2007年2月の日記

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2007年2月8日 木曜日

A History of Violence (2005) Directed by David Cronenberg
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』

 最愛のクロネンバーグ作品、おまけにヴィゴ・モーテンセン主演とあって、これはどうせDVDを買うつもりだったんだけど、考えてみたら、前の『スパイダー』(2005年8月14日の日記参照)がけっこうアレだったし、高価な買い物するのに見もしないで買うのもなんだと思って、借りてみた。

 ところで、『ロード・オブ・ザ・リングス』でブレイクするはるか以前、1990年からヴィゴ・モーテンセンのファンだったというのはけっこう威張れると思う。なんで威張れるのかわからないが、それでも威張ってしまう。
 というのも、私はフィリップ・リドリーというイギリスの作家が大好きで、彼は自作映画を2本だけ撮っているのだが、ヴィゴはその両作品、『柔らかい殻』(The Reflecting Skin)は主演、『聖なる狂気』(The Passion of Darkly Noon)はサード・ロールで出ていたので、忘れようにも忘れられない俳優として印象に残っていた。しかも、『柔らかい殻』では原爆実験のせいで心と体に重い傷を負った青年、『聖なる狂気』では森の精のような女の子と暮らす聾唖者の自然児という、ものすごくむずかしい役柄をみごとに演じたし。
 どっちも傑作なので、ぜひ見てください。と言ってもいわゆる娯楽作品ではなく、リドリーの映画は映像詩のようで、とにかく映像やセリフが美しい。シュールで美しくて(心理的に)恐ろしい話が好きな人におすすめ。とりあえず、ヴィゴは見るからに傷つきやすそうな繊細さと、痛々しいほどの優しさと、暗くうつろな目が好きだった。
 この2作品でほとんど私のイメージは固まっていたのだが、『ロード・オブ・ザ・リングス』を見て、かなり印象が変わりましたね。好きだからあまり言わなかったが、はっきり言って、ヴィゴのアラゴルンはミスキャスト。「ストライダー」としてはぴったりだが、王様っていうガラじゃないし。前に書いた「王様チェック」で言うと、完璧失格。
 でもいいの。好きだから(笑)。それでLOTRを見てますます好きになったのは、DVDには10時間分ぐらいのメイキングが付いていて、それを見ていると、いやでも素顔のヴィゴが見えてきてしまったから。あのルックスであのしゃべり方だから、とにかく暗くてまじめな人を想像していたが、根はけっこうお茶目で明るいみたい。いや、無口でおとなしいのは事実なんだが、けっこういたずら好きで、あのポーカー・フェイスで人をびっくりさせるようなプラクティカル・ジョークを仕掛けては、ニマーと笑うところが想像できてしまう。そうじゃなくても、いくら好きだからって馬といっしょに寝たり、いくら好きだからってビリー・ボイド(LOTRのピピン役)にみんなの見ている前でディープキス(それも長々と)したりするのは、やっぱりちょっとおかしい。「いい人なんだけど、ちょっと変」っていう、こういうタイプに弱いんだ、私は。
 でも優しくてまじめなのも事実で、馬好きなのもたまらないし、ますます惚れてしまった。

 でもって、クロネンバーグが好きというのも、もう何度も書いている。好きな理由はいろいろあるが、そのひとつが「なぜか主演男優は私の大好きな人ばっかり」(初期作品と、『ザ・フライ』は除く)ということ。私はこの通り、すごく好みが狭くてうるさいんだから、こういうことは他の監督じゃまずないのよ。
 そこで『スパイダー』のあとがきには、「これであとはエドワード・ファーロングと、エドワード・ノートンと、ジョン・マルコヴィッチと、ヴィゴ・モーテンセンを使ってくれれば私のオールスターってぐらい」なんて書いたのだが、ズバリ当たってしまったではないか!
 でも考えてみれば、それほど驚くには当たらない。前にも書いたように、クロネンバーグという監督は、男優の好みが実にはっきりしていて、同じタイプばかり使う。(それでその好みが私とそっくりなんだが) その好みから言うと、ヴィゴなんて、ほとんどジェイムズ・ウッズやピーター・ウェラー(この2人がまた、見分けが付かないほど似ているんだが)の相似形じゃないさ。
 私は16年前の「青年」のころのイメージが頭に焼き付いていたので気づかなかったが、年とって、目が落ちくぼみ、(もともと鋭い)ほお骨がくっきり浮き出し、しわも深くなってきたら、本当に彼らにそっくりになってきた。絵に描いたようなクロネンバーグ印の俳優で、これを使わない手はないよね。
 そしてタイトルも『ヒストリー・オブ・バイオレンス』! バイオレンスに関しては一家言ある監督だけに、それだけでもワクワクする。いったいどんなバイオレンスを見せてくれるのか、ドキドキしながら見始めたのだが‥‥

 うまい。最近のクロネンバーグは本当にうまい監督になったのだが、やっぱり地味だなあ、というのが第一印象。やっぱり本当に枯れちゃったんだろうか? いや、枯れた方がずっと味があって、芸術度は高いんだが、なんかちょっと寂しい。でも、「いい映画」なのは間違いない。
 原作はグラフィック・ノベルと書いてあるから、またコミックか。本当はクロネンバーグはオリジナル脚本で見たいんだけどなあ。でもって、アメコミの常として、バイオレントだけど暗いというのは容易に想像できる。そこでまずは要のバイオレンスから。

 バイオレンスと聞いて、タランティーノみたいなのを期待して見た人はがっかりするだろう。それぐらい抑えに抑えた最低限の描写。まあ、ヴィゴが八面六臂の大暴れ、というのは期待してませんでしたけどね(笑)。
 でも例によって、All Cinema Onlineを見ていたら、この映画の暴力を「リアルでない」という人がいて、やっぱりわかってなーい! クロネンバーグがリアルなアクション映画なんか撮ったら、それこそ私は大ショックだよ。彼の作品の最大の魅力は「非現実的」というところにあるんだから!
 たしかにいくら強いとはいえ、たったひとりで、しかも丸腰で、銃を突きつけられた状況から、マフィアを皆殺しというのはありえない。でもマンガなんだしぃ、クロネンバーグなんだしぃ。
 むしろアクション映画を見ていて、私がリアルでなくてつまらないと思うのは、役者がワイヤで吊られてヒュンヒュン飛び回るようなやつとか、銃弾を雨あられと浴びせられても主人公には絶対当たらないようなやつだ。それにくらべて、この映画のヴィゴは、人間では不可能と思えるような動きは何もしていないし、戦えば必ず傷つく。
 人の死の重みも、そこらのバイオレンス・アクション映画とは違いすぎる。普通の映画で人がバンバン撃たれても私はなんとも思わない。でもこの映画では(撃たれたのがチンピラでも)そのたびギクッとさせられる。いつもながらクロネンバーグは痛い。痛みを肌で感じさせるあたりがやっぱりすごい。
 ちなみに、至近距離で人を撃てば、飛び散った血や脳みそやはらわたをザバッと浴びたり、撃たれた顔がぐしゃぐしゃになったのを見せるあたりに、「昔のクロネンバーグ」がちらっと見えますね。

エド・ハリスとヴィゴ

 お話はと言うと、(以下ネタバレ注意)、平和でみんなが友好的な町で、妻とティーンエイジャーの息子と幼い娘の4人家族で、トム(Viggo Mortensen)は小さなダイナーを営んで、つつましくも幸せに暮らしていた。そんな彼の生活が一変するのは、ダイナーに武装強盗が押し入ったときからである。彼は強盗2人組を射殺するのだが、そのため英雄に祭り上げられてしまう。それがきっかけで彼を「ジョーイ」と呼ぶギャングにつきまとわれるようになる。どうやら、トムには秘密の過去があるらしい‥‥
 というところで、また「偽の記憶」ものか?と思った。でもさすがに2本続けてそれはなかった。記憶はちゃんとある。隠していただけ。彼はヤクザ暮らしからきっぱり足を洗い、名前を変えて隠れ住んでいたのだ。しかし、ギャングどもの手が家族にまで伸びてきたとき、「ジョーイ」が過去からよみがえる‥‥

 まっ、わりとありがちな話ですね。家族を守るために戦うとか、愛する者を殺された復讐のために戦うとか、単に今の暮らしを守るために戦うとかいうのは、アメリカ人(クロネンバーグはカナダ人だけど)が大々大好きなパターンで、映画では実によくある。でもさすがクロネンバーグというか、やっぱりなんか変だ。主としてヴィゴの虚無的な表情のせいだと思うのだが、そんな命がけで死に物狂いで戦うという雰囲気じゃないのだ。
 家族が脅かされても、自分からは何もしようとしないし、向こうからやってきて銃を突きつけられたからしょうがなく殺すって感じ。なんかゴミでも片づけるように、ため息ついて無造作にやっつける感じ(笑)。これがかえって新鮮で楽しい。
 殺しのシーンも楽しい。なにしろ殺される奴らは人間性のかけらもないような悪党ばかりなんで、罪悪感も感じないし。この辺がいかにもマンガ。でも、たかが文無しのダイナー強盗まで、ここまで血も涙もない怪物にしなくてもいいのに。
 アクションに見所があるわけではないが、(ヴィゴは絶対アクション向きじゃない。LOTRでも特訓にもかかわらず剣術あまりうまくならなかったし)、とにかくヴィゴが強くて、悪い奴らを虫けらみたいにやっつけるのは快感。相手が弱すぎるので、ぜんぜんスリルはないんだが、このそっけないところがかえって快感。

 もちろん、これだけでは話にならない。話をちょっと複雑にするのは家族の反応。優しい夫や父が実はマフィアも恐れる凶暴な殺し屋だとわかったときの家族の気持ちは確かに複雑だろう。特にちょっとおもしろいのは、いじめられっ子の息子の反応。彼はいじめをいつもはユーモアや無抵抗主義で切り抜けていたのだが、とうとう窮鼠猫を噛むという感じで、いじめっ子を叩きのめしてしまう。(この描写もたかが子供のケンカにしては凄惨) それでトムに「暴力はいかん」と叱責されるのだが、そのすぐあとに、父親が暴力の権化みたいな男だということを知ってしまう。多感なティーンエイジャーにとって、これはショックだよね。
 そこで私としてはこの子がどうなるのか気になって見ていたのだが、ラストはあっさり父を許してしまったようなのは残念。この父子関係はもうちょっと詳しく描写してもよかったのに。
 幼い娘は何もわからないし、妻は当然取り乱すのはいいとして、かんじんのご本人が何を考えているのかがいちばん気になるところ。でもぜんぜんわからないの。かろうじて、家族と今の暮らしを愛しているのは確かなんだが、昔の自分との折り合いをどう付けていて、殺しをどう考えているのか(自分の兄まで殺してしまうのに)はまるでわからない。なにしろ寡黙な人で、なんにも言わないから。何を考えているのかさっぱりわからない爬虫類みたいな冷血人間というのは、いつものクロネンバーグ主人公だから、これはこれでいいのだ、と、普通の映画ならアラになるところも、クロネンバーグなら許してしまうし、こうでなくてはならないと思わせる。

 ただ、やっぱり少しそっけなさすぎるよね。地味すぎ。ということだけが気にかかる。
 見ていて、「そっくりだ」と思ったのは、クリント・イーストウッドの『許されざる者』(Unforgiven)。イーストウッドの役柄は、暗い過去から足を洗ったガンマンというのがまずそっくり。昔の彼は、女子供も情け容赦なく殺す残酷さと凶暴さで恐れられていたというのがそっくり。その彼がやむにやまれぬ事情から、最後に銃を取っての大虐殺で終わるというところもそっくり。
 似ているだけに違いが気になる。殺戮が様式美になっているところは同じなのだが、同じ殺人者でもイーストウッドにはある種の威厳と気高さがあるけど、ヴィゴにはそれがない。タイトルが示す通り、イーストウッドはそういう自分をあくまでも「許されざる者」と考え、重い宿命を担っていく覚悟があるのに、ヴィゴにはそれもない。あまりに空っぽな人間だし、あまりに虚しい殺しなので、『許されざる者』ほど素直に感動はできないのだ。まあ、クロネンバーグという人は素直に感動させてくれるような監督じゃないからいいという弁明も成り立つのだが。

 でもラストはちょっといい。皆殺しを終えたトムは家族が夕食を取っている家に帰ってくる。それも、困ったようにおずおずとした感じがいい。妻は堅い表情で無言だが、娘は黙って彼の皿を出し、息子は黙って料理をまわしてやる。そこで唐突にthe end。なるほど、『許されざる者』じゃなくて、許されちゃったわけか。私は許されないアンハッピー・エンディングのほうが好きだが、これはこれでほっとする終わり方だ。

 ただ、私としては、やっぱり最後に本当の「ジョーイ」の顔が見たかったですね。あれだけほのめかされていたんだから、最後にはこいつはやっぱり本当に救いようのない怪物だってことがわかるのを楽しみにしていたのに。トムが何度も言っていたように、本当に「ジョーイは死んだ」んだね。でも息子はちょっとあぶないぞ(笑)。彼の血を受け継いでるんだし、あのケンカっぷりを見ると。

 最後にもうひとつ、クロネンバーグ映画を見るたび、気になっていることがある。実は昔から私は彼が隠れゲイじゃないかと疑っているのだ。(結婚して子供もいるんだけど) というのも、本人が見るからにゲイっぽいというのは別としても、ゲイ的な素材をよく使うし(『戦慄の絆』――映画では描写されないが、本当は兄弟ホモの話、『裸のランチ』――原作はほとんどゲイ・ポルノ、『Mバタフライ』――女装男を男と知らずに愛してしまった外交官の話)、役者の好みもゲイっぽい。(フィリップ・リドリーは正真正銘のゲイである。その彼がこれほどヴィゴを気に入っていたということは‥‥) それと何より明らかな女性嫌悪・女性恐怖、それも「産む性」としての女性に対する露骨な恐怖が感じられるからだ。『ザ・ブルード』の「体外子宮」、『戦慄の絆』のヒロインは子宮の奇形だし、『ビデオドローム』のワギナ、その他もろもろのグチャグチャヌルヌル全部。
 そのため、彼の映画に出る女優はみんなひどい目にあわされる。私が女優だったら、死んでもやりたくないと思うような役ばっかり。
 エロティシズムは確かにクロネンバーグ作品のトレードマークである。『スパイダー』はこれがなかったので、そっちも枯れちゃったのかと心配していたが、今回はちゃんとある。
 クロネンバーグはエロい。でも彼の映画を見て、セックス・シーンに欲情した経験はない。だって、ぜんぶ身も蓋もない変態性欲なんだもん(笑)。それをまたむちゃくちゃグロテスクに描く(絵はきれいなんだけど)のが得意なんだが、マイホーム・パパという設定のトムにそれをやらせるのは、いくらクロネンバーグでも無理があるよね。
 そのせいか、今回の変態は奥さんのほうでした(笑)。何かというと、チアガールのコスプレ・セックス(笑)。あれが出たときはさすがの私も「やめてよー!」と悲鳴を上げた。海外ではこういうの、どう思われてるのかよく知らんが、日本人の感覚から言うと、中年夫婦のコスプレ・セックスなんて最もグロテスクで見たくもないものの代表でしょう。まあ、グロテスクで変態という意味では、これもいつも通りなんだが、少なくともヴィゴにはこれをやらせないでほしかった(苦笑)。やけにリアルなシックスナインも見せるし。いや、別にやるぶんにはいいが(笑)、見てかっこいいものではないので、こういうのってあまりスクリーンでは見たくないんですが。階段でのセックスもほとんど強姦もどきだし、幸せな夫婦にしてはちょっと変わった性生活を送っているような(笑)。それともこれも彼がジョーイだからなんだろうか?
 とりあえず、すっかり年を取って、肉が落ちて筋張ったヴィゴのお尻を見て、私は複雑な気分。というのも、『柔らかい殻』で見せたセクシーなお尻が目に焼き付いてるので。リドリーはゲイだけあって、男はきれいに撮ってくれたよ。着衣の女が裸のヴィゴを抱いたシーンなんか名画のようだった。

 というわけで、多少の不満は残ったが、やはりクロネンバーグはクロネンバーグという、いつもの結論。映画としてはよくできているし、クロネンバーグ・ブランドに恥じない出来と言っておこう。

 あ、言い忘れたが、悪役を演じた2人、エド・ハリスとウィリアム・ハートはどっちも一癖も二癖もある怪優だけに、見るからにワルでグロな悪人を喜々として楽しそうに演じていました。脇のキャスティングも憎いなあ。

 ところで次の主演は誰かな? と思って、IMDbで調べたところ、“Eastern Promises”という作品が待機中で、主演はまたもヴィゴ! 前にもジェレミー・アイアンズを二度使ったが、本当に好きなんだなあ。うれしい。でも前に書いた『ロンドン・フィールズ』は流れたようだ。
 でも上に書いた他の人も見たいなあ。クロちゃんはハンサム好みだから、マルコヴィッチの線はまずないが(笑)、エドワード・ノートンは『ファイト・クラブ』と『アメリカン・ヒストリーX』を見て、「クロネンバーグ好み」の太鼓判を押したのだが。
 ついでにヴィゴには昔から西部劇に出てほしいという夢がある。LOTRを見ていても、ファンタジーの王様というよりカウボーイみたいだと思っていたし、絶対似合うと思うんだよね。アウトドア派で、馬にも乗れるし。それこそイーストウッドが撮ってくれないかな。

2007年2月10日 土曜日

Intermedio (2005) Directed by Andrew Lauer
『インターメディオ』

 というわけで気の多い私だが、目下の本命アクターはジョナサン・リース・マイヤーズ。と言っても、役者は作品の出来で左右されるので、どうせすぐ変わるんだけど。その意味では15年間変わらず愛し続けている人はめずらしい。それがエドワード・ファーロングで、とにかく『ターミネーター2』を見て一目惚れ。どこがどう好きかは、もうさんざん書いて飽きたので省略するが、やっぱり「美少年」(でもやっぱり目が暗い)というのに尽きる。
 ご存じのように私は「子役狩り」が趣味で、えーっと、変な意味じゃないからね。美少年は好きだけど、オヤジはオヤジで好きなので、これはあくまで青田買いのつもり。実を言うと、昔は少年専科だったのだが、年取ったせいか、最近はハタチ前後の男の子にはあまりそそられなくなってしまった。大学でその年頃の男の子ばかり教えているせいか、それとも、もし私に息子がいたらそのぐらいの年頃になるせいか。
 それでやっぱり西洋人の男の子がいちばんきれいなのは6才から16才までなので、その時期を見逃さないように気を付けているわけ(笑)。そんなわけで、いろんな子役を見てきたが、これほどビンビンに感じた子役はいなかったね。とにかくT2のエディーを一目見て、「この子は手中の珠として一生大事に育てよう」(私が育てるわけじゃないが)と心に誓ったわけ。
 そんなに好きだったのに、そういえばエディーの映画は『アメリカン・ヒストリーX』以来見ていない。それもそのはず、『デトロイト・ロック・シティ』以降はすべて日本未公開なのだ。これが15年の歳月ってことか、と、昔のエディーの日本での過熱したアイドル人気を知っている私は思う。でも『デトロイト・ロック・シティ』はタイトルだけ聞いても見る気が起きなかったし。(「デトロイト」の「ロック」なんて大嫌いだから)
 ところが、ビデオ屋の棚でたまたまこの映画を見つけたので、久しぶりの再会にワクワクしながら借りて帰った。ものはホラーで、どうせB級映画だろうが、私はエディーさえ見られればどうでもいいから。むしろ、この子には将来に期待してたんだよね。子供のころはぜんぜんかわいくはなかったし(笑)。ガキのくせにこんなにニヒルで醒めてるんだから、大人になったらどんなにかクールでニヒルな私好みの変態‥‥もとい、性格俳優になるかと思って。

 それでドキドキしながら見始めたんだが、映画が始まったとたん、あまりの恐怖に総白髪になるぐらいのショックを味わった。いや、映画がこわいんじゃないの。エディーなんだよ、エディー! こ、肥えた‥‥?

 最初はてっきり役作りのための特殊メイクだと思った(苦笑)。でも見ていればこれが自前のお肉だってことはわかる。とにかく妊婦みたいにおなかがポコンと出てるの。おまけに見事な二重あご! 腕もポチャポチャだし、ダブダブのTシャツとジーンズで隠してはいるが、尻も足もデブデブなのは一目瞭然。うそー!!!!!
 これがエディー? なんかの間違いじゃないの? 『アメリカン・ヒストリーX』ではあんなに痩せてたのに、7年の間に何があったの!??? 私のエディーがポンポコリン! うそうそ! エディーが太ってたことなんか一度もないのに! この年でどうしてこんなに変われるの? あーーーーー!!!! (しばし思考停止)
  おまけに背が高ければ(私みたいに)多少のデブは気づかないふりができるのだが、この子は残念なことに、成長してもちっとも背が伸びなくて、元が華奢で小柄なだけによけい悲惨だ。チビでデブじゃいいとこないよー! 少なくともこの顔でこの体はないよー!

 と書いていたら、なんかデジャ・ヴュを感じるような‥‥なんかこれとまったく同じこと、前にも書いたような気がするなあ。James Dean BradfieldとPaul Draperについて(苦笑)。なんでよりによってそういう男ばっかり!
 だいたいこの子いくつになるんだ? と思って調べたら、今年で30。うそー! やっぱりいつまでたっても13才のような気がしていたんだよね。まあ、30の大台に乗ったからには、中年太りが始まってもそう不思議はないが。とにかくデブのエディーなんて冗談にもならない。
 いや、べつに太った人すべてがいけないと言ってるんじゃないの。太った人でも好きな人はいるし。JamesとPaulはまだ愛してるし。というのも、音楽は体でやるもんじゃないからね。(むしろシンガーは太ってる方が有利だし) でも役者は体が資本でしょうが! 体重管理ぐらい仕事のうちでしょうが!  映画で主役ができるようなルックスじゃないじゃん!(してるけど) もういらない! プンプン!

 え? 映画の話はどうなったんだって? 私はもうあのエディーの姿だけで大ショックで、映画なんかどうでもいいっす。というか、それ以前にどうでもよすぎる映画なんで。B級だろうとは思っていたが、B級なんてほめすぎなぐらい、箸にも棒にもかからないクソ映画。
 メキシコの洞窟にお化けが出る映画なんだが、その幽霊が「ぞんざいに骸骨を描いたTシャツを着た男」というだけで、どれだけすごいかわかるでしょ。『穴』のリビュー(2007年1月30日)に書いた「いかにもオツムが軽そうなガキどもがギャーギャー騒いで殺されていく映画」そのもの。それでもエディーは主役なんだから、少しはかっこいいところも見せるかと思ったら、ただ(いかにも重そうな体で)ドタバタ逃げ回るだけ!
 あまりに情けない映画だからか、役者は全員、「こんな映画じゃ誰もこわがらないから、せめて自分たちが大げさにこわがって見せなくては、お金を払ってくれるお客さんに申し訳ない(推測)」という感じのオーバーアクション。でも、やたらキーキー騒いで、息が切れてもいないのに、ハアハア言ってみせるのも白々しいだけ。
 まあ、エディーの役柄は「ドラッグ浸りの人間のクズ」なんで、その意味では役柄に合ってるかもしれないけど。

 そうそう、この間に何があったのか調べたら、All Cinema Onlineには「一時期、成功した子役スターにありがちな堕落の道を歩み、「ターミネーター3」降板の理由とされるアルコールと麻薬の過剰摂取でリハビリを受けたという」なんて書いてあった。
 そうだったのか。T3のジョン・コナーがエディーじゃなかったことに私は大いに怒っていたが、そういう理由があったのか。それで外見もここまでグズグズに崩れてしまったのか。

 それはそうと、子役スターというのは悲しいものである。大人の俳優ならば、下積み時代が長くとも、若いころどんなアホ映画に出ていようとも、1本当たり役がまわってくれば、悲しい過去は帳消しになってしまう。だけど、子役スターはデビュー時が華々しいだけに、それを一生維持して行くのは至難の業だ。それで人気を失えば、スターの名前だけで売ろうという魂胆のこういうB級映画に出なくちゃならないし、女の子の場合は脱ぎ役専門になってしまう。待っているのはほとんどが転落の道というのは悲しいよね。
 でもエディーに限って、そんなことはないと信じていたのに! いかにも頭良さそうに見えたし、アイドルになっても慢心したようなところはなかったし、その後に出た映画だって、『リトル・オデッサ』、『ビフォア・アンド・アフター』、『アメリカン・ヒストリーX 』といった、シリアスな社会派映画や、『グラスハープ』みたいな文芸作品が目立ち、やっぱりシリアスな演技派に成長していくんだと思っていたのに。まあ、『ペット・セメタリー2』とか『ブレインスキャン』みたいなB級ホラーにも出てはいるが、それだってこれよりはましだった!
 何があったんだ、エディーーーー!!!

 と、「もういらない」と言うわりには未練がましいのは、最近の写真(顔だけ)を見れば、私が期待していたような、影のあるいい男になってるみたいなんで。もういっぺん痩せて、まともな映画に使ってもらえば、まだ更正の余地はあるんではないかと‥‥
 こうなると気になるのは、その後の未公開作だよな。『ナイト・オブ・ゴッド』は仏伊合作の歴史劇というのでちょっとそそられるが、IMDbでは3人しかコメントしていなくて、うち2人は星なしというのがいやな感じ。だいたい時代劇顔じゃないし。『アニマル・ファクトリー』はスティーヴ・ブシェミ監督、ウィレム・デフォー共演というのでかなりそそるが、どうなんだろ? しかし、なんでああいう顔の人にばかり気に入られるんだ? (ブシェミはジョン・ウォーターズのそっくりさん) 『マーダー・ネット』(3 Blind Mice)は英仏合作のヨーロッパ映画で、やっぱりこれも気になるなあ。
 どれもDVDにはなってるようなんで、やっぱり捜して見るしかないんだろうが、心配。

 教訓。やっぱりデブはいやだ! まじめにダイエットしよう。(と、その時だけ思う)

2007年2月12日 月曜日

Dogville (2003) Directed by Lars von Trier 『ドッグヴィル』

 見出しの大きさがよく変わりますが、以前は適当に気分で付けていたけど、今は見出しが大きい記事は単に「長くなりますよ」の意味。別に重要な作品とか、私が好きな作品という意味ではありません。
 あと、たいていの映画はネタバレを平気で書くのに、ときどきあえてそれを避けてるものがありますが、そういう映画は自分がもう一度見たい映画です。というのも、
  1. 私は記憶力ゼロなのでどうせ筋はすぐに忘れて、何度でも新鮮な目で見られる。
  2. でも自分がリビューにネタバレを書いていると、その楽しみが損なわれるから。
です。逆にネタバレを書いている映画は、
  1. 何年も前の映画だから、もう時効だろう。
  2. 有名な映画なので、たいていの人はストーリーを知っている。
  3. ストーリーに触れないとリビューが書けない。
  4. どうせこんなの読んでる人いないから気にしない。
  5. 二度と見る気が起きないけど、この怒りを忘れないために書いておく必要がある。
といった理由です。さて、この映画は?

 いやはや危ないところだった。何がって、例によって見終わったあと、All Cinema Onlineを見ていたら、この映画のエンディングに「胸がすっとした」と書いてる人がいて、すぐに「そうじゃないだろ!」と思ったのだが、考えてみたら、ちょうど『ヒストリー・オブ・バイオレンス』で同じようなことを書いてしまったあとだった。これじゃ、「どこが違うんだよ!」と突っ込まれる。そこで、クロネンバーグとラース・フォン・トリアーとでは何がどう違うかを、事細かに理論付けて書き始めたのだが、書きながら「なんか違うなあ」という違和感につきまとわれていた。
 それでまた、IMDbとAll Cinema Onlineの評を見ていたのだが、IMDbもACOも賛否はまっぷたつに分かれているんだが、どっちかと言えばIMDbは絶賛、ACOは酷評が多い。それを見ていてはっと気づいた。

 これは「映画ファン」のために作られた映画じゃない。もちろん金のための映画でもない。クリエイターの天敵、憎たらしくいやらしい批評家をあっと言わせ、扇動し、翻弄するための映画である。
 こういう映画だと、誰でもつい小むずかしい理屈で分析したくなるものだが、それではフォン・トリアーのワナにまんまとはまったことになる! ほめるにせよ、けなすにせよ、批評家もどきの多いIMDbでは、みんなこの陥穽にはまってしまっているのだ。(「批評家くずれ」の私もそう)
 それにくらべ、いつも私が「素人」とバカにしているACOの人々は、(やっぱり理屈をこねてる人も多いが)、素直で純真な「映画ファン」の目で見ている(うえに、他人の目を意識せずに本音が書ける)ため、かえってこの映画の本質を見抜いていると気づいたときは、目からウロコの思いだった。そこでストーリー。

 冒頭、「町と住人の紹介」と題して、町の見取り図が映る。それからカメラが下がっていくと、この「見取り図」はスタジオに組まれたセットであることがわかる。セットと言っても、ステージの上に家や通りが単純な線画で描かれただけで壁もなく、背景もなく、家具が少しばかり置いてあるだけである。
 ここまではすごくおもしろいと思った。でもこれが最後まで続くとは思わなかった。それに考えてみたら、舞台劇ではあたりまえのことで、それほどめずらしくもないか。

 この町ドッグヴィルは廃鉱になったアメリカの鉱山町で、住民はみな貧しく、夢も希望もなく、町は寂れている。その中では比較的裕福なトム(ポール・ベタニー)は、町の良心を気取り、町民たちの道徳の向上に熱意を燃やしている。彼の言葉によると、彼はこの町には「受け入れる」ことが必要だと思っているらしい。
 そこへ現れたのが、ギャングに追われてドッグヴィルに逃げ込んできた女、グレース(ニコール・キッドマン)。トムは待ってましたとばかり、彼女をかくまおうとするのだが、それには町の住人の同意を得なくてはならない。そのため、トムはグレースに町民全員の家(と言っても5、6軒しかない)に毎日1時間ずつ行って、彼らの仕事を手伝うようにすすめる。
 グレースは献身的に働き、最初は「やってもらうことなんかない」と言っていた住民たちも、次第に彼女に心を開き、彼女を頼るようになる。それに意を得たグレースは、それとなく彼らの心や暮らしを変えようと試みる。そして独立記念日のパーティーで、みんなはグレースが町を明るくしてくれたことに感謝する。

 と、ここが頂点。ここまではよくある「小さな田舎町賛美」のように見える。不器用な頑固者だが、純朴な人々の真心に触れて、都会者が傷ついた心を癒され、そのお返しにささやかな恩返しをするといったたぐいの。ところがここを境にあとは転落の一途。
 グレースを探して、ギャングや警察が町へやってきたことで、住人たちは動揺し始める。トムはグレースに働く時間を倍に増やし、わずかばかりの給金も減額することで、人々の心をつなぎ止めるように指示する。グレースはトムのアドバイスはすべて受け入れてこれに従う。
 しかし次第に彼女は町中の人間に家畜並みの奴隷としてこき使われるようになり、と同時に猜疑と侮蔑の目で見られ、忌み嫌われ、裏切られ、冤罪を着せられ、しまいには首輪をはめられ、(逃亡防止用の)鎖と重りを付けられた上に、夜は町中の男たちの性的玩具としてもてあそばれるようになる。実際はそんな気取ったもんじゃなく、劇中では「田舎者が牛を使ってやるのと同じ」と、もっと身も蓋もない言い方をされている。
 それでもグレースは文句ひとつ言わずに耐える。彼女もトムと同様、一種独特の道徳観念の持ち主で、「傲慢」ということを何より嫌い、どうやらこの屈従を忍び、自分を虐待する人々を許すことが、自分を傲慢の罪から救う贖罪になっていると信じているらしい。しかし住人たちはグレースのせいで人心がすさんだと恨み、彼女をやっかい払いするために、ギャングに彼女を売り渡してしまう。

 どうです? いやな話でしょう? 主人公のトムという人物からして、もうどうしようもいやらしく胸くそが悪い。道徳を振りかざすところからして胸くそが悪いが、トムは町の中で、唯一グレースに同情的で、口では彼女を愛していると言うのだが、彼女の虐待を見て見ぬふりをしているばかりか、そもそもそのきっかけを作ってやっているのがトムなのである。
 彼は他の男たちが彼女をレイプしているのを見ながら、自分もやりたいにもかかわらず、道徳観に反するのでできないことに何よりいらだちを感じている。それで、結局は自分を守るために、そもそもかばってやったギャングに(殺されると思いながら)与えてしまうばかりか、礼金まで要求するのだ。
 そしてギャングがやってくる。ここでグレースがギャングのボスの娘だったことがわかる。彼女は傲慢な父親に反発して逃げ出したのだが、ここに及んでもまだ町に残るつもりでいる。その娘に向かって、父親は「傲慢なのはおまえのほうだ」と言う。彼女の聖女気取りを非難しているのだ。
 これを聞いて彼女はコロッと考えを変える。自分の傲慢さを「反省」し、「正義」を求めることにする。そして「この町はこの世にないほうが世の人のためになる」と判断して、住民全員の殺害と町を焼き払うことを命じるのだ。それも「子だくさんの母親がいるんだけど、母親の見ている前で子供を殺して。そして子供が死んでも涙を流さなければ、それ以上殺さないでやると言ってやって」という親切な指示付きで。ギャングの父ちゃんもあきれ顔。もちろんトムは自らの手で射殺する。

 これが傲慢でなくてなんだろう! 町ひとつ地上から抹殺するとは神にでもなったつもりか? ここに至って、無垢な犠牲者のように見えたグレースが最大の極悪人であったことがわかるのだ。少なくともドッグヴィルの住人は彼女を殺そうとはしなかった。母親の件は自分がされたことに対する復讐なのだが、彼女が失ったのはたかが安物の陶器の人形である。結局、町民たちはただの無神経で粗野なヒルビリーで、道徳家気取りのトムとグレースのために命を失ったことになる。なんともいやな後味の残る映画だ。

 というところで、また冒頭の話に戻る。このすさまじい悪意と暴力は、すべて記号化されている。セットもそうだが、ほとんどすべての話はジョン・ハートの寓話みたいなナレーションで進む。普通ならこれは一種の婉曲表現と言える。とにかくこの映画ではすべてが徹底的な作り物。それも明らかな意図と悪意をもって作り込まれている。
 それで記号というものぐらい、批評家が好きなものはないんだ。犬だけはなぜか床に描かれた絵なのに、この犬だけが最後まで生き残り、ラストで実物に変わるのはなぜかとか、牧師がいない教会は神にも見捨てられた町を表してるとか、エルム・ストリートというのはもしかして『エルム街の悪夢』のことじゃないか(監督は『サイレント・ヒル』のファンだというから、ありえないことではない)など、いくらでも考えつく。でも、そういう表象に気を取られていると、大事な本質を見失わないか? ここで本質というのは、たとえば、

「ただアクションを見せるだけのB級アクション映画よりも、エロシーンしか見所のない安いホラー映画よりもくだらなく感じた」 (All Cinema Onlineのユーザー・コメントより引用)

というような率直な感想のことだ。

「この展開はどこかで見たような、と思ったら、「湖畔にバカンスに来た女子大生が野獣のような男どもに犯されて復讐する」とか(中略)・・・などという、私が昔見たB級バイオレンスエロ映画まんまの筋書きではありませんか!」 (同上)

というのも鋭い。実際同じなのだ。この映画が記号化されているのは、普通に撮ったらその手の映画と見分けが付かなくなってしまうからじゃないか? あと、このコメントも痛い。

「私は、この映画に出てくる村人たちのような人間性は、実生活で経験済みです。学校、職場、隣近所、みんなこんな感じ。私自身が村人であり、グレイスでした。(中略) ラース・フォン・トリアーの作品はもう二度と見ないし、レイプシーンのある映画は半年は見たくない。それぐらい辟易としました」 (同上)

 はい、私も経験しましたよ。レイプも鎖もなかったけど、比喩的な意味ではたっぷりあったし。なんのために、私が年収800万の教授職をなげうったと思う? こんなところにいたら、肉体的にボロボロになるばかりか、人間としての最後の尊厳もむしり取られてしまうと思ったからだ。だからと言って、それを金出してスクリーンで見たいかと言われたら、私は絶対見たくない。

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を見たときも、「なんていやな映画だ」と思ったけど、本当にここまでいやな映画ばかり撮る監督だったとは!
 もちろん、「見る人をいやーな気分にさせる」ことが目的の映画はたくさんある。デヴィッド・リンチの初期作品はそうだし、私が絶賛するクロネンバーグだって、見る人によってはいやな感じしかしないだろう。でも彼らの映画にはその中に快感があったし、哲学があった。私にはそれはみじんも感じられない。あるとすれば、「人間なんてみんなゴミだ」という、これまた身も蓋もない性悪説だけだ。
 よく言われるアメリカ批判とか宗教批判というのもまったく感じなかった。実際、どこの国でもよくある話だし、宗教も関係ないし。そうそう、文学の世界ならこういう話はごまんとある。この陰湿さはむしろ日本的な気もしたなあ。鬼畜系のマンガじゃよくある話じゃない? そこで文学とエログロ・マンガやエログロ映画との違いは何かとか、「人の心に潜む闇」を描くというのは、まさにクロネンバーグの長年のテーマなので、それとの違いとは何かとか、最初はまじめに書こうとしていたのだが、上記の理由でやめた。こんなのと比較されたらクロネンバーグが汚れるし。(これだけ書いたら、こんな映画に頭と労力使うのがバカバカしくなってしまったという理由もある) よってあとはどうでもいいことだけ。

 ニコール・キッドマンというのは、おぼこい顔して普通の女優ならいやがるようなひどい役ばかりやる(と私には思える)うえに、いやーな女を演じるのがうまいのはなんでか?(笑) ガス・ヴァン・サントの『誘う女』の最低女ぶりが印象強烈すぎたのでそう思うのかもしれないけど。私としてはトム・クルーズみたいなうじ虫と結婚していたというだけでも嫌いだったが、これが地だったらどうしよう? もっとも、この映画は3部作になるんだが、他の出演は降りたというからまだまともか?

 この映画にはメイキングがあり、独立したフィーチャー・フィルムになっている。それだけでもいい根性だと思うのだが、DVDにそのトレイラーが付いていて、見ると、俳優や監督がスタジオの隅に設けられた「告白室」でカメラに向かって、心情を吐露するという内容。
 これじゃドキュメンタリーじゃないじゃん。プロの俳優が、フィルムに撮られていると知りながら本音を言うか? これも一種のやらせか?
 ところで、ACOのユーザー・コメントでは、みんながみんなラース・フォン・トリアーがいかにいやな奴かということしか書いてない。本当にそうだったのか!(笑) やっぱりそういう品性が作品にもにじみ出てるのかなあ。
 ビョークとなら気が合いそうだ。私は彼女の音楽的才能は大いに尊敬しているが、友達には絶対なりたくない。

 とにかく、見ればいやな気分になれることは確実の映画なので、人生に絶望していて、いっそケリを付けるために、もっと絶望したい人におすすめ。でも私はフォン・トリアーの映画は二度と見ない。映画が好きなら見てはいけない。

2007年2月15日 木曜日

The Chronicles of Narnia: The Lion, the Witch and the Wardrobe (2005) Directed by Andrew Adamson
『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』

 前から書いているように、子供時代の私の最大の愛読書である(もう1冊あげるなら『シートン動物記』。私の動物好きのルーツはこの辺にある)、『ナルニア国物語』の映画化作品。だけど、あまりにも出来が良かった『指輪物語』(以下、LOTRと省略)のあとだけに、おまけにこっちはディズニーだけに、不安は隠せない。これもDVDを買うつもりだったけど、やっぱりその前にと思って借りてきた。
 (文中、LOTRとナルニアを比較するような表現が多いけど、実際問題として、こちらは子供向けの童話なので、あまり共通点はない。単に、原作者のトールキンとC・S・ルイスがオックスフォードの同僚で親友だったことと、ほぼ同時期に映画化されたというだけ)

 で、見終わってふうっとため息をつきながら、例によって人様の感想を見る。IMDbは絶賛が多いが、All Cinema Onlineは、またも賛否がまっぷたつに分かれてるな。変だなあ、私は普通、日本人より外国人とのほうが意見が合うのだが。というのも、やっぱり文句を言うつもりだったから。
 とりあえず、この映画化に関しては、不安と期待が半々だった。絶対失望すると思うと同時に、でもやっぱり期待してしまう。期待できそうな理由は、

1.LOTRに較べると、巻数は多いけど、子供向けなので話はずっと単純で、一話完結だし、わかりやすい。そのぶん映画にするのも楽なはず。
2.監督のアンドルー・アダムソンはニュージーランド人で、ピーター・ジャクソンのおかげで、私的にはニュージーランドの評価がうなぎ登りに上がっている。
3.やはりニュージーランドつながりで、特殊効果はLOTRと同じWetaが担当しているから、少なくともCGやクリーチャーは見られるんじゃないか。そうじゃなくても、CGが発達した現在でないと撮れなかった映画という意味では、LOTR以上だし。

逆に不安理由はと言うと、

1.ディズニー

というのに尽きる(笑)。しかしACOで不評なのは解せないな。日本人はディズニー大好きだし、こういう泣かせて、心暖まる話は大好きなはずなのに。
 そして見ての感想はというと、やはり両方。これも良否を箇条書きにすると、

良かった点

1.とりあえず、あの『ナルニア物語』が映像化されたということ。

 IMDbの評者が好意的なのは、やはり原作に小さいころから親しんでいるファンが多いからだろう。それは私も同じ。ビジュアル的にはLOTRよりもずっと壮大な世界だけに、本で読んで想像していただけの世界が実際に見られるという感動は大きい。

2.役者

 国際色豊かだったLOTRに対して、こちらは全員イギリス人キャストで揃えたが、役者はみな適役。
 いちばん心配だった4人の子供たちだが、確かにあまりかわいくはない。でも「個性も何もない」というのは、勘違いの言いがかりだ。ペベンシー家の子供たちは、原作を読んでもごく普通の、(読者に共感させるためだと思うが)どこにでもいそうな平凡な子供たちで、おまけに戦時中の話だよ。(つまり、子供はあくまで子供らしかった時代ということ) 彼らが強烈な個性を発揮したり、妙に芸達者だったり、美少年美少女ばかりだったら、かえっておかしい。確かに、幼いだけに地でやれるルーシー(ジョージー・ヘンリー)はともかく、アメリカ映画の憎たらしいほどうまい子役にくらべて、いかにも素人っぽくて下手だけど。
 ピーター(ウィリアム・モーズリー)はもうちょっとお兄ちゃんらしくりりしくてもよかったかなとは思うけど、雰囲気的にはそっくり。それを言うなら、美人と呼ばれるスーザンももうちょっとアレでもいいかなとは思うが、優しくしとやかなお姉さんらしさは出ていた。エドマンド(スキャンダー・ケインズ)はBBC版よりこっちのほうが原作の挿絵に近くて正しい。おしゃまなルーシーはこれも正解。
 カーク教授(ジム・ブロードベント)もイメージ通り。でも彼は重要なキャラクターなのに、顔見せだけだな。いや、これは原作もそうだったか。ちらっと見せておいて、でも「この人は何か知ってる」と思わせるだけのほうがいいか。
 タムナスさん(ジェイムズ・マカヴォイ)も、気弱そうなところがぴったり。
 それで「白い魔女」はもうティルダ・スウィントンしかいないでしょう。あの冷たさと、気品があって女王然としたところ。しかし、ティルダとショーン・ビーンは、私はデレク・ジャーマンで知ったので、彼らがこういう映画に出ているのを見るのは奇妙な感じがする。結局、イギリス人役者って、映画ではファンタジーか時代劇しか出番がないのかなー。

3.クリーチャー

 これも予想通り。なんつったって、着ぐるみを着た人が演じるのにくらべれば、天と地の違いだよ! 私はCG動物が嫌いだが、こればかりは本物の動物を使ったのではかえって嘘くさくなってしまう。(動物の口だけ書き換えてパクパク動かすとかね) できればもっとたくさんの動物を出してほしかったんだけどなあ。
 タムナスさんは足だけCGで、ちゃんと山羊足になっているのにも感激。
 どうでもいいことだけど、ピーターはユニコーンに乗っていて、こんなの原作になかったと思うんだけど、とりあえず童貞だろうからいいことにしよう(笑)。(ユニコーンに乗れるのはヴァージンだけ) それで、そのユニコーンが裸馬で、私は「なるほどユニコーンに鞍や手綱を付けるのはおかしいな」と納得していたんだけど、実はデジタル処理でそれを消してあったことを知ってだまされたような気分になった。ガンダルフは(というか、イアン・マッケランのスタント・ダブルは)ちゃんと裸馬に乗ってたぞ! (実は裸馬に乗るのはすごくこわくてむずかしいのだ)

悪かった点

1.ディズニー

というのに尽きる(笑)。こうなるとは思ってたんだけどね。それでももう少しなんとかなるかと思ってたのに。

 詳しく書こう。LOTRがなぜ成功したかというと、技術やお金や才能の問題じゃなく、作り手みんなに原作に対する愛があったからだと思うんだよね。彼らにとってミドルアースは実在の世界だった。少なくとも書かれなかった歴史のどこかに存在していた国だった。
 ファンタジーの要は矛盾するようだがリアリティである、というのは前にも書いた。ほんとらしく見えなかったら、夢や幻想はいともかんたんに瓦解してしまうから。作り手が嘘だと思っているのでは、ファンタジーは本物にはなりえない。だから、LOTRの製作者たちは、それを「本物」にすることに心血を注いだが、この映画の作り手にとっては、ナルニアは‘just another childrens' movie’だということがありありとわかってしまうのだ。

 映画が始まってすぐに、私はひどい違和感に悩まされていた。もちろん話は原作通りだし、原作の挿絵のイメージ通りでもあるんだが、なんか違う。ここがナルニアだと言われても、どうしてもそう思えないのだ。LOTRこそ、映画化なんて不可能だと思っていて、でも幕を開けてみたら、本当にミドルアースが目の前に広がっていたので、心底驚いたのに。
 それで細かいことが気になりだした。カーク教授の家も、ケア・パラベルの城も、外見はいちおうそれふうなのだが(ケア・パラベルはマット絵だが)、中へ入ってみると、なんとも安っぽくて本物とは思えない。教授の家なんて、立派なカントリー・ハウスでしょうが。だけど、内装はいかにもチープで、ただの田舎家にしか見えない。壁なんてペラペラで、いかにもセットという感じ。
 それを言ったら、雪の森も見るからにセット。これまたLOTRがセット作りにどれだけ手間暇をかけたかを知っている私としては、露骨な手抜きにしか見えない。あれだけお金のかかってないBBC版だって、クリーチャー以外はいかにも本物らしかったし(いつもながら、セットと衣装はすばらしい)、少なくともナルニアじゃないとは思わなかったのに。(もっともイギリスではお城は本物を使ってしまうという奥の手があるが)
 結局、ほどほどの予算で、ほどほど見られる作品に仕上げました、というだけ。商業的にはこれで正しいんだろうが、ファンには許せない。

 かんじんのドラマもちっとも盛り上がらない。いちおう筋をなぞっただけ。エドマンドの裏切りも、最大の山場であるアスランの処刑も、さらっと描かれるだけで、これじゃ原作ファンのみならず、原作を知らない人もなんてつまらない話だろうと思うだろう。そのくせ、原作では軽く扱われている合戦シーンをクライマックスに持ってきて、エンターテインメントしたつもりだろうが、これもさっぱり盛り上がらないまま。
 だから、LOTRとくらべて、「スケールが違いすぎる」とか、子供っぽいとか、薄っぺらいとかそういう感想が出てくるんだろうな。
 断っておくけど、ナルニアはスケールが小さいなんてことはないよ。LOTRは長い歴史の中の「指輪戦争」という一コマだけを描いているけど、こっちはひとつの世界の始まりから終わりまで描いているんだから。
 子供だましでも絶対ない。アスランの死なんて壮絶じゃない。それもただ殺すんじゃない。子供向けだからたてがみを切る程度になっているけど、これって要するに敵をただ殺すだけじゃなく、拷問したり、死体に陵辱を加えて愚弄する中世の習慣をそのままなぞっている。(『氷と炎の歌』にそういうのがいっぱい出てくるので、つい連想してしまう)
 でもこの映画じゃその悲愴感がぜんぜんないのだ! よって泣けない。そうそう、「ものいうけもの」はいいんだけど、悪役のほうのクリーチャーは迫力不足。中にはよくできたのもいるんだけど、ちらっと映るだけだし、「狼」は犬がワンワン言って走り回るし。

 動物がしゃべるというのも、いかにも子供っぽく思えるかもしれない。でもナルニアは「ものいうけもの」の国なのに! (なぜか王様だけは人間だが)
 ただ、アスランだけは原作を読んだときも軽い違和感があった。というのも、猫科の動物の中じゃ、私はライオンがいちばんかっこわるいと思っているので(笑)。でもアスランはライオンのように見えるだけで、本当のライオンじゃないことは明らかなので、どうせCGで作るなら、いくらでも威厳を持たせることはできただろうに、まんまなんだよね。これじゃ、アスランがどれだけ偉くて、強くて、恐ろしくて、なおかつ神聖な存在か、ぜんぜん伝わらんだろうな。
 ついでに言うと、リアム・ニーソンにアスランの声をやらせたのも失敗。どうせ声だけなら、どうしてもっと威厳のある声の俳優にやらせない? リアム・ニーソンなんて鼻にかかった変な声だし、じじくさいし。だいたい彼は最近出過ぎなので、声だけ聞いてもあの顔が想像できてしまい、イメージぶちこわしだ。

 とにかく、こんなだから、『ハリー・ポッター』なんかと比較してけなされちゃうんだ。これは私にとっては屈辱的な侮辱! 『ハリー・ポッター』なんてファンタジーとしては下の下の子供だましだし、原作は『ハリー・ポッター』なんか足下にも及ばない傑作なのに!
 あー、これがあと6作続くのか。それでも見ないわけにはいかないだろうけど。カスピアン王子役に決まっているベン・バーンズはなかなかの王子様顔なのでいいけど、せっかく役者が良くても、このヘボい演出と編集と美術じゃねえ。
 それでもこの『ライオンと魔女』は、(あまりにお説教臭が強すぎるので)どっちかというとシリーズでいちばんつまらない巻なので、少しは良くなることに期待したい。
 でもこんなのろのろしたペースで大丈夫なのか? というのも、この子たち、最終巻でもまた出てくるのに。子供はあっという間に大きくなってしまうので、最後は代役たてるとか、むさ苦しいティーンエイジャーになって出てきたりしたらがっくりだ。

 それで思い出したが、彼らがナルニアで王・女王として大人になる部分ね。あれは原作読んでけっこうショックだった。なにしろ子供の私は自分が大人になることなんて想像できなかったし、すっかり登場人物に感情移入していたので、その彼らがいきなり大人になって出てきて、変な文語調でしゃべるんだもの(笑)。世界中の王子たちに求婚されたって、ちっともいいとは思わなかった。(今はいいと思います)
 でも映画でそれを演じた4人はみんななかなかステキで、子供たちともけっこう似ていたので、もうちょっとよく見たかった。とにかく役者はいいんだよな、役者だけは。

 あー、これも7作一気撮りでピーター・ジャクソンに撮らせるわけにはいかなかったの? そんなことしたら死んじゃうだろうが、これだけ撮って死んでもいいよ。なんて、無理なことを言ってもしょうがないか。
 他にも言いたいことはたくさんあるが、こんな映画にこれ以上時間を割くのはつまらないのでやめます。原作についてなら、いくらでも語れるので、また機会があったら。

2007年2月19日 月曜日

また『氷と炎の歌』のこと

 (この本については2006年12月29日と2007年1月8日の日記を参照してください。でも読んでない人にはたぶんつまらないトリビアだけど)

 というわけで、ジョージ・R・R・マーティンの超傑作エピック・ファンタジー『氷と炎の歌』だが、アメリカではすでに4巻まで出版されているのに、翻訳は3巻までしか出ていない。5巻目ももうすぐ刊行というのに、翻訳が出るのなんか待っていたら、いつになるやらわからない。と言って、結局ペーパーバックを買うはめに。
 若いころはよくSF(や本業の文学)のペーパーバックを読みあさったが、年取って洋書を読むのがめっきりつらくなった(し、すっかり怠惰になった)私がここまでして読みたいと思う本はそうはない。でも、いやでも買わせるようにできてるんだよ。
 前に書いたように、この小説は各章で主人公(というか視点人物)が変わり、いくつもの異なる場所での話が並行して進んでいくのだが、各章の終わりは主人公が絶体絶命の危機!というところでぷっつり終わるか、「まさか!」というようなあり得ない出来事が起きたところで終わるのは、まあお約束。それでそのあとどうなったかどうしても知りたくなるのだが、そこでまた別の場面に移る。でもそっちも、どうしても続きが知りたかった話なので、また先を読む、というのの繰り返し。
 それでもこれだけ大部の小説の場合、いちおう1冊のラストではそれなりの落ちを付けるよね。ところがこの小説は全部つながっていて、1冊読み終わっても登場人物は全員、宙ぶらりんのまま放り出されてしまう。何が何でも次の本を買わなくてはならないわけだ。
 だいたい、絶体絶命と言っても、普通の小説なら主人公は絶対死なないから、それほどあせる必要はない。でもこのシリーズはまったく展開が読めないし、誰がいつ死ぬかわからないから。命は助けてあげられないにしても、せめて最後はこの目で看取ってあげたいと思って。なんのこっちゃ?(笑)

 それで今は分厚いペーパーバックの半分ぐらいまで読んだところ。「中世ものは読みにくい」というのを恐れていたが、それは『薔薇の名前』で(衣装やら建築用語やら、見たことも聞いたこともない単語ばかりで)死ぬほど苦労したからで、さすがに娯楽小説はずっと読みやすい。だいたい先が知りたいからすらすら読める。英語の読解力を付けたい人は、こういうページターナー(あまりにおもしろくてどんどんページをめくってしまうような小説のこと)を読むべきだ。

 ただ、原書を読むのを避けていたのは、一度原書で読んじゃうと、もう翻訳に戻れないんだよねえ。
 いや、私も経験あるから、翻訳がいかに大変な仕事かわかってる。それにこの翻訳は読みやすいし質がいいとも思う。ただ、やっぱり原文とくらべちゃうと違和感があるのだ。
 私がいちばん違和感を感じるのは、訳語じゃなくて固有名詞のカタカナ表記。ファンタジーだけあって、現実には存在しないような、聞き慣れない名前が(それも数百単位で)出てくるのだが、それがいちいち引っかかる。
 たとえば、「バロン・グレイジョイ」という人物が出てきて、私は当然Baronと頭の中で置き換えて、「グレイジョイ男爵」なんだと思っていたが、綴りはBalonで、これはファーストネームだったのだ。あー、私ならこれは混乱を避けるために「ベイロン」と訳すなあ。日本語はRとLの区別がないので困る。ラ行の音が入った名前が出てくると、どっちかわからなくてまごつくし。というのも、私はカタカナ語を見ると、頭の中で英語に戻して考えるのだが、普通の人は違うんですか?
 とりあえず、普通の小説ならRもLもラ行で訳して問題ないのだが、この小説みたいにキチガイみたいに登場人物が多いと、TallyとTarryが出てくる可能性がある。(実際にいるかどうかまで調べてないが、いそうだ) それだと、どっちも「タリー」としか書けなくて、別人だと言うことがわからない! さらにTallyとTullyになるともうお手上げ。日本語には母音が5個しかないもんで。訳者も苦労するだろうな。

 しかし、英語圏の読者も名前の読みには困っているようだ。まあ、ラブクラフトの「クトゥルー神話」ほどじゃないですけどね。あれは絶対発音不可能な名前ばっかりだから。だから、「ク・リトル・リトル神話」なんていう珍訳ができてしまうのだが。(綴りはCthulhu)
 むしろこの世界の名前は英語が元になっているように思える。RobertとかJonとか、普通の名前もあるし、Eddardなんてのは、愛称がNedなのを見ても、Edwardのwが落ちた名前だということがわかる。どうやら、主要な舞台となる七王国の人は英語っぽい名前で、「外国人」は異国風の名前を持つようだ。
 しかし、主要登場人物なのに、Cerseiなんていう見慣れない名前もある。翻訳では「サーセイ」になっているが、私はこの綴りをみたら、Circe(ギリシア神話のキルケ)を連想して、「サーシー」と読んだけどな。Wikipediaには「名前の発音の仕方」が、作者本人がインタビューなどで口にしたもの、オーディオ・ブックでの朗読によるものなどを参考として解説されているのだが、同じ名前が「サーセイ」、「サーシー」、「シアセイ」と3通りもある!
 そんなだから何が正しいとは言えないのだが、それでも翻訳はこれを参照してほしかったな。というのも、納得いかない表記がいくつもあるからだ。たとえば、Catelynは翻訳では「ケイトリン」になっているが、これはキャサリンを思わせるので、「カトリン」だろう。Jaimeは実在の名前なので(MarionのJaime Hardingがいる)、「ジェイミー」でなくてはおかしいのに、「ジェイム」になっているし、Tommenを「トンメン」にするのもひどい。(英語の綴りはダブっていてもひとつとみなすので)これは「トーメン」でなくてはいけないと思ったら、Wikipediaは全部そうなっているじゃないか。
 あと、Gilesはありふれた名前で、どう考えても「ガイルズ」じゃなくて「ジャイルズ」だろう、とかいった明らかなミスもたくさんある。
 まあ、それでも全部で千人ぐらいいる登場人物の名前を全部カナに直せと言われたら、私は絶対お断りなので(笑)、訳者の苦労はよーくわかります。

 ミスと言えば、JaimeをCerseiの弟としてしまったのは重大なミス。実を言うと、これがはっきりしたのは4巻目なので、訳者も翻訳当時は知らなかったのだろうが、これには重大な予言が関わっているので。彼らは双子で、英語では普通双子のどっちが年上かということは問題にしないのだが、Cerseiが先に生まれたことは確かで、彼女は「弟に殺される」という予言を死ぬほど恐れているのだ。彼女はそれをTyrionだと思っているが、実はおそらく‥‥なので、もしそうなった場合、どうやってつじつまを合わせるのだろうか?

 あと、翻訳ではわからなかったのは、時代小説にふさわしく、けっこう古語や文語が使われていること。perhapsの代わりにmishapsだし、数の数え方も現代英語と違う。これがとても詩的な感じで、美しいしかっこいいのだ。できたら翻訳も文語調で訳してほしかったが、これまた死ぬほど大変なのは知っている。それでも少しは時代がかった単語を使っても良かったのではないか?
 もっとも、『ナルニア国物語』みたいに、「かたがた、今こそ馬よりおりて、徒歩(かち)にてかのけものを、いざ、あれなるしげみにおいましょうぞ」(ナルニアの王になった主人公たちの会話)というのでは、今の子供は絶対ついてこれないし、この長さと複雑さで、しかも文語体だったら、子供じゃなくても日本の読者は絶対ついてこれないのでやむをえないか。マジで新聞だって読めないんだからね、今の大学生は。
 他にも、呼びかけの言葉は日本語にないだけにむずかしいのだが、英語のsirに当たるserを「あなた」と訳すのは抵抗を感じる。「ミロード(my lord)」とか「サイア(sire)」なんていう古風な呼びかけも、聞くとゾクゾクするぐらいステキだと思うのだが、これも「殿」ぐらいしか訳せなくて日本語にならないな。
 とりあえず、「翻訳はむずかしい」ということを再認識。「彼は椅子に座ったまま眠り込んだ」と言うよりは、‘Sleep found him in his chair.’のほうがはるかに美しいと思うが、その美しさを日本語にしろと言われたって私にはできないし。

 ところで、ここまで読んでも物語はいっこうに完結する気配がない。それもそのはず、この1000ページ以上ある4巻目は本当はこの倍の長さで、あまりに長すぎるので、半分は5巻にまわしたのだそうだ。いったい、この小説、終わるんだろうか?というのが心配(笑)。
 おかげでこの世界の最大の謎――なんで夏が何年も続いていたのかとか、北方にいる人間みたいだけど人間じゃない生き物は何者なのかとか――はまだヒントすら出てこない。これを説明するにはやっぱりSFにしちゃうしかないと思うんだけどなあ。
 でも最後の結末はなんとなく予想ができて、たぶんあの人はあの人の息子で、あの人と結ばれて七王国の支配者になるような気がしている。 

2007年2月26日 月曜日

 最近、映画評ばかりですみません。ネタがないわけでも、時間がないわけでもないのだが、近頃けっこう落ち込んでいるので(理由はいつもの通り、貧乏)、書く元気がわかないのだ。時事ネタで言いたいこともたくさんあるのだが、いやな話ばっかりだし。その点、映画の話がいちばん気楽に書けるので。それでも書くところがなんだけど。

The League of Gentlemen (BBC TV 1999-2002)

 これは映画じゃなくて、BBCの連続テレビドラマ。リーグ・オブ・ジェントルメンの名前は前から知っていたが、DVDのおかげでやっと見ることができた。もっともあまり期待はしてなかったけどね。というのも、話を聞く限りあまりにもモンティ・パイソンそっくりで、モンティ・パイソン以上のわけないと思ったから。なにしろモンティ・パイソンは私にイングリッシュ・ユーモアのすべてを教えてくれた。ついでにイギリス人についてもすべてを教えてくれた、と思っているのだが、今のところ、それであまり違和感ないところをみるとやっぱり本当だったんだ。
 で、見てみたら確かにモンティ・パイソンに似ている。大学の劇団仲間で、メンバーがほとんどすべてのキャラクターを(女性キャラも含めて)演じわけ、ブラックなギャグを売り物としているあたりは同じ。特に彼らはバッド・テイスト系のギャグが得意らしく、これもホラー・コメディということになっている。
 ただやっぱり違いは大きい。簡単に言っちゃうと、モンティ・パイソンでつまらないスケッチ(コント)が15に1つぐらいだとすると、こっちは2つに1つがつまらない。メンバーの芸達者と変身ぶりも売りだが、6人いたパイソンにくらべ、こっちは3人(4人組だが、1人は演出専門)で演じ分けるので、やはり限界があるし、才能もやっぱりパイソンには及ばない。そもそも、モンティ・パイソンは脈絡のないスケッチの詰め合わせだったが、こちらは架空のノーザン・タウンを舞台にしたシチュエイション・コメディなので、登場人物も限られるし、ギャグもパターン化してしまう。

 というわけで、それほどつまらなくもないが、たいしておもしろくもないというのが正直なところ。好きなところもないわけじゃないんだけどね。
 いちばん好きなのは、「患者をすべて殺してしまう優しい獣医さん」(笑)。しかもその殺し(医療ミス)がすべてスプラッタ。好きな理由は動物が好きだから(笑)。《だからって殺すのを見て喜ぶか!》 だって、本物の動物じゃないからいいじゃん。だいたい、そうでなければホラーなんか見れない。《それは道理だけども‥‥》
 あと、音楽好きの私としては、「70年代にバンドにいてちょっとしたヒットを飛ばしたが、今は病院の雑役夫をしている、うらぶれたオヤジ」の話が笑える。だって、本当にいそうなんだもん、こういう人。昔の栄光が忘れられなくて、会う人みんなに無理やりカセットを配ってるくせに、口では「やめてよかったよ。汚い業界だからね」と見栄を張る。なんか、あの人やあの人(匿名)の将来の姿のような‥‥(笑)。
 息子の友達のDJをつかまえて音楽の話をしようとするんだが、まったく噛み合わない(なにしろこっちはユーロビジョン・ソングコンテストの世界だから)のもおかしいし、ブヨブヨに太って頭の薄くなったオヤジが、お約束のラメ服とロンドンブーツに無理やり体を押し込んだ姿も爆笑もの。でも再結成話にだまされて、退職金をすべて取られてしまうのはかわいそう。
  特にかわいそうなのは、彼は自分の意志でバンドをやめたんじゃないこと。リーダーがバンドに飽きちゃって他のことをやりたくなったか、人気が落ちて契約切られたか。劇中では何も触れられていないが、わかっちゃうんだなあ、そういうのをいっぱい見てきただけに(笑)。
 日本にもけっこう「バンドおやじ」はいるが(私のまわりにもたくさんいる)、日本のおやじはそんな悲哀はなく、もっと楽しそうだ。でもイギリスは絶対もっと多いはずだし、悲しいような気がする。それに、こういう人は今後どっと増えるぞ。というのも、これが90年代オヤジになると、インディーの時代になるから。70年代のミュージシャンはそれでもプロだった。本当のプロはどんなに落ちぶれても、場末のクラブをドサまわりしてでも、メンバーがほとんど死んじゃっても、昔の名前で昔のヒット曲を演奏し続ける。でも、インディーの連中は素人だからね。それこそこういう田舎町の単なるアンちゃんで。しかも、そういうアンちゃんでも、1発ヒットを飛ばせば、テレビにも出ちゃう、ジャパン・ツアーもできちゃうというのが、この業界のこわいところ。ああ、あの人たち、30年後はどうするんだろうな、なんて私が心配してどうする?
 それにくらべ、異常者のローカルショップ経営者夫婦や、やはり異常者夫婦と甥っ子の話、人肉肉屋や失業者のエピソードはつまらなかったな。

 あと、モンティ・パイソンでいちばんおもしろかった階級ギャグがないのもつまらなかった。それも特に貴族や王族をからかったやつ。田舎町だから王族はいないにしても、こういうスモールタウンものには、バカな田舎貴族がつきものじゃなかったんですか? 身障者や貧乏人を笑いものにする差別ネタが少ないのは、やはり時代の違いか。とにかくモンティ・パイソンのあのアナーキーさがないのよ。オカマネタはありきたりだし、外人ネタは訛りが下手だし。

 しかし、今「スモールタウンもの」という言い方をしたが、イギリス人は本当にこういうのが好きだね。私も好きだが。確かやっぱり人気のあるコメディで、そっくりなのがなかったっけ? いや、あれは村だったか。あちらの北のスモールタウンは、本当につまんなくてなんにもないところだけど、なぜかそこが魅力的なのだ。

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