2008年2月の日記

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2008年2月8日 金曜日

(元)美少年のはなし

 どもー。あいかわらず、ダラダラと採点の仕事をしながら、ダラダラとお店の仕事をしています。なんちゅーかもう、フリーランスの悪いところは、こうやって1年中メリハリがないことですね。だからこそ、メリハリは自分で付けなくちゃいけないのに、ダラダラ仕事してるもんだから、いつまでたっても終わらなくて(苦笑)。ほんとなら、仕事は一気にダーッと片づけて、ガーッと遊びたいのに、どうもそれができない性分みたいで。
 おまけに、家族がなくてひとり暮らしだと、生活のメリハリも付けられなくて、1年が何の変化もないまま、ダラダラと過ぎていく。正月も正月らしいことなんか何もしないし。いや、1日のメリハリもない。寝たいときに寝て食べたいときに食べる暮らしだから。逆に言うと、ひとりでもちゃんとメリハリ付けられる人ってすごいえらいと思っちゃう。
 いろいろ書きたいこともあるんだけどねえ。最近見た映画とか、読んだ本とかの話も。

 ただ、これって言い訳になってないけど、最近あまり日記を書く気になれないのは、無気力にネットサーフィンしていると、やたら増えたブログが目に入ってくるせい。いやなら読まなきゃいいのにね。だけど、目に入るとつい読んじゃうんだよね。
 それでそれがどれもこれも、すごーくつまらない(笑)。そう思うと、自分もそういうつまらない文章垂れ流しているのかという気がして、いやになっちゃうのよ。
 逆に自分ではすごい傑作が書けたと思っても、この広い世間にはきっと同じようなこと書いてる人もいるだろうと思うと、なんかむなしくなっちゃって。

 でも今日は書く気を起こしたのは、お店でちょっとうれしいことがあったから。

 うちの店にはミュージシャン本人から意外と注文があるってことは前にも書いたと思うけど、もちろん大物のたぐいはいない。でもStrangelove Recordsならではという感じの、マイナーだけど通好みのアーティストからメールもらうとうれしい。
 Rough Tradeの日本限定コンピの注文だったんだけど、メールの署名はMikeなのに、なぜか差出人の名前とメールアドレスがMarc Carroll。もちろん、ファンの中には好きなミュージシャンの名前をそのままハンドルネームやメルアドにしちゃう人も多いから、そのときはあまり気にしなかった。だいたいべつに珍しい名前でもないので、同姓同名はたくさんいるだろうしね。
 ところが取引成立して、送金してもらうと、送付先住所はやっぱりMarc Carrollで、しかもRough Trade気付けになっている。えー? Marc Carrollって、たしかRough Tradeからレコード出してたんじゃなかったっけ? そこでさりげなく、「Have I the pleasure of addressing Mr Marc Carroll of the Hormones?」(もしや、HormonesにいたMarc Carrollさんでは?)と書いて送ったら、「うん、ぼくHormonesにいたよ」という返事が!
 おっと、「Marc Carrollって誰じゃい?」と思ってる人も多いでしょうね。1年前の2006年1月7日にディスク・リビュー書いてますが。とにかく、あそこにも書いてるように、私はどっちかというと、音よりルックスから入ったファンなので(右写真参照)、その美少年ご本人からメールを頂いただけでも舞い上がってしまう。しかも高いCDをお買い上げ頂くというおまけ付き(笑)。
 彼がこのCDを捜していたのは、彼の初めてのバンド、Puppy Love Bombが入っているCDはこれしか出てないからなんだって。

 うれしくなって、さっそくあれやこれや書き送ると、ていねいな返事をくれて、2002年の来日はすごく楽しかったので、また日本で演奏したい、そのときはStrangelove Recordsでギグをやってもいいとまで言ってくださった。あーん! 私は実店舗は持ってないのよー! いくらMarcでも、うちの汚い部屋で演奏してくれるほど甘くはないだろうし。つーか、そこまで落ちたら、いくらなんでもかわいそう(笑)。
 とにかく音楽の印象通り、いい人ですよ。ファンは(Strangelove Recordsじゃなく、前回の招聘元の)Excellent Recordsに来日嘆願のメールを送ろう。

 一方、たいていのお客さんはファンの人。だいたいうちの店の品揃えを見れば、私がどんなバンドを好きなのかはわかってしまうので、お客さんの中にはファン同士の立場でおしゃべりしたがる人も多い。私もそうなるとつい、話し込んでしまって。
 香港のPaul Wellerファンの女の子は、頼みもしないのに自分で書いたPaulのイラストを送ってきた。なぜかアジアの人の描く似顔絵って、みんな日本の少女マンガ顔なんだね(笑)。確かに今でこそシワシワのおじいさんになっちゃったが、若いころのPaul Wellerは絵に描いたような美少年だった。
 彼女はこのあいだ、初めてロンドンに行ったんだそうだが、Paulのような美少年がゾロゾロ歩いているのを期待して行ったら、ひとりもいなかった!と言って嘆いていた(苦笑)。あー、ロンドンなんかダメよ。北へ行きなさい。マンチェスターぐらいでもけっこう収穫があるが、やっぱり今はアイルランドが旬よ。(Marc Carrollもアイルランド人) 美少年ウォッチングならアイルランド! 行きたいなー。

2008年2月9日 土曜日

農薬入り餃子で思ったこと

 まあ、こういう騒がれすぎのことは書きたくないんだけどねえ。この異様なパニックにあきれてる人も多いと思うけど、私もそのひとりです。
 とりあえず、現時点では原因がわからないが、やっぱりこの騒ぎの原点は「中国」ってとこだと思うね。外人恐怖症の一種だけど、中国っていうだけで過剰反応するからね。これはやはり日本人が潜在意識で中国に脅威を感じてるせいだと思う。
 それは私もわかるけど。いつも「中国恐るべし」なんて書いてるし。

 今も採点やっててそれを痛感したところだ。お店をやってると、いろんな国民性が見えておもしろいが、最近は大学も留学生が多くて、そっちでもいろいろな国民性が見える。

 たとえば、今年のあるクラスにひとり中国人の男の子がいたんだが、この子が私の考える中国人のイメージそのものなんで笑ってしまった。
 どういうのかというと、「自己主張が強く、要求が多くて、ずうずうしい」(笑)。彼ひとりの話じゃないよ。お店でつき合ってる中国人だいたいがそうだからね。
 こう言うと、悪口みたいに聞こえるかもしれないけど、ほめ言葉(笑)。学生だって立派なお客様なんで、お客様は神様なんだから、私はお客様の悪口なんか言いませんよ。前の「自生」の人みたいに、心配になる人はいるけど。

 たとえば、クラスで「これわかる人?」と言うと、日本人学生はみんなさっと顔を伏せて、いないふりをする中で、彼だけが手を挙げて、「はい!はい!はい!」(笑)。それで正答すると、「僕だけがわかったんだから、ボーナス点ください」。はあ、ごもっとも(笑)。
 かといって、いわゆるまじめ一筋のガリ勉タイプってわけじゃない。東南アジアの後進国からの学生なんかは、「一生懸命勉強して、両親に恩返しし、お国のために役立ちたい」という、涙が出るほどけなげでまじめな学生が多いが、そういうのとは違って、かなり利己的だし、授業中は他の日本人学生の3倍ぐらいでかい声で私語をして、しょっちゅう私にカミナリを落とされている。が、聞いてないように見えて実は見えないところですごく勉強しているのだ。
 この手の学生は日本人だったらモロに嫌われるタイプだと思うが、外国人だからか、あまりにあからさまで目立つからか、周囲の学生には「おもしろいやつ」と見られているようだ。
 しかし、恐るべしと思ったのは、試験の採点が終わったとき。日本人学生もこの大学に入れるぐらいの子は、まじめで勉強熱心な学生が多いのだ。だけど、そういう学生が60点とか70点なのに、この中国人の男の子だけ、余裕で90点台取るんだから。

 なんかこれ、将来の日本と中国の縮図みたいな気がしてきた。日本人が適当にまわりに合わせて「まあそれなりに」とやっている間に、メチャクチャやってるように見えて、実はものすごい努力している中国人にあっという間に差を付けられてしまうという。
 実際問題として、彼は日本語があまりに上手なので、私も途中までてっきり日本生まれの在日の人だと思ってたぐらい。つまり弱冠十代で中国語・日本語・英語がペラペラなわけで、中国人が語学の天才っていうのは本当かも、と思わせるが(実際、たいていのヨーロッパ人より中国人のほうが英語も達者だし)、でもそれはやっぱり中国人が勉強熱心なだけだのだ。幸い、英語だけはまだ完璧ってわけじゃないけどね。だったら私の立つ瀬がない(笑)。
 とにかく、日本の若い人はしっかりしてほしいよ。だってこの程度のテスト、昔の学生ならほぼ全員が80〜90点取るような問題だったんだよ。日本のトップクラスでもいかにレベルが下がっているか、しみじみ実感させられました。それでもって、これからはこういう連中と競争していかなきゃならないんだからね。
 「日本人だから日本の中だけでほどほどにやってりゃいいや」なんて考えはもう通用しない。大企業に入れば、いやでも外国企業との競争にさらされるんだから。
 あ、なんか学生にお説教するみたいになっちゃいましたね(笑)。

 話を餃子に戻すと、「こわいからもう食品は国産しか買いません」なんて言ってる主婦を見るとバカじゃないかと思うね。国産が安全なんて誰が言ったのよ? さすがに毒入りまでは行ってないが、このところ立て続けに起きている食品偽装や不祥事のニュース見てないんだろうか? 私は腐ったクズ肉で手作りした餃子よりは、農薬入ってる危険を冒しても中国産のほうがまだ信頼できる。
 これ、前にも書いたかもしれないけど、とにかくみんな安易に企業を信用しすぎよ。私は疑い深い人間だから、誰も信用しない。
 食べ物なら信用できるのは自分の舌と鼻だけ。だから、冷凍餃子みたいなまずいものは絶対食べない(笑)。(参考 2007年11月29日

 これ、誰も言ってないように思うので言わせてもらうと、JT(日本たばこ)なんて毒入りどころか、毒そのものを作って売ってる会社じゃないか。そんな会社の作った餃子よく食えるな。私がこんな意地悪を言うのも、私自身がその毒を大量に買って吸引してるからだが(笑)。しかしさすがに私もJTの冷凍食品を初めて見たときは「おえ!」と思った。
 というのは単なる言いがかりだが(笑)、でも11月29日に書いたように、冷凍食品はまずいので食べないのはほんと。しかし、料理嫌いでものぐさな私の冷凍庫には縁まで冷凍食品がぎっしり詰まっている。
 つまりスーパーで売ってるような冷凍食品は食べないんです。その代わり、餃子なら東京でいちばんうまいと思っている中華料理屋(西葛西にある)でテイクアウトした餃子を冷凍して入れておく。これは5個で750円もするが、それでも10個150円の冷凍餃子との味の違いは値段の差以上だから。シュウマイは最近はわざわざ中野の店で買う。あとはパンとか、ご飯とか、自分で作ったおかずとかがいっぱい冷凍してある。
 自分じゃグルメじゃないとか、食い物に金かけるなんてバカらしいとか言ってるが、もしかして私ってすごいぜいたくですか?
 そうでもないんだけどね。たとえば、店の餃子は(深刻なダイエット中の)私にはカロリーが多すぎる。だから買って帰って、1人前を2回に分けて食べるわけ。

2008年2月12日 火曜日

 この辺の映画はあんまり気が乗らないんだけど、借りてきたDVDがたまってるので、忘れないうちに書いておかなくてはと。(新しい映画を1本見ると、その前に見たのはきれいに忘れる人)

The Queen (2006) directed by Stephen Frears (邦題『クイーン』)

 英国王室については、私はイギリスかぶれの義務として、いちおうチェックはしているが、べつに熱心な王室ウォッチャーというわけではないし、ダイアナ妃はどっちかというと嫌いだった。(女王はかなり好き)
 でも、この映画は見なくてはと、義務感に駆られたのは、実は私、ダイアナが死んだとき、たまたまロンドンに滞在していて、この騒ぎの一部始終を現地で見聞きするチャンス(?)に恵まれたのだ。
 しかも泊まっていたホテルは皇太子夫妻の住まいであるケンジントン宮殿のすぐそばで、さんざんテレビで放映された花束の山や、街路で嘆き悲しむ人たちをナマで観察できた。と同時に、英国民一般と同様、あれから何日もの間、朝から晩までテレビにかじりついていた。
 日本じゃテレビって見ないんですがね。だって、リアルタイムの事件っておもしろいし、歴史に残るような出来事の現場に居合わせるチャンスなんてそうはないんだもの。(もちろん事故が起きたのはパリだが、ダイアナの死よりも、それに対する英国民の反応のほうが明らかに大事件だったので)

 あと、監督がスティーヴン・フリアーズというのも魅力。最近の作品は見てないが、“My Beautiful Laundrette”や“Prick Up Your Ears”は大好きだったので。
 それに女王に扮したヘレン・ミレンにぐっときたせいもある。(イギリス人のおばさん好き) 本物よりちょっと美人だしりりしいが、なかなかよく似てるし。それで、「おもしろそう!」と言って見たのだが‥‥

 お話は、ダイアナの死のあとの女王のジレンマを描く裏話。と言っても、べつに暴露ものってわけでもなく、報道やなんかを見ていた私には、だいたいそういう事情だったんだろうなと察しは付くけど。
 しかし、ドラマと言えるのは、スコットランドのバルモラル城で夏休みを過ごしていた女王一家を、ブレアが説得して帰京させ、さらに、女王にテレビで追悼スピーチをさせたという、ただそれだけ。
 地味〜! 地味すぎる!
 英国の話ならなんでも楽しめる私ならともかく、これ、日本の観客にはまったく受けないだろうなと思った。そもそも英王室にそんなになじみがないうえ――なにしろ平均的大学生は王室を「王様の部屋」のことだと思ってるんだから。何のことかわからない人は、前の日記を読むこと)――ダイアナ妃を主役にするならまだしも、おっかないおばちゃんが主人公じゃねえ(笑)。英国女王がどれだけのものを背負っているかも想像付かないだろうし。

 むしろ、日本人が見てびっくりするのは、王室のプライバシーをここまで見せちゃうかというところだと思った。たとえ芝居でも、天皇皇后の寝室にカメラ持ち込んで、2人が寝間着でベッドに入っているところを映したりはできないもんねー。
 いや、それどころじゃないな。これってちょうど、雅子さんのことで皇室と対立するような発言をしたときの皇太子の胸の内を描いてみせるようなものだもん。
 さらに、女王がひとりでランドローバーを運転し、川にはまって動けなくなるなんてのも、ありえない。日本でこんなことがあったら、皇室警備責任者の首が飛ぶ。

 ところが、いつものことながら英国事情には詳しくても、日本のことには疎い私の予想は完全にはずれ! いつものようにAll Cinema Onlineを見たのだが、けっこうみんなべたぼめ。感動したっていう人が多い。そうかあ? なんか日本人の感覚ってわからんなー。

 というところで、私の感想。と言っても、どうでもいいような断片だけ。

 ヘレン・ミレンも似てると思ったが、ブレア首相を演じたマイクル・シーンはクリソツ! しかもブレアのうっとうしくて、いやったらしいところをそっくりそのまま演じているのに笑った。クイーン・マザーとエディンバラ公はまあまあ似てる。
 なのにチャールズ(アレックス・ジェニングス)だけは似ても似つかない! 名前呼ばれるまでチャールズだとは気づかなかったよ(笑)。
 あれだけ個性的な(笑)特徴のあるルックスの人なので、似せるのは簡単だと思うんだけど。チャールズと言えば馬づらと耳でしょ。そのどっちかでも似てる役者を使えば、一目でチャールズだとわかるのに。
 ウィリアムとヘンリー王子は一家といっしょにいたのだが、なぜか映画では顔を見せない。当時まだ子供だったから配慮したんだろうか?

 しかし、現王室のそっくりさんが出てくる映画やドラマというと、私はコメディしか見ていないので、これを見ていてもつい、誰かがおバカなことを始めるんじゃないかという気がして、気が気でなかった。クイーン・マザーがいきなりブレイクダンスを踊り始めるとか(笑)。こんなだから、ちゃんと集中して見れなくて感動できなかったのかも(笑)。

 しかし、ご本人たちはこれ見てどう思っただろう?というのが気になる。(絶対見てると思う)
 間違いなく有頂天になるのはトニー・ブレア。なんか彼だけやたらめったら、かっこいい役なんだもん。なんでこんなやつヨイショしなくちゃならないんだ!
 逆に怒り狂うのが目に見えているのはブレア夫人とエディンバラ公。ブレア夫人は王室廃止論者なのだが、『クイーン』というからには当然女王の視点から描かれているので、彼女はどう見ても悪役で、やな女にしか見えない。
 一方、エディンバラ公は、世界のアイドル、ダイアナ妃が死んだというのに、鹿狩りなんかに興じていて、これまた冷血漢そのものに見える。
 チャールズはちょっとむっとするぐらいか。それなりに悲劇の人としては描かれているが、それでもお母ちゃんに頭が上がらないダメ男だから。(これは実際そうだが)
 女王は眉をひそめて何も言わないだろうが、内心はけっこううれしいはず。なんと言っても主役だし、美化されてるし、女王に同情的に描かれてるからね。
 皇太后は死んじゃったが、生きていればおそらくにんまりしたはず。けっこうイヤミなバアさんに描かれているが、それって私たちが貴族の老婦人に期待するそのままのイメージだし。

 女王が牡鹿を見るエピソードは、ここだけがフリアーズの創作と言える部分で、ある意味、彼がこの映画に込めた思いがここに凝縮されているはずだが、なんか映画全体から浮いているうえにわかりにくい。
 女王は突然目の前に現れた見事な牡鹿を見て、その美しさに感激し、捕まらないことを祈るのだが、その鹿がしとめられたことを知る。彼女はその死体を見ながら、ゲストのひとりが撃ったことを知り、表情を変えずに「その方におめでとうと伝えてちょうだい」と言い放つのだ。
 普通に解釈すれば、個人的な感情はどうあれ、女王としての義務を果たさなくてはならない彼女の苦悩を描いたということだろうが、すると、あの追悼のセリフは嘘だったと言うことか。まあ、当然だけど(笑)。
 でも、狩猟だって王族のたしなみだしなあ。ダイアナが王室の中で浮いてたのは、彼女が狩猟に反対だったせいもある。

 えー、結論。英国王室を描いた映画は、史実に基づいたものもフィクションも含めて、星の数ほど見てきたが、その中じゃいちばんつまらない。っていうか、もともとドラマになるほどのネタじゃないと思うんですけど。少なくともこれは「現実」のほうがずっとおもしろかった。

 ついでに、現実についても。さすがに私も、あのときは女王様なんとかしないとまずいと思いましたよ。帰ってきたときはほっとしたぐらいで。でも、ちょっとでも国民の不興を買うと、すぐにギロチンが出てくるあたりが、やはりこの国とあちらの違いだなあ。これじゃあ、たとえ節を曲げても、国民に迎合せざるを得ないわけだ。

 一方、国民の過剰反応については、やはり当時イギリスにいた友人たちに聞いてもかなり評判が悪い。中には「イギリス人ってあんなにバカだなんて知らなかったよ」という人も。
 でも私は素直に驚いた。だって、人前で感情をあらわにすることをいやがるイギリス人が、老いも若きも男も女も、往来でワンワン泣いてるところなんて、まずめったに見られるものじゃないもん。
 それにあの女王バッシングにしても、かえって、いかに女王と王室が国民に愛されてるかの証明に思えた。そもそもダイアナがあれだけ愛されたのも、ただのセレブじゃない、プリンセスという称号が付いてたからという、ただそれだけだし。要するに女王様が好きだから、自分たちが悲しんでるときは女王様にも悲しんでもらいたい、という、ある種の甘えなんだわね。
 とにかく、ギロチンなんてとんでもない。ダイアナでこれなんだから、女王が死んだときの騒ぎはおそらくこんなもんじゃないよ。「世界で最後に残るのはトランプの王様とイギリスの王様」と言われるけど、そうなることは間違いないと私は確信している。

2008年2月12日 火曜日

Happy Feet (2006) directed by George Miller (邦題 『ハッピーフィート』)

やっぱり本物のほうがかわいいコウテイペンギン

 かなり以前、日本公開前に、かわいいと言ってトレイラーを紹介した(2006年9月14日)コウテイペンギンのアニメ映画。(トレイラーはYouTubeのここで見れます)

 なのに、劇場でも見なかったし、ビデオ借りてくるのもこんなに遅れたのは、気を取り直して考えてみたら、気おくれ要素が多すぎたから。確かにペンギンはかわいい。でもCGより本物のほうがずっとかわいいし、うちには本物のビデオが大量にあるし、近所の動物園に(コウテイペンギンじゃないが)本物もいるし。
 それに、たぶんいい部分は全部このトレイラーに入ってるだろうなという予感があった。いい部分、つまりペンギンの歌と踊りで、残りの部分、つまりストーリー部分は、最近のハリウッドの趨勢から言って、まったく期待できないし、むしろ怒り狂う心配がある。なにしろなまじ知識があるだけに、科学的にでたらめやられたら腹が立つし、どうも最近、子供向け映画ではスカ引きまくってるし。
 スター連を揃えた声優陣もクサイものを感じるし、監督ジョージ・ミラーというのもなんかめちゃくちゃ怪しいし、だいたい三白眼で目の青いペンギンなんかいやー!とか言って。

 などとブツブツ言いながらも、やっぱりペンギン見たさに借りてきてしまった。
 ジョージ・ミラーって、そういえば子豚の映画『ベイブ』なんかも撮ってるんだよね。ブタにはべつに関心ないので私は見てないが、どうなっちゃったんだ? 童心に返ったのか? とか言いつつ、ジョージ・ミラーはけっこう好きだったりして。
 『マッドマックス』が大ヒットしたときは、史上最大のバカ映画だと思って大いに嫌っていたが、その後、『マッドマックス/サンダードーム』を見て、「なるほど、確かにオーストラリア人だわ」と。オーストラリア/ニュージーランド映画の、ピントの外れた気の狂ったユーモア感覚がすごい好きなんですよ。だけど、けっこうブラックなのもオーストラリア/ニュージーランドの特徴で、子供映画でそれやったら終わりだし、どうなるんでしょう?

 とりあえず、私のチェックポイントはただひとつ。もしも、これで地球温暖化を引き合いに出したら悲鳴上げるからね!(笑)

 人間の影がちらつき始めたときは、「あー、やっぱり!」とうめいたが、結局温暖化じゃなくて、トロール漁船が魚を根こそぎ捕ってしまうので、ペンギンが困るというだけだったのでほっとした。よし合格(笑)。
 でもって、ペンギンがイライジャ・ウッドやニコール・キッドマンの声でしゃべるのも、映画『皇帝ペンギン』の吹き替え(フランス語も日本語も)より、はるかに自然なので合格。
 南極の冬はちゃんと闇の中で、ブリザードも吹いてるし、ハリウッド版『南極物語』より、はるかに科学的、ということで、これも合格。やっぱりコウテイペンギンだとかなり採点が甘くなる(笑)。

 予告を見たときは、「あのひどい声のペンギンが全員歌の名手という設定には、かなり無理がある」とイチャモンを付けていたが、このキャッチフレーズ“Every penguin has a song.”の意味は、見始めてすぐわかりましたね。
 あの群れの混雑の中で、ペンギンがどうやって配偶者や子供を見つけるかというと、声だけを頼りに捜すわけで、もちろん1羽1羽のペンギンは声が違うし、人間の耳にはガアガア声にしか聞こえなくても、ペンギンにしてみれば妙なる歌声に聞こえてもまったく不思議はない。
 さらに、後半、主人公のマンブルが人間に話しかけても、人間にはガアガア鳴いてるようにしか聞こえないという場面がそれを裏付ける。
 もっとも踊るのはやっぱり無理だと思いますけどね。

 で、お話はというと、うっかり者の父ちゃんが卵を氷の上に転がしてしまったために、生まれてきたマンブルはペンギンらしからぬ音痴、だけど、なぜかダンスの才能があって、そのために異端視されるというもの。
 それはいいんだが、その先どう持っていくんだろう?というのが、見る前から気になっていた。これが人間なら、ショービジネスで大成功して故郷に錦を飾ることもできるが、ペンギンだしねえ(笑)。

 やっぱりこれがいちばんの売りだから、歌とダンスの話からしようか。

 賢明な読者は言わなくてもわかってると思いますが、歌はペケ。とりあえず、私にはアメリカ音楽はすべてイモ臭くダサいとしか聞こえないのは別としても、70年代のナツメロっていっとうダサくてイモ臭くない? これが50年代とか60年代なら、まだレトロでかっこいいと思えなくもないのだが。歌も下手だと思ったら、これ、みんな役者が歌ってたのか。まあ、アメリカ映画に音楽はまったく期待してないのでいいけどね。
 だいたい、選曲もぜんぜん南極らしくない。といっても、何が南極らしいかと言われると困っちゃうけど。荘厳な感じで、やっぱりオペラのアリアとか? Queenが意外とハマってるのも、オペラチックだからかもしれないし。ただ、観客には受けないだろうなあ。
 ダンスも実はあまり気に入らないというのも、タップダンスって嫌いだから。ダンスは大好きなのだが、タップとか、アイルランドのダンスとか、上半身を使わないダンスって、どう考えても不自然な感じがして嫌い。まあ、ペンギンじゃこれが精一杯だろうし(笑)、踊るのがペンギンならかわいいから許すけど。
 まあ、とにかくミュージカルって嫌いなのよ。と言っちゃうと身も蓋もないな。それが売り物の映画なのに。

 次にグラフィック。なんと言っても、これを見てかわいいと思ったから見る気になったのだが。だいたい私はディズニーはもとより、動物のアニメが嫌いだ。それというのも、本物が十分かわいいのに、それをデフォルメして、すなわち擬人化(私流に言うとサル化)して、わざわざかわいくなくする神経がわからんから。
 その点、このペンギンはあまりにもリアルなのに驚いたわけ。これはすごい!とほめておこう。もちろんデフォルメはしているのだが、コウテイペンギンの特徴をしっかり抑えてあって不自然さがあまりない。もともと、とってもシンプルなフォームですけどね。
 でも、ヒナのダウン(産毛)の表現はすなおにすごい。フワフワした毛を表現するのが苦手なCGで、究極のフワフワ動物をこれだけリアルに描いたのは立派。
 ダウンと言えば、他のヒナはみんなすぐに大人になっちゃうのに、なぜか主人公のマンブルだけ、最後までダウンが抜けないままなのをずっと不審に思っていた。あ、わかった! ペンギンはみんな同じに見えるため、こうでもしないと、主人公の見分けがつかなくなるからか。かなり苦しいがこれぐらいは許そう。
 ただ、「青年」になってからのマンブルはぜんぜんかわいくはないな。だって、でかい図体に幼児体色じゃ、「精神的肉体的に発達の遅れた人」みたいに見えるんだもの。
 それに目が青いのと、白目があるのはやっぱり許せないな。女ペンギンは胸がありウエストがくびれているのも許せない。なんで哺乳類なんかに似せなきゃならないの! 鳥は鳥のままで十分美しいしかわいいのに。
 しかし、動きはすばらしい。これまた本当のコウテイペンギンの動作を忠実に再現しつつ、ありえない動き(ダンスとか)も見せるあたりはお見事。CGアニメというと必ず出てくるジェットコースターのようなアクションも、実際、海中のペンギンはこれぐらいの機動性とスピードがあるので、ぜんぜん不自然でない。
 南極の風景の美しさと神秘性もすばらしいが、これはほとんど現実のままで、写真を見ているみたいなので、やや割引。

 どうせだから、コウテイペンギン以外の登場動物についても。

 マンブルの道連れになるのは、うつろな目つきが異常にかわいいアデリーペンギンのアミーゴズ(なぜかヒスパニック(笑))。彼らは道化役なのだが、めちゃくちゃかわいいし、笑える。このジョークの連発は日本語字幕じゃ無理だろうな。マンブル本人があまりかわいくないので、それを彼らが補ってあまりある。
 教祖ペンギンのラブレイスは、黄色い飾り羽がおしゃれなイワトビペンギン。宗教嫌いの私は最初はいやなやつだと思って見ていたが、もちろん見ているうちにかわいく思えてきてしまう。
 スキュアは、えーと、BBCのビデオばっかり見ているもんだから、つい英語が先に出てしまう。日本語でなんと言ったっけ?(辞書を引く) ああ、トウゾクカモメか。トウゾクカモメは、私が見ても堂々たる悪党面している上に、習性も凶悪としか言いようがないので、悪役なのはすごく納得。
 足輪をつけたやつが、それはなんだと聞かれて、エイリアンにアブダクトされたと言うのには大笑いした。そうだよなあ。鳥にしてみれば、エイリアン・アブダクションとしか思えないだろうな(笑)。

 同じく、まいど悪役のヒョウアザラシだが、確かにペンギンの目から見ればこう見えるだろうなあと納得。ペンギンの視点で見てるからすごい巨大で恐ろしく見えるのよね。
 ゾウアザラシはべつに悪いことはしないのだが、これまた見た目がでっかくて醜悪でこわい。もっとも本物はもっと醜いけど。
 私の大好きなシャチはもちろん悪役のはずが、確かにマンブルたちを襲いはするものの、なぜか食べようとはせずに、ボール代わりにして遊んでるだけ。あーっ、こいつらもBBCの“Trials of Life”を見たなー! 動物が出てくる映画っていうと、もう必ずといっていいほどBBCの引用があるんだよね。でもやっぱりシャチは美しいしかっこいいの許す。
 とにかく、こういった動物たちが、(しゃべるということを別にすれば)姿も習性も本物そっくりなのでうれしくなる。あー、どうせならもっと見たかったのに。っていうか、主人公のマンブルがいちばんかわいくないので、脇役のほうがもっと見たいよ。

 というところでストーリー。ペンギンのくせにダンスなんか踊るマンブルが、異端者として群れから追放されるまでは予定通りの展開。そこで彼は放浪の旅に出るのだが、でも魚を捕らないようにペンギンが人間に直談判しにいくというのはいくらなんでも無理だー! でもほんとに行っちゃうんだよね。漁船を追いかけて港へ。
 この後半、話がどんどん救いがないほうへ行ってしまうのであせった。特に、動物園に入れられたマンブルが、魂を失った動物のように(動物だけど)なっちゃうあたりが悲しい。前に書いたように、これは人間的見方ってもので、囚われの動物が不幸だとは限らないんだけど、それでも壁に描かれた南極の絵とかは、なんとも言えずわびしくてもの悲しい。
 ところが芸は身を助くというわけで、彼はダンスで人間とコミュニケーションできることに気づく。もっとも人間の方はおもしろがって喜んでるだけですけど。
 これまたヤバいことになった、と思ったんだよね。ところが、思いがけないことに、マンブルはコロニーに帰らせてもらえたばかりか、ペンギンたちのために、漁業が禁止されることになって、最後はみんなで仲良く踊ってめでたしめでたし。って、話の展開にむちゃくちゃ無理がありませんか!
 踊るペンギンが見つかったりしたら、それこそ金のなる木みたいなもので、絶対仲間の元へなんか帰してもらえないよー。それにコウテイペンギンは今でも手厚く保護されているんですが‥‥。

 やっぱりストーリーはダメダメだったな。大人はあまりの理不尽さについていけないし、逆に子供はなんか暗くてつまらないと思うだろう。観客受けをねらうなら、むしろ歌と踊りだけの楽しい映画にしてしまったほうが、はるかにわかりやすい映画になっただろうに、それができないのがジョージ・ミラーかも(笑)。

 私はむしろ、どうせ擬人化するなら、コウテイペンギンの暮らしをちゃんと見せた方がよっぽど感動的な話になったと思うがなあ。長い冬が終わり、卵が孵ったときの喜びとか、夫婦の再会の喜びとか、初めてヒナを見る母親の喜びとか。
 この手の子供向けの動物アニメでは、よく親子の情とか家族の絆とかが描かれるが、それはほとんどが勝手な擬人化、嘘である。だけど、コウテイペンギンなら何を描いても嘘にならない。
 BBCのコウテイペンギンでいちばん忘れられないシーンは、1羽の迷子のヒナを、やはり子供を亡くした大勢の親鳥が追い回すところ。親のいないヒナは、たちまち凍死するか飢え死にしてしまうのだが、保護本能があまりにも強い親鳥は、たとえ自分の子じゃなくても、迷子を保護しようと狂ったように争うあまり、結局はその子を死なせてしまうんだよね。ヨチヨチ歩きで逃げるヒナを、やはりよちよち歩きの大人がすべったりころんだりして追いかける様子はものすごく滑稽なんだけど、その意味するものはあまりにも残酷で切なくて、たまらない気持ちにさせられた。
 まあ、それはそれで過酷な話なんで、やっぱり暗いか(笑)。
 でも、少なくともマンブルには、自分のヒナを孵すところまで描いてほしかったですね。お約束でラブストーリー仕立てにはなっており、彼にはグロリアという恋人もいるのだが、どうせなら、マンブルが卵を孵して2人が再会するところまで描かなくちゃ。これがコウテイペンギンの人生のハイライトなんだから。そうそう、オスが子供のために、メスよりはるかに大きな犠牲を払う(これは動物界ではきわめてまれ)ところも、コウテイペンギンの好きなところ。

 えー、結論。それでも絵は美しいし、ペンギンはかわいいし、ギャグは笑えるし、楽しめる映画です。これはやっぱりDVD買おうっと。

2008年2月16日 土曜日

Live Free or Die Hard (2007) directed by Len Wiseman (邦題『ダイハード4.0』)

 まーた例によって、いい加減な邦題付けやがって。『ダイハード4』ならわかるが、テンゼロってのは何よ? もしかしてハッカーの話だから? 寒い‥‥。

 ところで、アクション映画というのは奇妙な世界である。市街地で戦争並みの大量の火器が使われ、ビルが倒壊したり、車が飛んだり、電車が飛んだり、飛行機が飛んだり(するのはあたりまえか)して、当然巻き添えの一般市民もたくさんいるだろうと思われるのだが、足のもげた子供が泣いてるシーンとかは絶対に出ないし、悪者と悪者に殺される人以外は誰も死なない。
 まあ、言ってみればこれはディズニーのアトラクションのようなもので、徹頭徹尾ありえないおとぎの世界なのよね。だから暴力好きの私は(フィクションのみだからね!)、物足りなさを感じて、アクション映画が嫌いだった。

 そんな中で、オリジナル『ダイハード』に私が感激したのは、「傷つく主人公」のせいである。ジョン・マクレーン以外のアクション映画の主人公はそれこそほんとにダイハードで、どんな危険なことをやっても、怪我ひとつしない。その点、マクレーンは死にこそしないが、ちゃんと傷つくことで生身の人間という気がした。割れたガラス踏んで足から血を流す主人公なんて、それまでひとりもいなかったのである。このシーンを見たときは涙が出るほど感激したね。
 同様に、「ぼやくヒーロー」というのも新機軸だった。そんなこんなでジョン・マクレーンは、それまでのアメリカン・ヒーローの図式を完全に打ち破る新ヒーローだったわけだが、そういうことは『ダイハード』のリビューにさんざん書いたので今日は省略。

 しかし、あれがあれだけ当たってしまい、4作目ともなると、もはやそれがスタンダードになってしまって、あまり新味はないですな。そんなわけで、「痛むマクレーン」、「ぼやくマクレーン」、「家族の不和と和解」と言ったパターンはいつも通り。水戸黄門みたいなもんだな。

 あえて今回の新味はと言うと、『ダイハード』シリーズはマクレーンが誰の助けも得られない状況で孤軍奮闘するところが良かったんだが、今回は相棒がいて、バディものになってるところ。これはかなり興ざめ。
 しかもその相棒が青二才のハッカー、マット・ファレルで、マクレーンとは対照的な腰抜けのガキ。だけど、最後には勇気をふるってマクレーンを助けるという展開は見え見えなんで、かなり白けた。ジャスティン・ロングは顔も嫌いだし。なんかこういう顔の男好きだねー、アメリカ人って。ここはやっぱりメガネをかけた青白いナードにしてほしかったな。
 だいたい、生身の女の子に関心持つなんてハッカーじゃねーよ(笑)。おっと、つい日本のおたくと間違えたが、マクレーンに「人形で遊んでるのか?」とおたくっぽさをからかわれる場面もあったし。
 しかし、体力勝負のアクション映画だけあって、ハッカーの扱いはさんざんですな。マットは三流ハッカーという設定なので、「そんなんで悪の組織と戦えるのか?」と思ったが、彼が助けを求める大物ハッカーはもっとひどくてなんの役にも立たない。だいたい、わざわざマクレーンと対照的な人間を相棒に持ってきたんだから、彼が頭脳を使ってマクレーンを助けるのかと思ったら、結局は拳銃がものを言うんだもの。

 というわけで、今回はサイバーテロ、かと思ったらただの泥棒、というパターンは1作目を踏襲している。『ダイハード』が好きなのは、悪玉が知性的ということもある。(1と3のみ。単にアラン・リックマンとジェレミー・アイアンズが好きだからだが)
 その点、この映画の悪玉のゲイブリエルはまさに知性派のはずなのだが、ティモシー・オリファントじゃねえ。(で、あっさり片づける)
 やたら強い東洋系のカンフー女(マギー・M)とかも、なんか『007』みたいで白ける。娘も(1の奥さん同様)うっとうしいだけだし。

 だいたい、映画はサイバーなところはほとんどなく(確かにパソコンに向かってるだけじゃアクションにならないが)、むしろ2の路線のぶっ壊しアクション。1と3は大好き。2はぜんぜんおもしろくなかった私としては、これもやっぱりあまりほめられない。
 だって、あまりにもありえない荒唐無稽アクションなんだもん。それでも昔はぶっ壊しシーンだけ見ても楽しめたが、今はみんなCGでかんたんにできちゃうので、破壊のカタルシスもないし。まあ、そこそこ楽しめる娯楽映画とは言えますけどね。
 ただ、ラスト、ゲイブリエルの殺し方はちょっと良かった。やっぱりマクレーンが傷つくのを見るのが好きなんで(笑)。(実はブルース・ウィリスのファン)

2008年2月18日 月曜日

映画リビュースペシャル ―― シリアル・キラー二題

Perfume: The Story of a Murderer (2006) directed by Tom Tykwer
(邦題『パフューム ある人殺しの物語』)

ご注意
※ ラストのアレはあえて伏せてますが、ネタバレ大ありなので、まだ見てない人は読まないで!
※ 話の性質上、未成年の方や神経が繊細な方には不適当な表現が含まれています。

 この原作はベストセラーでもあり、私も弟に「おもしろいよ」と言われたので、いつか読むつもりでいたのに、すっかり忘れていた。それが映画化されたので、「読むより早いや」という、いい加減な気持ちで見た映画。

 今ひとつ乗り気になれなかったのは、原作がドイツ小説で、舞台がフランスだから、ドイツ語かフランス語映画だと思っていたから。どうも言葉のわからない「外国映画」って苦手で(笑)。
 でも見始めて、「やたっ!」と思ったのは、セリフはすべて英語で、主役のジャン=バプティスト(Ben Whishaw)も、ヒロインのローラ(Rachel Hurd-Wood)も、その父のリシー(Alan Rickman)も、みんなイギリス人だってことに気づいたから。
 何もイギリス人が好きだからっていうだけじゃない。確かに映画はアメリカのものだが(ドイツ映画もフランス映画もそんなに好きじゃない)、役者はイギリス人に限る。やっぱり、演劇の国だからだろうか? うまさも重みも違いすぎるからね。

 でも役者の話に行く前にまずはストーリー。

 私もストーリーはぜんぜん知らずに見始めた。ものすごく鼻のいい男の話で、副題にある通り、人殺しの話だっていうほかは。
 しかしこれ、『パフューム』という、ちょっとおしゃれっぽいタイトルに惹かれて、ロマンチックな映画だと勘違いして見た人がけっこういると聞いて大笑い。だってわざわざ『ある人殺しの物語』って書いてあるじゃない。この妙に説明的な副題も、元はといえばそういう勘違いを防ぐために付けられたとしか思えない。

 でもタイトルだけ聞いてもけっこうそそるな。何度も書いてるように、私はけっこう鼻がきく方で、匂いにはうるさい。香水も好き、なんだけど、慢性アレルギー鼻炎で、いつも鼻をすすってるうえ、アルコールにもアレルギーなので、香水は付けられないという矛盾(笑)。だいたいが、花の香りでもアレルギーが出るし。
 とはいえ、匂いにはこだわりがあるだけに、ジャン=バプティストの気持ちもちょっとわかるような気がする。

 そうそう、こういう人、本当にいるんだよ。嗅覚が異常に亢進する一種の病気なんだけど。で、その病気になった人の話を読んだら、犬の見る風景が見えるというわけ。つまり、私たちはほとんど目に映るものしか見てないけど、この世には匂いの形作る世界もあって、それがあまりにも新鮮で、生き生きとして豊かだったから、病気が治って匂いを感じられなくなると、まるでいきなり盲目になったように感じたんだそうだ。
 おもしろいね。それを言ったら、人間の視覚も聴覚も限られたもので、動物の中にははるかに鋭敏な感覚を持ったものもたくさんいるので、彼らから見たら、人間なんて盲人の群れみたいなものなんだろうな。
 しかし、病気というのは人を不幸にするものしかないと思っていたが、こういうのもあるというのは目からウロコだった。その人も、あの嗅覚が取り戻せるものなら取り戻したいと言うんだもの。
 話がそれたが、そういうのを読んでいたから、初めて町へ出たジャン=バプティストが、いい匂いも悪臭も、あらゆる匂いに目を見張る、じゃなかった、鼻をふくらませる気持ちもわかるような気がするのだ。

 ただ、問題は匂いを映画でどう表現するかだよね。なんか宣伝文句を読むと、匂いを音と映像で表現したとか書いてあるけど、それは無理でしょ。と身も蓋もないことを言う。確かに音楽はすばらしく美しいけど。
 匂いを表現できるとしたら、それは匂いの元と、その匂いをかいだ人間の表情を見せるしかない。というところで、ジャン=バプティストの役はものすごいむずかしい演技力が要求される役だということがおわかりいただけるでしょうか。
 それでちゃんと匂ったかということだが、うーん、一部だけね。女の匂いは私にも感じられたけど、それ以外のものはあんまり。結局ベン・ウィショーがアップで映ってるときでないと、匂いを想像するのはむずかしい。

 むしろ私が反応したのは「香水」の部分ではなくて、「人殺し」の部分だった。

 とかいうと、また人非人だと思われそうだな。だいたい私は殺人なんか嫌いだし(好きだったら問題だ)、人が無意味に殺されたりするような映画は嫌いだ。だからよくある犯罪映画とかギャング映画は大嫌い。ミステリもかなり選ぶ。だけど、無性に好きなタイプの映画もあって、それはモンスター映画とシリアル・キラー映画。なんでシリアル・キラーが好きかはもうあっちこっちに書いたような気がするが、いちおう解説しておこう。(モンスターはろくなモンスター映画がないせいであまり書いてないが、ゾンビ映画を偏愛するのもそのせい)

 シリアル・キラーが好きなのはかわいそうだからだ。(ゾンビに対してもそう言ってたっけ?) 結果だけ見ると鬼畜としか思えないが、だいたい本物のシリアル・キラーは文字通りのサイコでみんな病気。本人にもどうにもならない衝動に突き動かされて行動しているだけ、懲罰よりもむしろ治療が必要な人たちなのに、世間からは鬼畜と蔑まれて、とてもかわいそう。
 それと、シリアル・キラーの殺人は愛の殺人である。これも前にも書いたが、私は金とか権力とか怨恨のための殺人が嫌い。でも彼らはほぼ例外なく、愛のために殺すのである。私はラブストーリーも大嫌いなのだが、なぜだかこの手の愛には感動してしまう、というのは、これも一種の変態性欲か?
 とりあえず、シリアル・キラーの話はおもしろいのである。おもしろいというと語弊があるな。読んで幸せな気分になるような話じゃないけど、めちゃくちゃ心を動かされるのは事実。(我々常人にとっては)異次元の世界を見せてくれるところもポイント。そんなわけで、シリアル・キラーと名が付けば、映画も小説も、実在の犯罪者のノンフィクションも、片っ端から読破している私である。
 あんまり興味持つ人はいないだろうとは思うが、参考までに推薦図書。『死体と暮らすひとりの部屋―ある連続殺人者の深層』(草思社 )と『死体しか愛せなかった男』(原書房)。どっちもイギリスのライター、ブライアン・マスターズの著書で、それぞれデニス・ニルセン、ジェフリー・ダーマーという、有名な実在のシリアル・キラーを扱ったノンフィクション。ちなみにどっちもゲイ殺人者。私はどっちも翻訳が出る前に買って読んだが、とにかく泣けた。実録ものとしても、下品な覗き趣味に走ったり、扇情的になることなく、しばしば文学的で格調高い文体がとてもいいです。(と言っても、彼らの犯罪自体はきわめて異常で酸鼻なものなので、グロに弱い人にはおすすめしません)

 それで私も予想してなかったのは、これって正統派シリアル・キラー映画だったんですね。私はまた、殺人は添え物かと思っていた。ドイツってことで、なんとなく『ブリキの太鼓』とかを連想して、ああいう特殊な能力を持った一種のフリークが、数奇な運命に翻弄されて、結果やむなく殺人を犯すだけかと。
 ところがこの主人公のジャン=バプティスト、まるでFBIの教科書に載ってるみたいな典型的シリアル・キラーの特徴をすべて備えているんですわ。
 まず、犯人は若い白人男性ということ。社交ができず、異性(でも同性でも好きな人)と正常な関わりが持てないこと。愛を知らない不幸な生い立ちであること。
 本人しか理解できない、ある種の目的意識や使命感を持ち、そのために殺人を犯すこと。
 よって、犠牲者は慎重に選び、決して行き当たりばったりでは殺さない。被害者はみんな同じタイプで、殺害方法もいつも同じ。(「あっち側」に踏み出すきっかけとなる最初の殺人は除き)用意周到に計画された殺人であること。よって、なかなか捕まらないこと。被害者からは必ずなんらかの「記念品」を奪うこと。
 さらに、途中までは慎重に計画されていた殺人が、だんだん杜撰で自暴自棄になってくる。これは一説によると、本人もやめたいのだが、自分ではやめられない、だから捕まえてほしいという潜在意識がそうさせるのだというが、そこまでそっくりだ。

 で、やっぱりおもしろい。映画で、これだけリアルで説得力のあるシリアル・キラーにお目にかかったのは久しぶり。
 この手の映画でかなめとなるのは、主人公にいかに感情移入させるかということだ。観客が主人公に共感できなければ、ただのいやな話になってしまい、捕まりそうになってハラハラしたり、捕まったときに(ちょっぴり安堵しながらも)絶望的な気分になるスリルが失われてしまう。で、ここからがジャン=バプティストを演じたベン・ウィショーの腕の見せ所となる。

 というわけで役者の話。ベン・ウィショーは一目見て、「イギリス人だ!」とわかりましたね。だって、Shed Sevenのリックにそっくりなんだもん。と言っても、Shed Sevenなんて知らない人のほうが多いか。とにかく顔もうり二つだが、ガリガリの骨と皮の体型までそっくりなのよ。もちろんハンサムではないが、こういうワイルドな顔の男も好きっ! ときどきイアン・ブラウンにも似ていて、やっぱり典型的なイギリス人顔。
 彼はほとんどしゃべらず、セリフも少ない。その代わり、表情だけで演技しなくちゃならないわけで、いろんな意味でむずかしい役柄だったが、こんな若い俳優にこれができちゃうなんて、あらためてイギリス演劇界の底の深さを思い知らされる。
 これだけでも、私としては感情移入するのに十分。まあ、あえて言うなら、この人はずいぶん自信に満ちた確信犯なので、「映画のシリアル・キラー」としては、『サイコ』のノーマン・ベイツのほうが個人的にはそそりますがね。(あのおどおどした、気弱そうなところが好き)
 あと、テーマ的にはもっと鼻でかいほうが良かったかもとちょっと思った(笑)。「でか鼻」はイギリス人のトレードマークだし。

 同じぐらい好きなのが、リシー(被害者の父親)を演じたアラン・リックマン。彼を知ったのは『ダイハード』(オリジナル)の悪役でだが、それ以来こよなく愛している。もっとも彼の難点は、あの特異なルックス、特異なアクセントのせいで、何を演じてもアラン・リックマン以外には見えないところなんだが。あのぶっきらぼうで気だるいアクセントがたまらなく好き。もちろん、これも役者の命である深い響きのある声も。
 ただあのせいで、どうしても悪役に見えてしまうんだが、ここでは娘を思う父親を好演した。娘を気遣う場面はもちろん、娘の死体を発見したときの名演技は印象に残った。
 あと、ジャン=バプティストがアレをナニしたとき、泣いてすがる姿がすごーくかわいそうで泣かせる。だって、彼がどんなにジャン=バプティストを憎んでいるかを考えれば、こんなに残酷で痛ましい仕打ちはないわけだし。とにかくアラン・リックマンが、(『ハリー・ポッター』でない)まともな演技をするのを見られたのはうれしかった。

 その娘を演じたレイチェル・ハードウッドは、私は願い下げ。イギリス女はおばさんになるとすごくいいんだが、若い娘は嫌い。かわいいけど、なんか大味で、もっさりした感じなんだよね。ヘレン・ミレンの若いときもまさにそんな感じだったし、わかりやすいところではダイアナ妃を想像してもらうといい。あれがイギリス美人の典型。この人もまったく同じで、美人ではあるが、そそられない。
 何より、テーマから言って、ヒロインはやはり匂い立つような色気のある女優にやってもらいたかったな。その種の色気なら、フランス人やイタリア人にはとてもかなわないので、なんでイギリス人女優を使ったのか疑問。

 『アマデウス』のサリエリと似た役柄の、ジャン=バプティストの師匠の調香士を演じたダスティン・ホフマン。もちろん若いときからいい役者だが、年取って枯れて、ますます味が出てきましたね。
 ジョン・ハートがナレーションをやっているが、ジョン・ハートがナレーションをやる映画って、いったい何百あることやら。でも、あの飄々とした語り口が物語に合っている。

 そうそう、エロティシズムについてもなんか言わなくては。もちろん、匂いはすべてエロティックだ。と言い切ってしまうと話が続かないが(笑)。
 ここで匂いをテーマにしたのもうまいと思った。同じ変態性欲でも、これがたとえば、「交通事故にエロスを感じる人」(J・G・バラード=クロネンバーグの『クラッシュ』)の話では、一般人で付いてこられる人はまずいないだろうが、匂いならば、男なら誰だって、女の色香を感じたことのない人はいないだろうから、観客の共感を得られる。
 私も好きな男の匂いには興奮したが、なぜか私が匂いかいでいちばん興奮するのは、動物の匂いなんだよね(笑)。2006年11月18日の「においの話」を読んでもらうとわかると思うが。そうやって鼻をすりすりしながら動物の匂いをかいでるときの私は、それこそこの映画のジャン=バプティストみたいに、陶然としてしまう。私、やっぱり人間の男より動物のほうが好きなのかしら? これって一種の変態ですか? でも、馬とか鳥とか猫とかって、鼻をくっつけて思い切り息を吸い込むと、本当にいい匂いなんだよ。それこそこのまま一生かいでいたいと思うような。ううむ、私もシリアル・キラーの素質あるかも。動物専門の(笑)。

 匂いだけでもエロティックなんだが、もちろん匂いをかぐだけじゃなく、(匂いエキスを取るために)殺しちゃうんだから、そこにはまた別種のエロティシズムが加わる。
 しかし、こんなことここに書いていいのかな? 自分の日記帳に書いてたころはそんなことまったく気にせずなんでも書けたのだが、誰が読んでるかわからないウェブ版では、やっぱりちょっと気にしますね。でも書いちゃう(笑)。
 原作小説ではどういう表現になってるのかわからないが、映像で見るかぎりでは、これは象徴的な死姦である。
 もちろん、ジャン=バプティストは死体と性交したりはしない。というのも、彼にとって女性との交わりはこういう形でしかありえないからだ。だから結局は死姦と同じわけ。
 しかも、全裸でまったく無抵抗の(死んでますからね)若い女性の体に、ヌルヌルする脂を塗りつけ、それを鎌みたいな金属製の器具(馬の汗取りに似ている)で、ツーッとこすり取っていく様子は、めちゃくちゃエロっぽい、はず。

 ただ、私がこれ見て色っぽく感じたかというと、残念ながらあんまり。ひとつには女優が好みじゃなかったせいもあるけど、この映画はその辺は品よくぼかしてあるせいもある。ヨーロッパ映画というと、文芸ものでもかなりどぎついエロが特徴なのに、ちょっと残念。処刑場の乱交シーンだって、パゾリーニやなんかを見て育った私には、いたってソフトで健康的に見えるし(笑)。
 だいたい、キャストがイギリス人、スタッフがドイツ人の映画にエロスを期待するだけ無理(笑)。(俗にあの人たちは性愛に関してはボンクラという定説がある)
 惜しいなあ。匂いってのはもっとエロいものなのになあ。

 それでいよいよ、「衝撃の」ラストだが、あいにく私はぜんぜん驚かなかったばかりか、まるでデジャヴのようにありありと予想できてしまって、本当にそうなったので拍子抜けしたぐらいだった。ただ、処刑場の場面でアレが出ると思ってたので、そうじゃなかったことにちょっと驚いたぐらいで。断っておくが、私は小説も読んでないし、批評も読んでないし、予告編も見てない。なのに、このストーリー展開では、こうならないのはおかしいというぐらい、完全に予測可能な結末でしたな。
 だって、この手のマジック・リアリズム小説では、実によくある結末じゃない。小説だけでも、似たような結末の話は4つや5つはあったぞ。少なくともガルシア=マルケスにはひとつはあるはずだし、ジョン・アーヴィングにもあったはずだし、タイトルは思い出せないが、映画でも1つか2つは見たことがある。
 だから、「思った通り」という満足感以外は特に感動もしなかったな。

 ああ、ちなみに、「あんな広い処刑場で離れたところにいる人まで匂いをかげるのはなぜなんだ?」とか、「もしあの中に鼻がつまった奴がいたらどうするんだ?」とかいうヤボは言いっこなしよ。マジック・リアリズムなんだからね。それを言うのは、「なんでカボチャが馬車になるんだ?」と突っ込むようなもんだから。

 とにかく、これを見たら、いい匂いがかぎたくなって、香水のコレクションを引っ張り出してきました(笑)。でも前述のように私は付けられないので、匂いをかいで、「あー、いい匂いだ」と言って、すぐにしまうだけ。(微量で短時間ならアレルギーも出ないのだ) しかし、ちょっとかいだだけで世界中がひれ伏すような究極の香水の匂いってどんなんだろ? 一度でいいからかいでみたい。
 原作も読んでみるつもり。とにかく小説の映画化というのは、上映時間の関係で大幅に端折られてるから、原作はたぶんもっとおもしろいし、エロっぽいはず。

 結論。本当によくできた、おもしろい映画だ。前にも書いたけど、ふだんアメリカ映画ばかり見ていて、たまにヨーロッパ映画を見ると、ちゃんと心を込めて作られているのに感動するね。いや、アメリカ映画だって、作り手はそれなりに一生懸命なのはわかるけど、そこに込められた思い(「お金が儲かりますように」)が違いすぎるのだ。あー、いい映画ってこういうものだったんだなあ、と、久々にしみじみ思わせてくれた。
 だったら、アメリカ映画なんか見ないでヨーロッパ映画だけ見ればいいだろうと言われそうだが、あいにくと、ヨーロッパ映画で私が見たいと思うような映画ってめったにないのよね。(いつものことだが、イギリスはヨーロッパに含めない) その点、これは久々にツボにはまった映画で楽しめた。
 ていうか、作り手なんか誰でも、いい脚本があって、いい役者が演じればそれなりにいい映画は撮れるのに。それにいいストーリーや役者はそこらじゅうに(でもないが)転がってるのに、なんでそういう映画が増えないか? お金にならないからである。大多数の観客は粗悪でいい加減にでっち上げた映画しか求めていない、というのは音楽の世界でも感じることだけど、それが事実なのかも。

Zodiac (2006) directed by David Fincher (邦題 『ゾディアック』)

 続いてもシリアル・キラー映画。こっちは見る前からかなり期待していた。
 というのも、監督のデイヴィッド・フィンチャーは、『セブン』、『ファイト・クラブ』のいずれも私のオールタイム・ベストの10指に入るかというぐらい好きで、『エイリアン3』だって50位ぐらいには入るし、愚作と言われる『ゲーム』だっておもしろかった。(『パニック・ルーム』だけはなかったことにしたい)
 そのフィンチャーが実在の殺人鬼ゾディアックを撮るんだって? シリアル・キラーの傑作『セブン』を撮ったフィンチャーだから、これはいやでも期待してしまう。

 でも、その一方で、不安材料も。まず、前作、『パニック・ルーム』があまりにもひどかったから。「これがフィンチャー?」と今でも信じられない思いだ。こういうふうに一度コケた監督がまた盛り返すって例は、実はほとんどないんだよね。

 それと何よりゾディアックが嫌い。確かにシリアル・キラー(連続殺人犯)ではあるが、上に書いたようなシリアル・キラーの条件にはまったく当てはまらない。行き当たりばったりの無差別殺人だし、手口もそのつど違い、ただ殺すだけで死体になんかするということもないし、だいたいが愛がない! よって、私はゾディアックはシリアル・キラーに含めないし、こんな退屈な事件はないと思ってる。
 だけど名前だけは有名なのは、新聞社に声明文を送りつけたり、暗号を使ったり、マスコミ受けのする劇場犯罪なのと、便乗の模倣犯やら偽物やらただのキチガイやらがゾロゾロ出てきて、大いに世間を騒がせたのと、結局捕まらなかった未解決事件だから。
 おかげで、いったいどれがゾディアックの仕業で、何人殺したのかすらわからないし、送られてきた手紙もどこまで本物かもわからない。DVDに付いてたインタビューでフィンチャーも言ってるが、結局は単なるはったり屋、殺人犯としても小物なのだ。アメリカじゃ殺人事件なんて日常茶飯事なのに、ほんの数人殺しただけのゾディアックが、なんでこんなに騒がれるのかわからない。
 しかしまあ、それを承知の上ってことは、フィンチャーにも何か考えがあるんでしょう。そこでこれまで誰も考えなかったような、意外なゾディアック像が浮かび上がるのを期待して見始めたのだが‥‥

 完全に期待倒れでしたな。実はこれはゾディアックの映画でもシリアル・キラーの映画でもない。シリアル・キラーというのは、上に書いたように、自分でもどうにもならない衝動に駆られて、憑かれたように殺人を繰り返す人々を言うのだが、この映画はゾディアックの謎に魅せられて、憑かれたように真相を追いかけ続けた男の話である。
 主人公のロバート・グレイスミス(Jake Gyllenhaal)はゾディアックの本の著者で、元は新聞社に勤める風刺漫画家。それに刑事のトスキ(Mark Ruffalo)や、グレイスミスの同僚のリポーター、エイブリー(Robert Downey, Jr.)がからむ。

 それを知ってもなお、私は「それじゃこのグレイスミスが、「ドラゴンを追う者は‥‥」というわけで、犯人捜しに狂ったあげく、越えてはならない一線を越えて‥‥」というのを期待していたのだが、これは実話で、モデルもまだ生きているので、もちろんそういうおもしろいことにはならないし、結局真犯人も(示唆はされているが)見つからないままなのである。
 あー‥‥。正直言って、フィンチャーがこんな、なんのケレンもない、地味でジャーナリスティックな映画撮るとは思ってなかった。それこそ犯罪もののノンフィクションを読んでる気にさせられるが、上にあげたブライアン・マスターズの著書2冊が単なる実録を越えて、文学作品の域にまで達しているのは、作家の力量以上に、犯罪者自身が常人には想像もできないほどの深い闇を持っているからである。
 それにひきかえ、退屈で薄っぺらで軽いゾディアックが題材では、おもしろくしようとしたって無理。これは原作本もつまらないことは容易に想像できる。

 グレイスミスはちょっとばかり趣味に走っただけの普通の人だし、刑事はいたってまじめな公務員だし、まるで華がない。
 謎解きもなんか消化不良で、ちっともあっと言わせるようなものじゃないし、主人公や刑事たちに危険が迫ったり、アクションがあるわけでもないし、およそ映画的な娯楽性は皆無。
 いちおう、本ボシらしき人物はいるのだが、証拠不十分で逮捕もされなかった。その証拠というのも、被害者のひとりと知り合いだったとか、ゾディアックという商標の時計をしていたとか、いかにも薄弱で、これで犯人と決めつけられたらたまらないよって感じ。
 犯人すらわからないんだから、動機の解明もなければ、シリアル・キラーものに不可欠な、曲がりくねった洞窟のような、犯人の心の闇を解明する楽しみもない。

 それをまたフィンチャーが、彼らしい完全主義で緻密に復元して見せるのだが、もともとつまらないものを忠実に再現したっておもしろくなるはずがない。
 フィンチャーらしくないと思ったのは、いつもの映像美がないこと。彼は映像が(たとえ死体を撮っても)あまりにも幻想的で美しいので、私は最初てっきりイギリス人監督と誤解していたぐらいなのに。映像まで中身に合わせたように散文的だ。

 役者も(好みの問題だが)魅力がない。まーたジェイク・ギレンホールかよ。私はこの手の目玉男が嫌いなんだってば。ロバート・ダウニー・ジュニアも目玉男なんで昔から嫌っていた人。一時脚光を浴びて、酒とドラッグで自滅したエイブリーを演じるロバート・ダウニー・ジュニアは、確かにハマりすぎるほど役にハマってるが、地でやってるだけ(笑)なので、ほめてあげない。
 おまけに刑事を演じたマーク・ラファロに至っては、なんと言っていいのか(苦笑)。この刑事の髪型と蝶ネクタイはあんまりだ、と思ったが、写真を見たら、本物のトスキもまったく同じ髪型で同じ蝶ネクタイで捜査に当たってるの。そんなの忠実に再現しなくたっていいのに(苦笑)。

 結論。確かに『セブン』の二番煎じをやるわけにはいかないのはわかる。でも『セブン』の犯人がそれこそ神ほどに魅力的だった(特にまんまと警察を出し抜くところが)のとくらべて、あまりのつまらなさにうんざりする。まあ、事実だからしょうがないけどね。実話はこれだから嫌いだ。っていうか、題材を選ぶならせめてもうちょっとおもしろい題材を選べばいいのに。
 フィンチャーがゾディアックを選んだのは、彼自身が当時の記憶を持っているかららしい。確かにゾディアックが活躍していた時代を知っているアメリカ人には、ちょっとノスタルジックかもしれないが、私には関係ねーやとしか。
 確かにこれは、上に書いたような「金のためだけに作られた心のこもらないアメリカ映画」ではない。フィンチャーみたいな完全主義者にそれはできない。でも、こんなの心を込めて作る映画じゃないよ。
 いちおうフィンチャーに対する判決は保留。二度までは目をつぶるが、次こそがんばってくれないと見捨てる。

2008年2月20日 水曜日

Gods and Monsters (1998) directed by Bill Condon
(邦題 『ゴッド・アンド・モンスター』)

(ネタバレありますが、知らなかったのは私だけかも)

 私は最近映画評をまったく読まない。それを言ったら、書評もレコード評も読まないが。批評そのものに愛想をつかしたし、他人の批評なんて私にはなんの意味もないという結論に達したし、だいいち、読んでおもしろいと思う批評がないので。情報誌や情報サイトも、見たあとでチェックするだけで、事前には見ない。
 レンタルビデオ屋でDVDを選ぶときも、箱の解説は読まない。せいぜい、タイトルと監督と、出演者をチラッと見ただけで、ポンポンかごに放り込んでいくだけだ。
 こういう方式だと、とんでもないスカをつかまされることもある反面、見るまで何が出てくるかわからないびっくり箱みたいで楽しい。
 そんなわけで、「ビデオ屋のホラーの棚にあったので、てっきりホラーだと思って借りて失敗した」という人がいたが、私も(前半は)同じです(笑)。

 私の目に入ったのは、制作総指揮クライブ・バーカーというのと、主演がイアン・マッケランというところだけ。バーカーの映画が(ほとんど)カスということはわかっているが、ホラー作家としてのかつての偉大さが忘れられない私は、それでもつい手が伸びてしまう。それにイアン・マッケランが主役なら、そう変なものではないんではないかと。(『X-メン』みたいなバカ映画にも出てますがね)
 だから、てっきりホラーだと思って見始めた私は、「あれ? れれれれ?」と混乱したが、それがいつしか感激の涙に変わっていった。

 これはホラーじゃなくて、『フランケンシュタイン』(1931)、『透明人間』(1933)、『ショウボート』(1936)などで有名な、イギリス生まれの映画監督ジェイムズ・ウェイル(日本じゃホエールと書くが、やっぱり私は抵抗あるので)の晩年を描く伝記物。もちろん彼の映画は見ているし、『フランケンシュタイン』は傑作だと思っていたが、監督のことはぜんぜん知らなかった。

 で、「なるほど、黄金時代のハリウッドの内幕ものってやつだな」と、勝手に早合点して見始めたのだが、なんか様子がヘン! いきなり老人と中年男が別れ際にブチュッと口にキスするだもん。
 ここで、私の「ホモ感知レーダー」がピピピと鳴る。クライブ・バーカーはゲイ、イアン・マッケランもゲイ、もしかしてこれってゲイ映画? だとしたらそれはそれですごい!
 マッケランがゲイなのは有名だが、クライブ・バーカーがそうなのはずっとあとまで知らなかった。ただ、彼の小説を読むと、普通ホラーではめったに見られないゲイ・セックスのシーンが出てきて、それが(ホラーだからして、ありえないような異常な状況でだし、相手もほとんどモンスターなのに)異様にリアルでセクシーなので、変だなあとは思っていた。なのに、ゲイとは疑わなかったのは、写真を見るとぜんぜんオカマっぽくも、マッチョっぽくもない、さわやかな笑顔の美青年だったからだが、人を見た目で判断してはいけない(笑)。

 というわけで、しばらくは私の予想通りに進む。特に、イアン・マッケランのスケベ老人演技があまりに真に迫っているので(笑)、てっきり、老いてもまったく枯れない瘋癲老人のコメディかと。いやー、すごいなあ。若い男を舐めまわすように見つめるあの視線。いや、「地でやってる」なんて意地悪は言いませんよ。サー・イアンに対してそんな失礼なことは(笑)。もちろん、演技力のたまものに決まってるじゃない。でも、卑猥語を連発するところなんかすごい楽しそうで、楽しんでやってるのは事実。

 しかし、最初の方は笑いながら見ていたのだが、だんだん様子が変になってくる。ウェイルは卒中で倒れたばかりで、まだ後遺症に悩まされているのだが、病気のせいか、老いのせいか、過去の人生のフラッシュバックにつきまとわれている。貧しく不幸な少年時代、死んだ戦友の思い出、華やかな現役時代‥‥
 まあ、病気じゃなくてもこういうふうに、いきなり涙ぐんだり、いきなり怒り出したりというのも、老人の特徴なので、これは老いについての映画でもあるんだと気がつく。
 そして、ウェイルは明らかに老いを静かに受け入れる境地にはなっていない。彼が恐れているのは死ぬことではなく、現実から完全に遊離して痴呆症になってしまうことらしい。人生の追憶も、彼を責め苛むだけだ。しかし、年を取ると昔の記憶が鮮明によみがえるというのはよく聞くが、それが必ずしも幸せとは言えないんだなーと、とても勉強になりました。
 私もそろそろ、いかに老いるべきかを考えなきゃならない年ですからね。この辺はかなり身につまされて真剣に見た。

 ストーリーはと言うと、ウェイルと、若くたくましい庭師クレイ(ブレンダン・フレイザー)との関わりに絞られている。この庭師、もう見るからに「さぶ系」の、マッチョな肉体労働者(だけど、心と顔はウブいというあたりがまた)なので、最初はてっきりスケベ心からつきまとってるんだと思ってた。それがああいう目的だったなんて!

 それはともかく、ウェイルはクレイにスケッチしたいのでモデルになってくれと頼み、クレイはしぶしぶながら承諾する。そしてスケッチをしながら話をするうちに、2人の間にはある種のケミストリーが流れ、だんだんと2人の男の内面が見えてくる。
 しかし、このシチュエイション、それだけでもなかなかスリリングで楽しい。手練手管に長けた老練なゲイと、ウブな若いノンケ。でも体力では勝負にならないので、力づくでは無理。これをどうやって落とすか?なんて。
 当然ジジイの勝利、こんなビーフケイク(英語でこの手のマッチョマンのことを言う言葉。あまりにぴったりなんで使わずにはいられなかった)をものにするぐらい、赤子の手をひねるようなもの。と思ったが、相手もなかなか手強く、このやりとりはとても緊迫感があってスリリング。
 それでも、執拗にクレイをおだてたり、優しくしたり、怒らせたり、おびえさせたりして挑発するウェイル。そしてとうとうその緊張が最高潮に高まって、つかみ合いの格闘になったとき、ウェイルに馬乗りになって殴りながら、「俺はゲイじゃない! 何が欲しいんだ!」と絶叫するクレイに、ウェイルは静かにささやく。“I want you to kill me.” そして「私のモンスターになってくれ」と。(フランケンシュタインのモンスターは創造者を殺す)

 (このあとはもう、見た人を対象に書きます)
 愛する者を殺すのがシリアル・キラーだが、愛する人に殺されたいという願望もあるんですね。これを見たとき、またビビビ!とセンサーが鳴って、クライブ・バーカーの短編の一シーンが脳裏によみがえった。
 初老の学者が、若い男娼にボコボコに殴られる。もっとも、この男は学者にだまされて、恐ろしいモンスターに取り憑かれたので、そうして当然なのだが。それでとうとう男が疲れ果てて、殴る気力もなくなってしまったときに、学者は若い男の手のひらにキスをして、「もう一回やってくれ」とささやくのだ。
 これを読んだとき、私は「これはSMの極致だ!」と、関係ないことですごい興奮した。念のため言っておくと、両方ともゲイではないし、(男娼は生活のために体を売っているだけ。学者はモンスターの命令に逆らえずに男娼を誘い込んだだけ)、両者の間にはまったく恋愛感情はないし、ましてやSM趣味もない。男娼は怒ってるだけ、学者は罪ほろぼしのつもりなのはわかってるけど、なんかここだけ異様にエロチックで美しいんだよね。
 とりあえず、この短編(「魂の抜け殻」 集英社文庫『セルロイドの息子』収録)は、ホラーだけとなんとも切なく悲しい話なので、興味のある方はどうぞ。例によって、バーカーのこの短編集はかなりアレなので、残酷やグロが苦手な人には向きません。
 なんてことばっかり書いてると、「それじゃおまえはそういうのが好きなのか?」って言われそうね。まあ、好きなことは否定しませんが、かつての私の飯の種だった現代文学は、どっちかというとそういうのばっかりなんで、変に慣れてしまったせいもある。あ、ちなみにフィクション・オンリーだからね。現実にはらわた引きずり出して血だまりに顔うずめることに快感を覚えるという人は、きっと病気だから医者に診てもらった方がいい。

 あ、すいません。つい興奮して話がそれたが、もちろんクレイにそんなことはできない。でも、これで終わるはずはないよね。というか、その場はいちおう収まったものの、かえって面倒なことになったというか。
 ウェイルは何も知らないクレイを自分を自殺の道具にしようとしていたわけで、クレイにしてみれば、こんないやな感じの、腹の立つことはないはず。一方のウェイルにしても、それをきっぱり断られて、目的が達せられなかったんだからクレイを恨んで当然。
 ところが「事後」の2人はなぜか穏やかで優しいのだ。クレイなんか、手の不自由なウェイルにパジャマを着せ、ベッドに入れて寝かしつけてやる始末。おいおい‥‥あんた、もしかして‥‥

 クレイは眠って夢を見る。夢の中でウェイルのモンスターになったクレイは、彼の手を引いて、第一次大戦の塹壕へ連れて行く。塹壕の中には兵士たちが眠っている(死んでる?)。ウェイルはそこへ降りていき、彼の恋人の隣に横たわる。
そして翌朝、ソファで目覚めたクレイは、プールに浮いているウェイルを見つける。結局、人に頼らず自殺してしまったわけだ。
 でもウェイルはそれでいいかもしれないが、クレイはどうなるの? これってものすごいトラウマになるよね。私はクレイが本当にモンスターになってしまう。つまり、これが元では身を滅ぼす、あるいはそこまで行かなくても、ゲイになってしまうというのを想像していた。バーカーの小説にもそういうのよくあるし。

 ところがところが、この映画は最後まで予想を裏切り続ける。画面にはおそらく10年後ぐらいのクレイが映し出される。見ると彼は幸せな結婚をしているようで、幼い息子といっしょに、テレビで『フランケンシュタイン』を見ている。(映るのはモンスターと盲目の老人のエピソードだが、私もこれがあの映画の中でいちばん好き)
 映画が終わって、クレイが「どうだった?」と尋ねると、息子は「おもしろかった。たいていのホラーよりぜんぜんいいや」と答える。(チビのくせに生意気なガキだ) そこでクレイはウェイルが死ぬ前に彼に贈ったモンスターのスケッチを見せ、「パパはこの映画を作った人と友達だったんだよ」。裏を返すと、そこにはクレイへの献辞と、「トモダチ?」(モンスターのセリフである)というウェイルの筆跡が。
 あーっ、そうくるか! ここで私は涙がどっとあふれて画面が見えなくなってしまった。この映画は2回見たが、どうなるかわかっている2回目は、クライマックスの直前あたりから泣きっぱなし。
 そのあと、ゴミを出しに豪雨の中へ出たクレイは、楽しそうにモンスター歩きをしながら画面から消えていく。

 つまり、あれはクレイにはぜんぜんトラウマにならなかったばかりか、未だにウェイルのことはいい思い出として、彼に対する友情を持ち続けているんですね。本当のモンスターはウェイルで、しかも彼は友達がほしかっただけなんですね。これはぜんぜんバーカーではない。少なくとも初期のバーカーでハッピーエンディングはありえないし。でも、心がほっこりとあったかくなるような、すてきなエンディングです。いやー、この話でこういう展開になるとは想像もつかなかった。

 ここで役者評。イアン・マッケランをほめると思うでしょ? もちろん彼は熱演で、これまたマッケランがまともな演技をするのを見られたのはうれしかった。でも彼ならこれぐらいできて当然。
 むしろ、ここで注目したいのは、クレイを演じたブレンダン・フレイザー。

 えーっ! と驚いて下さいね。というのは、私はこのタイプの男がいっとう苦手、毛虫の次ぐらいに嫌いだからだ。あの筋肉と童顔! 顔の幅より太い首! その首より太い二の腕! ゲイの人には偏愛されるタイプかもしれないが、私は顔も体も、隅から隅までダメ! 人間には見えなくて、空気でふくらませたダッチ・ハズバンドにしか見えない。
 実はこの人は前から知ってる。最初に出てきたのを見て、「『The Passion of Darkly Noon』(邦題 『聖なる狂気』)の人だー!」と。
 確かあの映画については、ヴィゴ・モーテンセンがらみでどっかに書いたような。ああ、あった。2007年2月8日のいちばん上のところです。(こういうときのために、上に検索窓付けました)
 またもゲイがらみだよ! (監督・脚本のフィリップ・リドリーはゲイ) 本当にゲイ受けする顔なんだな。その映画で、彼はセックスを罪悪視するカルト教団の中で育てられ、セックスに関して異常なオブセッションを持ってしまった青年を演じた。この映画はものすごい好きだし、(もちろんヴィゴは最高だし)、若いのにむずかしい役をよく演じたとは思ったけど、ブレンダンのことはべつに好きとは思わなかった。だいたい私は宗教アレルギーなので、それだけでもあのキャラクターに感情移入するのはむずかしい。
 でもこの映画の演技には心底つり込まれ、感動してしまったよ、私は。
 そういえば、ブレンダンはテリー・ギリアムの『タイドランド』でも印象的な演技を見せていたし、見かけによらずすごい演技派なのだ。それにしても、狂人、白痴、モンスターと、普通じゃない役柄ばっかりだけど(笑)。

 でもここでのブレンダンの何がいいって、エキセントリックなウェイルと好対照の普通の人ってところ。ある意味、死ぬまでハリウッド人種で、ハリウッド的自殺を演出しようとまでしたウェイルに対して、この普通さにしびれる(笑)。まあ、映画のキャラクターなんてある意味みんな普通じゃないので、そこにぽこっとこういう人が出てくると、変に興奮するのだ。
 しかも、まじめで純朴、心やさしい。あーっ! なんて斬新なキャラクターだ!(笑) (いかに普段、変な映画しか見てないかの証明みたい)

 それで、すっかり彼に感情移入してしまうと、映画には描かれない部分まで自然に目に浮かんできてしまうのよ。

 たとえば、仲間に「なんでジジイのモデルなんかやることにしたんだよ?」と訊かれたクレイは、「話がおもしろいから」と言う。
 確かに、クレイがモデルをしなくてはならない理由はほとんどない。別に金が目当てでもないし、ウェイルにはすごく警戒心持ってたし、だいたい、そんなの(クレイの階級の考える)男のやる仕事ではない。
 でも、見るからに粗野で無教養な蛮人である彼の仲間たちとくらべ、知性と芸術的感性とウィットにあふれ、常人ではできないようないろんな経験を積んでいるウェイルの話は、確かに彼にはすべて初耳でおもしろいはずだ。ウェイルは別世界の人間と言うだけでなく、彼が(おそらく本人は意識していないが)ばくぜんと感じていた満たされないものを満たしてくれる人なのだ。
 また、ウェイルが父親を憎んでいたという話をすると、クレイはぼそっと、「俺も親父はきらいでした」と言う。なんでかはまったく説明されていないのだが、想像するに、学はないけどバカではなく、それなりに知的好奇心も持っているクレイに対して、親父は本当にただの肉体労働者なんだろうなと。それでそんな息子の気持ちはぜんぜんわかってやれなくて、むしろ虐待するだけだったんだろうなと。(実際に、ウェイルの父親はそういう人だったことが暗示されており、ある意味、2人は似たもの同士なのだ)
 死ぬ前の晩、ウェイルはクレイに「人生は変えられると思うか?」とたずね、クレイは自信をもって「はい」と答えるが、その後のクレイを見ると、彼が実際に生まれ変わったことがわかる。
 場末の酒場のウェイトレスをしているガールフレンドにさえ、「一生庭師なんかやってるつもり?」とバカにされていたクレイだが、きっとウェイルの死後、一念発起してちゃんとした仕事についたんだろうな。(庭師の皆さんには失礼ですが、彼のやってるのはただのアルバイトだし) それでウェイトレスと別れたあとは、ちゃんとした女の子と結婚して、幸せな家庭を築いたわけ。あー、泣かせる!

 それに優しい。気まぐれで情緒不安定な老人にあれだけ優しくできるだけでも聖人だ。特に好きなのは、「もう絵も描けない!」と落ち込むウェイル(病気のせいなのか、ここで初めて見せられたスケッチは、どれも子供の落書きのような殴り描きである)を慰めようと、自らシャツを脱ぎ(でも上だけ)、「ほら、これなら描けるだろ」というあたりも優しい!
 あ、その体すら、見ているうちに美しく見えてきてしまいました。特に裸にガスマスク(第一次世界大戦の遺品で、もちろんウェイルの思い出の品)という異様な姿の、なんと芸術的で美しいこと! ロバート・メイプルソープ(彼ももちろんゲイ)の写真みたいだ。(そういや、彼の写真集、最高裁で「猥褻にあらず」という判決が下りましたね。あの写真集は私は当然持ってますが)
 ちなみに、彼がなんでこれほど内気で裸を見せることを恐れるのか、不審に思った人もいるでしょうね。(ウェイルにも「女学生みたいだ」とからかわれている) でもそういう時代だったんですよ。ゲイものはやっぱり、なんでもありの現代より、時代物がいいね。
 もうひとつクレイで気づいたのはあの髪型。髪の毛を逆立てて、てっぺんを平らになでつけた変なヘアスタイルで、最初は笑って見ていたが、途中で、これはフランケンシュタインのモンスターのつもりなんだと気が付いた。ほら、あのモンスターも頭のてっぺんが平たいでしょ?
 惜しむらくは大男でもなんでもなく、長身のマッケランよりずっと背が低いことだが、ウェイルの幻想の中ではちゃんと彼より背が高くなっている。

 ここでやっぱりイアン・マッケランについても。今年69才だから老人には違いないが、ここでの彼の老人演技は特筆に値する。しかもただの老人ではない。ダンディな老人だ。
 イギリス人のおばさんをひいきにしている私だが、イギリスじじいも同じぐらい好き。(ただしこういう長身で痩せた人に限る)
 王女の園遊会に行くときのバリッと決めたスタイルのかっこよさ!(特にパナマ帽とサングラス) なんかこの辺はマッケランの地のままという感じもして、実際おしゃれな人なんだが。ゲイにはおしゃれな人が多いが、このファッションセンスはいかにもと思わせる。
 若いころのマッケランはそれこそ醜男もいいとこで、ぜんぜん私の好みではなかったのだが、年取るとこれだけ化けるから、イギリス男は目が離せない。
 そういうかっこいいところを見せる一方で、いかにも病気の老人らしい弱々しさと醜悪さも見せる。この対比がけっこうショッキングで、特にアップは痛ましいほど。(ほとんどメイクだと思うが)

 あと、ウェイルの家政婦、ハンナ(リン・レッドグレイヴ)が気になる。信心深く、ウェイルのことを地獄に堕ちると思いこんでいるにもかかわらず、実はウェイルのことを心から大切にし心配しているというのがいいね。あ、地獄落ちが決まってるから優しくしてやるのか(笑)。
 イギリス人の「おっかないおばさん」愛好者の私は彼女もマル。というか、彼女はヴァネッサ・レッドグレイヴのお姉さんで、ヴァネッサこそは私の考える「理想のイギリス人おばさん」。おばさんは失礼だな。ヴァネッサの若いころは本当にきれいだったんだから。
 そのヴァネッサの娘たち、ジョエリーとナターシャのリチャードソン姉妹も女神のように美しいし。(たぶん今はおばさんになっちゃってるが) リンは妹ほど美人じゃないのが玉に瑕だが、レッドグレイヴ家の女たちをまとめて愛している私はすごくうれしかった。

 ええと、そろそろまとめに行かなくちゃ。この映画、オスカーも3つ取ってるし(マッケランの主演男優賞、リンの助演女優賞、監督の脚色賞)、その他いろんな映画祭で賞取ってることも知らなかった。まあ、誰もが認めるいい映画ってことで。
 監督のビル・コンドンだが、知らんなあ。他に何撮ってるんだ? 『シカゴ』や『ドリームガールズ』か。興味ないんで見てないや。まあ、手堅い演出ができる人なのはわかったので、そのうち見てもいい。
 クライブ・バーカーの『キャンディマン』のパート2も撮ってるな。バーカーが出てきたのはこの縁か。(それともこれもゲイの縁?) あ、『キャンディマン』のオリジナルはなかなかいいです。やっぱりこの2から見るか。

 まるで舞台劇のように、ほとんど2人のやり取りだけで進行する、地味な小品だけど、いろいろ考えさせられるいい映画でした。

2008年2月29日 金曜日

寒くてやけどする話

 いやー、今年の冬は寒かった。と、すでに過去形になってるのは、東京ではもう寒さが峠を越して、春の息吹が感じられるようになってきたから。
 東京では、っていうより、うちではと言った方がいいかな?

 なにしろうちの冬の暖かさは不気味なほどで、ここ数年、まったく暖房のいらない冬が続いたので、私は本気でストーブやコートを処分しようとしていたところだった。
 だけど、今年は普通に寒い。ここに越してきてから、初めて積もるほどの雪が降ったもんね。
 いや、東京でも毎年雪は降るんですよ。なのに、「都心で大雪」とニュースに出るような日でも、うちの近所はいつも雨。「都心」は川ひとつ隔てた向こうなのに、ぜんぜん天候が違うんです。かろうじて降っても、明け方にちらつくだけで、日が昇ればたちまち溶けてしまう。
 なのに、今年は昼になっても大粒の雪が降り止まなかったので、私は大喜びして、少し遠くの店までランチがてらのお散歩に出た。でも、積もってると言っても、半分溶けた泥まみれの雪で、単に滑りやすくて靴がびしょぬれになっただけだったのにはちょっとがっかり。こんな雪じゃ雪だるまも作れないよ!
 子供のころの雪の日は本当に楽しかったのになー。朝起きると、一面の銀世界で、見慣れた景色が一変して見えるし、雪だるま作ったり、雪合戦したり、土手でそり遊びしたり。今の東京の子供はそんな遊びも知らないんだろうと思うとかわいそう。

 で、さすがに家の中も寒いので、ストーブの出番となる。実はこれを処分したかったのは置き場がないからだ。今じゃもう骨董品に近いガス赤外線ストーブなんだけど、うちにはもう床というものがないんです。それに火事になったら泣くんです。エアコンはあるけど、私はアレルギーで風に弱いので、エアコンやファンヒーターは嫌い。だから床の上に積んである荷物を寄せて、かろうじて部屋の真ん中に少しだけスペースを作ってそこに置いてるんだけど。
 それで、仕事が一段落したので映画なんぞ見始めたわけ。上に書いたようなのもそうだけど、主として、こういう時でないとなかなか見られない、長時間のボックスセットのたぐい。でも座る場所はストーブのすぐ前しかない。それで熱いなあと思いながら、付けたり消したりしながら使ってたんだけど、映画に夢中になってしまうと、熱いのも忘れてしまうのよね。

 それが数日続いて、ある日ふと足を見ると、ストーブに面していた左足の太股からふくらはぎにかけて真っ赤になっている。このときはお風呂で赤くなるみたいに単に熱せられて赤くなっただけだと思っていた。ところがストーブから離れてもこの赤さが消えないばかりか、数日後には、醜い赤黒いまだら模様に!
 ああっ、これが話に聞く「低温やけど」ってやつか! たしかに見た目はやけどのあとにそっくり。でも痛みはぜんぜん感じないし、熱いったって、そんなやけどするほどの熱さじゃなかったのに。それで調べてみたら、確かにこういうのを低温やけどって言うんですね。
 痛みを感じないので、かえって深部まで焼けて重傷になるケースが多いんだって。ひえー! 自分が内側から焼けてるのに気づかなかったなんて!
 そういや、昔住んでた家の近所で、ひとり暮らしのおばあさんが低温やけどで亡くなったことがあって、「こわいね」なんて言ってたのを思い出した。やけどが原因で死んだのか、死んだあとでそうなったのか忘れちゃったけど、こたつに入ったまま死んでいて、下半身はほとんど燃え尽きていたとか。こういうのを見て、西洋人は「人体の自然発火」(日本じゃあまりポピュラーじゃないけど、超常現象の一種)と思いこんだんだよね。生きた人間がこたつの熱で燃えちゃうんですよ。こわいこわい。皆さんも気を付けて下さい。

 なんかこわい話になってしまったので、楽しいことも書こうか。寒くて楽しいのは、あったかいものがうれしいこと。あったかいお風呂や布団や食べ物や飲み物こそ冬の醍醐味。
 このうち、お風呂の楽しみはうちでは味わえない。全身つかることもできないユニットバスじゃねー。銭湯が恋しいよー。なのに、うちのほうはニュータウンなので銭湯なんてないんだよね。ヘルスセンターはあるけど、あんなとこ、ひとりで行く気になれないし。

 でもそれ以外の楽しみは存分に味わってます。中でもいちばん楽しみなのは紅茶かな。なにしろイギリスかぶれだから、私は紅茶には一家言ありますからね。もちろん紅茶は一年中、浴びるほど飲んでるんだけど、寒いときのほうがおいしく感じる。
 紅茶もいろいろ種類があるけど、ここんとこずっと凝ってるのはスパイスティー。インドのチャイみたいに、シナモンとかジンジャーとかのスパイスが入ってるやつ。これって香りが強烈すぎるせいか、あんまり日本じゃ受けないみたいだけど、一度それに慣れてしまうと、スパイスの入ってない紅茶は刺激がなさすぎて無味乾燥に思えてくる。
 その茶葉もいろんなところで買ってあれこれ試しました。あ、紅茶は日本製は絶対買いませんよ。たとえ海外ブランドの紅茶でも、日本で売ってるのと、イギリスやインドで飲んでるのとではまるっきり別物だから。
 それで結局行き着いたのが、インドからの輸入品のキャラメル・チャイ。西葛西はインド人街なので、インドの食材はほかでは見られないものがなんでも買えるのだ。1パック750円もして、最初は高いと思ったけど、ブランド物の紅茶なんてほんの少しばかりでもっと高いのに、これはたっぷり入ってお得。
 これをインド式にミルクで煮出して、シナモン・スティックでかき回して飲みます。うまーい! 香料といっしょに、シナモンやキャラメルの甘ーい香りと、ミルクの甘さで、砂糖なんか入れなくてもすごく甘いの。日本の紅茶は苦いし酸っぱいので嫌い。紅茶ってほんとはすごく甘いのよ。
 そして紅茶と言えば、お茶菓子が付き物。これにも凝りますね、私は。
 やっぱり紅茶にはビスケットでしょ。あえてクッキー(米語)とは言わない(笑)。このビスケットも日本製は全部だめ。わりとどこでも買えておいしいのは、Lotusのキャラメライズド・ビスケット(ベルギー製)。これもキャラメル風味なので、紅茶ともぴったり。これを英国式に紅茶に浸して食べます。口に入れるとほろほろと溶けるんだけど、ちゃんとクランチーな歯触りが残ってるところが好き。

 とか言いつつ、カウチポテトしながら、紅茶(砂糖は入れないけど、ミルクが‥‥)がぶがぶ飲んで、ビスケット食べてれば、どうなるかはもう説明するまでもないでしょう。あー、ダイエットが! でもこの誘惑はあまりにも大きすぎる。ダイエットは春になったら考えよう。

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