラゴン101匹は無理がありましたね。なにしろドラゴンってやつはブレスを吐くので、敵味方入り乱れての乱戦になると、味方のブレスの集中砲火を浴びて死にそうになる。むしろイメージは悪いが悪魔の方が使いやすいということに気づいて、もっぱらグレーター・バルログを使っていた。あのバルログ(映画『ロード・オブ・ザ・リング』のあれを思い浮かべてね)が100匹付いてるんですからね。どれだけ強いかわかるでしょ。
 とか浮かれていると、そいつらが敵の魔法でいっせいに寝返って即死ということもよくあるんだけど(笑)。それにそのバルログ軍団が敵の反撃を食らってあっさり全滅することもある。なにしろ敵側も同じ手を使えるから。この辺がいかにもToMEの豪快プレイだね。

 実験のつもりでデバッグ・コマンドを使ってやってみたのは、「地獄の最凶プログラマ」DarkGodの召喚。本当はガンダルフを仲間にしたかったんだけど、なぜかできなかった。
 DarkGodというのは実はToMEの作者のことで、これはジョーク・モンスターに分類されている。ToMEにはジョーク・モンスターをオフにするコマンドがあるので、まじめに『指輪物語』で遊びたい私はいつもオフにしてやっていたのだが、一度どんなものか見てみたかったのだ。作者だけあって、当然ToMEのモンスターでは最強。それを仲間にしたらどんなだろう?と思って。
 そしたら本当にバカ強い。パラメータ以上に強いような気がする。もちろん無敵なわけではなくて、ちゃんと傷つくのだが、それでもめったなことでは死なない。(普通の仲間はしょっちゅう死ぬ) しかも遊んでいるうちに、なんかのバグでDarkGodが5匹に増殖してしまった。DarkGodはユニーク・モンスター(ゲーム中に1匹しか登場しないモンスター)なので、これは普通はありえない。
 1匹でも凶悪なDarkGodが5匹もいると、もうほぼ無敵。虚空(信じがたいほど凶悪な最終ダンジョン。錬金術師でも生き長らえるのはほぼ無理と思えるぐらい)の敵をあっさり一掃。調子に乗ってメルコール(悪のご本尊の神)まで倒してしまった。メルコール倒すと@の称号が*勝利者*から*神*になるんだね。さすがにこれだけ強くては、いくら破綻しているToMEでもゲームにならないのでやめたけど。

その2 賞金首クエストが好き

 町にある「獣使い」の店へ行くと、賞金首クエストが受けられる。指定されたモンスターの死体や肉を持って帰ると、ごほうびがもらえるというもの。変愚の賞金首は数も少なく、ユニーク・モンスターに限られ、もらえる賞品もダンジョンで普通に拾えるアイテムだけで、あまり楽しくなかった。(さすがに「アーティファクト生成の巻物」はうれしかったが) でもToMEは一般モンスターが対象で、クエストを受けられる数も無限大、賞品はスキル・ポイントで、こっちのほうが断然楽しい。
 理由を書こう。まず一般モンスターということだが、こっちのほうが見つけるのがはるかにむずかしい。なにしろモンスターの種類が異常に多いので、狙ったモンスターを見つけるだけでも大変。さらに、変愚のユニークは必ず死体を落とすのに、「死体保存」というスキルが高くないと、ToMEのモンスターはほとんど死体を落とさない。だから、狙ったモンスターの死体を発見したときは「やったー!」感が絶大なのである。
 ToMEではスキルがいちばん大切で、しかも一生にもらえるスキルポイントが限られているので、スキルがもらえるのはなんであれうれしい。ここでもらえる「モンスター知識」は前述のように、仲間を作るのに使えるし、一度に持てる仲間の数にも関係しているし。
 賞金首は1回ごとにランダムに決まるので、ありふれたモンスターの時もあれば、めったに見ないようなレア・モンスターのこともあって、何が出るかドキドキするのも楽しい。

その3 死体が好き

 とか書くとめっちゃくちゃ誤解を招く表現だが、ほんと。いま言ったように、ToMEのモンスターはなかなか死体を落とさないので、発見しただけでうれしいうえ、飾っておくしか用途のなかった変愚と違って、いろいろに使えるからね。いちばん大事な用途は「食用」かな。「餓死」というのはローグライクならではの死に方だが、ある意味いちばん情けない死に方。でもToMEでは、食糧が尽きても、そこらにいるモンスターを殺し続けていれば必ず死体が見つかるので、飢え死にすることはめったにない。(たまに毒に当たって死にますが)
 あと、生き返らせてペットにすることもできるし、賞金首として持っていくこともできるし、コレクション用にも。
 変愚でもやっていたが、今はユニーク・モンスターの死体コレクションに凝っている。めったに死体は出ないし、アンデッドや悪魔など死体を落とさないモンスターも多いし、それだけにユニークの死体を発見したときは「やった!」という感じで、宝探しみたい。さらに以前書いたように、ドラゴンなどの巨大なモンスターは、持って帰るだけでも一苦労なので集め甲斐があるというもの。そこでひとつでも多くの死体を集めようとがんばってるわけ。

 しかし、私も「泣きじゃくる白痴」とか、「歌を口ずさむ幸せな酔っぱらい」の死体を持ってこいと言われると、さすがに気がとがめますけどね。しかもそいつらを殺した上で、切り刻んで肉にするんだから(笑) (死体は重いので、普通は肉を切り取って持ち歩く)
 このゲームの作者はさすがにDarkGodを名乗るだけあって、こういうところが実にブラック。実はそこが好きだったりもするのだが。
 ちなみに町にいる人間は、こいつらのほか、「哀れな身なりの乞食」とか、「不潔な病人」とか、「貧しげな傭兵」とか、ろくでもないやつばっか。一説によると、これは冒険に挫折した過去の@たちのなれの果てだと言う。
 いま考えてるのは、DarkGodを食ったらどうなるんだろう?ということ。やっぱりプログラミング能力が付くのかな?

その4 神のクエストが好き

 神を信仰していると、たまにレベルアップの時に神様から直々にクエストをたまわる。それはどこかにある「失われた寺院」で聖遺物を捜すというもの。達成すると「祈祷」のスキルを上げてもらえて、神の魔法が使えるようになったり、いろいろの特典がある。
 失われた寺院は独立したダンジョンで、ランダムな場所に生成されるのだが、その場所はあいまいな方角しか教えてもらえない。それで広い広域マップで、飢え死にしそうになりながら必死でそれを探し求める。
 やっと見つけても、その中でモンスターと戦いながら、小さな聖遺物を捜すのがまた楽しい。うっかり見逃すと神の怒りがくだって、二度とクエストをもらえなくなるし。
 基本的にこのゲームは宝探しゲームなのだが、根がコレクターの私はこういうのがすごい好きなんだわ。神のクエストは5回しか受けられないのが残念なぐらい。それに慣れてくるとわりとかんたんに見つかるので、もっとむずかしくしてもいいと思うぐらい。

その5 冒険者クエストが好き

 一部のダンジョンでは、他の冒険者に会って、そのフロア内で特定のモンスターを一定数倒すというクエストがもらえる。ご褒美はスキルポイントを増やしてくれたり、持ってないスキルがもらえたりで、これはほかの何よりうれしい。
 限られた広さのダンジョンで、目指すモンスターが必ずいることがわかっているので、一見かんたんそうだが、モンスターもテレポートで逃げまくるやつとか、森の中に隠れてるやつとかいて、けっこうむずかしい。最初のころはどうしても最後の1匹が見つからなくて絶望したりもしたが、モンスターを見つけ出すコツがわかってからは楽しくなった。
 でも怠惰な私は、今はこれもペット任せ。ペットはクエスト・モンスターなどの特別なモンスターは殺せない仕様(瀕死にすることはできる)になっているのだが、これを逆に利用するのだ。だいたいにおいてペットの方が@よりもスピードも速いし目も利くので、自分が気づかなくてもペットが見つけて勝手に追いかけてくれる。それでペットが輪になってモンスターをタコ殴りにしているのを見つけて、こちらはゆうゆうととどめを刺すだけ。
 もっともペットはとどめを刺すことができないだけで、ペットから受けた毒や傷が原因でモンスターが死んでしまう場合もある。その場合も何度でもやり直せる親切仕様がいいね。

 冒険者クエストの数は、キャラクター生成時にランダムに決まることがわかったので、少しでも多くのクエストを受けられるようにがんばってみた。これまでの最高は38。1回のクエストで3スキル・ポイントがもらえるので、最終的には114ポイントのスキルがもらえることになり、これだけあると強さがぜんぜん違う。

その6 ダンジョン・タウンが好き

 ローグライクではまれにダンジョンの中に町が生成されることがある。変愚では数回しかお目にかかったことがないが、ToMEではほぼ必ず5つぐらいの町ができる。この町は不変で(普通のダンジョンは入るたびに形が変わる)、何度でも訪問できるうえ、ダンジョン内にしかない特殊な店もいろいろ。
 なんでダンジョン・タウンが好きかというと、こういうダンジョン探索型のゲームというのは、とにかくどこもかしこも真っ暗で敵でいっぱいで、けっこう気が滅入るものなのだ。なのに、階段を下りたとたん、市場のざわめきが聞こえてくると、それだけでもほっとしてうれしくなる。もっともその中にいる人間たちは上記のようにろくでもない奴らばっかりですが(笑)。

その7 、「★Home Summoningのロッド」が好き

 しかもToMEのダンジョン・タウンには、ToMEならではの特典がある。変愚とくらべてToMEのいちばんいやなところは家の狭さだろう。家といっても、単に物を置いておく倉庫なのだが、それが各町に1つずつある。家は変愚でもToMEでも全部で120個のアイテムを保管できるようになっているのだが、すべての町の家がつながっていて、どこにいても出し入れできる変愚に対して、ToMEは24個ずつの家が5つと分散している。前に書いたようにToMEは町の間の移動が面倒なので、これはけっこうつらい。だいたいその120のスロットも、死体なんか集めてるとすぐいっぱいになっちゃうし。
 ダンジョン・タウンには家はない。しかし、「Home Summoningのロッド」というアーティファクトを見つけると、このロッドを振ってダンジョン・タウンの家にアクセスすることができるようになるのだ。つまり町の数だけ家が増えるということ。こうなると変愚よりはるかにたくさんのアイテムを保管できるようになる。何ひとつ捨てられないコレクター根性の持ち主で、おまけにやたら物資を貯め込む必要のある錬金術師の私にはこれがすごくうれしい。
 「Home Summoningのロッド」にはもうひとつ特典がある。どこのダンジョン内にいても、これを振れば最後に立ち寄った町の家に直接アクセスできて、必要な物資を取り出したり、持ちきれないアイテムを置くことができるのだ。持てるアイテムの数にも限りがあり、時には泣く泣く捨てるしかないこともあるこのゲームでは、これは本当に便利。こんな便利なものは変愚にはなかった。

 ダンジョン・タウンの数もランダムに決まることを知って、これもいくつぐらいできるのか実験してみた。これまでの最高は11。なんと384個のアイテムが貯められる! というだけでうれしくなってしまう私は本当に物集めるのが好きだな。

その8 「★転移の指輪」が好き

 もうひとつ、お気に入りのアーティファクト。アーティファクトというのは、それぞれに異なる特殊な能力を持ったアイテムで、ゲーム内にひとつしか存在しない。当然、レアなものは見つけるのがむずかしいが、中でもいちばん役に立つと思うのが、上のロッドとこれ。
 この指輪を付けると、キャラクターが幽体化する。要するに幽霊になれるのだ。それで幽体化すると、ダンジョンの壁を通り抜けられる。これがどんなに便利かはやってみないとわからないだろうけど。
 これは変愚でも「ほとんどチート」と言われるぐらい便利なもので、「どこでもまっすぐ進めるので指が疲れない」(笑)というほかにも、たいていのモンスターは壁の中には入れないので、危険なモンスターはパスできるうえ、壁の中からチクチク攻撃するという卑怯な手が使える。壁の中にいると多くの攻撃が防げたり、効果が半滅する。体力が減ったら壁の中に入って休むことができるなど、いいことづくめ。
 普通はこの能力を得るには、種族を幽霊にするか、特殊な魔法を使わなくてはならない。でもそれなりのペナルティもあって、幽霊はめちゃくちゃ体力が低くて虚弱だし、ToMEでは幽霊を選べる種族や職業が決まっている。魔法は取得するまでに大量のスキルポイントを使うし、効果は永続しないし、そもそもどの職業でも使えるわけではない。
 なのに、この指輪は付けてるだけでつねに幽体化状態になって、誰でも使えるし、なんのペナルティもないし、MPも消費しない。さらにテレポート能力も付いて、スピードと幸運が+15。おまけにこの指輪にしかない地獄免疫が付くと、いいアイテムがインフレ気味に出るToMEでも夢のようなアイテムなのだ。
 もっとも、この指輪を落とすのは、神と戦う一歩手前のボス・モンスターなので、まずめったなことでは手に入らないし、入手できても*勝利*後だけどね。でもゲームクリア後もえんえん遊ぶ私には、それを入手するだけを目標にして遊んでも十分というぐらい。

その9 ナズグルが好き

 言ってみれば下っ端の奴隷なのに、ナズグル(指輪の幽鬼)がやけに強くてかっこいい、というのも原作通りで気に入っている。ナズグルはこのゲームの中では特殊な扱いだ。どういうことかというと、「何から何まで原作通り」というのに尽きる。つまり、

  1. 全部で9体、それぞれがサウロンに与えられた力の指輪を持っている。
  2. 通常の武器では一切傷を負わせることができない。
  3. ナズグルに斬りつけた武器は、折れて使い物にならなくなるか、ボロボロに劣化する。(しかも劣化耐性があればアーティファクトは劣化しない変愚蛮怒と違って、ToMEのナズグルはアーティファクトも平気で壊す)
  4. ナズグルに斬りつけた者は、それだけで重い病気にかかり、王の癒しがなくては回復しない。
  5. たとえ倒しても、親玉のサウロンが生きている限り、何度でもパワーアップして復活する。
  6. 水を渡れない。
  7. 強い光に弱い。

などなど、『指輪物語』を読んだり、映画を見た人なら「そうそう!」と思うことばかり。唯一、"not by the hand of man will he fall"というのだけは除外されてるけどね。なにしろゲームでは最初に性別を選べるので、女を選べば大丈夫ってことになっちゃうから。
 こう見るとほとんど無敵に思われるが、実は何も無理に倒さなくても逃げちゃっても大丈夫だし、弓矢や魔法で離れたところから攻撃すれば平気。ただ、私は飛び道具は使わない(矢を集めたり作ったりするのが面倒なので)し、錬金術師はろくな攻撃魔法が使えない。それにナズグルがいちばんこわいのは、うっかりぶつかって、大事な虎の子の武器をだめにされてしまうことだし。
 ナズグルを倒せる武器は「アンデッド・スレイ」というフラグの付いた武器だけ、ナズグルを切っても壊れないのは「西方国の」武器で、特殊なフラグの付いたものだけなのだが、その2つのフラグは同時には付かないようになっているので、悩ましいところだが、そこはチート性能全開の錬金術師のこと、その2つを備えた武器を作れるのは錬金術師だけなんですよね。
 だからと言って安心していると、目の届かないところでペットが勝手にナズグルと戦争始めて、召喚合戦で大変なことになり、大事なペットが全滅してしまうこともあるので、やっぱりナズグルはこわい。

 ところで9人全員に名前が付いてるのは知らなかったな。たしかトールキンの原作ではアングマールの大王(ナズグルのリーダー)ぐらいしか名前は出てこなかったように思うが。これらの名前はどこかに出典があるというのを読んだが、くわしいことは忘れた。とにかくこの名前がまたかっこよくてうれしい。
 このゲームが好きなのは、さすがトールキンだけあって、人もモンスターもアイテムも、名前がどれもこれもかっこいいこと。後半では名前の付いた武器でも片っ端から捨てなきゃならないんだけど、名前がかっこよすぎて、もったいなくて捨てられないなんてことも。

その10 DarkGodが好き

 その他、ToMEの好きなところはたくさんあるけど、極言すれば、作者のDarkGodが好きと言ってもいい。なんかやることや発言を見ていると、私とすごーく気質が似ているような気がするのだ。ローグライク・ゲームは基本はみんないっしょなのに、作った人の性格や好みが反映してまるで別のゲームのようになるところがおもしろいのだが、中でも私はDarkGodがいちばんぴったり来るというか。
 どこが似てるって、基本的に人が悪いところ(笑)。めちゃくちゃ凝り性なのに大ざっぱで豪快な性格。欲張りでわがままといったところ。(勝手に憶測してすみません) でも悪ぶってるけど、トールキンに心酔してるってことは、実はいい人に違いないんだが。

 今悩んでるのは、新しいバージョンをやるべきかどうかってこと。とうの昔に開発が終わっている変愚と違って、こちらは日本語版のあとも新バージョンが発表されているので。英語は別に苦にならないけど、さすがに錬金術の二重エゴ・バグは修正されているようなので。あいかわらずヘタレ・プレイヤーの私は、二重エゴがなくちゃ先に進めるような気がしないし。とりあえず錬金術師以外でも*勝利*できるようになったらやってみよう。それに他のバリアントも試してみたいし。なんて言ってると、本当に飯の食い上げになりそうだ。

おまけ

 このゲームをやっていると、また『指輪物語』を読んだり映画を見たくなると書いたが、実際またDVDを見返して、またハマってしまった。でも気になることがひとつだけ。原作では、ここいちばんの大きな合戦で、善の側の小規模な軍隊が、数も力もはるかに上回る敵の大軍勢に、真正面から切り込んで行くじゃない。ヘルムズ・ディープの戦いとか、ペレンノールの決戦とか、ブラック・ゲートでの戦いもそうだ。もちろんお話としてはその方が悲壮感があってドラマチックでおもしろいのはわかるが、現実問題としてあれじゃカミカゼ突撃同然の自殺行為だよね。少なくともToMEじゃ、あっという間に全滅して、1秒後にはお墓を見ることになる。
 おかげでToMEをやるようになってから、映画を見るたび、「あーっ、だめだ、そんな戦法じゃ勝てない!」と叫ぶ癖がついてしまった。原作よりゲームのほうがリアリスティックなんだね。

2009年5月1日 金曜日

 以前、「年を取るにつれて、好みの幅がすごく狭くなってきた」と書いたけど、どうもそういうもんでもないような気がしてきた。これって何も私の好みの問題じゃなく、単純におもしろいものが減ってきたというだけじゃないの?
 たとえばテレビは昔――ちなみに私が昔というのは本当にウン十年前の話ですので――のほうが絶対おもしろかった。だから当時は私も喜んでテレビを見ていたが、今はたまにサッカーの試合を見るだけで、あとはまったく見る気が起きない。
 インターネットにしてもそう。ネットを始めたばかりのころは、それこそ夢中になって徹夜でネットサーフィンしていたのが嘘のよう。あのころのサイト(主として個人サイトのことを言ってます)って、確かにビジュアルとかは、今と較べるとずいぶん見劣るけど、なんかえらく濃くてマニアックで、「すげえ!すげえ!」と興奮しまくって見ていた。
 それが(ブログが生まれてからは特に顕著だが)、めちゃくちゃ中味が薄くてどうでもいいような記事ばっかりになってきた。今はたとえ暇つぶしにでも見る気の起きるサイトってほとんどない。ちなみに定期的に巡回しているのは、シムピープルの情報フォーラムと、「恐竜の楽園」(古生物関係のニュースサイト)と、「カラパイア」ぐらいだ。どれも単なる情報紹介サイトで、真剣に読むようなサイトってゲームサイトとゲーム攻略サイトぐらい(笑)。
 映画もそうだ。少なくとも洋画は昔の方がはるかに粒が揃っていた。いつも言うが、レンタルビデオ屋に行っても、おもしろいかどうか以前に、そもそも見たいと思うような映画がほとんどない。音楽も同じ。

 で、どういうことかというと、「大衆化するとなんでもつまらなくなる」というのはある程度言えると思う。ベストセラー・リストに並ぶような本が、いかにくだらなくてつまんない本ばかりか、チャートのトップ10に入るような曲がどれだけアホくさいものばっかりかを見ればおわかりの通り。そして資本主義の世の中では、作る方も商売だから、当然そういうものを作ろうとする。その繰り返しで、どんどん悪貨が良貨を駆逐していくわけ。
 唯一わからないのはどうして大衆がわざわざつまんないものを喜ぶのかということだけだが。まあ、音楽に関していうと、アホな歌でも毎日耳タコに聞かされていると、一種の刷り込みで好きになってしまうことがあるから、ほとんどの人が単なる惰性で見たり聞いたり読んだりしているだけなんだろうな

 というわけで今日は辛口映画リビューです。どっちも映画サイトで見ると内外で大好評を博しているようなのだが、私は単にむかついただけだった。おまけに、これがカスだなんて言ってる人がひとりもいないのに仰天。そこで、こういう見方もあるんだということを知ってもらうだけでも意味があると思って書いた。というか、どっちかというと100円損した(笑)という怒りをこめて書いてるだけなので、好きな人、怒らないように。例によってネタバレありですが、こんなネタばらしたところでどうってことない。

The Mist (2007) directed by Frank Darabont
(邦題 『ミスト』)

とまあ、ポスターだけ見ると、なんかすごくかっこよくておもしろそうに見えるが、これはただのイメージイラストで、こんな場面は存在しない。
スチルを見ると、いかにもアホそうな映画ってのが露呈してしまうね。ちなみにヒモを持ってるゴリラが主人公。モンスターの写真を載せないのは、まあ武士の情けだ。

 でもって、上に書いたことの生きた証と言えるのがスティーヴン・キングである。ただ、先に断っておくと、この男、まったく才能がないわけじゃない。特にアイディアとプロット。もっともそのアイディアというのもオリジナルというわけじゃなく、あまりにバカバカしいので普通の作家は考えても使わないようなアイディアを、そこそこ読める話に仕立てるのが上手というだけだが。
 というわけで、キング作品には意外性なんてないに等しいため、誰でもすんなり入って行けるし、誰でもそこそこ楽しめる。長いけれど、基本的に中味がないので(10ページに1ページずつ飛ばし読みしても十分ストーリーがわかる)、気軽に読めるし。それをこれだけ大量に書き、それが大量に売れているため、初めて読んだホラーがキングだという人は、キングってすごいんだと誤解してしまうのもよくわかる。でも他に1冊でもまともな作家を読めば、キングがいかにヘボ作家かわかりそうなものだが。そこだけがわからない。
 ちなみに私がキングを嫌いなのは基本的に頭の悪い小説が嫌いなせいだが、それ以上に嫌いなのは、彼の小説を読んでいると、無意識に教師根性が出てきてしまうせいである。つまり、出来の悪い学生のレポートを採点しているような気分になって、つい赤を入れたくなるのだ(笑)。たとえば、今読んでる『レギュレイターズ』のほんの1章の中でもこんな感じ。(このリビューを書くために『霧』を読み返したのだが、不満だったのでつい他のも読み始めてしまった。まあ、キングの本はどんなに長くても30分で読めるから。ちなみに『レギュレイターズ』と、対になる『デスペレーション』はキングの長編では好きな方)

というふうに。一度本気で赤入れてみようかな。そしたら全編真っ赤になりそうだが。でもあまりにも時間の無駄なのでやめた。単に小説が下手で頭が悪いのだ。
 他にもキングの嫌いなところはいっぱいあるけどね。登場人物がアメリカの田舎者ばっかりで、まったく感情移入ができないところとか、意味もなく下品なところとか、作者が二目と見られないほど醜いこととか。

 それでもキングの最高傑作(だと私は思ってた)『霧』の映画化作品ぐらいは見てもいいかなと思って借りてきた。どうせB級ホラーだろうけど、シンプルな話だし、それほどひどいものにはならないだろうと思って。
 だいたい、キングは長編よりも短編のほうが出来がいい。理由は主として、短ければ短いほど、あの原稿料稼ぎとしか思えない、むだなおしゃべりが削られて、話が引き締まるから。その点、これは原作がノヴェラなのでまだましなほう。それにこの原作は「宙ぶらりん型エンディング」なので、ラストの大コケがないだけでもいい。(キングの長編は、途中まではいい調子で来ても、腰が砕けるようなヘロヘロのクライマックスのおかげでずっこける事が多い) 
 舞台がほとんどスーパーマーケットの中だけで、怪物もほとんど姿を見せないのも低予算映画向き。
 そんなわけで、キャストやスタッフの名前も見ずに、原作だけで借りてきた映画なのだが‥‥

 冒頭の10分を見て「こりゃだめだ」と思った。なんか最近、どんな映画でも最初の10分で善し悪しがわかるようになってしまった。だいたい、オープニングというのは映画のかなめだしね。どんな製作者も力を入れて作るはずなので、それがコケれば他もコケてると見なすのが順当。ましてこれはホラーでしょ。ホラーこそ、最初で「いったい何が始まるんだろう?」とドキドキハラハラさせなきゃ。なんかダラダラした気の抜けたオープニングに、いかにも大部屋俳優っぽい、まるで魅力のない主人公(トーマス・ジェーン)。もうこれで見る気が半分以上失せました。
 だいたいかんじんの霧からしてダメダメダメ。本当の霧はこわいんだよ。霧に巻かれるだけでこわい。私は一寸先も見えないような霧というのを、日光とマンチェスターで体験したが、あれは本当に不気味だった。文字通り異空間に迷い込んだような気がして、向こうから人が歩いてきただけでもぎょっとして飛び上がりそうになる。ましてこれは尋常な霧じゃない。もっともっとこわくなきゃいけないのに、あー、スモークもくもく出てるねえという程度。原作でも最初に出てくる湖上の霧は、はしっこがすっぱりと切り落とされた崖のような形になってるのが、なんとなく気味が悪かったのだが、それもスモークもくもく。この程度のCGもケチったのか!

 ならばスーパーの籠城戦はどうか。逃げ場を失って狭いところに閉じ込められた人々。外の霧の中には正体不明の怪物。というのは、ゾンビ映画などでもはやおなじみのシチュエイションだが、ホラーはやっぱりこれがいちばん盛り上がる。原作ではモンスターはたいしたことなくて、それよりも籠城した人間同士の心理ホラーになっていた。
 その辺は映画でも忠実になぞっているのだが、文章で読むのと、いちおう本物の人間が声に出してしゃべるのとでは違うんだな。かえって「セリフ書くのが下手」という原作のアラが露呈してしまったような気がする。なんかそらぞらしくて、いかにもお芝居してますって感じなんだな。役者がダイコンっていうせいもあるだろうけど。いちばんこわいはずの宗教キチガイ、ミセス・カモーディも、ぜんぜん狂気を感じさせないし、イヤミな都会の弁護士も、太った黒人にしてしまったせいか、なんか人が良さそうで、あんまりいやな奴に見えないし。あ、キングのうまいところはイヤな奴を描くこと。どっちかというと登場人物全員イヤなうっとうしい奴なんで、主人公でも共感持てないのが難点だけど。

 それとモンスター。私はモンスター大好き。映画がどんなにアホでもモンスターさえ良ければ許しちゃうぐらい。モンスターは原作では影が薄くて、どんなモンスターが出るのかも忘れていたが、見てがっくり。今さら誰がタコの足やでかいクモや虫ぐらいでこわがるかよ。『ロード・オブ・ザ・リングス』のメイキングで、ピーター・ジャクソンが「水中の監視者」のことを、「タコの足がニョロニョロのびてきて、犠牲者に巻き付くみたいなのにはどうしてもしたくなかった」と言っていたが、こういうやつのことを言ってたんだなと納得したぐらい。
 おまけにCGの出来が悪くて、動きが悪く、ちっとも生き物に見えないし、造形もヘボくて、こわくもグロでも美しくもない。編集もヘボくて、化け物登場→登場人物はボケッと突っ立ってる→いきなり驚くという感じで、ブルー・スクリーンの前で演技しているのが見え見え。なんかだんだんエド・ウッドの映画でも見ているような気がした。

 この化け物の「正体」もねえ。実は軍の実験の失敗で、異次元に空いた穴から漏れ出してきたという設定なのだが、これは原作者が悪いんだが、「次元」って何か知ってる? 4次元でも5次元でも何次元でもいいけど、それが3次元空間に現れて、普通のタコやクモに見えるわけがないでしょうが。とかいうSF的突っ込みは言うだけむだでしたか。
 だいたいこの人たち(モンスターのこと)、化け物でも悪魔の手先でも何でもない、ただ偶然迷い込んできただけの動物でしょ。たいていの場合、人間よりも動物の味方の私には、だんだん動物虐待映画に見えてくる。

 ちなみにホラー小説界で最強のモンスターを書いたのはH・P・ラブクラフト。ラブクラフトこそヘボ小説家なんだが、彼の描くモンスターは完全に(それこそタコ怪物やクモ怪物ばかりだった)従来の常識を越えて、まさに異次元の彼方にぶっ飛んでたので、未だに神とあがめられている。それでラブクラフト原作の映画も箸にも棒にもかからないD級映画ばっかりだというのも映画界の常識なのだが、誰かまともな人に、一度でいいからまじめにラブクラフトを映画化してほしいなあ。それこそCGがなきゃ映像化不可能だったモンスターばかりだし、クリエイターの自由奔放な想像力を活かせるという意味でも最高なのに。
 ちなみにホラー映画で最強モンスターはジョン・カーペンターの『遊星からの物体X』。私は溺愛してます。カーペンターとは思えないぐらい、映画そのものも端正な出来だし。

 とかなんとか言いながら、なし崩しにラストへ。先に述べたように、原作は宙ぶらりん型エンディングだった。この先何が起きるかわからないまま、生き残った主人公たちが車を走らせるという。ここまではほぼ原作通りだったので、ラストもあれで行くんだろうと思っていた。そしたらなんと「衝撃」のクライマックスが。
 なんでかいきなり、みんなで自殺する話になっちゃうんですね。それもガソリンが尽きたというだけで。おい、ちょっと待てよ。なんでいきなりそうなるわけ? ロメロの主人公が自殺するんならまだわかるけどさ。人類も滅亡して、まわりじゅう化け物に囲まれて、もう逃げ場がない、ゾンビに噛まれて、このまま生きていても死ぬより悪い運命が待っているというんならともかく、ガソリンもガソリンの入った車も、捜せばいくらでもあるだろうに。そうでなければ自分の足で歩けばいいのに。世界はおろか、町の外がどうなってるのかもわからない、見たところ周囲にはモンスターは1匹もいない、生き残った人々は五体満足でピンシャンしているという状況で、なんでいきなり死ななきゃならないの? この人たち、あたま悪いの?
 とにかく、私は「あ、そういうことね。子供の頭に銃を突きつけたところで、霧の中から装甲車が現れて救われるのね」と思って見ていた。すると確かに現れたのは装甲車じゃなくタンクだったが、それは主人公が全員を射殺したあと。
 ひでー! 最愛の我が子も、惚れた女も、命からがら逃げてきた勇敢な老人も皆殺しかよ! しかもひどいだけでなんのカタルシスにも解決にもなってないし、ただ後味が悪いだけのエンディング。エンディングを変えて映画が失敗するのはよくある話だが、あのキングの原作をそれよりひどい話にできるとは驚いた。キング原作ではそれでもほのかな希望をもたせるすがすがしいエンディングになっていたのに。
 なのに、これを「考えさせる」エンディングと勘違いした人が多いのにもびっくり。これ見て何考えろっていうんですか?
 確かにこれは「モンスターより恐ろしいのは人間」というロメロ哲学を地で行った映画である。人間の愚かさについて考えさせられる映画である。とりわけアメリカの映画製作者の愚かさについて、つくづく考えさせられるという点で。

P.S. 見終わるまで、これが『ショーシャンクの空に』や『グリーン・マイル』を撮ったフランク・ダラボン監督作品だということも知らなかった。なるほどキングの盟友ってわけですか。もっとも私は彼の他の作品もたいして評価してないんだけどね。

P.P.S. 映画に失望したので、もう一度原作を読み返してみたが、なんかあんまりおもしろくないな(笑)。なんでこれを最高傑作と思ったのか。これなら似たような話の『ランゴリアーズ』のほうがましかも。

もう1本は次回のお楽しみ。本命作品も用意してるんですが、半年かけてもまだ完成しない。やっぱり好きすぎるものは書くのがむずかしい。 

2009年5月5日 火曜日

No Country for Old Men (2007) directed by Ethan Coen & Joel Coen
(邦題 『ノー・カントリー』)

だいたい映画を借りるときは、頭の悪そうな映画ばかり見ていると自分もバカになってしまいそうでこわいので、バカ映画を借りたらもう1本は頭の良さそうな映画を借りることにしている。これもそんな帳尻あわせだけのために借りてみた映画。まあ、少なくともコーエン兄弟はバカじゃないし、カンヌのパルムドールを初め、賞を総なめにした映画だそうし。
 という、やる気のない口調でおわかりの通り、それほどの話題作なのにこれまで見なかったのは、どうも昔からコーエン兄弟とはウマが合わないというか、技量は認めるけど、なんか本質的な部分でソリが合わなくて、この人たちの映画見て、楽しかったとかおもしろかったとか感動したとかって感じたことが一度もないので。どっちかというと、見たあと胃の中に重いものが残る感じで、不快感のほうが強いんだよね。わざわざ金払ってまでいやな思いする必要ない。
 ただ、それだけ賞取るってことは、ある程度一般向けの娯楽要素もあるんじゃないかと思ったのと、麻薬組織の金を持ち逃げして殺し屋に追われる話って聞いたときに、『ファーゴ』+『シンプル・プラン』みたいな映画じゃないかと思って、それならなんとか楽しめそうだと思ったからなのだが。

 あー、しかし好きな映画について書くのもむずかしいが、基本的に嫌いな映画について書くのはしんどいや。ミステリ・タッチなんじゃないかという予想に反して、お話はバカみたいに普通の犯罪もの。主人公のルウェリン(ジョシュ・ブローリン)は、偶然見つけた200万ドルを猫ババしようとするんだけど、殺し屋に追われるはめになる。ところがこの殺し屋シガー(ハビエル・バルデム)は組織も手を焼くほどのサイコ野郎で、無関係な人までバタバタ殺してまわる。最後はルウェリンも妻もシガーに殺され、シガーは交通事故を起こして重傷を負う。終わり(笑)。
 なんかこう要約しちゃうと身も蓋もないが、実際身も蓋もない話である。いちおうトミー・リー・ジョーンズ扮する保安官が2人のあとを追うのだが、彼は何もできずにぼやいているだけ。“No Country for Old Men”という原題は、(例によって、邦題は意味不明)この保安官のセリフで、要するに、年寄りが「今の殺伐とした世の中には付いていけない。昔はこんなじゃなかった」というぼやき。ジジイのぼやきの映画かよ。だからなんだってんだよ!と、思わずちゃぶ台をひっくり返したくなるが、ちゃぶ台なんてないのでできない。しかしなんて情けないキャラクターだ。クリント・イーストウッドが保安官だったらこうはならないだろうに。
 というのはもちろん冗談で、本当はアメリカン・バイオレンスについての映画だってことはわかってる。でもなんで今さら? だってバイオレンスに関してなら、いくらでも「専門家」がいるじゃない。タランティーノとか(笑)。タランティーノがマンガだからだめだっていうんなら、うちのクロネンバーグ先生だって。(『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は2007年2月8日付けの日記に書いたように、ちょっと肩すかしだったけどね。あれは原作がマンガだし)
 実をいうと、私はアントニー・バージェス(『時計じかけのオレンジ』の原作者)で修論書いたぐらいで、いちおう暴力も研究テーマのひとつなのだ。その私に言わせれば、何これ?って感じ。ただひたすらパンパン拳銃撃って、人がバタバタ死ぬだけ。まるでBang! You're dead!という感じで子供が遊んでいるようで、人命の重みも殺すことの重みもあったもんじゃない。
 殺しが無機的で空虚なのはもちろん狙ったものだ。だけど、冷たくて無機的と言えばクロネンバーグの代名詞なんだが、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』で書いたように、クロネンバーグの殺しには重みがある。逆に「人の命の軽さ」をとことん描いて不思議な感動があったのは、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』だが、(すいません。これのリビューは公開してません)、もちろんその域にも達してない。ただひたすら無意味、というのが私の印象で、そもそも主人公だって殺されて当然みたいなやつだし、なんの感覚もわいてこない。見終わるとただいやーな気分になるだけの映画だった。
 ちなみに「暴力の本質」を描いて最高傑作だと私が思うのは、『ファイト・クラブ』。(これも未公開っす。こういうのはリクエストがあれば公開してもいいんだけど) なんかこういう映画見ちゃうと、『ファイト・クラブ』を5回、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を10回ぐらい見ないと気が収まらない! 期待したわりにはそれほどでもなかった『アメリカン・ヒストリーX』だって、これよりははるかに感動した。

 私が怒っているのにはもうひとつわけがある。この映画を見てみたいと思ったのは、組織がシガーを葬る刺客役として送り込んだ殺し屋をウディ・ハレルソンが演じていたからなのだ。とにかく、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を見て以来、この人の大ファン(ただし人殺しを演じるときだけ)になってしまったので(笑)。なんてったってアメリカいちの殺し屋顔。(ちなみにイギリスいちの殺し屋顔はやっぱりポール・ベタニー)
 だからウディの登場を楽しみに待ってたのに、出てくるなりシガーに殺されてしまう。これだけなの! こんなオカッパ頭の変態野郎より、あっちのほうがずっと強そうなのに!!!

 というわけで、私の結論は本当にどうでもいい、見るべきものは何もない映画。アメリカの暴力体質を描きたいなら、もっともっと他に描くべきこと、言うべきことがあるだろうが!
 『ミスト』で、ミセス・カモーディが説教を始めるとみんなさっと引くけど、(ああいう人ってアメリカじゃ普通なんじゃないんすか?)、それより私は、「誰か銃を持ってないか?」という呼びかけに、若い女性教師がハンドバッグから拳銃取り出してみせる方がよっぽど引く。これが日本だったら、みんなそれこそズザッと引いて、白い目で見て、二度とまともに口きいてくれないと思うけど。それが普通っていう状態のほうがよっぽど狂ってるし、アメリカの体質をよく表していると思う。

2009年5月6日 水曜日

J・G・バラード追悼

 2009年4月19日、うららかな春の日曜日にバラードが逝った。享年78才。存命の作家の中では私が最も愛していたバラードのために、そして彼を知らない読者のために、つたないながらもささやかな追悼文を記しておこうと思う。

 ジェイムズ・グレアム・バラードは1930年11月18日、裕福なイギリス人ビジネスマンの息子として、上海の外国人租界に生まれた。大勢の中国人召使いに囲まれ、王侯貴族のような暮らしをしていたが、第二次世界大戦が勃発。バラード一家は悪名高い日本軍の捕虜収容所に送られた。戦後、16才で生まれて初めて祖国の土を踏んだバラードは、精神分析医を志してケンブリッジ大学に学ぶが、途中で文学に転向し、ロンドン大学で英文学を学ぶ。しかしそれも中退して広告会社のコピーライター、百科事典のセールスマンなどの職を転々とした。幼少時から飛行機好きだったバラードは、空を飛ぶ夢を捨てきれず、英国空軍に入隊。しかしそれも翌年には除隊している。
 大学時代から小説を書き始めていたバラードは、その間ずっと、売れないSF小説を書き続けていたが、1956年、短編『プリマ・ベラドンナ』でデビュー。以後、英国のSF誌「ニュー・ワールズ」誌を足場に、一躍SFニュー・ウェーブ運動の旗手となる。(SFニュー・ウェーブについては、ブライアン・オールディスがらみで、2005年9月16日の『AI』のリビューに書いてます)

 SF時代のバラードと言えば、終末テーマで有名だ。彼の「終末四部作」、『狂風世界』、『沈んだ世界』、『燃える世界』、『結晶世界』は、いずれも自然の反乱によって滅亡に向かう人類の物語だ。(いずれも翻訳は創元SF文庫) 『狂風世界』では荒れ狂う風がすべてを滅ぼし、、『沈んだ世界』では(地球温暖化なんて言葉はまだなかったが)気温の上昇によって海面が上がり、都市は海中に没していく。『燃える世界』では異常乾燥により世界中が砂漠化し、『結晶世界』では原因は不明だが、(人間も含めた)あらゆるものが鉱物化し結晶に変わっていく。普通はシリーズには含めないが、『夢幻会社』ではロンドンが熱帯雨林に変わっていく。
 というと、まるでパニック小説かサバイバル小説のようだが、雰囲気はまったく違う。バラードの主人公たちは、こうした異変の中で、パニックに駆られたりしないばかりか、生き残るためのあがきすらしない。むしろ魅入られたように、嬉々として破滅に向かって歩んでいくように見える。印象に残るのは、胸が痛くなるほど美しい「終末の情景」ばかりである。

 しかし個人的には、この時代のバラードは長編よりも短編集をおすすめする。デビュー作を含む『ヴァーミリオン・サンズ』は、芸術をテーマにしたシュールレアリスティックな連作短編集で、やはり宝石のように美しいが、やはり若書きというべきか、アート志向が先走って、読んでもあまりおもしろいというものではない。
 しかし、それ以降のバラードのSF短編集、『時の声』、『時間都市』、『永遠へのパスポート』、『時間の墓標』、『溺れた巨人』などは、難解な部分もあるが、一度読んだら絶対に忘れられない珠玉の短編集なのでぜひおすすめ。と書いたが、もしかしてほとんど絶版? でもたぶんまた復刊されると思う。すべて創元SF文庫。

 がらっと作風が変わったのは、都市三部作(と私が勝手に名付けた)『クラッシュ』、『コンクリート・アイランド』、『ハイ-ライズ』からである。それまでの哲学的で耽美的で超現実的な雰囲気は影を潜め(と言っても、バラードは常に哲学だし耽美だが)、それに代わって、それぞれ交通事故、高速道路、高層集合住宅を題材に、現代都市の狂気と病根が赤裸々に暴かれる。現実にはまずありえない話、ということを除けば、SF風のところもなくなった。同じころ、『残虐行為博覧会』のような「実験的」連作短編集も書いている。
 クロネンバーグが映画化した『クラッシュ』は交通事故に性的エクスタシーを覚える男の話、『コンクリート・アイランド』は高速のインターチェンジの狭間の「島」に閉じ込められて抜け出せなくなった人々の話、『ハイ-ライズ』は高層マンションの内部が一種の階級社会と化し、ついに武力抗争に至るという話である。
 どれも非常に恐ろしい話だが、都市生活者、それも高速道路に囲まれてマンションに住んでる私みたいな人間にとっては、異常なリアリティがあってものすごくおもしろい。私は読んでないので確かなことは言えないが、明らかにこれをパクったみたいな小説は日本にも多いようだ。ただし、バラードの哲学と美学抜きでは、単なるショックと扇情を狙った小説になってしまうのは目に見えているので、私はどうにも読む気が起きないのだが。

 私が始めてバラードを完全に理解できたと思ったのは、1984年の初の「純文学」、『太陽の帝国』を読んだときだ。この自伝的小説は、あくまでフィクションであって彼の体験そのものではないものの(たとえば小説のジムは両親と離ればなれになるが、現実には両親もいっしょだった)、それまで決して語られることのなかった、中国での悲惨な体験をありありと描き出している。
 私がはっとしたのは、それらすべての残虐行為や悲惨を見つめるジムの、冷たいと言えるほど澄み切った視線が、終末四部作その他のバラード作品の主人公たちのそれとそっくりだったからだ。空へのあこがれも、全体に漂う無常観と優しい諦観も、バラードのどの小説にも見られたものだ。そして最も恐ろしいもの、自分を滅ぼす地獄図絵を美しいと感じてしまう矛盾も。
 これはバラード自身も言っているが、現実の収容所での体験はつらいことだけではなかった。子供はどんな状況でも楽しみや喜びを見いだす天才だからだ。それでも多感な少年期に真の地獄を見てしまったことは、後の生涯に大きな影響を及ぼしただろう。彼が書かずにはいられなかったのも、それを吐き出す手段だったのだろう。それでもその体験を直視するまでには54年の歳月がかかったというだけでも、その重みがわかる。でもこれを書くことで、彼は過去にけりをつけることができたのではないか。

 この後のバラードが劇的に変わることは予想できたが、こういうふうに変化するとは思ってもみなかった。『奇跡の大河』はまだ初期の夢のような雰囲気が残っていたが、『殺す』以降の作品はすべて現実の現代世界の病根と暴力をリアルに描いている。「都市三部作」では寓話性によって緩和されていたそれが、残忍なまでのリアルさで描かれる。『ノー・カントリー』のリビューで暴力うんぬんと書いたが、バラードほど暴力を知り尽くしている人はいない。暴力について考えたければバラードを読めばいい。
 これらの作品群をどう評価するかは評価が分かれるだろうと思うし、間違ってもバラードの代表作に数えられることはないだろう。しかし私は、すでに巨匠の域に達し、老齢に入った作家がこれほどのエネルギーを爆発させられることに、純粋に驚嘆した。
 とりわけ私が好きなのは、なんと呼ばれているのか忘れたが、アメリカなんかによくある、要塞のような高い塀で囲まれ、厳重な警備で守られた、大金持ちのエリート層だけが住む、外部から完全に隔絶された高級住宅地を舞台にした『殺す』である。
 ロンドン近郊にあるそういう住宅地で、居住者の大人全員が虐殺され、13人の子供たち全員が行方不明になる事件が起きる。当然何者かが大人たちを殺し、子供たちを連れ去ったと考えられたが、真相は幼い子も含めた子供全員が共謀して親たちを殺して逃げたのだ。これはネタバレのようだが、子供たちがなぜそこまで追い詰められたかという部分が話のキモなので安心してほしい。
 そういう住宅地とそこに住む人々のことは、話に聞いたときから気味が悪いと思っていたが、まさにその気味悪さを最大限に増幅したような話で、心底ぞっとした。と同時に、これは階級社会、監視社会への痛烈な風刺にもなっている。社会風刺や社会批判は「都市三部作」にも寓話的、比喩的な形では見られたが、これほどナマではなかった。
 見るからに上品で温厚なイギリス紳士(話すのを聞いてもやはりそういう感じである)のバラードが、老いてなお、これほど生々しい残酷な話が書けるとは。こんな調子だから、それにこの人は過酷なサバイバルを生きのびてきた人だから、100才まで生きてほしい、今後も多くの傑作を世に送ってほしいと、私は期待していたのだが、その彼も病には勝てなかった。でも彼は死を恐れはしなかっただろう。死は生涯にわたって彼の最も近しい(友人とは言えないまでも)知人だったからだ。
 月並みなセリフだが、空を飛ぶことを夢見続けたジム少年は、ついに本物の翼を得たのだと思う。

おまけ

 映画ファンの読者のために、バラードの映画化作品についても。もちろんどちらも長大なリビューがあるのだが、ここではほんの紹介だけ。
 スティーヴン・スピルバーグの『太陽の帝国』は、私としては言いたいことは山ほどあるが、少年バラードを演じたクリスチャン・ベイルと、彼を冷酷に利用するともに保護者兼教師役でもあるベイシーを演じたジョン・マルコヴィッチの演技があまりにもすばらしいので、すべて許す気になってしまう。
 当時の上海租界や捕虜収容所の想像も付かない様子を目で見られるというのも大きい。それに決して読みやすくはないこの小説を映画で見られるだけでもありがたいと言うべきだろう。あいにく、バラードの特徴であるニヒリズムと耽美性はすっぽりと抜け落ちているが、「ハッピーエンド版バラード」と考えればいい(笑)。日本人には特にぜひ見てほしい映画。
 一方、私がいつも絶賛するデイヴィッド・クロネンバーグは『クラッシュ』を映画化している。バラードとはある意味であまりにも近く、同時にあまりにも遠いクロネンバーグだけに、この映画はまさに「クロネンバーグ版バラード」になっており、かなり高い水準に達している。難点があるとすれば、「どうすりゃ交通事故でよがれるんだい、ヴォケ!」という原作にも共通する問題だけだ(笑)。
 個人的には、大好きなジェイムズ・スペイダーがバラード役(なんとこの変態小説の主人公にもバラードは自分自身の名前を付けているのだ。ちなみにこの性癖は彼自身のものではないと言っているが)で、私のサディスト趣味を大いに満足させてくれるだけでも儲けものだが、エロチックなのは確かで、クロネンバーグの持つ乾いたエロティシズムがうまくマッチしている。こっちはあくまでそっちの趣味の人向け。

2009年5月17日 日曜日

A Scanner Darkly directed by Richard Linklater (2006)
『スキャナー・ダークリー』

 バラードの追悼を書いたからには、こっちも片を付けておかなくてはならないと思って取り上げた。というのも、私が最も好きな作家を2人あげるとすれば、バラードとこのP・K・ディックだからだ。どっちもSF作家だが、たいして意味はない。SFがなかったら私はそもそも小説読みになんかならなかったし、いい小説はすべてSFなので。(「いい音楽はすべてロックだ」といういつもの論法と同じ)
 しかし、同じSF作家としても、この2人はあまりにも対照的だ。先述のように、お坊ちゃまとして生まれ、紳士となるべく育てられたバラードと、大学をドロップアウトして食うにも困る貧乏人だったディック。バラードは芸術と魂の救済(自己のも他者のも)のために書いたが、ディックがSFを書いたのは金と明日のパンのためである。
 2人とも心に傷を負っていたが、バラードは戦争という不可抗力の犠牲者だったのに対して、ディックは一時の逃避的快楽、すなわちドラッグのためである。(ドラッグは彼の心だけではなく肉体もむしばみ、結局それが命取りとなった) 最初からSFというジャンルを超越しており、後にはまったくそれを脱却したバラードに対して、ディックはSFを単なる金儲けのための手段と考え、いつかは純文学の作家として認められたいという夢を持っていたにもかかわらず、彼の普通小説は死ぬまで出版されなかった。つまりバラードはもともと文学的才能に恵まれていたのに対し、ディックは単に下手くそな作家だったからである。
 にもかかわらず、ディックが未だに狂信的信者(そう、これはもうカルトと言っていい)を持つのは、彼が単なる天才だったからだ。ニュー・ワールズのような先駆的でリベラルな雑誌で、自由に書きたいことが書けたバラードと違って、ディックはB級SFという非常に制約の多いジャンルの中で(要するに脳足りんのティーンエイジャー受けのするものを)、粗製濫造で(しかも本人にもあまりやる気のない)書くしかなかった。にもかかわらず、彼の書くものは、他にまったく類を見ない独創性とアイディアと奇想と情感にあふれていた。そのどこまでがドラッグのもたらしたものかはわからないが、ジャンキーなら傑作が書けるというものでもないので、やはり持って生まれた才能だったのだろう。
 それでも(私が好きなだけあって)似たところもたくさんある。中でも(バラードはSFに限っていえば)奔放なイマジネーション、夢か悪夢の中をさまよっているような雰囲気、全体に漂うやるせない悲しさ、無常感や虚無感はとてもよく似ている。
 ここでディック論をやるつもりはない。それには語るべきことがありすぎるから。興味のある人はどれでも1冊(長編をおすすめします)読んでみてほしい。幸い、バラードと違ってディックは大衆向けに書いたのでどれでも読みやすいし、どれを読んでもおもしろいから。

 そのディックの最高傑作と私が信じていたのが、この『スキャナー・ダークリー』である。なんでそう思ったのかもう思い出せない。ただ、読みながらわんわん泣いて泣いて、涙が止まらなかったことだけは覚えている。これはディックがSFからの脱却を試みた最初の作品であり、ある意味あまりディックらしさのない小説だし、SF的ガジェットやストーリーはほんの付け足しだ。さらにこれは彼の自伝的小説、というよりほとんど私小説でもある。ストーリーは完全な創作だが、彼自身の体験が色濃く反映されているというのも、『太陽の帝国』に似ている。ただしバラードの場合は戦時中の強制収容所生活を取り上げたが、ディックはやはり彼を形作った最も重要な体験、ジャンキー時代を取り上げている。

 ディックとバラードの対象性はまだほかにもある。バラードの小説はたった2本しか映画化されていないが――これはちょっと奇妙だ。思弁的小説は映画化不可能かもしれないが、終末SFは絵になるので映画として理想的だし、後期のバイオレンスものはいかにも映画的なスリラーなのに――どちらも一流監督が心を込めて作ったA級作品だ。
 それにくらべてディックは大量に映画化されているにもかかわらず、(『ブレードランナー』を除けば、『トータル・リコール』や『マイノリティ・リポート』のような大予算映画も含め)お話にもならない駄作ばかりだ。もともとの話がおもしろいのに、どうしてあそこまで退屈なくだらない映画が作れるのか不思議。『高い城の男』や『火星のタイム・スリップ』、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』のような、いちおう傑作と呼ばれる代表作が映画化されないのも不思議。

 そんなわけで、あの『スキャナー・ダークリー』が映画化されると聞いて、最初に思ったのは「えー!」ということだった。正直言って、美しい思い出が汚されるような気がして、不快感しか感じなかった。次に思ったのは、「なんで?」ということだ。ディック作品の中でも、これだけ地味で映画化にふさわしくない作品はないので。なにしろ恋愛やアクションがあるわけでもなく、ほぼ全編ジャンキーがくだ巻いてるだけだし、何より気の滅入るような陰気な話だからだ。さらに、「よくやるな」とも思った。私同様、「信者」にとってはこれはディック作品の中でも特別な小説なので、これを下手にいじったら袋だたきにされることは確実だから。
 次に聞いたのは主演にキアヌ・リーヴスという情報。もちろん私はキアヌのファンなので、これはちょっとうれしかったが、やっぱり「なんで?」。バラードの主人公がすべてある意味彼自身であるのと同様に、ディックの主人公にも決まったパターンがある。基本的に善人なんだけど、無力で非力で、支配機構や運命にただ翻弄されるだけの平凡な男。少なくとも、シュワルツェネッガーやトム・クルーズやハリソン・フォードの役柄じゃないことは言うまでもないが、キアヌの柄でもないな。私のイメージではエドワード・ノートンとかケヴィン・スペイシーがぴったりなのだが。
 次に知ったのはアニメだということ。もうここまでくると「あーん?」。モンスターや宇宙人が登場するSFならアニメという選択肢もありだが、これだけリアリスティックな話をアニメにしてどうする気なんだ? しかもロトスコープ(実写を撮影したあと、それをトレースしてアニメ化する手法)で撮ったという。ますます意味がわからん。ロトスコープというのは、普通に映画を撮ったあと、それを絵に描くので二重の手間がかかりお金もかかるのである。ラルフ・バクシが『指輪物語』のアニメ化で使ったのもこの手法だが、あれはまだファンタジーにリアリティを与えるという目的があった(失敗だったけど)。でもただの人間をロトスコープで撮ってどうするの? それなら実写で何が悪いの?
 でも他のキャストの名前を聞いたときは笑ってしまった。ロバート・ダウニー・Jr、ウィノナ・ライダー、ウディ・ハレルソンって、なんかスネに傷持つ奴らばっかりで、これならジャンキー演技も地でやれそう。
 こんな大それた試みをやった監督は誰だ? リチャード・リンクレイター? 知らないな。若い人だし、ほんとに撮れるんだろうか?
 そんなこんなで期待しないと自分に言い聞かせつつ、つい期待してしまったのだが、劇場で見るつもりが、やはり受けなかったのかあっという間に打ち切り。レンタル屋でDVDを捜したが、見つからず、結局DVDを買うはめになった。もともと買うつもりだったからいいけどさ。いや、ディックのためじゃなく、単にキアヌが見たかったから。しかしキアヌ主演でこれだけ大コケした映画もそうはないんじゃないか。

 ここでいきなり話が変わるが、もはや旧聞に属するかもしれないけど、大学生の大麻汚染騒動。当然ながらどこの大学も神経質になっていて、うちにも早稲田からメールが来た。学生の挙動に気を付けろというのだが、これを読んでつい苦笑してしまいましたね。
 もう時効だから言ってもいいと思うけど、私は初めてタバコを吸ったのより、初めてマリファナを吸ったほうが先だった(たしか16才ぐらいの時)。若いころはバンド関係者とつき合っていて、時代も時代だったので(今でもあの業界は変わらんと思うけど)、生活のすべてがドラッグを中心にまわっているような人たちと過ごしていた。まさにセックス・ドラッグ・ロックンロールの青春を送っていたわけ。
 だからこの映画に出てくるようなジャンキーたちをたくさん目にしたし、その連中と同居していたこともある。『限りなく透明に近いブルー』のあの世界。福生には一度しか遊びに行ったことはないけど。
 したがって、この小説を読んだときもすごい既視感とリアリティがあった。何より、私は「ジャンキー・トーク」と呼んでいたのだが、ジャンキーがラリって交わす会話、あれが本当にリアルでありそうで、と言っても、書いてるのも体験者なんだからあたりまえか。どういうのかというと、すごく理性的に論理的に話しているようでいて、ピントが狂って、まるでかみ合ってない会話のこと。というか、この小説ってほとんどそれだけで成り立っているような気も。

 あ、念のため断っておくけど、私は当時からアンチドラッグ主義者で、べつにドラッグを容認するつもりはまったくありません。理由は単に美しくないから。だってはたから見てるとバカみたいなんだもん。酔っぱらいもバカみたいだが、酔っぱらいはまだ顔が赤くなったりろれつが回らなかったりして酔っぱらってるとわかるけど、ドラッグはしらっとした顔で、普通の口調でバカなこと言ったりしたりするのがよけいバカみたい。それこそドラッグで死んだりボロボロになった人も見てきたし。
 それに当時のボーイフレンドが、「マリファナより強いものはやっちゃだめ」と言って、みんながもっと強いドラッグをやっていても、私にだけはやらせてくれなかった。もっとも、「体に悪いから、タバコなんか吸うぐらいならマリファナ吸え」という彼のアドバイスには従っておくべきだったと思いますがね。少なくとも大麻は中毒にならないし。

 とまあ、なんだかんだで、私にとってはすごく思い入れの強い、特別な作品であるわけだ。さて、映画はどうだろう?

 先に結論を言ってしまうと、けっこう感心した。何に感心したかと言って、監督・脚本のリンクレイターがディックを愛していることに。というのも、これまでのディックの映画化作品、「ディックなんて聞いたこともねえや」という監督が、金のためにしょうがないからやっつけたという感じのものばっかりだったから。
 私としては、「バイク・シーン」がちゃんとあったというだけでも感動したね。(バイクは英語で自転車のことです、念のため) というのも、例によって細かいことはすべて忘れていた私も、『スキャナー・ダークリー』と言えば「自転車の話」というのが思い浮かぶぐらい、いちばん印象的なエピソードだったからだ。
 どういうのかというと、10段変速の自転車を買ったのに、ギアが7つしか付いていない。残りの3つはどこへ行ったんだ?と、登場人物たちがえんえん議論するだけ。(実は5段x2段切り替えで10段なのに、誰もそのことに気づかない) 単なるアホ話だし、ストーリーとはなんの関係もない(そもそもなんでこれがそんなに印象的だったのかも記憶にない)ので、映画ならまず最初にカットされるシーンだろう。実際、カットしろと言われたにもかかわらずリンクレイターはこれだけは譲れないと言って残したのだそうだ。メイキングを見ると、映画化の話を聞いたファンも口々に「バイク・シーンはあるの?」と聞いたそうで、これだけでも私は涙目。いや、見てもちっともおもしろいシーンじゃないんだけどね(笑)。
 とにかく「バイク・シーンがある」というだけでも、これがオーセンティックなディック映画であることがわかる。いや、たいていの人にはなんでかわからないだろうけど、そうなのだ。

 ここでいちおうストーリー。(当然ながらネタバレです)
 近未来のアメリカではデス(死)と呼ばれるきわめて中毒性の高い麻薬が蔓延している。麻薬捜査官フレッド(キアヌ・リーヴス)は、覆面捜査官としてジャンキー・グループに潜入している。グループのメンバーはボブ・アークター(キアヌ・リーヴス)、ジム・バリス(ロバート・ダウニー・Jr)、アーニー・ラックマン(ウディ・ハレルソン)、チャールズ・フレック(ロリー・コクレイン)、そしてボブのガールフレンドのドナ(ウィノナ・ライダー)の5人である。
 しかし、彼は同時に自分自身を含めたグループ全員をモニターで監視し、彼らの行動を逐一上司に報告しなくてはならない。さらに話をややこしくしているのは、捜査官は全員が素顔を隠し、上司さえも彼がボブであることを知らないことだ。
 そうやって自分自身を監視しているうち、フレッドは麻薬に溺れるようになり、徐々にフレッドとボブのアイデンティティが遊離していく。フレッドはボブが何かを隠していると疑い、ボブは自分が監視されているという強迫観念につきまとわれるようになるのだ。
 とうとうフレッド=ボブは正気を失い、治療施設に収容される。そこで薬漬けにされ、魂の抜け殻のようになった彼には「ブルース」という新しい人格が与えられる。ブルースは作業療法に駆り出されるが、そこで彼が見たものはデスの原料となる青い花だった。実はデスの被害者を治療している施設が、その供給元だったのだ。

 とまあ、ストーリーは要約してしまうとすごく簡単。でもこの物語ではストーリーはあまり重要ではない。ラストの「衝撃の事実」もたいしたことない。このストーリー部分は、編集者を説得して出版させるための口実のようなもので、ディックが書きたかったのはむしろそれ以外のディテールだからだ。これについては後述。

 次にアニメーションについて。あえてロトスコープという手法を使ったのは、監督によると、現実と非現実の境目をあいまいにするという目的だったらしい。これはいちおう納得が行く理屈だ。そもそも現実と非現実、本物とシミュラクラが錯綜するのは、ディック作品のすべてに共通する基本中の基本だし。ただ、その効果はというと、やっぱり疑問符が付く。
 私がよく「現実感覚が崩壊するときのクラクラする感じが好き」というのは、もちろんディックを念頭に置いている。映画で言えば(ディック原作ではないが、上記のようにディックの映画はすべてカスなので)典型的な例がクロネンバーグの『ビデオドローム』だ。ならばこの映画を見て、あのクラクラが味わえたかというと、「べつに」という感じ。ほぼ原作に忠実な映画化なのに、これは奇妙だ。
 それでなんでかと考えるに、アニメにしたせいでかえって効果が台無しになったんだという結論に達した。つまり実写で撮ってれば、観客にはそれがいちおう「現実」に見える。そこに非現実が入ってくるからぎょっとするのに、アニメは作り物という先入観があるから、何が起きても大して驚かないのだ。
 ならばそれを逆手にとって、アニメでしかできないようなシーンを加えたらと考えるのが普通だが、それはほとんどやっていない。なにしろジャンキーの話なんだから、派手な幻覚シーンを付け加えるのはいとも簡単なのにね。幻覚といえるのは、チャールズの見る虫の幻覚、交通警官に頭を吹っ飛ばされる幻覚、人が虫に変身する幻覚、あと、チャールズが自殺しようとして見る宇宙人の幻覚ぐらいか。どれも平凡すぎ、一目で幻覚とわかるので、ちっとも驚かない。原作にあくまでも忠実に作ったのがかえってアダになったか。この原作自体、ディック作品では最も現実的な話だしね。
 ロトスコープがいちばん効果的に使われたのは、「スクランブル・スーツ」。これはこの小説における唯一のSF的ガジェットで、捜査官の身元を隠すため、全身に他人の映像を投影し、しかもその映像が変わるのでアイデンティティが不明になるという特殊スーツ。しかも原作では確か30分に1回とか変わるだけだったのに、映画ではそれが絶えずめまぐるしく変わり続ける。確かに力を入れて作ったのはわかるし、アニメーターはご苦労様というところだが、それが印象的かと言われると「べつに」。
 それ以外の部分は、なまじ実写を忠実にトレースしているおかげで、ほとんど実写と変わらないし、絵的に美しいとかおもしろいというものでもない。アニメーションの最大の利点はデフォルメができるということなのに、それができない(しない)ロトスコープという手法は、やっぱりなんのためにあるんだかわからない。

 その欠点を補う活躍なのが役者陣だ。キアヌはいつものようなデクノボー演技(この人はこれがいいんだよ!)だが、その他のキャストは熱演だ。特にロバート・ダウニー・Jrは期待通りのはまり役。彼のオーバー・アクションは、実写で見てるとうっとうしいのだが、アニメだとこれぐらいでちょうどいいし、さすが堂に入ったジャンキーぶりである。おまけに、バリスというキャラクターは、威勢がよくて威張っているわりには、虚勢を張っているだけで、実は姑息で卑怯な奴なんだが、これもぴったり(ほめてます、念のため)
 ロリー・コクレインのフレックもほんとのジャンキーとしか思えないし、めちゃくちゃおかしくて笑える。
 意外な収穫がウディ・ハレルソン。前に書いたように私は『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を見てこの人に惚れたのだが、あの顔だから殺人鬼以外できないと思ってた。ところがここでは、頭は足りないけど人がいいラックマンを演じて見事にハマっているので驚いた。これも彼のイメージを覆すような、ブロンドの長髪のかつらが似合っていて、妙にかわいらしい。
 ウィノナ・ライダーは、えー、ウィノナ・ライダーだった(笑)。
 と、演技がいいだけに、よけい実写じゃないのが惜しまれるのだが。

 ほぼ原作通りなのだが、あえて原作を変えている部分もある。ラストで明かされるのだが、フレッドの上司というのは実はドナだったのだ。原作では彼女はフレッドの同僚で、やはり覆面捜査官という設定である。これは無理のない改変で、むしろ原作よりよかったように思う。捜査官は全員がスクランブル・スーツを着用しているので男女の別もわからないし、ドナは結果としてフレッドを破滅に追いやってしまうことになるので、原作の持つ皮肉さもより強調される。

 しかしこのストーリーのキモは、フレッド=ボブがだんだんと正気を失っていく過程である。ここがなんとも痛ましくかわいそうで恐ろしい場面なのだ。そしてそれは原作通りに描かれているのだが、どうもぴんと来ない。これはキアヌの演技力不足か、監督の演出力不足か、まあ、この辺がこの映画の限界と言える。
 しかし全体としてみれば、初めてのまともなディック映画として、合格点と言っていい。他がどんなにひどいかを思えば、それだけでも驚嘆に値する。ちなみに『ブレードランナー』は映画としてはよくできていたが、あの腰抜けのハッピー・エンディングのおかげでディック・ファンとしては絶対に認められない。
 ああ、それをいうならディックの長編はすべてハッピー・エンディングなんですよ。ただし皮肉なハッピー・エンド。「ブルース」だって彼なりに満ち足りて幸福なんだからね。でも『ブレードランナー』のあれはない。絶対にない。原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のささやかな小市民的幸福エンディングの切なさ、やるせなさとはあまりにも対照的で。

 エンディングと言えば、この小説のいちばんの泣かせどころは最後にある著者のあとがき。(今出ている翻訳は浅倉久志と山形浩生の訳ですが、初訳のサンリオSF文庫版、飯田隆昭訳を引用させてもらいました)

 これは、自分がおこなった行為のためにあまりにも厳しく罰せられた人びとについての小説です。かれらは楽しく時をすごそうと願っていたのですが、道路で遊んでいる子供に似ていました。つぎつぎに死んでいく――轢き殺されたり、不具になったりして破滅していく――姿をおたがいに目撃することはできたのですが、それでもかれらは遊びつづけていたのでした。

という文で始まるあとがきには、この小説を捧げた人々への献辞がついているのだが、その人々の名前の下に、「死亡」、「不治の精神病」といった具合に、その後の末路が記されているのが泣かせる。その中にディック自身の名前もあるのがよけいに泣かせる。(ちなみに彼は「不治の膵臓障害」である) これを読めば、ディックがこの小説を書いたのは、(自分を含めた)愛した人々への追悼と思い出のためであることがわかる。
 もうこのあとがきを読むころには私は涙で目が見えなくなるほど泣いたものだ。これはもちろん映画でもそのまま再現されている。
 私は当然、ここで泣くことを大いに期待して見ていたのだが、なぜか泣けなかった。なんでだ? と言って、念のため、また原作を読み返してみた。ところが、やっぱり泣けない! 感動しない! ばかりか、はっきり言って退屈だった。なんで?!

 うーん‥‥(悩む) 時の流れってやつですかね。70年代はもうあまりにも遠く、私も年をとって変わってしまったとしか。だから今の人がこれ見て、どこがいいのかさっぱりわからなかったとしても責められない。
 映画はいい映画だった。原作もいい小説だ。だけど、これが「私の物語」だった時代は、はるか過去に遠ざかってしまった。
 本を読み返し、映画のオーディオ・コメンタリーやメイキングも見たあとで、なぜかいちばんしみじみと感じたのは、「昔は反体制であることが、何よりもかっこよかったんだよなー」ということ。(少なくとも日本の若者は)その点あまりにも変わりすぎてしまって、もう私には理解できない。
 というわけで、残ったのはほろ苦い、ほとんど感じ取れないぐらいかすかなノスタルジーだけだった。勢い込んで書き始めたわりには尻つぼみな結論で申し訳ないが、あえて言うなら、この虚しさ、諸行無常感がディックらしいと言えば言えないこともない、と、強引な落ちにする。

蛇足――翻訳について

 上に書いたように、私の持ってるのは飯田隆昭訳なのだが、いちおう翻訳の紹介もしておこうと思って調べたところ、意外なものを発見! なぜか山形浩生訳が丸ごと、PDFでネットに落ちてるのだ。もちろんすべて無料で読める。はたしてリンク張ってもいいものなのかどうかわからないのでやめておくが、「暗闇のスキャナー」でGoogleで検索すると1ページ目に出ますので、読んでみたい人はどうぞ。

 それと検索してて知ったのだが、飯田さんの訳、評判悪いね(笑)。実は彼は私のゼミの先輩で、私は学生時代に彼の翻訳手伝ったりしたこともあるんだが。まあ、1ページ目でいきなり「7-11グロッサリ・ストア」とか出てくるんじゃ、若い人には「なんだこりゃ?」て感じで、改訳せざるを得ないのは当然か。(セブン・イレブンなんて日本になかったらしょうがなかったんですよ)
 あと、俗語、特に若者言葉ね。ジャンキーが主人公だから、当然スラングだらけなのだが、これが訳者泣かせ。俗語のむずかしさは私自身が日記を書いていて痛感した。
 この日記は中学生時代からずっと書き続けているもので、原則として口語体で書くのは昔からのお約束だが、今では極力、俗語やスラングは廃している。というのも、昔書いた日記を読み返してみて、当時の流行語や文体を使って書いたものって、今読むとめちゃくちゃ古くさくてチープで恥ずかしい。それでも日記なら人に見られる気遣いはないし、ブログなんか何十年先の読者のことなんか気にしてないだろうからいいんだけど、翻訳みたいに後世に残るものはちょっとねえ。なぜか英語だとそれほど古いって感じしないんだけど、日本語は(特に若者言葉は)移り変わりが激しすぎるので、5年もたつと死語だらけなばかりか、500年前の文章みたいになってしまうのが困る。

2009年5月29日 金曜日

上野で動物を見る話(生きたのと死んだのと)

 今日は上野の森へ行ってきた。と言っても、阿修羅でもないし、ルーブル美術館展でもないよ。だいたい仏像嫌いだし、なんであんなに人が集まるのかわからない。仏像って顔が嫌い。気持ちの悪い薄笑い浮かべてたり、なんか腹に一物ありそうで、いかにも信用できない感じ。教祖の死体飾ってありがたがる(磔刑像のこと)キリスト教と同じぐらい趣味が悪いと思う。
 私がわざわざ見に行くとしたらやっぱり動物でしょー。というわけで、科博でやってる『大恐竜展』に行こうと思ったのだが、それならついでに上野動物園にも寄ってくかと。ただ、恐竜とか動物とかいうと、お子様軍団が何よりこわいので、平日、雨、夕方となるべく人のいなさそうな時間を見計らって。金曜日は夜間開館してるしね。

上野動物園

 下町育ちの私にとって、ここは地元だ。だけどこの前訪れたのはもう何十年も前。水族館は近所だからしょっちゅう行くし、外国へ旅行すると必ず動物園を訪れるのに。なぜかというと、大人の女ひとりで動物園というのは、なんかちょっと寂しいものが‥‥(笑)。でも、これぐらいすいてればぜんぜん平気だった。とにかく人がいない! 上野公園もいつもとくらべれば閑散としてたけど、普段からここに多数生息する「修学旅行生」はいっぱい。でも彼らは日が暮れる前にいなくなるし、動物園には入らないらしく、団体も家族連れもカップルも皆無! こんな日のこんな時間に動物園をうろついてるのは、なぜかみんな一人で来ている「所在なさそうな中年男」と「地方から出てきて、友達も彼氏もいないけど平気、みたいな感じの若い女の子」ばかり。うん、男は何しに来てるのか不明だけど、女の子はえらいと思った。渋谷や新宿なんかほっつき歩くなら動物園のほうが断然いいよ。

 とにかく久しぶりなんでちょっと期待していた。なにしろ旭山動物園効果で、最近の動物園は展示方法にも工夫をしているはずだし。いやしくも日本を代表する動物園なんだからね。それでやっぱりけっこう驚いた。
 思えば動物園の展示方法も変わったなー。大昔は牢屋みたいな鉄の檻に入れられてた。私が子供だった時代にはさすがにこれはすたれ、猛獣は深い堀に囲まれた穴みたいなところに入れられてた。ところが今回行って驚いたのは、ライオンやトラ、ゴリラ、ゾウみたいな花形動物は、高いコンクリートの壁で囲まれた、「自然の環境に近づけた」広い囲いの中にいて、観客は壁のところどころにある窓から覗くだけなのだ。しかも中はジャングルみたいにたくさん木が植えられているから、見えないときはぜんぜん見えない。
 うーむ、見る方としては多少欲求不満だが、動物は確かにこの方が居心地がいいだろうな。「見せる」旭山に対して見せない展示ですか? とにかく動物がどこにいるのか、捜すのが大変。昔は動物園に一歩入れば、キリンだのゾウだのがいるのが一目でわかったのだが、今は必死で探し回らないと何がどこにいるのかもわからない。
 でも、中の環境はいかにも動物が喜びそうに作られていて、なるほどこのほうが動物は幸せだろう。以前書いたように、動物園の囚われの動物は必ずしもかわいそうじゃないのだが、やっぱり昔とは隔世の感がある。あまりの待遇の良さにトラなんか王侯貴族みたいに見えた。(あの人たちはもともと貴族ですが)

 しかし私の狙いはそういう定番の動物じゃなく、BBCのビデオで見て興味を持ったハダカデバネズミ、最近ブームらしいハシビロコウ、それと現在の売りらしいアイアイ。
 まずハダカデバネズミ(naked mole rat)だが、このネズミは哺乳類では唯一、アリやハチそっくりの社会構造を持っためずらしい動物である。つまり、子供を産めるのは女王ネズミだけ。あとは兵隊ネズミや働きネズミや繁殖用の雄ネズミが、やはりアリの巣のような穴を掘って住んでいる。そのことを知ってから、ぜひ見てみたいと思っていた。上野ではその巣全体を、アリの観察箱みたいなガラス越しに見ることができるのだ。
 ただこれは期待したわりには、いまいちだったな。女王ネズミどこにいるのか見つけられなかったし。ビデオで見ると「ものすごい醜い」ところもインパクトがあったのだが、実物はすごく小さくて、私の目ではよく見えないし。単に毛のない目のないネズミというだけ。やっぱりこれはビデオで見る方がおもしろいや。

 次にハシビロコウさん。ハシビロコウって何かと思ったら、シュービル(Shoebill)のことか。なにしろ私のDVDは英語版なので、英名は知ってるが、和名を知らないのよ。およそ世界中のめずらしい動物はすべて網羅しているBBCだから、もちろんハシビロコウも出てましたよ。ただそれ見たときはそれほどインパクト感じなかったのだが、やっぱり本物はすごいわ。というわけで、まずは写真をご覧ください。

 「動かない鳥」として知られるハシビロコウだが、本当に固まったままぴくりともしない。で、動かないと絶対生き物に見えない。デッサンが狂った作り物にしか見えないところがミソ。少なくとも、有史以前の鳥類のように見える。目つきが凶悪すぎてかえってかわいく見えるところもチャームポイント。柵から30センチぐらいのところにいて、もろに目と目が合ってしまったのだが、鳥って目に知性があるように見えるところがかわいくもあり、不気味でもある。近づくとハシビロコウさんは一瞬だけ頭を動かしてじっと私を見て、「ふん」という感じで目をそらすと、また固まってしまいました。
 しかし、これは病みつきになる人が多いのはわかる。一日一度はハシビロコウと見つめ合わないといられない人がいるのもわかる。(いるのか、ほんとに?) できるものなら飼いたい。

 次、アイアイ。しかし、これをパンダの後釜にしようってのか?(してないと思うが) 珍獣には間違いないが、かわいいと言えるものじゃないんだが。だいたい、原始的なサルは(霊長類と違って)みんなかわいいものだが、こいつは不気味。黒い毛もバサバサのゴワゴワで、何よりアイアイの特徴である、骸骨のような指が気持ち悪い。特に中指が節くれだった枝のように長く、それで木のうろにいる虫を突き刺して食べるのだが、まさにその通りの食餌行動をしているところを見られた。
 でもアイアイのいる「レムールの森」は楽しみにしていた。リーマー(lemurの英語読み。どうしても英語で考えてしまう。和名はキツネザル)ってみんなフワフワの毛皮が美しく、目が大きくて愛らしく、声も動きもかわいいから。ただ、シファカいないのな。シファカがいちばん好きなのに。
 でもワオキツネザルの綱渡りは見られた。これこそ旭山方式の行動展示ですな。それはいいが、綱の行き先は池に浮かんだ小島。そこから岸まではほんの1メートルぐらいで、池の周囲にはやはり1メートルぐらいの柵があるだけ。この人たち、ジャングルで木から木へ飛び移る、ものすごいジャンプ力を持っているので、逃げ出すのなんてわけないと思うのだが、逃げる心配してないんだろうか?
 そういえば、ツルやガン、白鳥なんかがいる囲いも屋根がない。こちらは勝手に飛び回って、ガンなんか歩道の真ん中で丸くなって寝てるのに気づかず、踏んづけそうになったが、ちゃんと帰ってくるんだろうか?

 あと、マメジカ。小型犬ぐらいの大きさしかない、世界最小の鹿。これは一見かわいい。だけどよく見ると気持ち悪い。体は丸々してるくせに、枝のように細い足が気持ち悪いし、歩様もヘン。普通の鹿のように流れるような優美な動きではなく、ギクシャクと機械仕掛けのような歩き方なのだ。虫みたい。そういや、アイアイの指も虫の足みたいだし、どうも私は虫を思わせるものはだめ。

 大好きなホッキョクグマだが、最近はなまじ知識があるせいで、獰猛、怪力イメージが先行し、すなおにかわいいと思えなくなってきたな。もちろん強い動物が好きなんでそれがいいんだが。でもやっぱりここではいかにも愛嬌たっぷりに観客に媚びを売っていた。おまえ! 陸の王者がそんなことでどうする!
 それよりすぐ隣の囲いにいたヒグマがすごいと思った。最大の肉食獣ホッキョクグマとほとんど同じぐらいの大きさで、こっちのほうがはるかに凶悪顔。こんなのと同居している北海道の人ってすごい(笑)。

 しかし、今回の訪問での私の最大のスターはガラパゴス・ゾウガメ。亀?とバカにしないように。この人たちはすばらしいんだから。だいたいゾウガメがいるとは知らなかった。私が入っていったとき、ちょうど飼育員がグルーミングをしてやっている最中だった。口のまわりやあごをコリコリとかいてやっているのだが、その時のゾウガメの姿勢が、野生で鳥にグルーミングをしてもらうときのポーズにそっくりなんでまず笑う。四肢を思い切り突っ張って背伸びして、首を高く持ち上げ、あごをぐーっとそらすの。カメだし、これだけ大きいとかゆいところがあってもかけませんからね。鳥に寄生虫とかコケを取ってもらうのだが、そのときのポーズがこれなのだ。
 飼育員が行ってしまっても、けっこう動き回る。てっきりでーんとうずくまったきり動かないものと思っていたが、カメにしてはかなり活動的だ。なぜか、飼育員が行ってしまうと、まっすぐすたすたと私の前に歩いてきて、頭を持ち上げてじっと私の顔を見る。それがまるで何か話しかけているようなのだ。(他にけっこう客がいたのに)なぜ? 以前どこかでお会いしましたっけ?
 動きもかなり独特で威厳があり、それを見ているうち、なんか畏敬の念に駆られた。なにしろこのカメは200年以上生きるんだからね。帰ってからWikiで調べたら、現在75才で上野動物園の最高齢者だそうだが、今これを見ている子供が老衰で死んでも、このカメはまだ生きてるだろうと思うと、ただひたすらすごいなあと。
 カメに人間のような知性があったら――よく誤解されるが、動物にだって立派な知性がある。ただ「人間のような」知性ではないだけ。同様に「犬の知性は人間の3才児ぐらい」というのも誤解を招く言い方。これは人間の基準であって、犬の基準なら人間の大人も3か月の子犬以下――カメの目には人間なんて、「チョコマカ動き回ってすぐに死んじゃうかわいそうな動物」ぐらいに見えるんだろうなあ。
 ガラパゴス・ゾウガメはBBCでも何度も取り上げられていたが、それ見ていたときはたいしておもしろいと思わなかった。でかいだけで、やっぱりカメだし(笑)。でもアッテンボローがゾウガメに接するときのうやうやしい態度の理由が実物を見てわかったよ。この感じはやっぱり生で見ないとわからないと思う。

 結論。やっぱり動物の種類の多さと数では、上野は多摩動物園には及ばない。特に展示場を広くしたせいか、動物の数が減ったような気がする。でも都心の真ん中にこれだけの敷地を構え、森あり池ありの豊かな自然の中で動物を見られるのはすばらしい。動物目当てというより、自然散策のつもりで行くといいと思う。
 生きていると、なんかモヤモヤした汚いものが心にたまりがちだが、こういう場所で動物を見ると、ほんとに心の洗濯をした気分になってすっきりする。鬱病予備軍の人や何かクヨクヨ悩んでる人は、動物園に行って、ハシビロコウさんやガラパゴス・ゾウガメと1時間ぐらい見つめ合うといい。つまらない悩みなんかもうどうでもよくなっちゃうから。
 改善してほしい点は、動物になんの解説もないこと。プレートにも名前とか生息地とかのデータしかない。音声ガイドはあるけど、あんなのレポート書く中学生ぐらいしか借りないでしょ。私は知識があるから楽しんでみられたけど、一般のお客さんは「かわいいね」とか、「大きいね」で終わってしまう。動物の特徴とか、どこがすごいのか、できれば写真付きで書いておいてくれれば、勉強にもなって楽しめるのに。
 あと、場内の案内板がすごく見にくくて、動物が見つけにくい。複雑な地形だし、外国人なんか何もわからないんではないか。

おまけ

 モノレールに乗ったとき、時の流れを実感させられた。上野動物園は道路で西と東に分断されていて、それをつなぐモノレールが走っているのだ。歩いてもたいした距離じゃないことを知っていながら、わざわざ乗ったのは、子供のころこれが好きで好きで、いつも母に乗りたいとせがんでは、「時間がないからだめ」と言われていたからだ。おかげでたいてい片側しか見られなかった。今にして思うと、母が子供につき合うのに飽きて早く帰りたかっただけだと思うが。
 それでモノレールに乗ったら、下が見えない! 昔は下の道路がよく見えたのに。考えてみたら、それだけ木がのびているのだ。もうそれぐらいの年月がたつんだなー。そりゃお猿の電車が走ってた時代ですから。私はふだん、子供時代のことなんか思い出すこともないのだが、ここは私の子供時代の原風景なんだなーと、ついしみじみ。

「大恐竜展−知られざる南半球の支配者」 (国立科学博物館)

 続いては本日のメイン『大恐竜展』。でも動物園を歩き回って足が棒になってしまったし(動物園はさっと見て回るだけのつもりが、結局閉園時間ぎりぎりまで粘ってしまった)、他に食べるところもないので、先に館内のレストランで食事をした。新館のレストランはきれいで、従業員も感じがいいが、味は‥‥学食並み。つまり料理というより餌。ここで食べるのはおすすめしません。

 以前書いたように、「やっぱり恐竜展は博物館に限る。もう商業目的の幕張の恐竜展なんて行かない!」と思っていた私としては、待ってましたの4年ぶりの科博の恐竜展。(前回の記事は2005年5月27日
 今回は南半球での新発見恐竜が中心。目玉はティラノサウルスに匹敵する大型肉食恐竜マプサウルス。最近は次々新発見があって、必ずしもティラノサウルスが最大とは言えなくなってきましたね。ただ、これも確かにでかいが、なんかやけに頭でっかち‥‥と思って、所十三のブログを見たら、やっぱりバランス狂ってる?
 どうも、大きいということを強調したいあまり、頭骨を実際以上に大きく復元したみたい。さらに姿勢も不自然で、このままでは前のめりにひっくり返りそうだ。まあ、大きさはともかく、重量感という点では、ティラノがやっぱりいちばんだと思うのだが。
 だいたい、どの恐竜が史上最大かなんて言えないんだよね。たまたま万に一つの偶然で化石になるのが平均サイズとは限らないから。でも、あの巨大なアルゼンチノサウルスを餌にしていたというのは想像しただけでもすごいし、しかも、大型の肉食獣は単独で狩りをするという定説を覆して、どうやら群れで狩りをしていたらしいと言う。一箇所からまとまった数の化石が出たからというのがその根拠で、いささか薄弱な証拠だが、トラやヒョウみたいに自分より小さい獲物を襲う動物は単独行で、ライオンみたいに自分より大きい獲物を狩る動物は群れを作るところから言って、ありうると思う。
 でも、自分が襲われる立場になったら、私はティラノサウルスやマプサウルスより、隣にいたメガラプトルのほうがはるかにこわいけどね。こちらのほうが小さい(と言っても、ラプトルとしては超大型)ぶん、はるかに足も速くて敏捷なはずだし、あんなのに集団で追われたらどうなるか。メガラプトル大好き!
 あと、掃除機の吸い込み口みたいな、真横に長く平たい口をして、しかもその中に500本の歯が生えているという珍種恐竜ニジェールサウルスもいた。やっぱりすごい変! こんな形の口をした動物は他にいないというだけでも価値がある。
 ほかにはおなじみのタペジャラやアンハングエラなどのけったいな頭部の翼竜、南極大陸のトサカのある恐竜クリオロフォサウルス、めずらしいインドの恐竜ラジャサウルスなど、なかなか見応えのある化石が来ていたのだが、会場も狭く、「え? もう終わり」という感じで、物足りなさが残る。うーん、なんかもう少し見せ方工夫してほしかったな。特に狭いところにごちゃごちゃ詰め込んじゃうと、ありがたみが薄れるというか。こういうのは天井の高い広い部屋にどーんと置いた方が見栄えがすると思うのだが、スペースの関係で無理か。
 以前は恐竜ロボットを子供だましと言って嫌ってたが、あれもにぎわいとしてはいいんじゃないかという気がしてきた。少なくとも子供や一般人は喜ぶし、最近のロボットは本当によくできているからね。別に動かなくても等身大の復元模型でもいいよ。これは費用的に無理か。CGはマプサウルスの狩りの様子を再現したものを流していたが、『ウォーキング・ウィズ・ダイナソー』を見慣れた目には出来も悪いし短いし、ってこれもお金かかるから無理か。なかなかつらいね。

 とにかくここまででクタクタに疲れていたのだが、根性で常設展も見て回る。特に前回は改装中で見られなかった旧館がどうなったのか見てみようと。私はてっきり旧館も取り壊して建て替えるのかと思って憤慨していたのだが、幸い旧館の建物はもとのままだった。今はこちらが「日本館」、新館が「地球館」となっている。なるほど手狭なので建て増しただけか。
 というのも、私はこの旧館の建物がだーい好きなのだ。昔の建築によく見られる、洋館と和風のミックスで、何より博物館というのはこうでなくてはならないという、重厚で荘重な感じがすばらしい。小さいけれど、内装のすばらしさはヨーロッパの博物館にも匹敵する。ここになら一日中いてもいいってぐらい好き。なのに恐竜は新館に移ってしまったのがすごく残念。昔、玄関入るといきなりそびえたっていたカモハシ竜には本当に度肝を抜かれたものだけど。
 どうせなら新館もこれに似せて作ればよかったのに。コンクリートとタイルよりは大理石と木の建物ほうがどんなにいいか、って、これもやっぱりお金かかるから無理か。とにかく日本政府は文化に金出さないからね。
 だいたい東京には自然科学博物館(natural history museum)がないのがなんとも情けない。科博はほとんどが自然科学博物館と言ってもいいのだが、いちおう科学博物館も兼ねているので、展示に一貫性がない。ここの所蔵化石はなかなかいいと思うんだけどね。恐竜もいいが、もっと古い時代の棘皮動物(ヒトデやウミユリの仲間)や三葉虫の化石とかもすごいおもしろいよ。
 あと、恐竜人気には負けるが、絶滅哺乳類の骨格もかなりいける。個人的にはダイアウルフ(絶滅した巨大な狼)の骨格が見られたのがうれしい。ダイアウルフは『氷と炎の歌』で重要な役を演じてるんで。
 でも新館の最上階へ上がってびっくり。鳥類と哺乳類のフロアってなってるから、何が見られるんだろうと思ったら、剥製が所狭しと並んでるだけ。確かに剥製の動物は自然科学博物館につきものだが、隣に生きたやつがいっぱいいるのにねえ、わざわざ剥製見る気がしない。剥製は絶滅動物だけでいいと思うのだが。もちろん剥製としてはすごく出来がいいのだが、剥製が「生きているように」見えれば見えるほど、なんか悲しくなってしまう。まあ、彼らもいずれは絶滅してしまうかもしれないから、剥製を残す意味はあるんだろうけど、それはもっと悲しい。

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