2007年9月の日記

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2007年9月6日 木曜日

夏休み映画劇場その2

Match Point (2005) directed by Woody Allen 『マッチポイント』

 【ネタバレ注意!】 この映画、見たくはなかったんだけどね。なんでかというと、私はウディ・アレンが昔から大嫌い。何が嫌いかと説明すると長くなるので、うんとかんたんに言うと、この男が嫌いだから。(ファンの人ごめんなさい。でも好みってあるから)

 初期のコメディは、めちゃくちゃベタで寒いギャグ連発しながら、「ユダヤ人でチビでハゲでメガネで、こんなおバカなふりしてるけど、オレは本当はすごい頭が良くて、こんないい女モノにしてんだぞ、ざまーみろ」という、劣等感の裏返しみたいな優越感が漂っていて、いろんな意味でイタい人、としか思わなかった。
 それがいきなり「お芸術映画」を撮るようになってからは、もうその優越感とスノビズムがたまんない。なんかコンプレックス男の妄想覗いてるみたいで。
 もちろん映画と人柄とは別のはずだが、この人の場合、ほとんど私小説の世界で、実際、人柄もそうとう問題ありの人みたいだし。

 というわけで、アレンは避けて通ってきた私だが、これはなんで見たかというと、ジョナサン・リース・マイヤーズ主演っていうだけ。(私の考える)世界でいちばん美しい男、ジョナサンと、世界でいちばん見苦しい男、アレンとは、なんという組み合わせ!
 でも見るまでぐずぐず悩んでいたのは、映画はどうせ嫌いだろうが、そのおかげでジョナサンまで嫌いになったらどうしよう?と不安だったから。
 というのも、スチルで見たジョナサンがちっとも魅力的に見えなかったんですよ。考えてみたら、これまで私が見た彼の映画ってコスチューム・プレイ(時代劇)ばっかりで、現代の普通の男の子の格好した彼を見るのは初めて。『ベルベット・ゴールドマイン』は違うが、まあ、あれもコスチューム・プレイとしか言えないし(笑)。
 コスチュームだと、あれほど妖しく、美しく、ほとんど人間離れした美貌を誇ったジョナサンが、衣装とメイクがないとこんなもん? それとも醜男(アレン)の呪い?(笑) とにかく、見たらただのそこらのガキだったというんでは、立つ瀬がない。

 とどめに舞台がイギリス? よりによって生粋のニューヨーカーが? しかも上流社会? ふっ‥‥、やはり野に置けなんとやらと申しまして、音楽同様、地域性と国民性をやたら重視する私にとって、これは突っ込みどころが山盛りのような‥‥

 そこでさっそく映画の話だが、ジョナサン演じるクリス(Jonathan Rhys Meyers)はプロを引退したテニス・コーチ。その彼が、教え子のお坊ちゃまトム(Matthew Goode)に言葉巧みに取り入り、トムの妹、クロイ(Emily Mortimer。たぶん字幕じゃクロエと書いてたはずだが、やっぱり私はクロエとは書けない)のハートを射止め、お父様お母様の覚えもめでたく、クロイと結婚して逆玉の輿に乗り、義父の会社にポストを与えられる一方で、トムの婚約者ノラ(Scarlett Johansson)と浮気をしている、というあたりを見て、「あれー、これって『太陽がいっぱい』? (リメイクは『リプリー』) それとも『陽のあたる場所』? (原作は『アメリカの悲劇』)」と、思った。
 でも、まさか、ノラに惚れたクリスがトムを殺しちゃったり、逆にノラが邪魔になって彼女を殺しちゃったりはしないよなー(笑)。と、笑ってたら本当にそうなったので、開いた口がふさがらない。
 あー、もう突っ込みどころが多すぎて、どこから突っ込んでいいかわからないよ!

 やっぱり髪型からだな(笑)。私は原則長髪ぎらいなのだが、ジョナサンは例外! 例外中の例外! もちろんベストは、「長髪オールバックをポニーテール」の『ゴーメンガースト』だ。そうじゃなくても、長髪がこんなに似合う男はめったにいない。
 なのに、なに? この冴えないダサい髪型? もちろんふだんから短髪にしているのだが、それだってすてきなのに、なんでわざわざこんな古くさくてかっこわるい頭にさせられたのか? あまりに古い髪型なので、時代設定が昔なのかと思ってしまう。
 まあ、それでもあの目やあの唇は変わるはずもないし、絶対に「そこらのガキ」には見えないが、あの妖気や凄味のある美貌も、かなり薄れてしまう。

 クリスはアイルランドの貧乏人家庭の出身で、テニス・ラケット一本で身を立てているという設定なのだが、トムの一家は「アイルランド」の「貧乏人」を、まるでハンディキャップを背負った人か何かのように哀れんだり、「なのにえらい」と持ち上げるのがたまらない。まあ、実際、アイルランド人の扱いなんてこんなものだけど(笑)。
 でも逆に言えば、本当の上流階級は、成り上がりのテニス・コーチなんかを家には入れないよ、間違いなく。このクロイという女の子は、あまり魅力的でないうえ、パブの経営者に引っかかった前科があり、このうえ悪い男に引っかかったり、嫁に行き遅れるのを心配した両親が、手近なところでクリスとくっつけたという設定なのだが、パブリカンもテニス・コーチも、ふさわしくない男って点では完全に同等じゃないか。それどころか、パブリカンならいやしくも経営者のはしくれだけど、テニス・プレイヤーなんて肉体労働者じゃないさ。それも世界ランキングのトップクラスならともかく、限界感じたからプロを引退したらしいし。

 その「上流」の人々もなんかうさん臭い。このうさん臭さはあれだ。アルトマンの『ゴスフォード・パーク』に感じたのと同じ。つまりいかにも外国人が想像するような英国上流階級で、なんか嘘っぽいのだ。
 もちろん私は上流階級の知り合いなんていないし、アレンのほうがよっぽどそういうお知り合いは多いだろうが、でもお里が知れるというのはこのことだ。
 だって、上流といえば、ポロと狩猟と高級レストランと高価なワインって、あまりにステレオタイプなので苦笑。それでもちっとも上流らしく見えないのにまた苦笑。少なくともアルトマンは徹底的に「本物らしさ」にこだわったが、それにくらべてアレンはあまりにも付け焼き刃。
 だいたい、私の見るところ、この人たちは本物の上流階級ですらない。正確には英国で本当に上流階級と言えるのは貴族階級だけだが、会社なんか経営しているし、話からすると、このお父さんは一代で財を築いた人らしい。上流にとって、財産は相続するもの、働いて儲けた人は上流じゃなくて成金と言う。このあたりもいかにも金がすべてのアメリカ人っぽいなあと思ってしまう。
 つまり、上流階級−下層階級という、イギリス的構図じゃなく、あくまで金持ち−貧乏人という、いかにもアメリカっぽい構図になってるのね。アップステアズ−ダウンステアズものなら大いに興味がある(というか、それが専門)の私だが、貧富の差なんて興味ないや。序盤でそれに気づいたところで、かなり引いてしまった。

 それだけならまだいいが‥‥

 トムは結局、ノラと別れて、別の女の子と結婚する。しかしクリスは結婚後も、ずるずるとノラと関係を続け、そのうち、ノラが妊娠したことがわかる。そして彼女は、「責任取ってくれないなら、奥さんにバラす」とクリスに迫る。

 あちゃー! まんま昼メロの筋書きじゃん! 私は見る前、てっきりラブストーリーだと思っていたので、この展開には口あんぐり。ラブストーリーでもいやだと思っていたが、昼メロだと知ってたら絶対見なかったのに! ラブストーリーも嫌いだが、まして浮気だの不倫だの「この泥棒猫!」(爆笑)だのなんて、私にはまるっきり縁もゆかりもない世界なので。
 しかしまあ、今どきこんな話を映画にしようと思う人がいること自体が驚き。もしかして古い映画のリメイクかと思ったら、アレンのオリジナル脚本だった。もっとも、使い古しのカビ臭い話で、オリジナルなところなんて何もないんだけど。

 しかし、ラブストーリーとしても昼メロとしても、見るに耐えない映画なのだ。というのも、キャラクターが頭の痛くなるようなというか、見ただけで石ぶつけたくなるような奴ばっかりなんで。

 まず、ジョナサンの演じるクリス。かっこだけは一人前だが、なーんも考えてない感じで女に振り回される男ってのは、昼メロの主人公としてはまあ定石かも。しかし、これにジョナサン・リース・マイヤーズはないだろ!と、そもそも彼を起用したアレンに当たる。
 女たらしの色男と言えば、ジュード・ロウだろ!(笑) なんか勘違いしているとしか。
 実はイギリスでは上流階級の女性がテニスコーチと浮気するというのは、日本で言うならセールスマンと団地妻みたいなお約束で(笑)、この設定だけでも失笑もので、まじめに見る気が失せる。
 上に書いたように、ジョナサンはあきれるほど魅力がないので(それにしてもハンサムには違いないですけどね)、女たちはともかく、なんでトムや、トムの両親まで彼にコロっとまいってしまうのか、さっぱり納得いかない。ほとんど口もきかないし、何かみんなを感心させるようなことをやってのけるわけでもない。おまけにあのルックスだから、だまって笑みを浮かべて立ってるだけで、なんか腹に一物ありそうな、怪しい人物に見えてしまう(笑)。
 だって、怪しいじゃん。あんな男が娘に近づいてきたら、財産目当てとしか思えないのに、なんでみんなコロリとだまされちゃうんだろ? まあ、跡取り息子さえちゃんとしてれば、娘なんかはどうでもいいというのが上流の考え方だし、当の娘がぞっこんだから許すのが親心とも考えられるが、少なくとも、あんなやつを会社に入れるのは断固拒否すべきだ。
 そのクリスがトントン拍子で出世しちゃうのも変。だって、アイルランドの中卒の貧乏人だぜ(笑)。おまけにビジネスのことも何も知らない肉体労働者が、入社したとたん、大企業の幹部として一目置かれるようになるのもすごい変。ありえねー!
 社長の娘婿だからみんな遠慮してるだけで、陰ではすごい憎まれてるとか、上司や部下全員をあの色気でたぶかしたとか(笑)いった裏の事情が連想されるが、もちろんそんな話はまったく出てこない。

 しかしクリスはまだいい。それに輪をかけてひどいのが、ヒロインのノラ。クリスはともかく、少なくともノラは観客が感情移入して同情できるようなキャラクターにしなくちゃならない。だって、悲劇のヒロインで被害者なんだからね。ところがこの女が、見ていて「迷ってないで、さっさと殺しちまえ」と思わせるようなウザい女なのだ。
 彼女はアメリカ人で、女優を志してロンドンに来たが、役がつかずにバイトで食ってるという設定。これまたどうしようもないクリシェ。いそうだよねえ、こういう女。美人と言うだけで、なんの才能もないくせに、自分じゃいっぱしの女優気取り。それで運良く御曹司を射止めて玉の輿をねらったものの、あっさり振られてしまう。
 自分の美貌と肉体をめいっぱい鼻にかけていて、どうやらこれまでも「女の武器」だけを頼りに生きてきたらしいアバズレ。こんな女に見え透いた誘惑されて、まんまと引っかかるクリスもどうかしてる。女性にとってはほとんど「女の敵」って感じだが、男にはこれが魅力的なのかねえ? 私が男だったら絶対いや。据え膳されても食わない。
 それだけでもうっとおしいのに、相手が遊びなのを承知のうえで、孕んだあげくに「責任取って!」と迫るなんて、悪女というにはセコすぎるし、ただもう、ひたすらウザい女というだけ。しかもそのヒステリックな言動が本当にイライラさせるのは、スカーレット・ヨハンソンの演技力をほめてあげるべきなんだろうが、単にいやーな感じにさせるだけ。浮気男にとっては悪夢だろうな。

 ならば、クリスの妻のクロイは、ノラとは対照的におしとやかな賢妻かというと、こっちもかなり痛い女。
 まず、顔がいいからといって、小娘みたいにクリスに熱を上げるのが見苦しい。結婚してからはかなり落ち着くが、甘ったれた様子がウザい。
 彼女は画商をやっているのだが、夫婦の新居に飾られた絵を見ると、その鑑賞眼がどういうものかわかる。何、あの絵? 吐き気がするほど醜く下手くそなモダンアートなんだが、あれはジョークだよね? とにかくあんなものをありがたがるだけで、この女も空っぽで薄っぺらな人間だと言うことがわかるし、あんな家に帰りたくないクリスの気持ちもわかってしまう。だから彼女にもさっぱり同情できないし、あんな女といっしょに暮らさなきゃならないクリスが気の毒に思えるぐらい。

 で、結局どっちを選ぶんだろうと見ていたら、あっさり金と安定を選んだクリスはノラを殺害してしまう。結局、『太陽がいっぱい』じゃなくて、『アメリカの悲劇』になったわけだ。しかし、それまでなんとなく流れに身を任せていただけのクリスが、ここで初めて能動性を発揮して、完全犯罪をたくらむ。つまり『アメリカの悲劇』みたいな逡巡したあげくの不慮の事故じゃなく、用意周到に計算した犯罪なわけ。このへんはむしろ『太陽がいっぱい』。
 ということはここからやっとジョナサンの本領発揮かな?と、ちょっと期待して身を乗り出した。なにしろ彼はあの冷血で残忍そうな顔つきがすごい好きなんで。でも結局は素人の考えることで、手口もずさんだし、半端に罪の意識に悩むあたりが気に入らない。

 それで、些細なミスから足がつき、最後は警察に捕まるというのが、この手の話のお約束。ここまでが全部、お約束通りの展開だったから、最後もそうなるんだと思っていた。実際、スコットランドヤードが彼を疑い始めるし。
 ところがところが、サプライズは最後に用意されていた。
 些細なミスから足がつき、というところまではいっしょなのだが、そのあとが違うのだ。些細なミスから足がつくが、無能な警察のおかげでおとがめなしで終わる。え? これで終わりなんですか?
 エンディングはクロイの妊娠がわかり、一家全員で祝うところで終わる。そこでどんな子に育ってほしいかを聞かれたクリスは、正確なセリフは忘れたが、「運のいい子に」。

 というわけで、この映画は単に「すごく運のいい人」の話だったのだ。それは映画の冒頭から暗示されている。
 テニスで、ボールがネットにかかったとき、どっちのコートに落ちるかは運次第だと言うのだが、クリスが被害者の指輪を川に投げ捨てたとき、同じ構図が再現される。指輪は川に落ちずに、麻薬の売人に拾われ、その結果、売人の犯罪ということになってしまうのだ。
 つまり、この部分がアレンらしい「ひねり」ってわけ。だけど私は納得しないぞ!

 だいたい、これじゃ「運のいい人はラッキーだ」という、あたりまえのことを言ってるだけで、なんのひねりも利いてないし、落ちになってない!
 そういう話にしたかったら、それこそ、考えられないような幸運な偶然の積み重ねで、何度も危機を回避したり、一歩一歩上り詰めていくところを描けば、それなりに楽しめる映画になっただろうが、本当にラッキーだったと言えるのはこの指輪の件だけ。それ以外は、「隠れているところに人が来たが、気づかず行ってしまう」みたいなどうでもいいような幸運か、単に「ありえねー!」というエピソードばっかり。
 とにかく、「あ、そうですか」というだけが感想で、なんのカタルシスもないし、映画的興奮もないし、不愉快な奴がちゃっかりやって幸運をつかむ話なんて、見てどこがおもしろいのか?

 例によってユーザー・コメントを見ると、日本も外国も満点とボロクソの両極端に二分されている。満点付けてる人はたぶんアレン信者だろう。こういう監督って、なぜか熱烈な信者が付くんだよね。でも私はアンチ・アレンということをあらためて実感した映画だった。

2007年9月11日 火曜日

Le Dernier trappeur (2004) directed by Nicolas Vanier
『狩人と犬、最後の旅』

 世界は打って変わって今度は動物もの。フランスの動物ドキュメンタリーは『皇帝ペンギン』で懲りたくせに、やっぱり動物が出てるとつい借りちゃうな。少なくとも犬はしゃべらない(はず)だし、こう暑いと零下40度と聞いただけでうっとりしてしまう。

 というわけで、フランスの冒険家が撮った、カナディアン・ロッキーの極地地方で暮らす実在の猟師を主人公にした映画なのだが、これはドキュメンタリーと言っていいのかどうか。主役のノーマン・ウィンターは実在の猟師だし、彼の仲間たちもみんな実名で出てくるし、エピソードはすべてノーマンや監督のヴァニエが体験したことだと言うが、あくまで「再現フィルム」なんですよね。犬は「役者」だし。
 ただ、手法はあくまでドキュメンタリー。何も大事件が起きるわけではなく、「最後の猟師」(原題)の1年の日常を淡々と描く。よって、見るべきものは自然と調和したノーマンの生き方と、美しい大自然そのものだけ。だからたぶん退屈するだろうと思って見たが、そうでもなかった。

 まず主人公のノーマンがやっぱりいい。素人というのは、時として下手なプロの俳優より味があることがあるが、この人なんかまさにそう。だからこそ映画にしようと思ったんだろうが。
 しかもプロの俳優には絶対やらせられないこともやってる。零下40度で氷の湖に落っことすなんて、普通できない、っていうか死んじゃう。なのに、ノーマンは撮影のために長時間水に浸かったまま。髪の毛もヒゲもぜんぶバリバリに凍り付いた様子なんて、メイクじゃできない迫力がある。
 さすがに犬ぞりごと崖から落ちそうになるシーンは命綱を使ったらしいが、犬たちにはそんなことわからないから、必死の形相なのも、迫力っていうのか、動物虐待っていうのか。

 衣食住のすべてを自然の素材で手作りする彼の暮らしぶりにも感動を覚える。引っ越しするときはまず木を切り倒して住む家を作るところから始めるんだからね。(しかし、歩きまわって「ここにしよう」と言って決めちゃうのだが、カナダには土地所有権なんてものはないのか?) 動力は馬と犬のみ。電気もガスも水道もない。アウトドア派やエコロジストを気取る人は参考にするといいよ。(私は反エコロジストなので、もちろんそんな気はない)
 しかし、ほんのちょっと前まで、人類はみんなこういう暮らしをしていたんであって、別の見方をすれば単なる変人(笑)。それにノーマンの暮らしは単に先住民の暮らしぶりをなぞっているだけで、そのノーマンが白人で、彼が生活の糧である毛皮を売りに行く町の店を切り盛りしているのが先住民というところがなんとも皮肉だ。

 あ、犬ですか? もちろん犬も好きだし飼ってた(コリーの雑種)けど、私は基本的に野生動物のほうが好きなので、馬と猫を除く家畜はちょっとね。特に犬は人工的すぎるのと、人間を好きすぎるところがいまいち。
 でも働く犬は好き。この映画の主人公はハスキーだが、一時、日本でハスキーがブームになったときは、「愛玩犬にするような犬じゃないのに」と思って、ものすごく苦い思いをしたものだ。でもここでの犬たちは実に生き生きしていて、すばらしい。『南極物語』よりはずっといい。
 犬以外の野生動物もたくさん出てくる。さすがにノーマンがグリズリーと対面するシーンだけは「役者熊」を使ったそうだが、あとは全部本物。狼も本物。映画の狼というと犬ばっかりなので、これはうれしかった。いいなあ、狼。やっぱり犬より狼が好き。

 ただ、さっきから皮肉な口調なのでおわかりの通り、全面的にすばらしいと言い切るには抵抗がある。ポイントはこれが自然との共生とエコロジーの大切さを訴える映画なのに、主人公が罠猟師という、動物の大敵だってこと。映画では、猟師は必要なだけの獲物しか捕らないし、人間が間引いてやることで自然のバランスが保たれてるんだということを何度も何度も強調して、ノーマンが悪者に見えないように気を遣っていたが、これは詭弁だ。
 だって、他に生活の手段がないならしかたないが、彼には町で働くという選択肢もあるわけだし。自然は人間の手なんか借りなくても、地球に生命が誕生した38億年前からちゃんと立派にやってきたわけだし(笑)。
 だいたい、ノーマンが猟をすることを是認するなら、日本の捕鯨はなんで悪いんだ? 毛皮獣って、テンとか、オコジョとか、ビーバーとか、すごく賢くてかわいい動物ばかりなのに。日本の漁師も捕鯨船じゃなく、丸太船とモリだけでクジラ捕るならいいんだろうか?
 何が頭に来ると言って、エコロジストとかそのたぐいの言う自然とは、「人間にとって都合のいい、今のままの自然」を残そうというだけのことだからだ。生物の多様性を守れとか、外来種が在来種を駆逐するとか騒いでいるが、たとえ日本の湖がバスだらけになってしまったところで何が悪いのか? 強い外来種が在来種を絶滅させるということは、生物の歴史の中で何度も起こってきた。仮にバス以外の魚が1匹残らず死に絶えたとしても、生物界では適応拡散という現象が起こり、そこからさまざまな新たな種が生まれてきて、多様性は自然と保たれるのに。でもそれには長い時間がかかるので、今現在バス以外のいろんな魚を食べたいだけじゃん。
 極端な話、私は最近の少子化対策に、エコロジストが反対しない理由がわからないね。自然環境が破壊されている最大の原因は人間が増えすぎたことで、人間が減るってことは自然にとってはこの上もなくありがたいことなのに(笑)。これを推し進めると、人間を間引くのがいちばん手っ取り早い環境保護なんだが。

 と、つい脱線して意地悪を言ってはみたが、やはり風景は美しいし、犬はかわいいし、見ているとそれなりに癒される映画ではあります。 

 ところで猟師というと、私はすぐに宮沢賢治(大好きです)の「なめとこ山の熊」を連想してしまうのだが、やっぱり、日本人と西洋人とでは、自然との関わりに関するスタンスがだいぶ違うな。ノーマンにとっては動物は単なる商品だけど、日本人はそこにスピリチュアルなつながりを感じずにはいられない。まあ、「なめとこ山の熊」はファンタジーだが、『勇魚』を書いたC・W・ニコルが捕鯨についても、アメリカ人と日本人とではぜんぜん違うと言っていた。そういうところは日本人であることをちょっと誇りに思う。


Gerry (2002) directed by Gus Van Sant 『ジェリー』

 続いても風景映画(笑)。

 私は普通、映画を見るとき、ほとんど予備知識なしで選ぶ。映画の情報収集までしている暇がないせいもあるが、先入観を入れたくないという意味もある。たいていはビデオ屋の棚で、監督名と役者名だけ見て借りる。カバー・フォトでだいたいなんの映画かはわかるしね。
 これも、監督のガス・ヴァン・サントの名前だけ見て、「そういや、彼の映画、最近見てなかったな」と思って借りてきた。でも『マイ・オウン・プライベート・アイダホ』は大好きだったし、ユマ・サーマンの『カウガール・ブルース』も好きだったし。

 で、見始めてとまどった。
 2人の若い男(マット・デイモンとケイシー・アフレック)が車で荒野を走っている。やがて彼らは車を降りて荒野に入って行き、そこで道に迷い、死にそうになる。
 この間、セリフはほとんどなく、何もない荒野を2人がひたすら黙ってトボトボと歩き続けるだけ。彼らが何者で、どういう関係で、どこへ行く途中だったのか、こんなところで何をしているのかもわからないし、命の危険にさらされても、特にあせったり動じた様子もない。そして最後、道路にたどり着いて、通りかかった車に拾われる。

 いつお話が始まるのかと思って見ていた私も、最後まできてやっとわかりました。
 まさか、いまどき、こんな「実験映画」を撮る人がいるとは思わなかったよ! それもヴァン・サントみたいに名の売れた監督が。
 これが60年代の映画なら、なんの違和感もなかったんですけどね。音楽はジャン=リュックが好きなサイケでも流して。(でもここでは音楽もほとんど入らない)
 でも、今の時代にこれはないだろー。それにこの手の映画なら、たいていは何らかのメッセージがあるものだが、それもない。だから「風景映画」と言ったわけ。

 確かにこの映画の主役は、人間より彼らの置かれた風景らしい。人物のアップはほとんどなく、むしろロングショットで、広大な風景の中のちっぽけな人間を映したシーンがえんえんと続く。
 この風景は、私にはやけになじみがあるんだな。ここ、Badlandsでしょ? もちろん、アメリカには行ったこともないのだが、そう思うのは、このあたりは恐竜化石が大量に発見される土地で、よく写真で見るからだ。あと、その名もずばり、Badlandsという(邦題『地獄の逃避行』)傑作ニューシネマもあった。
 だから私なりに関心のある土地なのだが、美しいかと言われると、ちょっと。これ見て美しいと思う? アメリカ人はたぶんそう思うだろうし、日本人でもそう思った人が多いみたいだけど、私はだめだな。
 ただひたすら荒涼として、乾ききって、ギラギラと太陽が照りつける、こういう場所苦手。オーストラリアの砂漠もそうだった。砂漠と言っても、砂だけじゃなく、薄汚れた灌木がひょろひょろとまばらに生えているところは同じ。ただ、オーストラリアは砂が真っ赤だから、火星の風景みたいでちょっとおもしろいが、アメリカのはただ殺風景なだけに見えてしまう。塩湖はちょっとすごいと思うし、行ってみたいと思うけどね。
 でも私だったら、こんなところ、1時間もいたら逃げ出したくなる。これがイギリスの荒野だと、荒涼としているのはいっしょでも、胸が痛くなるほどなつかしくて、一日中でも見ていたい気分になるのにね。上のカナダも美しかった。というわけで、私はどうしても「北」に惹かれるので、風景映画としても受け付けなかった。

 というわけで、ひたすら退屈な映画というのが私の感想。これにあえて、なんのストーリーもドラマも盛り込まなかったのは明らかに監督の意図したことだが、おかげでなんにもない映画になってしまった。

 P.S. ただやっぱりヴァン・サントだからか、2人の男の間にそれとなくゲイ関係は見てとれますね。

2007年9月13日 木曜日

Breakfast on Pluto (2005) directed by Neil Jordan (『プルートで朝食を』)

 続いては、これもずっと捜していてやっと見つけた、大大好きなニール・ジョーダンの映画。こっちはアイルランド映画だが、時代は本当に60〜70年代だし、雰囲気が『キス★キス★バン★バン』によく似ているので、並べてみました。

女装の話

 この映画に関して、見る前に私が知っていたのは、「世界で2番目に美しい(1番はもちろんジョナサン)キリアン・マーフィが女装する」というだけ(笑)。
 たまたま1番と2番がどっちもアイルランド人だが、これはなんの不思議もない。第一に私はイギリス系(ケルト人含む)専科だし、なぜかアイルランドは、まれにだが信じられないような美少年を産出することは前々から気づいていたし。たまたまそういう男の子が、演技の才能にも恵まれ、2人も映画スターとして君臨しているだけでも、私にとってはうれしいかぎり。

 しかし、素で美しいからといって、女装しても美しいかどうかは話が別。前にも書いたかもしれないが、トランスヴェスティズムには法則がある。

  1. 男が女装すると、男でいるときより、老けてブスに見える。
  2. 女が男装すると、女でいるときより、若返ってハンサムに見える。

というもの。これをトリックに使ったミステリもある。不思議だね。なんでだろ? つまり男は老けてて不細工だってこと? それとも、女が老いて醜くなると男に近づくのか?
 かといって、女装しても美人の男は、素顔だと絶世の美青年かというと、そうでもないのも不思議だ。歌舞伎の女形を見てもらうとわかるが、むしろのっぺりして特徴のない顔だちの男のほうが、女装は映えるみたい。
 ジョナサンは例外だけどね。まあ、『ベルベット・ゴールドマイン』は女装とは違うが、化粧映えがする顔なんだな。でも、かなりタイプの違うキリアンはどうだろう?

 で、最初に化粧して出てきたキリアンを見て、うへー! ちょっとー!
 主として問題はヘアスタイルだが。半端に長いクリクリの巻き毛って、なんだかおばさんのパーマヘアみたいで嫌い! ほぼ完全に誰でもバカみたいに見えるヘアカットだな。一瞬、藤村俊二かと思った。それにやっぱり、あのあごでは女は無理か。彼なんて、もうちょっとちゃんとすれば、かなりの美女になれるのに。
 顔だけじゃない。せっかくあんなに細い腰と、きゅっと締まったかっこいい小さいお尻をしているんだから、絶対にミニスカートとハイヒールはかせるべき。なのに、あのファッション‥‥
 私は当時をよく知ってるが、グラム・ファッションだけはどうしてもかっこいいと思えなかった。ほら、ラメとスパンコールのシャツに、ヒラヒラのパンタロンに、ロンドンブーツってやつ。これまた誰が着ても確実にバカに見えるスタイル。あー‥‥。
 それに、せめて胸パッドぐらい入れればいいのに。せっかく体も腕もあんなに細いんだから、これで胸さえあれば誰でもだませるのに、胸だけぺちゃんこだから変なんだよな。
 などと勝手な妄想をしながら見ていたが、さすがに後半、カツラも付けて本格的な女装をするようになってからはきれいでした。たいていの女優よりは美人。でも胸ない(笑)。

 なんかほっとくと話が女装にばかり偏るので、この際、そこを追求しちゃえ。
 女装男をジョーダンが撮るのは、『クライング・ゲーム』に続いてこれが二度目。わりと特殊なジャンルだけに、ひとりで2本もというのは、すごく目立って気になる。『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』を入れれば、(映画ではその部分はぼかされていたが)、彼がゲイ・ムービーを撮るのは3回目だ。
 こうなると、彼ってゲイ?と思うのが普通だが、どうやらストレートらしい。うーん、むしろ知らない世界だから興味を惹かれるってこともあるのかもな。

 しかし、女装に関しては『クライング・ゲーム』のディルちゃん(Jaye Davidson)がパーフェクトだっただけに、(私もおちんちん見せられるまで気づかなかった)、どうしても二番煎じのような気がしてしまう。キリアンもやりにくかったに違いない。もっとも、ジェイ・デヴィッドソンは役者じゃなくて真性だし、キリアンは演技だから、くらべちゃかわいそうだけど。
 まあ、私はいい映画が見たいだけで、べつに主人公がブスでもかまわないが、せっかくあれだけの素材を使って、できたものがブスだったら美に対する冒涜だと思って(笑)。

 それで先に水を差すようなことを言わせてもらうと、美醜はべつとして、キリアンのオカマ演技にはあまり感心しなかった。
 何より、いかにもありがちなオカマなところが。クリス・ペンはいかにもありがちな「滑稽なデブ」を演じながら、そこに彼ならではの味と、地でやってるとしか思えないリアリティを付け加えたが、ここのキリアンはあくまでありきたりの「滑稽なオカマ」に見えてしまい、終始演技をしているのが見え見えというあたり。

 ナヨナヨ、クネクネしてるのはともかく、(しかしいつも思うが、あんな女現実にいねーよ)、声がダメ。
 役者は顔より声が命! それはオカマも同じ! オネエ言葉になるのはお約束としてしかたがないが、女っぽい声を出そうとして、口をあまり開かずに細い喉声でしゃべるのがいけない。非常に聞き取りづらく、弱々しい声になってしまうので。そして、声が弱くなると、セリフの力も失ってしまう。
 ジェイ・デヴィッドソンは声は確かに男なのだが、あんなに色っぽいしゃべり方だったのにねえ。いっそ、ハーヴィー・ファイアスタイン(『トーチソング・トリロジー』)みたいに、ダミ声でもいいのに、キリアンは半端すぎる。
 とにかく、もうちょっとさっそうとしたキリアンのオカマ姿を期待していた私は、あまりにもありきたりのオカマなんでちょっとがっかり。ディルちゃんがいいのは、オカマだけど、背筋をのばし胸を張って、堂々と生きてるところなのよね。それにくらべるとキリアンは、不必要にナヨナヨしてるし、見境なく人に媚びるあたりもいや。
 とはいえ、映画はすばらしい。

ストーリー

 ここでストーリー。パトリック(Cillian Murphy)は、神父(当然カトリックだから、妻帯もセックスも禁じられている)と家政婦の間に生まれた私生児。生まれてすぐに捨てられ、里親に育てられる。
 (パトリックは本名だが、彼は映画ではキトゥンと名乗っていて、ときどきパトリシアという名前も使う。キトゥンは原作では「プッシー」で、さすがに映画でこの名前を連発するのは無理だから改名したんだろうが、ややこしくなるので本論ではパトリックで統一する)
 彼は幼少時から筋金入りの性同一障害で、女の子になりたいと思っている。だからといって、学校の制服にスパンコール付けて行くのはやりすぎだと思うが(笑)。
 そんなわけで学校でも家庭でもつまはじきにされ、成長したパトリックは家出する。どうやらロンドンにいるらしい、実の母に会いに行くのだ。

 さーて、世間知らずの田舎者のオカマのガキが、一文なしで頼るあてもなく、おとろしい都会に出てきたらどうなるか、だいたい想像つきますね。至るところで叩き出され、オカマというだけで袋だたきにあい、たぶん悪い男にだまされ、しまいには通りで体を売るしかなくなって、最後はたぶんAIDSで死ぬか、変質者か強盗に殺されるのがオチ。
 まして時代はIRAがイングランドに対して激しいテロ攻撃をしていた時代。どう考えてもまともな死に方はできそうにない。現実なら。
 ところがそうはならないんだな。これは『キス★キス★バン★バン』同様、一種のファンタジー、おとぎ話だから。ジョーダンの映画はどんなシリアスな話でもおとぎ話の要素があるのが好きなんだが、これもそう。
 赤ん坊のパトリックが捨てられる場面で、コマドリがしゃべる(字幕付きで)のを聞いただけで、これはファンタジーなんだとすぐにわかる。

 実際、パトリックは、ヤバいところに次々飛び込むんだが、出会う人がいい人ばっかりで、何ひとつ傷つくことなく切り抜けてしまうのだ。
 ただ、IRAのテロリストと間違えられて、警察でボコ殴りにされたときは終わりかと思ったら、拘留が長引くにつれ、おっかない刑事たちは2人とも、頭の弱いだだっ子みたいな言動を繰り返すパトリックにすっかり情が移ってしまい、すごーく優しくしてくれるのを見たときは、さすがに「うそだろー!」と叫んだけど。おかげでパトリックは拘置所から出たくないと言い始めるしまつ。
 ほかにも、「そんな男についてっちゃダメー!」と思っても、相手はみんな見かけによらず、バカみたいな善人で、パトリックをかわいがってくれるのだ。

 でも理由もなんとなくわかる。パトリックはKitten(子猫ちゃん)という名前を名乗っているのだが、彼ってほんとに子猫みたい。しょっちゅう首根っこをつかまれて放り出されるのもそうだし、すぐに捨てられて、またすぐ別の人に拾われるのもそうだ。
 だいたいあの目がそもそも猫の目だ。あの大きな目をいっぱいに見開いて、「ミュー!」と鳴けば、どんな荒くれ男もメロメロにとろけてしまう、というのはわからんでもない。(まさに『シュレック』の長靴をはいた猫の人間版) ただ私の目には、(素顔ほどは)かわいく見えないのがちょっとね。

昔の恋人に再会する話

 しかし、パトリックが一度だけ、本物の危機に陥る場面がある。通りに立っていたときに、車に乗った紳士風の男に拾われるのだが、この男が変態で、あやうく殺されそうになるのだが‥‥

 男の顔を見て、私は驚きのあまり、椅子ごとひっくり返りそうになった。
 ブライアン・フェリーさん! なんであなたがこんなところに!!!!!!!!
 確かにブライアンはもう十年ぐらい見てなかったし、初めは他人のそら似かとも思ったが、あの声は聞き間違えようがない。
 しかもカメオならまだわかるが、ちゃんとセリフもある重要な(しかもかなりむずかしい)役! それもこんなひどい役をブライアンに!!

 ここで注釈を入れた方がいいかも。ブライアン・フェリーは元ロキシー・ミュージックのシンガーで(今はソロ)、かつての私の「恋人」だった人。実を言うと、現「恋人」のブレット・アンダーソンは、元はと言えば、ブライアン・フェリー二代目のつもりだったのだ。絵に描いたような英国紳士というのもいいが、それ以上に、したたる大人の男の色気にしびれました。
 しかし、同期のボウイさんは映画にもいっぱい出てるが、フェリーさんが映画に出たなんて聞いたことない。昔からスクリーンで見たいと思っていたが、まさかその夢がこんな形でかなうとは。
 ひどい悪役で怒るかと思えば、あまりにハマってるので文句が言えない(笑)。ワルのフェリーさんもいいわー!と、また惚れ直した次第。
 しかし、ニール・ジョーダンとはどういう関係? グラムロックの時代という以外、何も思い浮かばないのだが。普通それならシンガー役だよなあ。あ、年齢的にそれは無理か。
 でも、いくつになっても色っぽいわー。むしろ彼は年を取れば取るほど色っぽくなってきたので、ブレットなんかまだまだこれからと期待している。

 それとこれも前々から期待しているのだが、誰かブレットを映画に使ってくれないかなー。デーモンの野郎(Blurの)ですら映画出てるのに。とにかく歌だけ聴いててもすてきだが、写真を見るともっといい、生だともっといい人なので、一度でいいから大きなスクリーンでも見てみたい。きっとスクリーン映えもするので。
 でもあえてそれは避けてるフシもある。『Live Forever』にすら出てこなかったところ見ると。それはそれで見識ですけどね。でも昔みたいにロック・ミュージシャンがやたら映画に出てきた時代もちょっとなつかしい。もっとも、今の英国じゃ、映画に出るほど顔の売れた人いないか?

音楽の話

 というところで、音楽の話。これこれ、これこそイギリス映画の楽しみなのに(アイルランド映画だけど)、『キス★キス★バン★バン』のときは触れるのを忘れてた。あの映画もこれも、音楽の使い方が似てる。場面ごとに、その場に合った出来合いのポップソングをポンポン放り込んで、全体として軽快でおしゃれなノリでまとめたところ。
 もちろんこれは60〜70年代のイギリス映画の特徴でもあり、どっちもレトロな雰囲気がするのは、この音楽の使い方のせいにある。
 もっとも、私の好きな曲が出てくるというわけではなく、ほとんどは知らないのだが、グラムもかかるので、こっちのほうが私的には多少ましだな。基本的に私はおしゃれ系のポップって好きじゃないので。

 しかし、ニール・ジョーダンは選曲のセンスがあると前から思ってた。彼は自分で選曲もするし、嫌いな曲は絶対使わないと言ってたような記憶があるが、その選曲が実にバラエティに富んでいて、憎いほど映画の雰囲気に合っている。
 と言っても、私の音楽の好みが極端に狭すぎるので、めったに重なることはないのだが、『クライング・ゲーム』はその唯一の例外。曲そのものもすてきだが、ロマンチックなゲイ・ムービーに、ボーイ・ジョージ+ペット・ショップ・ボーイズというのは、考える限り最高の組み合わせで、「やられた!」と思った。
 でも、好きなバンドが出てくるだけが映画音楽じゃないもんね。それより大切なのは映画を盛り上げるか盛り下げるかで、むしろ好きな曲を使われても、「こんなところで使ってくれるなよー!」と憤慨することのほうが多い。その意味でこの映画の音楽もいいなとは思うが、せめてエンド・クレジットではフェリーさんの甘いバラードでも聴かせてほしかったなー。

 そう言えば、懐メロのタイトルをそのまま映画のタイトルにするのも、『クライング・ゲーム』と同じ。この曲(Don Partridge / Breakfast on Pluto)知ってるわ! だいたいこの当時のポップはラジオで聴いてただけなので、タイトルも覚えてなかったけど。

 そういや、パトリックの最初の恋人もグラム・バンドのシンガーなんだよね。まあ、グラムと言ってもフェリーさんやボウイさんとは対極のゴリラ男だけど(笑)。でも意外や、歌も演奏もうまくてけっこうかっこいい。これ、誰なの?と言って調べたら、なんと、ギャヴィン・フライデイさん!
 ヴァージン・プルーンズの時代とはすっかり変わったことは知ってたが(汗)。でもさすがに歌うまいね。キリアンに歌わせるのはちょっと勘弁してほしかったが。
 そういえばと、突然回顧モードにはいるのだが、ボウイ、ロキシー、T-Rexの3大バンドを除くと、私はあの格好のせいでグラムをずいぶんバカにしていたけど、今聴くと、案外演奏はしっかりしていてかっこよかったりする。やっぱり見かけで差別しちゃいけないね。(とか言って、フェリーさんもブレットも、最初は見かけだけで嫌ってたやつ)

 これは明らかにアイルランドつながりの人脈。ジョーダンはU2のボノとかとも仲がいいらしいし。そういえば、U2のアルバム“Boy”のジャケットの男の子(私の考える「レコード・ジャケットの美少年」ダントツNo.1)って、ギャヴィンの弟じゃなかったっけ? これは、ショーン&クリス・ペン兄弟なんてもんじゃないわ。美少年と野獣。これだからアイルランド人ってわからないんだよなあ。

 あー、でもやっぱりイギリス/アイルランド映画は楽しい。こういうふうに知ってる人がひょいと出てくると、それだけで他人事のような気がしない。アメリカ映画じゃ絶対これはないからなあ。っていうか、私がアメリカ音楽聴かないから当たり前か。(どうやら俳優は「知ってる人」に含まれないらしい)

その他の役者の話

 これは非アメリカ映画を見るたびいつも言ってるが、役者はみんないい。なぜか、非アメリカ系の役者のほうが、血の通った本物の人間らしく見えるんだよね。ある意味、アメリカ人俳優はプロ過ぎるのがいけない。みんな判で押したような模範演技になっちゃうから。これは音楽もまったく同じ。

 スティーヴン・レイが出てきたときは、思わず笑ってしまった。(彼は『クライング・ゲーム』の主人公) 性懲りもなく、また女装男にだまされるのかよ!って。 パトリックもそう思ったらしく、機先を制して、「ほんと言うと、あたし男の子なのよ」と打ち明けるが、「知ってたよ」だって! 明らかに『クライング・ゲーム』を見ている人をニヤッとさせるためのセリフだな。
 さすがに少しは成長したか。でもディルちゃんはどうしたの? この浮気ものー!

政治

 『クライング・ゲーム』の名前が出たところで、これもジョーダンの映画には欠かせない政治の話も。
 当然ながら、ジョーダンがただのオカマ・コメディを撮るはずはないのであった。暗い時代の悲惨な現実と、おとぎ話のようにフワフワしたロマンチックなコメディを重ね合わせてしまうのが、ジョーダンの巧みなところだ。
 というか、この映画には原作(パトリック・マッケイブ)があるので、ジョーダンの手腕とばかりも言えないのだが、オリジナル脚本の『クライング・ゲーム』もよく似た話だったことを思うと、まさにジョーダンのために書かれた小説みたい。

 パトリック自身、爆弾テロの巻き添えを食うし、彼の幼なじみ4人組のうち、ひとりは爆弾テロで死亡、ひとりはIRAに入るが、ガールフレンドを守ろうとして仲間を裏切り、処刑される。
 ただ、パトリック本人はそんな抗争などどこ吹く風という感じで、こんなんでいいのかと思うほどの完全なノンポリ。
 唯一、彼が関心をしめすのは、仲良しのダウン症の少年(また禁じ手だ!)が爆弾で死ぬのを目撃したときだけ。このとき彼がつき合っていたグラム歌手ビリーは、IRAと関係があるのだが、彼の山荘に隠匿されていた銃器を、怒りにまかせて湖に投げ込んでしまう。
 このため、パトリックもIRAに殺されそうになるのだが、ビリーに捨てられたと思って(というか、逃げなきゃ殺されるし)、ヒステリーを起こしているパトリックを見て、IRAもあきれて手を出さない。
 というわけで、めまぐるしく起きる事件の中を、パトリックはまったく傷つくことなくヒラヒラと生きのびる。テロ真っ最中のロンドンで生きのび、警察に捕まっても、殺人者の手に落ちても逃げのび、家に帰ったと思ったら、今度は破戒僧を糾弾する地元住人によって家に火を付けられるんだが、それでも平気。

Lucky Man

 ほとんど不死身っていうか、真の意味の「ラッキーマン」は、『マッチポイント』のクリスじゃなくて、このパトリックのほうだ。恐るべし、オカマ・パワー。
 これだけの深刻な話を、これだけおちゃらけたコメディにしちゃっていいのかと思うが、パトリック自身が“serious”なことを何より嫌ってバカにしているのでどうしようもない。この距離感が新鮮だ。つまり、深刻なことを深刻に描くだけなら誰でもできる。でも映画なのにそれじゃ、見る人の気が重くなるだけ。
 それをさらっとテンポ良く、笑わせながら見せるあたりが、これまたいかにもおしゃれでクールだ。

 というわけで、テロにもめげず、差別にも迫害にもめげず、いくら恋人に振られてもめげず、パトリックはロックバンド、遊園地の着ぐるみアトラクション、マジックショーのアシスタントといった、なんか現実離れしていて楽しそうな職を転々とする。もっとも、そんなにいい時代ばかりじゃなく、売春婦にも身を落とすし、覗き部屋の女(でも見せるものないじゃん)といった風俗業界にも足を踏み入れるのだが、なんか本人がすごく楽しそうなんでぜんぜん悲愴感はない。
 そして念願のお母さんとの再会も果たすのだが、お母さんは結婚して幸せな家庭を持っているので、あえて何も言わずに身を引き、代わりにお父さんを発見する。

 神父が父親だということは、どうやら最初から気づいているらしいのだが、父親のほうは完全に彼を否認しているので、パトリックも「誰がおまえなんか!」という雰囲気だった。でもとうとう悔い改めた父親が、覗き部屋へパトリックを迎えにやってくる。
 それで家に帰ったと思ったら放火されるのだが、ここまでのことを考えると、その程度でめげるようなおネエさんじゃないよ(笑)。
 結局、最後は、父の神父(って、重言だわね)と、幼なじみの4人組の中で唯一生き残った黒人の女の子と、彼女の赤ん坊の4人で、幸せな家庭を築く。
 これもありえねー!という突っ込みはなしよ。アイルランドで、姦淫の罪を犯したばかりか、オカマの息子といっしょに暮らしている神父が破門もされないのは私も変だと思うけど、とにかくこれはおとぎ話なんだから。

 この神父を演じるのはリアム・ニーソン。やっぱりね(笑)。この人はもう出過ぎでうんざりだと思っていたが、アイルランド映画でアイルランド人を演じるのは許す。

 結局、これも父子の物語だったんだな。パトリックが母に恋いこがれる一方、父には目もくれなかったのは、自分を捨てた父を許せなかったからだろうが、想像通り、このお父さんも本当にいい人で、せめてもの償いのつもりか、息子のすべてを受け入れ、甘やかすもんだから、パトリックはすっかりいい気になっている。
 あれだけ男を取っかえ引っかえしていたのに、結局本当の恋人は見つからなかったようだが、あれも元はと言えば、父の愛情を得られないことに対する代償行為だったんだろう。だからこれで本当のハッピーエンドなわけ。それが証拠に、パトリックが惚れる男って、全員が父親タイプ、保護者タイプだもんね。

まとめ

 というわけで、とにかく波瀾万丈のストーリーを、細かいチャプターに分け、軽快なテンポで描くので、まったく飽きずに楽しめる。ジョーダンがこれほどの娯楽作品撮った記憶ってあまりないんだけど。
 唯一の欠点は、キリアンの演技がウザいことだけだが、これはもちろん狙ったものだろう。だいたいピカレスクなんだから、主人公がいい人である必要はまったくないのだ。

 その代わりと言ってはなんだが、パトリックを巡る人々が、(フェリーさんを除き)どの人もいやになるぐらいいい人ばっか。それでその全員が、(私の目には)しょうもないオカマとしか見えないパトリックに優しい。暴走族も優しいし、警官もやさしいし、売春婦も優しいし、テロリストだって(優しくはないが)少なくとも危害は加えない。
 ありえねーよー、絶対!と思いながらも、この優しさが胸に突き刺さる。現実にはそういう人はめったにいないせいか、私は映画でこういう「いい人」を見ると、それだけでじーんとしてしまう。それがこの映画にはてんこ盛りで出てくるので、もうそれだけで胸いっぱい、お腹いっぱいです。

 というわけで、目当てのキリアンにはちょっと失望したけど、映画は本当にいい映画だった。暴力的なシーンもたくさんあるのに、見終わるとつい、ほのぼのとして夢見心地になってしまう、という点で、ほんとに『キス★キス★バン★バン』と似ている。ちょっと甲乙付けがたい名作。ぜひ見てください。

2007年9月24日 月曜日

秋バテ気味

 ううう‥‥眠い、疲れた。と、ほぼ1年中言ってますが、大学が始まり、店のお客さんたちもバカンスから戻ってきたので、だらけた夏は終わって、いつもの忙しさに。そうなんですよ。普通の店なら稼ぎ時のはずの夏はうちは閑古鳥。というのも、うちのお客さんはヨーロッパの人が大半で、彼らは夏はしっかり休暇を取ってどこかへ行っちゃうので。(家にいないせいもあるけど、休暇旅行でお金を使い果たしてしまって、CDなんか買う余裕がないというのもある) くそー!といつもながら思いますね。不思議とアメリカ人とカナダ人は日本人並みにちゃんと働いてるようだけど。
 まあ、おかげで海外のお客さんに日本で会えるんだから、それもいいけど。でも、アンドレみたいに日本をよく知ってる人は、ちゃんと夏の暑さが和らいだころに来る。というわけで、明日はまた来日するアンドレ夫婦と会食の予定。

 しかし、この夏は本当に暑かった。おかげで脳細胞はまだ死んだまま。だから書く書くと言っていたレコード評もまだぜんぜん手つかずです。今はまだ買ったものを整理する、(そして買いもらしに気づいてあわてて集める)だけで精一杯で。
 だって、最近の私のメインのバンド――UNKLE、Manics、Brett Anderson、Travis――がいっせいに新譜を出したもんだから、うれしいけどもう何がなんだかわからない!状態。特にUNKLEは現在の最重点コレクションであるばかりか、少数ながらキチガイ的なファンが、牙をむいて一斉に飛びかかるもんだから、こっちもまったく気が抜けない。自分のコレクションもする一方で、このチャンスに自分も売らなきゃならないわけで、気分としては猛獣の群れに肉を差し出しながら、その隙に彼らの足元にあるお宝をかすめ取るという曲芸をやってるみたいです。
 もっとも、財力に決定的な差があるので、(というか、UNKLEファンはお金なんかゴミクズだと思っているので)、たくさん買っているわりには、いちばん欲しいレアなブツは見送るしかないけど。セロテープ(バンドのロゴが印刷されたセロテープというだけですが)ですら、競り負けてるもんなあ。

 というように、いろんなことに気を取られていたせいで、いちばん大事なものを見落としていた!
 上に書いたように、いちおう今のメインはUNKLEなんだけど、隠し玉を忘れていたんだよー! 何を隠そう、私の裏ベストはPuressence。(裏とか表にはべつに意味はないです)
 4年に一度しか新譜を出さないというオリンピック・バンドの新譜が、5年ぶりに出るというのに、ついそれを失念しておりました。それで見たら、ファースト・シングルはもう出た後じゃない! 例によってシングルも7インチや10インチも取り混ぜて出てるのだが、アルバムをオフィシャル・ショップで予約するとサイン入りのカードがもらえるというので、全フォーマットまとめて注文したけど、ちゃんと届くかどうかドキドキ‥‥。
 とりあえず、上のリンクで曲も聴けるしビデオも見られるので、ぜひどうぞ。もともとManicsに似ていると思ったから好きになったんだけど、筋金入りのマンチェスター・バンドなので、マンチェスター好きの方にもおすすめです。それとルックスのことは何も言わないでください。

2007年9月26日 水曜日

アンドレ再び――肉食コレクターの恐ろしさとは――&貧乏人のひがみ

 昨日は、UNKLEコレクターのことをケダモノのように言って申しわけありませんでした。と思うのも、今日は本物の肉食獣、それも百獣の王としか思えないすごいやつに会ってきたから(笑)。言わずと知れた世界一のピクチャーディスク・コレクターのアンドレ・デセール氏である。(私は彼の使い走り) まったくアンドレにくらべたら、私の目には十分キチガイに見えるUNKLEコレクターも、かわいいヒヨコちゃんのようなものだ。

 待ち合わせ場所は新宿のパーク・ハイアット・ホテル。おおー! こんな超高級ホテル、足を踏み入れたこともないよ。おかげで正面に着いても、どこにホテルがあるのかわからなくてウロウロ。だって、普通のオフィスビルじゃん! 実は、そのビルの上階がホテルになってるのだが。
 私は知らなかったが、ここは『ロスト・イン・トランスレーション』という映画のロケ地に使われたそうで、だから外国人の間では有名らしい。コッポラの娘が撮ったこの映画は、大勘違いの国辱映画だって聞いたから、私は見てないんだけど。
 そこの最上階にある、ニューヨーク・バーというレストランでアンドレ夫妻とディナー。まあ、アンドレにはさんざんこき使われてるから、これぐらいの役得はなくっちゃね。

 先に飯のことも書いておくか。なにしろステーキが2万円もするレストランですからね。ふだん自分で払うときは絶対1000円以上のものは食べない貧乏人ですからね。これだけ高いと私は味なんかぜんぜんわからなくて、ただ「また太るなあ」と思うだけ。
 こういう人間に高い飯おごってもムダだね(笑)。私はけっこう金持ちとのつき合いもあったのだが、これまでおごってもらった最も高価なディナーだった。でも生涯でいちばんうまいものとは思わなかった。
 売り物は和牛のステーキだが、私は肉の脂が嫌いなので霜降りの和牛はきらい。だから車海老のグリルを頼んだのだが‥‥あー、私は自分が食い物にむとんちゃくなことはよく承知しているので、食い物に文句付けることはめったにしないのだが‥‥
 まず、この値段だから、見たこともないほどでっかいエビが出てくるのかと思ったら、べつに近所のスーパーで売ってるのと変わりない。それに焼きすぎ。エビのうまさは噛んだときにプチッとはじけて、柔らかい甘い身が口いっぱいに広がるところだと思うし、私が好きでよく行くトンカツ屋のエビフライはまさにそういう感じだ。(そっちの値段は1500円だ) なのにこれは芯までカチカチでバサバサ。
 ちなみにアンドレが「真っ赤なの頼む」と言ってオーダーしたレアのステーキは、赤い部分は真ん中に少しあるだけで、どう見てもミディアム・レアですらないミディアムだった。
 まあ、アメリカ料理と思えば納得ですけどね。(イギリス人もそうだが、アメリカ人はなんでも火を通しすぎる癖がある。ついでにオーストラリアも含めたアングロサクソン系は世界一の味音痴である) とりあえず、グルメであろうとなかろうと、このレストランはおすすめしません。

 それに雰囲気も気になる。確かに夜景はきれいだけど、ネオンの谷間で育ってる東京人にとってはべつにめずらしいものでもないし、ジャズの生バンド(アメリカ人プレイヤー)が入っているのだが、それがうるさくて、大声を出さないと話もできない。音楽そのものも私はジャズが嫌いなうえ、甘ったるいムード歌謡みたいな曲ばかりで、うんざり。
 あと、バカでかいポップアートがあちこちに飾ってあるのだが、これはイタリアの有名なポップアーティストの作品で、「値段は想像もつかない」んだそうだ。ところがそれが私の目にはなんともチープで醜悪な絵にしか見えない。テーブルも狭くて、通路もごった返している。
 それでも平日の夜なのに満員(ずっと前に予約しないと入れないんだそうだ)ということは、皆さん、これになんらかの価値を見出しているのでしょう。私にはまるっきり関心も縁もない世界ですけどね。アンドレが払ったお金は15万は下らないだろうが、だったらそれ私に現金で頂戴よ、と内心思うが、もちろん口が裂けてもそんなことは言わない。
 でもどうせなら、高級料亭の個室かなんかで、しんとした中に響き渡る鹿おどしの音を聞きながらの食事のほうがよかったなあ。今度はそういうとこリクエストしよう。

 ついでだから、ホテルそのものについても。と言っても、もちろん私は泊まったわけじゃないし、(アンドレでさえ、「ぼくに払えるのはレストランがせいぜい」と言って、泊まってるのは京王プラザである)、ちらっとながめただけだけど。
 実はですねえ、私は昔から雑誌のホテル特集とか見ては、悩んでたんですよ。こんなもののどこに、1泊何十万も払う価値があるんだろうと思って。
 もちろん、使わないとお金に埋もれて窒息しそうな金持ちとか、自分の懐は痛まない社用族とかが泊まるのはわかるよ。でも、どうやら、ごく普通の一般庶民も「あこがれのあのホテルに」とか言って、なけなしの貯金はたいて泊まるらしいじゃん。どうしてえ? (ほんと言うと、社用族ってのもわからない。会社の目的って利潤の追求でしょ? 重役だろうがなんだろうが、ビジネスホテルに泊まれば、そのぶん会社は儲かるのに、なんでわざわざ散財する?)

 ここに住めるっていうなら、考えてあげてもいいが(笑)、しょせん1泊とか2泊でしょ? そもそもホテルなんて基本的に寝るだけの場所。寝ちゃえばどこだって同じじゃん(笑)。それだけのために大枚払う人の気持ちってわからんなあ。
 たとえば内装がすばらしいって言うけど、確かに木を多用した和風の内装はいい。でも、日本家屋なら全部木なのに、こんなコンクリの上にパネル貼っただけのをありがたがる必要ない。オフィスビルのせいか、天井が低くて、狭苦しく、全体に薄暗いのもなんか気が滅入る。
 アンドレは、「宝くじに当たったらここに1か月泊まる」と言ってたが、私はそれだけのお金があったら、ロンドンの高級ホテルに泊まるね。ああいうホテルは本当に全体が美術館みたいで、、それこそ一歩足を踏み入れただけで「おおおー!」と人を圧倒する高級感と重厚さと美しさがあって、あれなら確かに内装を鑑賞するだけのためでも泊まりたいと思うけど、アメリカ資本のホテルなんて、いっとうつまらないじゃない。そもそも、そういうホテルは建物自体が国宝級だけど、こっちはただのオフィスビルだし。(と、思い切りバカにする)
 上にも書いたように、飾ってある絵とか彫刻とかがどうにも趣味悪いし、エレベーターの中になぜかキツネの首が生えてたりするあたり(笑)も意味不明で悪趣味。
 私が確かに安ホテルとは違うと思ったのは、まず、ウェイター(日本人)がみんな英語しゃべること。かなり訛りのひどいアンドレの英語も理解する。でも、英語ぐらい私だってしゃべるけど、学生バイトに毛が生えた程度の給料しかもらってないぞ。このウェイターの時給が1万円というなら、高いのも納得するけど、そんなはずないし。
 だいたいフランス料理屋なんて行くと、後ろにウェイターがずらっと待機して、じーっと人の様子を観察してて、何かあれば呼ぶ前に飛んでくるが、ここのウェイターは何度も大声出さなきゃ来ない。まあ、フレンチじゃなくて、「ニューヨーク・バー」だからしょうがないのか。
 あと、トイレのタオルがペーパータオルじゃなくて、本物のタオルだ。(1回使うごとに洗濯かごに放り込む) でもよく考えてみたら、最貧困層の私の家だって、トイレにタオルぐらいある(笑)。
 あと、そこらをうろうろしているだけで、作り笑いを浮かべたスタッフがもみ手をしながら近寄ってきて用を聞く。これもサービスのつもりだろうが、うっとおしいだけ。アンドレのために大量のレコードを持参したので、例によってキャリーカートをガラガラ引っ張っていたのだが、ロビーからタクシー乗り場に行く間の10メートルぐらいを「お運びします」って、いらないよ。

 「これなら、和風の高級旅館のほうが雰囲気もあっていいよ」と言ったら、アンドレと奥さんのヴァレリーは顔を見合わせた。なんでも一度だけ「すごい高いとこ」に泊まったことがあるのだそうだが、一晩で懲りたんだって。理由は、「布団が堅くて腰を痛めた」んだそうな。
 わかる(笑)。これだけは私にもわかるんだな。私は子供のころからベッドでしか寝たことがないので、畳の上に寝ると堅くて参る。それも高級旅館ならふかふかの敷き布団かと思ってたら、意外と薄っぺらでやっぱり背中が痛い。ついでに言うと、私は自称「豆の上に寝たお姫様」(グリム童話の)で、ベッドでも堅すぎて痛い。うちではベッドのマットレスの上に分厚い布団を敷いて寝ているが、これでちょうどいいのだ。このホテル、「布団持ってきて」と言ったら持ってきてくれるだろうか? 余談だが、イギリスでは日本の布団が大人気で、やっぱり彼らもベッドに布団を敷く気持ちよさを知っていると見える。

 でも文句は言えない。プレゼントだと言ってバーバリのオーデコロン・セットももらったし。実は香水のたぐいはアルコール・アレルギーなので付けられないんだけど(笑)、ほんとは好き。だからせめてタンスに入れて、残り香を楽しんでる。コロンの瓶がちゃんとバーバリ・チェックの布を着てるのがかわいい。
 あと、アンドレ夫妻の3才の娘エミリーちゃんが描いた「じゅんこの似顔絵」までプレゼントされたら、いやな顔なんかできませんよ(笑)。これはクリスマスにはなんか送らなくちゃな。

 で、なごやかにディナーをしていたのだが、コレクションの話になると、とたんに肉食獣の本性むきだしになるのが、コレクターのこわいところ。彼がどれだけすごいコレクターかは去年も書いたけど、この人を見ていると、私なんかとてもコレクターとは言えないし、永遠になれないと思っちゃう。
 いつも、「貧乏人はコレクターにはなれない」と書いてるけど、金があればできるかといえば、そうでもないのだ。札束で人のほっぺたをひっぱたいて集めてるようなのは、まだまだ初歩中の初歩。なぜって、これは私にも理解できるのだが、本物のコレクターは金じゃ動かないから。(私みたいなのは自分のコレクションでも、大金積まれれば平気で売っちゃうけど)
 ああ、その前に、アンドレ・クラスのコレクターがほしがるようなものは、まず店では買えない。そういうお宝はとっくにどこかのコレクターの手中にある。私のコレクションだって、本当にレアと言えるもの(Mansunのマスター・ディスクとか、UNKLEの“Do Androids”プロモとか)は、コレクターやファン仲間のコネで手に入れたものだ。
 だから他のコレクターからもぎ取らなきゃならないのだが、ある意味、コレクターぐらい、お宝を手放したがらない人種はいない。それでどうするかと言えば、物で釣るのである。もちろんコレクターであるからには物欲はあるから。

 ブリキのおもちゃコレクションで世界的に有名な、北原さんっていう人がいるでしょう? 彼がたまたまアンドレのほしいピクチャーディスクを持ってたそうな。でも売る気はないと言って突っぱねられたんだって。それで彼は2年間かけて交渉し、世界中に持ってるコネを駆使して、北原さんが捜していたブリキのおもちゃを見つけ出して、それと交換で手に入れたんだって。日本語ひとこともしゃべれない外人が、北原さんの住む横浜に2年間通い詰めたというだけでもあきれてしまう。
 アンドレに言わせると、ひとつでだめなら二つ積む、二つでだめなら三つ積む、それを続けていけば折れない相手はないって言うんだけど、私は「はあ〜」と言葉も出ない。その上で「とにかく会うことさえできれば落とせないコレクターはいない」と豪語する。
 私もコレクターとして、なおかつ商売人として、交渉や駆け引きには修練を積んでるつもりだったが、こんなやつには太刀打ちできませんよ。するつもりもないけど。

 だけど、それを人にもやらせるからなあ。現在のアンドレのターゲットは、日本のSP盤のサイトを運営している女性で、彼のコレクションに1枚だけ欠けているレコードを、彼女が持っているのだ。それで今回も、彼女と面会にこぎ着けるために、私は何度もメールを送ったのだが、最初に売るつもりはないときっぱり断られたうえ、会うことも拒否されてしまった。
 それでいったんはあきらめたかと思っていたが、ぜんぜんあきらめてなくて、今日もさんざん焚きつけられてしまった。そんなこと言ったってー! 相手が会いたくないと言ってるのに、どうすりゃいいのよ! サイトには住所も電話番号も書いてなくて、連絡方法はメールしかないし、彼は日本語書けないから私が書くしかないのだが、(もし住所が書いてあったら、絶対強引に押しかけるつもりだ)、迷惑がられているのが明白なのにメールを送り続けるなんて、なんか罪悪感ばかりがつのって、いい気分じゃない。
 アンドレはいろいろ餌をちらつかせて、「コレクターなら絶対食いつくはず」と主張するが、その人が本当にコレクターかどうかもわからない。単に古い物が好きで集めてるだけの人かも知れないじゃない。(女性にコレクターは少なく、このタイプが圧倒的に多いし、サイトの印象もそういう感じ)
 本音を言うと、ディナーもプレゼントもいらないから、こういう仕事はきっぱりお断りしたいのだが、いつのまにやら断るに断れないところまで人を追い込むのもテクニックだなあ。

 実は以前、断ったこともあるのよ。私がやっているのはもっぱらヤフオクの代理入札なのだが、大学の仕事も忙しいし、自分の店のほうが大切だからと言って、もうできないと断ったのだ。
 すると、「気持ちは大いにわかる」という同情的なメールが来たから、あきらめてくれたかと思いきや、矢のようなメール攻勢はまったくやまず、私のほうも自分の商売が思わしくないという理由で、またなし崩しにやるようになってしまった。
 こうやって、人を意のままにあやつる、ある意味恐ろしい人である。(まさか3才の娘まで洗脳して使ってるんではという恐ろしい疑惑が‥‥) でも、そうでなければコレクターは勤まらないというのもよくわかるのだが。

 そういうわけで、アンドレのことは決して「いい人」とは思わない。でもどんな世界でも世界一になるためには、いい人じゃだめなんだよね。
 その意味、こないだのジャン=リュックとか、いつも書いてるカナダのスコットとか、なんの下心もなく、見返りも期待せずに優しくしてくれる人(私もなんで彼らがこんなに優しいのかわからない)とは大違い。とりあえず、ビジネス・パートナーとしては(きちんとお金払ってくれるだけでも)かけがえのない人だからつき合ってるけど。

 しかし、私はピクチャーディスク・コレクターじゃなくて良かった。こんなやつを敵にはまわしたくないもん(笑)。
 でも彼、UNKLEも集めてるんだよね(笑)。もちろんピクチャー盤だけだけど。今日も、たまたまBurn My Shadowのピクチャー7インチが余分にあるので、プレゼントとして持っていこうかと思ったが、どうせ持ってるだろうと思ってやめたら、やっぱり持ってるそうだ。
 でも、その話をしているとき、ふっと優越感を覚えた。前にも書いたが、彼は持ってるレコードを聴かないコレクターである。彼にとってのレコードの価値は、どれだけ稀少かということだけで、つまり彼が持っているかどうかということだけ。(彼が持ってないものは当然、ものすごく稀少なのである)
 それにくらべて、この1枚のレコードが、私にとってどれだけ価値があるかは彼には決して理解できないだろう。UNKLEそのものも気が狂うほど好きだけど、それに加えて3Dのすばらしいアートワーク(彼のことも気が狂うほど好き。人間も、音楽も、アートも)、Ian Astburyのすばらしい歌(Cultはべつにそれほど好きでもなかったけど、これを聴いて見直した)、こんなに美しいものが、こんな小さな、千円もしないディスクにいっぱいに詰まっていると考えただけで、胸がいっぱいになる。
 とまあ、コレクションの喜びも人それぞれってところで今日は終わり。

2007年9月28日 金曜日

(上の項目、大量に加筆しました。というか、そういうのはよくやってるから、たまには前の日記も読んでね)

若いムスメの身なりについて

 という、今日はいかにもババアにふさわしいお題で(笑)。
 きっかけはというと、これもアンドレで、ヴァレリーがいきなり居住まいを正して、「アンドレがどうしても聞きたいことがあるんだそうだけど、いいかしら?」なんて言い出した。何かと思ったら、「日本の若い女性はなんであんなに短いスカートをはいているのか?」という質問だった(笑)。
 まあ、日本の若い子の服装について外人が驚くのは耳タコですけどね。でもミニってもうはやってないのでは? そんなに短いスカートの子なんてあまり見ないけどな。むしろ今はその下にレギンスだかスパッツだか履いてるから、足なんかぜんぜん見えないし。
 でも話を聞いてると、レギンスは彼らの目にはストッキングのような下着にしか見えないらしい。となると、上は超ミニのワンピースやチュニックだから、そりゃ確かにハレンチだわ(笑)。と、私は笑っていられるが、アンドレに言わせると、「ヨーロッパであんな格好していたら、即レイプされる」そうだ。うーむ、日本の安全さについてはこれまでも何度も書いてるが、むしろ日本のお嬢さんがたにとっては、そっちのほうがカルチャーショックかもね。あの美しく牧歌的なあこがれのヨーロッパがそんなに野蛮なところだなんて。
 日本の若者のストリート・ファッションは世界的に有名で人気だが、ある意味、かわいいとか、かっこいいからあこがれてるんじゃなく、我が身の危険も顧みない大胆さに感心されてるような気もする。
 かく言う私も、初めてロンドンに行ったとき、若い女の子の服装があまりに地味でトラッドなのに驚いた経験がある。この当時はロンドン・ファッションがもてはやされていた時代なのに、そんな人はごくわずか。むしろ、膝丈のスカートにブラウス、カーディガンという、あまりにも保守的なスタイルがすごいかわいいと思ってしまった。
 とりあえず、これを読んでる若い女性(あんまりいないと思うけど)には、外国行くときはジーンズにすることをおすすめします。(あと、言うまでもないと思うけど、ブランド・バッグやアクセサリーも持ってっちゃだめよ。ぶん殴られて奪われるだけだから)

 私はファッションとも縁のない暮らしをしてるが、若者ファッションにはちとうるさい。商売柄、大勢の若い人と接しているせいもあるが、最近はUNKLEファンのせいが大きい。UNKLE自身がおしゃれなせいか、UNKLEファンはファッション・アニマルが多く、彼らの依頼で裏原系のファッション誌とかブランド物とか買いあさってるから、変に目が肥えてしまって(笑)。もっとも、その人たちは全員男性だから、女性ファッションには疎いのだが。
 その目で見ると、最近の男の子はほぼみんな合格。日本の男の子がこんなにファッショナブルになったのっていつからだろう? ダサいものの代名詞だった(笑)早稲田の男子学生だって、けっこう決まってるしね。
 それにくらべて女の子は‥‥となるわけ。

 まず、今の代表的ファッションである、短いチュニックにレギンスというあれ。あれを初めて見たとき思ったのは、「まあ、こんな若い人がもうおめでた?」というもの(笑)。
 だって、あれ、まんま妊婦服じゃない? 胸のすぐ下でしぼって、お腹まわりがふわっと広がったチュニックだと、よけいそう見える。まあ、妊娠しても今の服を着られるという意味では便利かも知れないが(笑)。確かに(妊婦にとっては)機能的ではあるけれども、かっこいいとかいうものじゃないよね。
 それにレギンスというやつも、これはものにもよるのだが、私の目にも下着の「ズボン下」にしか見えないのが多くて、これは別の意味で目のやり場に困る(笑)。

 若い子のファッションをすぐにおばさんたちが取り入れるというのも最近の風潮だが、あれは絶対おばさま族に受けると思った。中年女性の最大の悩みと言ったら出っ腹やでかいお尻で、あれならチュニックで完全に隠せる上、締め付けもないのですごい楽だろう。そう思ったらさっそくあれを着ているおばさんがいたので納得。
 私は若いときから(学生との差別化をはかるため)死んでも若い奴らのまねはしないのが信条だから、(でも男の子のファッションは随時取り入れているのが大人げない)、絶対着るつもりはないけどね。いつも言うように、かっこ悪いところは隠せばいいってものでもないので、私は意地でウエストしぼった、時代遅れのボディコンまがいの格好してます。いや、本当はボディコンじゃないのだが、胸や肩の開いた服が好きだし、大柄な私が着るとなんでもパッツンパッツンになってしまうので(笑)。

 しかし、服なんかはどうでもいいんですよ。どうせ若者ファッションは、いつの時代にも年寄りの眉をひそめさせてきたんだし、どうせ流行なんてまたあっという間に変わってしまうんだからね。

 はっきり言って実害があると思っているのは、最近の女の子の化粧。パンダメイクと言えばまだ聞こえがいいが、うちの母ぐらいの昔の人に言わせると、あれは「びっくりタヌキ」。タヌキがびっくりしたような顔に見えるから(笑)。若いころ、私がちょっと化粧が濃かったりすると、「びっくりタヌキになってるわよ」と注意されたものだ。これって昔は化粧が下手なことの代名詞で、「おてもやん」(ほお紅が濃すぎて、ほっぺた真っかっかになってる様子)と並んで、恥ずかしいものの代表だったのだが。
 なんなんでしょうねえ、あれ。もとが平坦な顔の一重まぶたの目に、黒々と縁取りしたって、目が大きく見えるわけじゃない。目のまわりが黒く見えるだけなのに(笑)。どっちかというと、よくポスターに落書きするとき、目のまわりにマジックでぐりぐりメガネ描いたりするじゃない。あの感じ。
 あの顔と面と向かって話すときは目のやり場に困るというか、吹き出したらいいのか、目をそむけるべきなのか迷って困る。
 さらにそれに拍車をかけるのは、整形手術とカラーコンタクト。ああ、整形は多いんですよ。程度の低い女子大なんかだと、夏休みが終わると学生の顔が変わってて、誰が誰かわからなくなるぐらい(笑)。整形すると美人になると思ったら大間違い。まあ、元が二目と見られない顔ならべつだろうけど(笑)。整形顔は一目でわかるうえ、なんとも形容のしがたい人工的で不気味な顔だちになるからこわい。極端な例としてはMichael Jacksonを頭に浮かべてもらうとわかる。
 おまけにカラー・コンタクトとなると、もうこわすぎてまともに目が合わせられない。黒い目の日本人が青いコンタクトを入れても、もちろん青い目には見えないばかりか、完全に「目がイッちゃってる人」に見えるんだよね。なんか変にギラギラ目が光って、どこを見てるのかわからなくて。夜道で会ったら悲鳴上げそう。
 まあ、そこまでする人はそうはいないけど。自分の学生にいると悲劇です。彼氏はこの顔見てこわくないんだろうかとか心配したりして。それでも、そういう学生も社会人になって数年もたつと、ちゃんと化粧も上手になって、身なりもバリッとなってるから、そんなに心配する必要もないんだろうけど。ただ、整形は一生ものだから、する前によく考えた方がいいと思うよ。

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