2006年12月の日記

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2006年12月3日 日曜日

 あいかわらず、なんかドタバタ、頭は朦朧としながらも、なんとなく映画など見たので。

Eight Below (2006) Directed by Frank Marshall 邦題 『南極物語』

 実は私は「お涙ちょうだいの動物映画」が好きである。好きであるにもかかわらず、「本当の動物好き」であるがゆえに、見たあとは感涙にむせぶどころか怒り狂うのは目に見えているのだが、それでもつい見てしまう。しかし、この映画なんか、例によってAllcinema Onlineとか、IMDbとかを見ると、皆さん素直に感動しているので、ますますやなやつだと思われそうだな(笑)。

 これはもちろん高倉健の『南極物語』のディズニー版リメイク。タロとジロの実話を元にしている。(ちなみに私の母は晩年のタロだったかジロだったか忘れたが、どっちかに会ったそうだ) 私はオリジナルの方の映画は見ていない。実は見たかったのだが、人間の勝手で犬にひどい仕打ちをしておきながら、それを美談みたいに仕立てるのが許せないと思ったから。
 まったくハリウッドも本当にネタがないんだな。しかし、犬はどこの世界でも無敵の人気者だし、こういう話なら国籍は関係ないし。
 監督のフランク・マーシャルは、プロデューサーとして有名な人だが、昔、『生きてこそ』(原題 Alive)という映画を監督したことがあって、私はこの映画が大好きだったので、見てみたかった。実話というのもいっしょだし、一面雪と氷の世界を舞台にしているのもいっしょだし。
 それに私は寒いところが好き。自分が寒いのはいやだけど、暖かい部屋で見ているぶんには(笑)。夏はクーラー代わりで涼しげでいいし、冬は冬でぴったりだし。中でも極地はロマンに満ちあふれてるよねー。銀世界というのは美しくて、見ているだけでうっとりだし。

 などと言い訳が長いのは、これから思い切り、けなし倒そうという魂胆だからである(笑)。いや、しょせんはファミリー向けの映画、しょせんは作り話、しょせんはディズニーってことはわかってますよ。動物に「演技」をさせることのむずかしさもわかってる。(もっとも犬はいちばん容易だが) だから、ほかの「ありえねー!」という部分には目をつぶろう。でもこれだけはどうしても我慢できない!

 極地の冬はまったく日が昇らず、一日中夜が続くってことは、小学生だって知ってるはず。おまけに南極の冬と言えば、毎日猛烈なブリザードが吹き荒れる。そもそも、この話自体、その荒天のせいで起きた事件なんだし。ところがこの映画では、吹雪はほんの1シーンばかり吹くだけで、特に置き去りにされた犬たちが越冬する場面は、明るい太陽の光がさんさんと降り注ぐ「昼間」の場面のみ!
 どこなんだよ、これは?! 画面にはごていねいに日付けも出るのに、もしかして南極にはブラックホールがあって、犬だけ北極へワープしたのか? 百歩ゆずって、南極は北半球にあって、真冬は晴天が続くと言うことにしよう。しかしそれでは、なんで犬を助けに戻れなかったのかという説明ができない! 吹雪のせいで戻れないと言ったそばから、晴れ渡った空の下にいる犬たちが映るのだ。嘘つき! そもそも、そういう過酷な自然の中で、さまざまな苦難を乗り越え、犬が生き残っていたというのが話のキモなのに、ぜんぜん過酷でもなんでもなく、うららかな陽射しの中、犬たちが喜んで遊びたわむれているだけに見える。
 いくらガキ向けのおとぎ話といっても、いくらなんでもこれは人をバカにしてないか? おまけにこんなでかい穴を誰も指摘してない(IMDbのコメントは全部見たわけじゃないが)のにもあきれかえる。

 あんまりひどい映画だからこれで終わりにすべきなのだが、つい悪い癖で言ってしまう。犬はいいが、人間のドラマがうざい。私は早く犬が置き去りにされないかとばかり思って見ていたのだが、そうなるまでがダラダラ長いし、例によってよけいなラブストーリーがからむ。子供時代の私が熱狂して見ていたような昔のディズニーの動物映画はもっとまじめに動物をたくさん見せてくれたと思うが。
 タロとジロはペンギンやアザラシを捕って生きていたらしい。オリジナル『南極物語』でも犬がアザラシを虐殺するシーンが子供たちにトラウマを与えたらしいが(笑)、それってどうやって撮ったんだ? CGが使えたはずはないので、本当にやっちゃったのか? それはそれですごいが、この映画にはそういうシーンはいっさいなし。やはり子供に配慮したのだろうか? でもそれじゃ野生に帰った犬のすばらしさが伝わらないじゃない。
 この映画で見る限り、犬の餌になるのはカモメと偶然見つけたシャチの死体のみ。意味なし! タロとジロが生き残れたのは、南極には陸棲の肉食動物がいなくて、そのためほとんど身を守るすべを持たないペンギンやアザラシのようなeasy meatがいたからなのに。私は『エンデュアランス号漂流』という南極探検隊の遭難記も読んだが、そこでも隊員たちはペンギンやアザラシを食料にしていた。
 それがカットされたのは、もしかしてペンギンやアザラシはかわいらしいので、犬が悪者に見えてしまうことを恐れたからか? だいたい犬がワンワン言って追いかけたって、つかまるような間抜けなカモメがいるはずないと思うのだが、犬はいっぱいつかまえていた。羽はえてるんですけどねえ(苦笑)。
 一方、やはり映画には「悪役」が必要だからか、無理やり悪役にされてしまったのがヒョウアザラシ。いくら肉食動物とはいえ、アザラシが犬なんか襲うかよ! シャチなら犬ぐらい食うだろうが、陸上ではよたよた這うことしかできないアザラシが、敏捷に駆け回る犬を襲うなんて無理。

 お涙頂戴になるはずの、犬が死ぬ場面もぜんぜんだめ。だいたい実際は15頭のうち、2頭しか生き残れなかったというところで過酷さがわかるのだが、これは8頭のうち6頭も助かるんだもん。そもそも犬たちにぜんぜん悲壮感がなくて、とても楽しそうだし(笑)。
 ちなみにこういう話は今ではもう成立しません。生態系を乱すという理由で、南極では犬の持ち込みが禁止されたから。それはもしかして『南極物語』のせいか?(笑) でもそうだよねえ。犬を主人公にして見ているから美談なのであって、原住民のペンギンやアザラシから見れば残酷物語である。やっぱり私はあの人たちのほうに感情移入してしまうので、そもそもこの話は無理だった。

 あー、やっぱりだめだ。どうせ南極の犬の話なら、私は犬の頭がガバッと裂けて、中からぬらぬらぐねぐねのモンスターが出てくる“The Thing”(『遊星からの物体X』)のほうがずっといいや(笑)。少なくともあっちのほうがはるかに南極らしく見えたし。

2006年12月9日 土曜日

 はあ、眠ひ‥‥。なにしろ12月は師走ってわけで先生は忙しい上、お店の方もクリスマス期のかき入れ時(ってほどは忙しくないのが悲しいが、うちのレベルでも多少はお客さんが増える)、なのに今朝は朝の4時までオークションを見張ってて、おまけに夜は学生とパーティやってたもんだから、もうフラフラ。

 前に5000円のポスターを売ってもらった、HさんがUNKLEコレクターを引退するそうで、コレクションをヤフオクで大々的に売り出したのだ。こういうチャンスはめったにないので、私としては気の遠くなるような大枚をはたいて、オークション外でも売ってもらった上、オークションもすべて落札する気で臨んだ。
 結果は案外楽勝で、内外のUNKLE人気の差を実感したが、終了時刻が午前3時〜4時ってのは酷ですよお。それでも何十という入札が予想されるこういうオークションの場合、少しでも安くあげるためにはスナイプしかないと思って。でもヤフオクには自動延長があるので、ライバルがいた場合、そこからさらにえんえんと続くのはしんどい。
 特に、自分が個人的にほしかったプロモ・グッズのオークションは、他に2人が天井知らずに競り合っていて、8000円を越えた時点であきらめざるを得なかった。こんなもの(と言っては失礼だが、主としてチラシ類だったので)よりはるかにレアなCDがこれよりずっと安く落札できたのに、どうなってるの?
 でもまあ、店用にねらったものはほぼ入手できたので、よしとしよう。もちろん私はこれらをさらに気の遠くなるような値段で売るつもりなのだが、すべてが売れるわけではないので、トータルするとトントンか下手すると赤字なのだ。それでもコレクターの放出ものをねらうのは、ほとんど見栄。UNKLEやMansunのような、自分が特に力を入れているバンドは、たとえ売れなくても店に並べておくだけでアピールになるし、自分でも持っていてうれしいから。
 しかし、今年後半の出費はすさまじい。ここで負けじとがんばってガンガン売ればいいのだが、買い疲れで、売るのがもう面倒くさくなってしまった(笑)。

 学生というのは短大教授時代の10年前の教え子たち。こちらはもう名前も顔も覚えていないのに、向こうは覚えていて会いたいと言ってくれるのはありがたいことです。短大のことはもう思い出したくもない私だが、学生はやっぱりかわいい。若い女の子のキャピキャピ・パワーも、毎日その中で暮らしてるとけっこうつらいものがあるが(苦笑)、たまにだと(今の学生はほとんどが男子なので)新鮮で楽しく、こちらも若返った気分にさせてもらえる。
 年末と言えば忘年会シーズンだが、私はもう大学関係の飲み会やパーティはすべてお断りしている。だって、高い金払って、仕事仲間のおじさん・おばさんたちと飲んでも何もおもしろいことないから。大学の仕事をもっともらいたいと思えば、そういう「顔つなぎ」も大事なのはわかってるけど、どっちかというと、大学とはもう切れたいという望みしかないし。
 でも学生と過ごすのは楽しいんだよね。なんでだろう? 店のお客さんたちもほとんどが私より若い人たちで、彼らとメール交換したり、会っておしゃべりするのも楽しいし。
 私がそう言うと、「それは利害関係がないからだ」と言われてしまう。いや、利害関係はあるんだけど。学生もいわばお客さんだし、私は彼らからお金をもらう立場で、どっちかというと利だけがあるみたいな。「お客さんが好き」という点で、もしかして私は商売に向いてるのかも。

2006年12月10日 日曜日

 上に書いたように、お客様と会うのは楽しみだし、若い人は大好きなのだが、アポなし訪問だけはやめてー!(悲鳴)
 今日も一日忙しくドタバタと働き、ついでに買い物に行って帰ってくると、玄関のチャイムが鳴った。どうせ集金だろうと思って開けると、かっこいい若者が。彼はMansunの熱烈なファンで、わざわざ神戸から(ついでがあってだけど)私に会いに来てくれたのだ。それはうれしいが、なにしろずっと家で仕事してたもんで、思いっ切り普段着で、髪はぼうぼう、化粧なし。おまけにこの週末は、冬物の入れ替えとかやってたので、家の中は混沌の極み。いくらおばさんとは言え、私だってまだ女だし、こういうところは人には死んでも見られたくない!というところを襲われたようなもの。ひぃ〜!
 まあ、それは私が悪いんで、浜田さんに責任はないです。ちなみに彼は、プラグロスというユニットでこれから売り出そうという若手ミュージシャン。Mansunファンというぐらいだから、音楽の趣味も最高なので、ぜひ応援してあげてください。
 しかし、彼はまだ19才。もちろんMansunの現役時代は知らない。それでもこんなにMansunを愛してくれるファンがいるんだから、本当にありがたいというか、ありがたいと思えよ、Paul! ていうか、こういう人たちのために、早くアルバム出せ、こら! 

2006年12月16日 土曜日

年の瀬の貧乏話

(ビンボくさくてすみません)

 最近、何かとすさんでるじゅんこです。理由はわかっていて、大学の学期が終わりに近いから。休みが近いんだから喜べばいいようなものの、なぜかこの季節ってイライラするんだよね。9月はドタバタしているうちに過ぎる、10月、11月はじっと我慢で耐える。でも12月に入るともう限界でたまらんって感じで、つくづく私は教師の仕事には向いてないと思う。これでも非常勤の今は休みがあるからなんとかやってられるわけで。それでも学期の終わり頃と、新学期が始まる前は気分はどん底。だから暗い話を書く(笑)。

 最近はやりの「ワーキング・プア」なんて言葉を聞くと、身につまされますね。どう考えても私のことを言われてるような気がして。若いフリーターで、マンガ喫茶などを渡り歩いているホームレスがいるという話もショックだった。その人たちの月収がほぼ私と同じなのはもっとショックだった(苦笑)。人それぞれの事情もあろうが、他の国なら高収入といえる金を稼いでいながらホームレスだなんて、日本という国が根本的に間違っている証明としか思えない。ただ、そういう人にくらべて、私が比較的優雅(?)な暮らしをできるのはなんでかと考えた。
 これまでの人生でお金について学んだことと言えば、「持てる者は強い」、「持たざる者はどこまで行っても弱い」という、当然と言えば当然のような話。大学教員は一般の会社員とくらべると薄給だが、その中でも歴然とした格差はあって、その違いは親が金持ちだったり、名家だったりということだけだったりする。もちろん、いい大人だから親から金をもらっているわけじゃないのだが(中にはそういう人もいるが)、有形無形の見えない部分で違うんだよね。
 かく言う私がホームレスになってないのは、住む家があるというただそれだけ。これは先見の明だったと思ってる。短大に勤めていた11年間、とにかくこんなところに長居をするつもりはなかったので、ひたすらケチケチ生活でお金を貯め、ローンを払ってきた。もっとも忙しすぎて使う暇もなかったけど。文字通り、食わずに働いたもんなあ。11年の人生を費やして、残ったのはこのボロ屋だけ、しかもバブルの崩壊で、今売っても買値の半分にもならない、と考えるとけっこうみじめだけど、それでも暑さ寒さを防いでくれる屋根の下で寝られるだけでもうれしい。だって、マンガ喫茶なんて横になって眠ることもできない、椅子で寝るんだよ。そこから出勤していくなんて、私には絶対耐えられない。それにくらべ、ふかふかのあったかいベッドで寝られる幸せ‥‥

 もちろん、それでも人並みの暮らしをしていたら、この給料では生活できない。人並み以下だからなんとかやってるわけ。だから切りつめられるところは、徹底して切りつめている。
 私が思うに、何が高いと言って、不当に高いと思うのは、洋服、化粧品、美容院である。(医療費もそうだが、これはまあしかたがないかって感じで) つまりすべて、女性の虚栄心に依存した業種だな。原価数百円のものに1万円以上の値段を付けるとは、人の弱みに付け込んでるとしか。エステとかはさらにその上を行く。
 私はそんなものに金は出さない。だって、どんなに高価な服や化粧品を身に付けても、ブスはブスだし、ババアはババアじゃない(笑)。身も蓋もないが事実だ。
 だから、服はもう古着(100〜1500円)しか買わない。化粧品は100円ショップでしか買わない。髪は自分で切るし、パーマはかけたことがないので美容院代はゼロ。これでも大学じゃ(これ自体が特殊な職場だが)、「鈴木さんはおしゃれ」で通ってるんだからね(笑)。
 ダイエットにも悪いので外食ももうしない。それぐらいなら持ち帰りを買って帰り、2食に分けて食べる。生鮮食品はスーパーの閉店間際の安売りや賞味期限が近いバーゲン品を買う。

 とか言うわりに、CDや本やDVDはジャンジャン買ってるが、これらは私が生きていく上で欠かせない必需品なのだ。そうそう、貧乏していると、自分にとって何が必要で何が必要でないかがはっきりしていいですよ。これまでどんなに無駄金を使っていたかわかるし。
 若い女性は「自分へのクリスマス・プレゼント」として5万とか10万とかのジュエリーを買ったりするらしい。私も最近、UNKLEコレクションに5万を投じたばかりだが、安物のジュエリーなんか売るときは二束三文。でも私のは確実にこれ以上の値段で売れるので、投資としても優良だ(笑)。

 でも、お金がないために、涙を呑んであきらめなきゃならないものもある。私の場合、いちばんは海外旅行かな。もともと、飛行機が成田を離れるだけで、この息苦しい島から逃れられると思って、天にも昇る心地がするほど海外旅行好きの私が、海外に行けないのはつらい。まして今では世界中に友達ができて、いつでもおいでと言ってくれるのに。ほんとに必要なのは飛行機代だけなのにね。それが払えないというのは悲しい。

 しかし、今月は死ぬほどお金を使ってしまった。しかし、うちの店にはジンクスがあって、それは「やけくそになってジャンジャン買い物をすると、なぜか店の方もよく売れて、収支はトントンになる」というもの。どうせ使っても使わなくてもトントンなら、使ってしまえという感じで(笑)。まあ、今は一年のうちでいちばんのかき入れ時であるクリスマス・シーズンのせいもあるけどね。


 これだけで終わるのはなんなので、楽しい話も書こう。というわけで鬼のような勢いで散財しているわけだが、その中で、わりとなごんだやつについて。

BBC Animal Games / Animal Winter Games (DVD) 『ワールド・アニマル・カップ』

 というわけでまたも動物の話ですまん。とにかく今は、動物を見ているときがいちばんなごむので。

 私はオリンピックの季節になると、いつも文句ばかり言ってるが、2004年に書いたことを引用すると、

 だいたい人間は美しくないんだもん。たとえば、競馬は見ているだけでもほれぼれするほど美しいが、人が走ってるところなんて見ても、遅ーい、かっこわるい、としか思えない。だって、どんなトップ・アスリートでも、走ることに関してはどんな駄馬にもかなわないに決まってるもん。同様に、水泳なんか見るぐらいだったら、私は近所の動物園へ行って、ペンギンやオタリア(アシカの一種)が泳ぐのを見てますね。彼らのほうがはるかに優雅で早いから。
 つまり、何が言いたいかというと、人間は走ったり泳いだりするために進化してきたわけじゃないってこと。そういう運動だったら、それだけのために進化してきた動物のほうがずっと上手にやる。人はまさにその猿まねをしているだけ。それを無理やり特訓して早く走らせたり泳がせたりするのって、ある意味、日光猿軍団のようなものだと思う(笑)。

 また、「地上最強の動物は何か?」なんて書いてたのを見てもわかるように、昔からいつも「動物のオリンピックがあったらいいのに」なんて子供みたいなことを考えていた。
 で、これはまさにそういう人のために作られた番組。『ワールド・アニマル・カップ』という邦題は変で、訳せば『動物オリンピック』ですよ! 例によってBBCの番組のDVD。もう動物ものはBBC以外まったく見る気が起きないね。でも、いつも見ているみたいなまじめな教育番組ではなくて、これは当然ながら冗談半分。しかし、BBCはジョークでも徹底的にやるところがすごいのだ。

 タイトル通り、動物たちのオリンピック(観客も役員も動物だけ)なのだが、国別対抗ではなく、種族対抗。つまり、哺乳類、爬虫類/両生類、鳥類、魚類、昆虫の5種族のチームが、いろんな競技でトップを争うというもの。
 ただし、体の大きさのハンデをなくすため、あらゆる動物を人間サイズに拡大/縮小して勝負させる。もちろん筋力やなんかも科学的に計算して、体格に合わせて変わっている。
 これを聞いたとき、「ずるい!」と思った。それなら昆虫が全種目制するに決まってるじゃない(虫嫌い)。昆虫の運動能力がすごいのは常識で、彼らの弱点は体が小さいというだけだから。
 ところが、実際はそうでもなかった。というのも、昆虫はルール違反で失格が多いのだ。ハイジャンプに挑戦したノミなんか、バーの高さがいきなり622mというのはすごいが、バーを越えるどころかスタジアムからも飛び出しちゃうし(笑)。そうかあ、やっぱり虫は脳みそないからな(笑)。

 でも、重量挙げで54トンを上げるカブトムシはやっぱりすごい。ちなみに哺乳類代表はゾウだが、人間サイズに縮んだゾウは25kgも上げられない。(人間の世界記録は263kg) 魚代表のサメにも負けてしまう。ゾウが力持ちなのは、あくまで体が大きいせいだということがよくわかった。2位は意外なことに鳥類代表のオオワシで96kg。それはそれですごいけど、54トンとは差があり過ぎ!

 興奮したのは100メートル走。出場者は、チータ、クビワトカゲ、鳥はロードランナー、虫はハンミョウとゴキブリ、魚は陸上を歩けるナマズ。当然、チータかと思うでしょ? 甘い甘い。人間サイズになったハンミョウは時速800km! でも、ゴール直前でいきなり止まって、ジャンプしたせいで、クビワトカゲに抜かれる。ばんざーい!(爬虫類好き) しかし、そういやこないだの冬季オリンピックでそういう選手いたなあ(笑)。やっぱりスポーツ選手は脳みそ虫並みか?(笑)
 優勝タイムは100mを0.83秒! スタートしたと思ったら終わってる。すげえ! ちなみにナマズを走らせるのはやはり無理があった(笑)。

 でも、水泳(800m自由形)はいくらなんでも魚が勝つと思うでしょ? 魚はアオザメとカジキという、いかにも速そうなのが出てて、哺乳類はもちろんイルカ、鳥はジェンツー・ペンギン、虫はミズスマシ、爬虫類はホカケトカゲ。ところが実際は予想とかなり違うってのがおもしろい。
 実は圧倒的に速いのはミズスマシ(時速700km)なのだが、クルクル回ってしまって先に進まない(笑)。そりゃそうだ(笑)。勝ったのはトカゲ。このトカゲはなんと水の上を走れるのだ。陸上でも最速はトカゲだったし、そりゃ水の抵抗がなければ速いよね。ルール違反じゃないかと思ったら、「自由形」だからなんでもありなんだって(笑)。

 射撃も笑えた。なにしろ動物たちは銃なんか使わず、自前の「武器」で勝負するので、投げるのは糞とかゲロとか悪臭のする分泌物とかのすごい世界(笑)。優勝はもちろんテッポウウオ。

 というわけで、総合優勝は爬虫類/両生類の連合軍でした。かわいそうだったのは、「主催者」の鳥類。だって、オリンピックには飛ぶ種目がないんだもん。鳥というのは、あくまで飛ぶことに特化しているから、他の種目じゃやっぱり不利だった。

 こういった試合風景を、CGなんていう姑息な手段は使わずに、全部本物の動物を使って見せる。もちろん野生動物に演技付けるわけにはいかないから、ストック映像をうまく切り張りして合成している。ここで「動物のBBC」の膨大な映像が生きるわけ。まあ、合成はけっこう粗いところもあるが、「観客」がウェーブしたり、立ち上がって喝采したりする場面は笑える。

 もう1本はもちろん冬季オリンピック。人間でも冬季の方が好きなうえ、極地の動物に特に愛着を持っている私は、こっちのほうを楽しみにしていた。それで、いつものように安い輸入盤をイギリスから買おうとしたのだが、なぜか冬季の方は絶版らしく、どこにも中古すら売ってないのだ。でも日本盤はまだ新品を売ってる。
 どういうわけか、DVDではこういうことがけっこうある。そのため、日本盤DVDに高額なプレミアが付いて取り引きされたりしている。そんなわけで、しかたなく高価な「プレミアム・ボックス」というのを買った。日本盤は畑正憲といとうせいこうの吹き替えと書いてあったので、やだなあと思ったのだが、考えてみたらDVDは音声や字幕を選べるので、英語で見るぶんには関係ないのだ。
 だったら、英語版と吹き替え版と二度楽しめていいやと思ったが、あいにくムツゴロウさんたちの吹き替えはぜんぜんおもしろくない。英語の「実況」はいかにもそれ風に熱のこもったもので、その合間に動物たちの生態や能力の詳しい解説もはさまるのに、この二人はちょうど映画のオーディオ・コメンタリーみたいな感じで、漫然と雑談してるだけなんだもん。レンタルで見ようと思う人は絶対字幕で見るべき。

 で、動物冬季オリンピックである。こちらはちょっと趣向が違っていて、動物のサイズは元のまま。代わりに人間代表として、オリンピックの金メダリストがいっしょに競技する。私はやっぱりこの方がいいなあ。人間サイズのゴキブリとかはあまり見てうれしくないし(笑)、この方が動物との力の差がはっきりわかるし。
 種目はクロスカントリー、大回転、スキージャンプ、そりのスケルトン、スピードスケート、アイスホッケー、それにオリンピックにはない「寒さ我慢大会」が加わる。ドキドキするなあ(笑)。参加動物はもちろん雪国に住む動物だけ。日本からは「北限の猿」、ニホンザルも出ている。もっとも彼らは観客で、温泉につかって見ているだけ(笑)。おもしろい顔して笑わせてはくれるけど。
 観客もこっちのほうが楽しい。なにしろ皇帝ペンギンのヒナとか、ホッキョクグマの子熊とか、ホッキョクギツネとかの、究極の「かわいいものたち」がたっぷり愛嬌を振りまいてくれるので、巨大昆虫で埋まったスタジアムを見ているよりいい(笑)。

 いちばん興奮したのはやっぱりクロスカントリー。オオカミ、トナカイ、コウテイペンギン、それになぜか鮭が、なんとビョルン・ダーリに挑むんだから!
 しかし、なぜここにペンギン? 確かにコウテイペンギンは長距離を歩くが、走るんじゃなくヨチヨチ歩きしかできないのに。そこでやっぱり他の選手がダッシュして消えたあと、のんびりしたヨチヨチ歩きで笑いを取ってくれるのだが、水に入って泳げば、たちまち追いつく。ちょっとずるいような気もするが、鮭は最初から泳いでるんだし(笑)。でも、途中に滝があって、あえなく脱落。(鮭は滝も上れる)
 オオカミとトナカイは追うものと追われるもので互角なのだが、当然ながら食われる側のトナカイの方が持久力は上。さすがにダーリは持久力にものを言わせて2位に入った。

 トナカイはスピードスケートにも優勝してなんと二冠。これ見て、トナカイはかなり見直しましたね。感心したのは、トナカイはプランシングという、トナカイにしかできない走り方ができるのだ。ちょうど人間がスキップするように、踊るような走り方なのだが、これをやると筋肉がほぐれ、疲れが取れるんだそうだ。止まって休む代わりに、走りながら体力を回復するわけ。えらいよ、トナカイ!

 見るからに強そうなホッキョクグマ(しかも体格差のハンデはなし)は、いろんな種目に登場するのだが、ほとんどすべて失格。カナダチームと対戦したアイスホッケーなんか、ルールを無視して乱闘始めちゃうし(笑)。お笑いに徹してるところがえらい。
 しかし、人間は動物の敵じゃないと思ってたが、ほとんどの競技で善戦している。だってずるいよ! 人間はスキーとかスケートとかの用具を使ってるんだもん! つまり生身じゃ勝負にならなくても、科学の最先端を駆使した用具を使えば互角ということだ。夏期ゲームはそれがないもんね。でも、超人ヘルマン・マイヤーの大回転優勝は私も納得しました。

 見ていてけっこう不満だったのは、大好きなコウテイペンギン(彼らもほとんどの種目に出てくる)がほとんど笑いを取るだけに終わってること。だってコウテイペンギンはえらいんだよ! そんな彼らの本領が発揮されるのは、そう、もちろん我慢大会。
 しかし、こんな競技にもちゃんと人間の世界チャンピオンがいるんですね(笑)。この人がえらいのは、防寒具なんか使わないで、ちゃんと裸で参加すること。その代わり、氷点下ちょっと下がったところで脱落。そりゃそうだ、裸じゃ(笑)。ジリスは冬眠という武器に訴えるが、それでもあまり温度が下がると死んでしまう。優勝は小さなヒナも含めて、なんと零下80度の気温にも耐えたコウテイペンギン! パチパチ!

 結果はやはり哺乳類の勝利で、人間はわずかな差で2位だった。さすがに寒いところでは内温性の哺乳類が強いと言うことがよくわかった。

2006年12月17日 日曜日

今日は生活実感あふれる話

 半年近く空き家のままだった、うちのマンションの隣のダイエー跡地だが、ようやくショッピングモールとして新装開店した。「西葛西サニーモール」というダサい命名からして、中身の程度はわかると思うが、とりあえず恐れていたマンションじゃなくて助かった。とりあえず店舗なら、私はブックオフとダイソーに入ってほしかったのだが、ダイソーが入ったからよしとしよう。
 なぜかうちのほうにはダイソーが少ないんだよね。私なんか、わざわざ船橋(ここのが私の知ってる限りでいちばん大きい)まで仕入れに行ってるぐらいで。どうせならビル全部ダイソーで良かったのだが、あいにくフロアの一部。それでもかなり大きい。
 え? ダイソーで何買うのかって? そりゃあなた、上に書いたように私はビンボー生活してるもんで、消耗品はほとんどすべて。特に店用のサプライは欠かせないのだ。同じものならダイソーのほうが、他の100円ショップより多少は品質がいいような気がするし(キャンドゥのCDケースは開けただけでバラバラに割れた)、品数が圧倒的に多いので。ちなみに消耗品以外はさすがにボロいのでおすすめできません。
 「鍋を火にかけてから味噌を買いに行っても間に合う」というのが、スーパーの隣に住む利便だったが、これも1階に生鮮スーパーが入ったことで元に戻った。でも9時に閉まっちゃうというのはあまりに早いな。ダイエーでも11時まで開いてたのに。私は夜中に料理をすることが多いもんで。商品を倉庫みたいに段ボールのまま並べた安売りスーパーだが、この辺そういうのが多いのに太刀打ちできるのかな?
 あとLAOXと、ドラッグストアと(これも同じ角にマツキヨとセガミがあるのに商売になるのか?)、やたら大きいのがカジュアル衣料の店。こういうのも多いんだ。これまた近くの巨大なユニクロが閉店したばかり(すぐまた系列のg.u.が入った)なのに商売になるのか?
 レストランはガストのみ。これだけでも貧乏人向けというのがわかる。私はせいぜいガストぐらいでしか食べられないし、24時間営業は助かるが、一晩中ネオンで明るいのはちょっと。

 これでおわかりのように、西葛西はやたら安売り店が多く、私には住みやすい。別に貧民窟というわけではなく、このあたりは丸の内に近いわりには手頃な価格のマンションが多く、若いサラリーマンや夫婦者が多いのだ。当然そういう人たちはローンを抱えていたり、小さい子供がいたりするので節約しなきゃならなくて安売りに飛びつくわけだ。
 しかしこういう人たちは、お金はなくてもセンスはあるので、多少高くても小じゃれたブティックとかレストランとかやれば、けっこう繁盛すると思うのに、そういう店がないのがちょっとなあ。それに、下町によくある「見かけは古くてボロいけどうまい店」もない。私としては、「頑固そうなこだわりオヤジが店番している埃臭い古本屋」とか、「見るからに売れてなさそうな狭くて小汚い中古レコード屋」(こういう店が穴場なのだ)もほしい。隣町の葛西に行くとそういう店もあるのに、とにかく真新しいチェーン店ばっかりなのは新興の町の悲しさ。町全体がきれいで若々しい感じなのが気に入って住み着いたんですけどね。
 だいたい店の種類が偏りすぎ。やたら多いのがスーパーと洋服屋と美容院。あとの2つは私には用がないし。でも地方では中心地でも「シャッター商店街」とかあるし、文句を言えた義理じゃないですけどね。

着るものの話

 お話変わって、100円古着なんか着ている私が言うのはおこがましいが、服みたいな耐久消費財はやっぱり安物はだめっすよ。ユニクロのスウェットは2,3回洗濯したら毛玉でザラザラになったので、それ以来買ってない。同じスウェットでも大昔に買ったブランドものは、色は完全に落ちちゃって、首なんかビロビロにのびてるが、生地はまだしっかりしている。(それを未だに着ているのもなんだが)
 ユニクロで買うのは500円のセール品のジーンズだけだ。500円は私には高いのだが(笑)、パンツ類だけは古着が買えないのでしょうがない。なぜかというと、古着は裾上げをしてあるからだ。

 はい、この体型のせいで若いころから着るものには苦労しているが、年取って太ったらもう絶望的! 太すぎて着るものがないわけじゃないの。おばさん用ならウエストなんか90ぐらいまであるから。(私はまだ70です、念のため) どれもこれも短すぎるのだ!
 昔から一度もジーンズの裾上げはしたことがない。というか、私が着て、裾がちゃんとくるぶしまで来るのはジーンズだけ(それもメンズ)。これでもぺたんこのスニーカーだからいいが、ハイヒールを履いたら短すぎる。デパートとかのトールサイズ売り場へ行けば長いのもあるのだが、デパートの服なんてもう高すぎて買えないし。

 それでも若いころはどうにか着れる服もあったのに、それは単に痩せてたからだと気が付いた。腹にもお尻にもしっかり肉が付いてみると、そのぶん持ち上がってしまって、みんなつんつるてん! これはボトムだけじゃなくトップにも言える。そでが短すぎるのは昔からだが、それでもかろうじて着られたのは胸がなかったからだ。今はちゃんと胸があるのはいいが、おかげで手持ちの服がみんなヘソ出しルックになってしまった! スカートもすべて裾が持ち上がってミニになってしまい、若々しいと言えば若々しいんだけど(笑)。まあ、スカート丈はいろいろあるから良さそうなもんだが、私はロングスカートが嫌いだし、理想は膝が隠れるぐらいなのに、その丈のスカートってぜんぜんないんだよね。
 この中間の丈がないというのが悩み。スカートはゾロゾロしたロングかミニだし、トップはヘソ出しかお尻がすっぽり隠れるほど長いし。要するに私のサイズが標準から大幅にずれてるから悪いのだが。

 そうそう、おばさんルックってあるよね。身近で観察していると、私の世代の女性はほぼ例外なく、下はストンとした特徴のないパンツ、上はお尻まで隠れるような長いブラウスやジャケット。足を見せたくないからパンツで隠す、お腹が出てるから上着で隠すという心理はわかるのだが、これってみっともない体型をよけいみっともなく見せることでカバーしているとしか思えない。
 「見せたくないところはかえって露出してしまったほうがいい」というのが昔からの私のファッション・ティップ。だから若いころはわざと胸を強調するような、襟ぐりの深い服やタンクトップを着ていたし、今は(自宅ではさすがにパンツだが)スカート派で、ウエストを絞った服を着る。なぜかは知らないが、そのほうがかっこよく見えるのだ。いや、かっこよくはないかもしれないが、少なくとも恥じてなんかいないという潔さを感じさせる、はずだ。(だんだん自信がなくなってくる) だって、中年のおばさんのパンツルックってめちゃかっこわるくない? スカートの方がよっぽどきりっとして上品に見えるよね。

 でも、年のせいか(笑)、おばさんルックに惹かれることもある。何かというと、よくルームパンツとか言って売ってる普段着。柔らかくて暖かそうで、今の季節に自宅ではくにはちょうどいいなと思うのだが、これがまたはけないのだ。だって、私がはくと、裾がふくらはぎまでしか来ないんだもん。座ったりすると膝まで上がってしまう。この寒いのにすね丸出しではちょっと。
 パンツはもともとメンズしかはかないので、ならばおじさん用でいいと思うところだが、おじさん用のはやたらダボダボに太い上(おじさんは足そんなに太くないのになんで?)、色や形もダサダサで、いくら私でもためらってしまう上にやっぱり短い。
 フリースとかのあったかい素材で、足にぴったりフィットして、ちゃんとくるぶしまであるパンツがあるといいのに。くやしいから女性用を買ってパジャマにしてるけど、やっぱりすねが寒いね(笑)。おばさん服を作る業者も、「足がすらっと長いおばさん(ただしそれ以外はすべておばさん体型)」用の服も作ってほしいよ。無理だろうけど(笑)。

 結局、昔も今も、いちばんぴったりなのは若い男性用の服。だけど、おばさんがそれを着れるのは家の中だけというわけで、悩みは尽きない。よく小柄な人が着るものがなくて、やむなく子供服を着てるって聞くけど、その気持ちもわかる。すべての人が平均サイズじゃないんだけどねえ。

2006年12月19日 火曜日

映画評

A Sound of Thunder (2005) Directed by Peter Hyams 『サウンド・オブ・サンダー』

 これはアメリカでも日本でもボロクソの酷評だった映画なのだが、それでも原作はレイ・ブラッドベリの名作だし、監督はいちおうSF専科のピーター・ハイアムズだし、恐竜ものなので私は見ないわけにはいかなかった。
 で、見ての感想は言われているほどひどい映画でもないんじゃない? もっとひどい映画はいくらもあるし。少なくともお金はかかってるし。

 ただ、タイムトラベルものはいやおうなしに矛盾だらけになってしまうのがねえ。たとえば、恐竜狩りのツアーは歴史を変えないように、恐竜が自然死する直前の時と場所を選んで行われる。そのツアーが毎日行われているので、これではその場所は過去や未来のツアー客の大群衆で身動きもできないほどいっぱいになってしまうはず。毎日同行しているガイドは大量の自分に出くわすはずだし。
 この矛盾を説明するため、原作では、時間は柔軟性があって、自分と出会うようなことは起こらないとかなんとかいう言い訳をしていたが、それじゃ、ツアーに行くたびに新しいパラレル・ワールドが出現することになる。つまり、過去に行くだけで、毎回歴史は変わってしまっているはずだ。そもそも、蝶1匹殺しただけで歴史が大改変されるのに、恐竜みたいな大物が銃弾で殺されるか、自然死するかの違いはなんの変化ももたらさないのか? カオス理論のバタフライ・エフェクトを考えれば、蝶のはばたきひとつだって、大きな変化をもたらすはずなのに。

 まあ、これは原作のアラだからまだいいとしよう。問題はやっぱり映画のオリジナル部分。原作は短編だから、当然、あれこれエピソードを付け加えないとならないわけだが、この映画のキモはやっぱり変化が現代に「時間の波」となって波及してくるところだろう。(原作は現代に戻る前に終わる)
 このアイディア自体はいい。問題はその変化の内容。なぜか、変化は段階的に、それも「下等生物から順次、段階を経て、最後は人間」に及んでくるらしい。あー、もうだめだ! 生物学も進化論もまったく理解してないのが見え見え。下等とか高等とか、そんなの人間が決めただけじゃん!
 原作が恐竜の話だから、期待して見たのに、恐竜は一瞬出て殺されるだけで、現代に跋扈するのは類人猿の化け物だし。(もっとも魚の化け物はちょっとかっこよかった)
 最後の解決法もバカ。ガイドのひとりが過去に戻って警告するのだが、「自分とは出会わない」という基本設定をここで覆してしまっている。だったら、やっぱりあたり一面ツアー客でいっぱいでなきゃ変じゃん!
 それにたとえ、歴史が変化して人間も他の生物に変身したとしても、過去のすべてが変わってしまっているので、本人は何も気づかないはず、なんていう基本的矛盾はもう言うだけむだだからやめた。

V for Vendetta (2005) Directed by James McTeigue 『Vフォー・ヴェンデッタ』

 これは海外の友達の誰かに「おもしろいから絶対見るべき」と勧められたので見た。もっとも私のメル友はほとんどが若い男の子なので、(音楽の趣味は合っても)、必ずしも映画の趣味が合うとは限らないのだが。
 これがまた海外コミック原作。今度はイギリスものだけど。またかよーという感じだが、舞台はロンドンだし、ヒューゴ・ウィーヴィングやスティーヴン・レイが出ているのでいいことにした。

 そんなわけで予備知識ゼロで見たのだが、なるほどこれは全体主義国家の恐怖を描く『1984』ものですな。イギリス人はこの手の話が好きで、それこそ掃いて捨てるほどあるし、私もけっこう好きだったりする。ヒーローは当然、そんな国家に反旗をひるがえすレジスタンス。しかし、なんでここにガイ・フォークス?と思ったら、どうやら9.11をダブらせているらしい。いいのかあ? そんなテロを正当化するようなことして? (ガイ・フォークスは国会議事堂を爆破しようとして死刑になった反逆者。もっとも今では子供のお祭りの主役だが、イングランドに怨みを持つスコットランドとかでは英雄視されている)

 地味で暗い内容のわりには、手堅く作られ、そこそこ良くできた映画だ。
 ただやっぱり私は突っ込みを入れたくなってしまうのだが、たったひとりの味方で愛する女性を、単に国家の恐ろしさを教えるために、偽の監獄に投獄し、自分で拷問までするってのは、いくらなんでもやりすぎで、やっぱりこの男、あたま変だよね。まあ、キチガイのヒーローってのも他にいないし、イギリスらしくていいような気もするけど(笑)。
 あとはつまんないことしか覚えていないのだが、ヒューゴ・ウィーヴィングは最後まで仮面のままで、顔を見せない。(素顔はやけどでケロイド状になってることが示唆されている) 仮面の持つ不思議な魅力と哀しさについては、“Bruiser”のリビューで書いたことがここでも当てはまる。
 ヒロインのナタリー・ポートマンはやっぱり美少女だ。美少女嫌いの私が言うんだから、かなりの美少女だ。でもロリコンの扮装までさせるのはちょっとやりすぎ(笑)。
 スティーヴン・レイは『クライング・ゲーム』ではテロリストだったが、ここではテロリストを追う刑事役。なんかこの人、こういう役が多いな。国家の犬であるにもかかわらず、政治的妥協を嫌って真実を追い求めようとする警官って、“Citizen X”(未公開。ロシアの殺人鬼チカチーロの話。この映画はスティーヴンの独壇場だった)の役柄にそっくりだし。
 独裁者役のジョン・ハートは楽しそうに鬼畜を演じているが、ちょっとやりすぎで怖いと言うより滑稽になってしまっている。

 最大の難点は、恐怖政治があんまり怖く見えないということだと思う。同じテーマでも『1984』(小説のほう)や『ブラジル』は身の毛がよだつほど怖かった。主役のVからして、むちゃくちゃ重いものを背負っているキャラクターなのに、やけに軽くひょうきんに見えたし、この手の話にハッピーエンディングはありえない。まあ、そういう重いテーマをコミカルに描くというのもイギリスらしいと言えばイギリスらしいんだが、それなられっきとしたコメディである『ブラジル』のほうがずっと上手にやった。
 ちなみにVが作るエッグトーストは私のお気に入りの朝食メニューです。おいしいよ。

Brokeback Mountain (2005) Directed by Ang Lee 『ブロークバック・マウンテン』

 他人の映画評とか読んでると、私ってそんなに偏屈なひねくれ者なのかしら?と悲しくなる。というのも、人様の評価と私の評価はしばしば食い違う、どころか正反対のことが多いからだ。これは音楽でもそうなのかもしれないけど、最近はディスク・リビューは一切読まないから。まあ、私が熱狂するバンドの多くが「誰も聞いたこともない」ことを思うと、そっちも同じなんだろう。
 なんで? 自分ではごく平均的な消費者のつもりなんだがなあ(笑)。名作と呼ばれる作品は、好き嫌いは別としてもみんな良さはわかるし。もしかして、みんな、他人がほめる作品だからいい映画だと思ってない? そう思ったので、ついまた(皆様のご期待に応えて)こき下ろしリビューを書いてしまう。

 さて、この映画『ブロークバック・マウンテン』は、ご存じのように各国で賞を総なめにした作品である。「ゲイのラブストーリー」というハンデをものともせず、アカデミー賞まで取ってしまった。当然ながら「泣けた」、「感動した」、「考えさせられた」と観客評も上々。でも私はあくびをかみ殺しながら見て、最後には怒り出した。

 最初に念のためお断りしておきますが、私はゲイにはなんの偏見も持ってない。どころか、イギリスのゲイ小説についての論文を書いたこともあるぐらいで、主なゲイ小説はほとんど読んでるし、その関連でゲイ映画もたくさん見ている。それで、そのほとんどに感動したので、「大嫌いなラブストーリーでも、やっぱりリスクや制約が伴う恋はおもしろい」と思っていたのだ。だからこの映画にもけっこう期待していたのに!

 というのも、この二人、べつにゲイである必要も、男同士である必要もないんじゃない? 言ってみれば、ゲイ版『マディソン郡の橋』みたいなもんで、私にはただの不倫メロドラマにしか見えなかった。ふとしたきっかけで結ばれた二人が、愛し合ってともに過ごした「一夏の思い出」が忘れられず、それぞれ結婚して家庭を持っても、悶々としながら余生を送るっての。
 叶わぬ恋に焦がれながら、二度と会えないというのならドラマになる。逆に、すべての制約を振り切って、愛を貫くというのでもドラマになる。だけど、この二人はどっちも別れるに別れられず、いっしょになるふんぎりもつかず、煮え切らない態度のまま、「偽装結婚」を続けながら、ずるずるした関係を続ける。男らしくない!(笑) これじゃ奥さんと子供たちがかわいそうだと思うだけで、主人公にちっとも同情する気になれないし、共感がわかない。
 『モーリス』(これ自体もあまりたいした作品じゃないが)のテーマもこれとよく似ていたが、結局煮え切らないまま結婚生活を維持するヒュー・グラント(役名を忘れた)に対して、モーリスは最後は愛を選ぶところがすがすがしい感動を呼んだのに。
 そりゃ、「ゲイだということがバレたら殺される」という社会状況は気の毒だと思いますよ。でも主人公たちにぜんぜんその危機感がないのよね。そんなにこわいなら、密会にももっと神経使うべきだと思うのに、ぜんぜん無防備だから奥さんにも上司にもすぐバレちゃうし。おかげで見ている方もちっともハラハラしない。
 まあ、現実はこんなものだと思う。実際、同性愛が違法でない日本でも、こういう隠れゲイはたくさんいるし。でもいやしくも小説や映画にするなら、現実をただ描いたってしょうがない。そこにはなんらかのドラマがあって当然でしょ? だから、私もラストではあっと驚くような事件が起こるんだと思ってた。これも月並みだけど、片方が殺されちゃうとか。ところが映画は片方の男が事故で死んでおしまい。あああーっっ!!

 この淡々として平凡で、何も起こらないところがいいんだという説もあるかもしれない。もちろん何も語らないことで多くを語るというのは「お芸術」のテクニックのひとつだ。だったらこの映画が何を語っているというのだ? ゼロだよ、ゼロ!
 とにかく、その「思想」の甘さと浅さが気になってしょうがなかった。愛とは何か?と言ったら、それこそ古今東西のあらゆる芸術のメインテーマだ。でもこの男たちにとっては、「やりたい」というただそれだけじゃん。相手に対する責任とか、思いやりとか、自己犠牲とか、そんなのは一切なし! 単にセックスに飢えてる中学生並みだな。

 もうひとつ、彼らがカウボーイだというのも私が最初惹かれたポイントのひとつだった。私は馬に乗っていたし、アウトドア・ライフにもあこがれを持っているので。
 確かに、タイトルになっている山の風景は美しい。そしてそれを強調するように、えんえんとただ景色を映している場面が多い。でも絵葉書みたいに美しい風景を、ただ絵葉書みたいに撮ってなんになるの?
 かつてはアメリカのヒーローであったカウボーイが、だんだん時代に置き去りにされていく悲哀も、すばらしいドラマになっただろうに、それもなし!
 私はアメリカの風土にはほとんど関心が持てないし、古き良きアメリカに対するノスタルジーもないが、それでもその風土性やノスタルジアが色濃くにじみ出た映画を見ると、やっぱりじーんとさせられる。この映画にはそれがない。この辺がいかにも外人が撮ったアメリカだなと思った。これじゃ単にキレイキレイの絵葉書で、土の香り、土地の匂いがしないんだよ!

 確かにその美しい風景の中で、男二人が少年のようにたわむれている場面は絵になるし、場所や時代は違っても、こういう「人生最良の時」、「自分がいちばん輝いていた瞬間」の思い出は誰でも持っているだろう。私だってある(遠い目)。でも、そんなすばらしい時はほんの一瞬で、永遠には続かないというのは大人なら誰でも知っている。むしろ二度と起こらない奇跡だから、はかない夢のようなものだから価値があるのだ。でもこの二人は、いいオヤジになっても子供のようにその夢を追いかける。私にはそれが単に現実に適応できない、成長できないだけに見えた。
 そりゃ、きれいな自然の中で、誰にも邪魔されずに愛する人と二人っきりで過ごせたらすばらしいよ。でもいつまでもそうしてるわけにはいかないのは、ゲイじゃなくたって同じだ。家族や仕事などの俗事に縛られるつらさも描かれるが、そんなの誰だって毎日直面していることで、誰もがつらいと思いながらも乗り越えて行ってることじゃない。逆に言うと、くだらないラブストーリーってのは、誰でも持ってる幼稚な願望に訴えるから万人に受けるのかもな。とにかくこれがゲイである必然性はまったくないし、そもそも映画にする必然性もまったく感じなかった。

 最後に、私がゲイ映画を楽しみにしているのは、「少なくとも片方は美青年」という暗黙の掟があるからだが(笑)、この二人はああ‥‥。もしかしてジェイク・ギレンホールが美青年のつもりなの? こんな目玉男、私はいらんわ。

 とどめに、私は女性監督が嫌い。これも女性の悪いところがモロに出た映画だったな。しかも台湾人で、私はアジアともそりが合わない。しかも前作は『ハルク』だって? いらんいらん! こんなの見たのが間違いだった。(監督のアン・リーは男性でした。失礼しました。ついアンと聞いて女性と思ってしまった) 

2006年12月24日 日曜日

今日はわりとどうでもいい映画の話

 どうでもいいけど、いちおう見た映画は忘れないように(忘れてもいいんだけど)書いておくことにしている。時間がないので、もっと重要な映画についてはまた明日。本当に重要な真打ちは、どうせDVDを買うんだけど、お金がなくて今は買えないので、もっとあとの登場になります。

Poseidon (2006) Directed by Wolfgang Petersen 『ポセイドン』

 逆に、観客評はボロクソだったのがこの映画。なんで? たしかにペーターゼンはたいした監督じゃないことぐらい私だって知っている。だけど、それなりにエンターテインメントを撮れるプロの職人的監督だし、彼の出世作『Uボート』はまさに海洋パニックものだったので、ぴったりじゃない?
 70年代パニック映画は私もけっこう好きだったし、中でもその金字塔『ポセイドン・アドベンチャー』のリメイクとなれば、ちょっと期待してしまう。特にCGが使える現代なら、昔は撮りたくても不可能だったトリッキーな映像も可能だし。

 残念ながら、この期待は冒頭のシークエンスを見てかなり減退した。だって、構図とカメラワークが『タイタニック』とまったく同じじゃん! タイトルもなんか似てるし、もしかして『タイタニック』の二匹目のドジョウをねらったのではという不安がわき上がる。それはともかく、『タイタニック』はラブストーリーとして見ると腹が立つが、パニック映画として見ればそう悪くなく、けっこう楽しめました。
 とりあえず、この映画もパニック映画の基本はおさえてあるので、なんでみんなそんなに文句言うのかわからないな。迷宮のような船内の恐怖も、アクションもきっちり描かれ、テンポもいいし。
 極限状況の人間ドラマもパニック映画の魅力のひとつだが、どうせ今のハリウッドにドラマなんか書ける人はいないので、私はアクションだけのほうがいい。その意味、ドラマを極力削って、一難去ってまた一難のアクションに徹したところは好感が持てる。あえて難を言えば、『Uボート』にはあった、神経を苛まれるようなキリキリしたサスペンスはないな。まあこれは戦争物じゃなくファミリー映画だからしょうがないか。

 もうひとつ、パニック映画に付き物なのは、豪華オールスター・キャストの競演である。しかし、スター級の役者がとっくに盛りを過ぎたロートルの、カート・ラッセルとリチャード・ドレイファスというのは、あまりに寂しく、その意味では期待できない。キャラの立った役者がいないのもつまらない。しかし、「役者がヘボい」という非難は当たらない。
 これだけ水中撮影の多い映画で、ということは、役者はほとんど一日中冷たいプールに浸かったままで、これだけ演技ができるのはえらいと思う。その意味では役者はみんながんばった。

 しかし、私にとってパニック映画の最大の見せ場は、なんと言っても「自己犠牲」。
 たとえば、奈落の底に落ちそうになって、かろうじて手だけで崖っぷちにしがみついているんだけど、その足には別の人間がぶら下がっていて、このままでは二人とも落ちて死んでしまうという状況。パニック映画ではよくある場面で、どの映画か忘れたが(『A4』だったか?)、これにそっくりなシーンがあって、そこでは下の人間がわざと手を離してもうひとりを救った。
 ところがこの映画では、周囲の連中が「蹴落とせ!」と叫び、本当に蹴落としてしまうのだ。しかも落としたほう(リチャード・ドレイファス)も落とされたほうも「いい人」という設定なんだよね。ひえー!
 これを見たときは、もしかしてこれは従来のパニック映画の常識を覆す、リアルなサバイバルものなのかと思った。でも、ここだけだったな。老人や女子供が生き残るし。これが現実なら、この人たちが最初に死ぬよね。生き残るのは壮健な男だけで。
 実は自己犠牲もちゃんとある。カート・ラッセル演じる父親が犠牲になるのだが、これはオリジナルの、元水泳選手の老婦人の役柄だな。しかし、かわいいおばあちゃんが犠牲になるから泣けるのであって、カート・ラッセルじゃなあ(笑)。
 ドレイファスはゲイで、恋人に去られて自殺しようとしていたという凝った設定なのだが、それがぜんぜん生きてないし、若い恋人たちはあまりに定石だし、キャラクターはまるで魅力がない。

 でも、アクション映画としてはなかなか良くできている。これでもう少しキャラが立っていて、これほど絵空事でなければ良かったのに。つまり、最初は大勢生き残った人々がバタバタ死んで行くところを見せるとかさ。しかし、時間の節約のためか、役者のギャラの節約のためか、最初にほとんどの乗客・乗員が死んでしまい、残った人々はほとんどが生き残る。まあ、パニック映画自体が、そういう嘘くさい様式の世界なんでしょうがないか。

 ちなみに、そういう娯楽的パニック映画ではなく、本物のサバイバル・ムービーとして、私が一押しなのは、前にもちょっと書いた『生きてこそ』(原題“Alive”)。『ポセイドン』でいちばんかっこいい役を演じたジュシュ・ルーカスは『生きてこそ』にも脇役で出てたので、ついまた思い出した。
 これまで映画で描かれた、最も過酷な状況を生きのびた人たちの話で、しかも実話。これを見ると生きるということの意味や、生命の尊厳について深く考えさせられるし、ボロボロ泣けます。飛行機事故の場面は、模型で撮影しているにもかかわらず、すごい迫力でこわいし。ただし、「人肉食」の映画なので、誰にでもおすすめはできないけど(笑) 

X-Men (2000) Directed by Bryan Singer 『X−メン』

 なんかヤケクソになってこんなのも見た。少なくとも人気作だし、それなりに楽しめるかと思って。
 冒頭、ナチのユダヤ人強制収容の場面から始まってるのを見たときは、「あ、いいな」と思った。これ、ミュータントって言ってるけど、正確には超能力ものでしょう? 古いSFファンである私としては、超能力者テーマと言えば「迫害」がつきもの。そして、超能力でもなければ生き延びられない、絶体絶命の状況で超能力が発現するというのは納得も行くし。

 ところが、このエピソードはほんのマクラで、その後の話とはなんの関係もなし。お話というのは、悪いミュータントの悪だくみを良いミュータントが阻止しました。というそれだけ。オープニングだけで終わった映画だった。
 あー、やっぱりアメコミだー! いつもアメコミを罵倒しているようだが、私は『スーパーマン(実写版)』や『バットマン(実写版)』を毎週見て育ったクチだ。(だいたい日本製の子供向け番組なんてなかった) それで、子供心に「アホだなあ」と思いながら見ていたのだが、それを思い出した(笑)。

 話がお話にならないならば、超能力やそのビジュアルがかっこよくなくてはならない。しかし、「手からナイフ」、「目から光線」って、いくらなんでも古すぎるし、みみっちい。
 「ミュータント」はしばしばフリークじみた姿のことが多く、それにも期待していた。でも、ウルヴァリンが猿人風(人間じゃ狼には見えないんだって。だいたいウルヴァリンはイタチの一種だぞ)なのと、敵の大男を除けば、別に普通。善悪の親玉は人の良さそうなおっさんだし。これなら『スポーン』のほうがずっと楽しかった。これじゃ子供の私でもきっとバカにしただろう。なのに日本では、「感動した」という人が多いのはなんで?
 ブライアン・シンガーはデビューしたときはそれなりの才能を見せていたのだが、ハリウッドで金のためのやっつけ仕事をしているうちに、ものの見事につぶされた監督の典型だな。終わり。

The Producers (2005) Directed by Susan Stroman 『プロデューサーズ』

 監督名は違うが、これはメル・ブルックスの60年代の作品の、ブロードウェイ・ミュージカル版のリメイク。メル・ブルックスには(私の好みとはまったく違うが)コメディ作家としてはいちおう一目置いている。でもミュージカルは身の毛がよだつほど嫌い。なのについ見てしまったのは、スチルで見たユマ・サーマン(ファンです)がきれいだったから。

 で、見始めてあきれた。まだやってるよ、このオヤジは。っていうか、大昔の映画のリメイクなんだから当たりまえかもしれないけど、死ぬほど古くさい、氷河期並みに寒い、ベタなギャグのオンパレード。笑うっていうより、ガクンと開いたあごがふさがらなくなる感じ。
 おまけに役者はそれを思い切り時代がかった(舞台がかった?)オーバーアクションで演じる。歌も思い切りカビくさい、古くさい正当派ミュージカル・ソング。レトロ・ファンにはたまらないだろうが、私はまるで付いていけない。

 よって私にはこの映画を語る資格がないので、ユマについてだけ。彼女がこういう「頭からっぽのセクシー・ブロンド」をやるのはめずらしいので、それだけでも見る価値がある。で、確かにセクシーだし、きれい。しかし、いい体してるなあ。それにいつもながらでかいなあ(笑)。と、それしか印象に残らなかった。

 とにかく、こういう映画で笑える人ってものすごーく純真でいい人なんだろう。私は違う(笑)っていう、ただそれだけ。

2006年12月24日 日曜日

 クリスマスにはなるべく「いい話」を書こうと思っているのだが、巡り合わせでこういう話になってしまいました。すみません。

Jarhead (2005) Directed by Sam Mendes 『ジャーヘッド』

 実を言うと、私は戦争に取り憑かれている。理由は単純。両親が戦争体験者だったからだ。母は東京大空襲で、都心のビル街が一夜にして瓦礫の山になるのを見、隅田川が死体であふれるのを見た。父は最後の学徒動員で徴兵されたものの、幸い戦場に送られる前に終戦になったが、訓練中の飛行場で米軍の戦闘機に機銃掃射されるという体験をした。
 二人とも多くは語ってくれなかった(父に至っては、一言も教えてくれない。母から聞いただけである)が、頭の上から爆弾が降ってくる恐怖、誰かに銃でねらわれる恐怖は、平時しか知らない私の想像を超えている。「地獄を見た」というのはまさにこういうことを言うのだろう。私が今ここに存在してこんなことを書いているのも、二人が生きのびて、結婚したからであって、その銃弾がほんの少しそれていたら、私はそもそも存在すらしなかったと思うと、言葉では言い表せないものを感じる。少なくとも、私にとって戦争は他人事ではない。

 ちなみに、彼らの戦争は第二次世界大戦だったが、「私の戦争」はベトナム戦争である。まだほんの子供だったが、テレビを通じて見たベトナム戦争と、それに伴って巻き起こった反戦運動は、子供心に深い印象を残し、トラウマになってしまった。その後大人になって、大量に見聞きしたベトナムについての本や、映画や、音楽がさらにそれに拍車をかけたことは言うまでもない。私のオールタイム・ベスト・ムービーは“Apocalypse Now”(『地獄の黙示録』)である。私がアメリカに対して、愛憎半ばする複雑な感情を持つようになったのもベトナム戦争からである。

 さて、そんな私にとって、湾岸戦争ほど「がっかりさせられた」戦争はない。開戦前の軍事評論家筋の一致した予想は、「第二のベトナムになる」というものだったし、私も大いにそれを期待していた。昼なお暗いジャングルもいいが、砂漠というのはそれ以上に過酷な環境で、ロケーション的にも申し分ないし。
 おっと、この口調でおわかりのように、私は「反戦主義者」とはとても言えない。そもそも取り憑かれるってことは、愛情の一種とも言えなくないし。
 期待した理由は、いろいろあるが、まず当時のアメリカの他国への軍事介入には(今もだが)目に余るものがあって、ここでまた地獄を見て思い知るがいいと思ったこと。それで、一度で懲りなくても、いくらなんでも二度も痛い思いをすれば、アメリカ人も目が覚めるんじゃないかと思ったこと。それと同時に、まだほんの子供でしかなかったころに「見た」ベトナムを、(はるかに情報の発達した現代に)再体験することによって、あれが本当は何を意味していたのか知りたいと思う気持ちもあった。

 ところが、ご存じのように、湾岸戦争は予想されたように泥沼化するどころか、鬼のような空爆であっという間に集結してしまった。イラク人はたくさん死んだが、「地獄」は視聴者の目からは隠され、見せられたのはまるでテレビゲームのような、血の流れない、現実味のない映像だった。その意味でも、史上初めて「戦争の現実」をお茶の間の一般市民に見せつけたベトナムとは対照的だった。ベトナム戦争が「テレビの中の戦争」だったなら、湾岸戦争は戦争をテレビゲームに貶めるものだった。
 私は怒り狂ったのは言うまでもない。

 というわけで、私がこの映画に期待した理由はわかってもらえるだろう。もちろん、当時は見られなかった「戦争の真実」が見られるのではないかと期待したのである。監督のサム・メンデスは『アメリカン・ビューティ』1本で、できる監督だってことはわかってたし、原作は湾岸戦争に従軍した海兵隊員の手記で、お膳立ては申し分ない。

 ただ、見始めて、主人公のスウォフォード(Jake Gyllenhaal)がスカウト・スナイパーだということを知って、??と思った。上に書いたように、この戦争は空爆だけで終わってしまった戦争で、スナイパーに何の用があるんだ? サダム・フセインを暗殺しに送り込まれたんだろうか? それはそれでなんかかっこいい。『地獄の黙示録』のウィラードも暗殺者だったし。
 それでワクワクしながら見ていたのだが、結果としてスウォフォードは、フセインどころか誰ひとり殺さない、ばかりか、とうとう1発も撃つことなく、除隊帰国する。はあ〜‥‥

 なるほど、これも戦争のひとつの現実には違いない。私は『地獄の黙示録』のように、兵隊たちが恐怖で次々発狂していくのを期待していたが、確かに彼らは発狂する。でも、恐怖からではなく、何もできない退屈のあまり気が狂うのだ(笑)。確かにこれも一種の地獄かもなあ。もしかしてイラクの自衛隊員も同じ地獄を見たのでは? いや、彼らは井戸掘ったりとか、するべき仕事が多少はあっただけましか。
 とにかくその意味、あまりにも湾岸戦争らしい、「リアルな」戦争映画だったことは確かだ。

 しかし、メンデスの名誉のためにこれだけは言っておこう。この映画はよくキューブリックの『フル・メタル・ジャケット』と比較されるが、確かによく似ている。特に、「いつ話が始まるんだろう?」と思っていたら、ほとんど何も起こらないまま唐突に終わっちゃったところが。訓練風景がえんえんと続き、敵は姿も見えず、やっと前線に出られたと思ったら、ぱっとしないクライマックスを迎えるところは本当にそっくりだ。
 だけど、『フル・メタル・ジャケット』に激怒し、それこそ両方の映画に出てくる鬼軍曹並みにキューブリックを罵倒しまくった私も、メンデスに怒る気はない。だって、こののろのろしたテンポと、アンチ・クライマックスは完全に意図したものだから。(私がキューブリックに怒ったのは、主として最後のクライマックスが、『地獄の黙示録』の中のほんの一エピソードの、陳腐な焼き直しだったせいである)
 どうせなら、観客に主人公のイライラと焦燥感を共有させるために、もっともっと退屈な映画にしてもよかった。それこそ、主人公が毎日砂漠の上をジョギングしてるだけみたいな(笑)。

 「本当の地獄」も、もちろんちらっとだが見える。主人公たちが「死のハイウェイ」に出くわすところがそうだ。ハイウェイ上の渋滞のいちばん前といちばん後ろの車を爆破し、身動きが取れなくなった車列に爆弾を落として丸焼きにしたのだそうだ。もちろん乗っていたのは戦火から逃げ出そうとした一般市民である。
 でも、転がっている死体は真っ黒に焼け焦げた焼死体で、繊細なスウォフォードは嘔吐するが、殺すところを見せるわけでもないし、彼らが生きていた人間だということを実感させるものもない。まあ、アメリカ映画では「原住民」の扱いはいつもこんなものだ。

 そうそう、『ブロークバック・マウンテン』で、「外国人の撮ったアメリカ』について文句を言ったが、メンデスはイギリス人。でもこれはかえって正解だった。つまり、もしアメリカ人がこれを撮っていたら、原作がどうあれ、もっと派手な見せ場を作り、スウォフォードをヒーローに仕立てただろう。少なくともラストでは発砲ぐらいさせたはずだ。逆にこれがイギリス映画だったら、もっとシニカルな「反戦映画」になってしまっただろう。
 このどっちつかずで煮え切らないところがまさに湾岸戦争なのであり、その意味、これはこれでよかったと思う。

 しかし、戦争映画というと「主人公のナレーションで進行する」という、判で押したようなお約束はなんとかならんのか? もちろん、『地獄の黙示録』のまねなんだが、『フル・メタル・ジャケット』もそうだったし、『プラトゥーン』もそうだったし、もう飽きた! 特に『地獄の黙示録』のナレーションがあまりにもすばらしかったのに(私はビデオを見ながら、全部ノートに書き取っていたぐらいだ。おかげで英語のリスニング能力がすばらしく向上した)、他はどうでもいいようなたわごとだからよけい腹が立つ。

 戦場の夢幻のような美しさも『地獄の黙示録』の忘れられない部分だが、ここでも、燃え上がる油田の炎に照らし出された夜の砂漠は美しい。たとえそれがILMの作ったCGであろうとも。問題はただきれいなだけで、ここでは何も起こらないというだけ。

 主演のジェイク・ギレンホールは『ブロークバック・マウンテン』の目玉男。やっぱり好きじゃないなー、この手の濃い顔は。丸刈り(これがタイトルのジャーヘッド)だといくらか見良いが。他の兵隊はあんまり印象に残らない。唯一、クリス・クーパーが『アメリカン・ビューティ』に続いて出ていたのがうれしかった。しかし、この二人は前の役柄がどっちもゲイというのは、海兵隊にオカマが多いということを暗示している、はずはないが(笑)。

 『アメリカン・ビューティ』で印象的だった幻想シーン。あれにもかなり期待していたのだが、そういうシーンは1箇所しかない。ところがあとで未公開シーン集を見ていたら、元はたくさんあったんじゃないさ! 主として欲求不満に駆られたスウォフォードの妄想シーンなのだが、どれもおもしろいのでそれがカットされたのはちょっと残念。
 もっともここにあれを入れると、戦争映画としてのリアルさが殺がれるという理由はよくわかるけど。だいたいこの映画はおもしろくちゃだめなのだ。

 たびたび『地獄の黙示録』を引き合いに出しているが、(戦争映画というと、私は『地獄の黙示録』と比較して罵倒するのが習慣になっている)、まさかその本物が劇中で上映されるとは思わなかった。このへんもけっこう「やられた!」と思った場面なのだが、なんと実話なんだそうだ。
 そんなのあり? いいのかよー! と言うのは、この映画が俗に思われてるような反戦映画だからではなく、むしろ軍隊が重んじる秩序とか規律とかを踏みにじるような映画だからだが、訓練兵にそんなもの見せていいのか? しかし、兵隊たちは映画(ベトコンの村の襲撃シーン)を見て、脳天気に「やれ! やっつけろ!」と興奮して騒いでいる。まあ、確かにあれは私が見てもかっこいいシーンではあるけど、後半は何考えて見てたんだろ? 戦争行く前にこんなもの見せられちゃ、そりゃ気も狂うわな(笑)。

 というわけで、期待した地獄は見られなかったが、私がいちばんゾッとしたのは、最後のスウォフォードの独白。
 いくらアンチ・クライマックスでも、反戦でも好戦でもない「事実」をねらった映画としても、結末にはなんらかの結論を出さなきゃならない。それでスウォフォードが振り返って言うことを要約すれば、「つらい体験だったけど、一生の仲間ができてよかった」ということ。
 これって戦争体験者がよく言うことだけど、それだけかよ? お友達ができてよかったって言うけど、それで殺された人たちはどうなる? 結局、過ぎたことはみんな美化してしまうほかないんだろうなあ。まったくの無為だったとか、失敗だったなんて認めることは耐えられないんだろう。
 IMDbには、実際に湾岸戦争に従軍した元兵士からのコメントが多く寄せられている。ほとんどがこの映画は本当にリアルだと言い、感動したらしい。と言うと、みんな同感なのか?
 私から見ると、一握りの大金持ちの利権を守るために、これだけつらい思いをして、ご苦労さんとしか言いようがないのだが、やっぱり兵隊なんてものは、これぐらい鈍感で、単純で、お人好しでないと勤まらないんだろうな。逆に言うと、その虚しさをつくづく感じさせてくれただけでもいい映画だったと思う。

 ところで戦争映画と言えば、話題の『硫黄島』二部作。もちろん見ますよ。イーストウッドは昔から好きだし、もちろんあの映画には期待している。(でもお金がないので、見るのはDVDになってからだが)
 ただ、言わせてもらえば、「兵隊の目から見た戦争」はもういらないという気がしている。戦争でいちばん苦しむのは戦場になった場所の住人だ。兵隊というのは殺し殺されるのが職業の特殊な人たちで、本当の戦争をいちばん知っているのも民間人だ。それはつまり、イラクでミサイルの下にいた人たち、ベトナムの農民たち、私の父や母、それにベトナム戦争に狩り出された、まだほんの子供の貧しい黒人兵もそうかもしれない。何も知らされず、わけもわからないまま戦争の渦中に放り込まれ、無言で死んでいった人たちだ。生き残った人もほとんど語らない。兵隊と違って、とても美化できるような思い出じゃないからだ。どうしてそういう人たちの代弁をしてあげる映画がほとんどないのか? もちろん、暗くて重いだけで娯楽性に欠けるからだろうが、そういう映画も見てみたいと思う。
 もちろん、インディーや小国の映画にはそういう良心的な戦争映画もけっこうあるが、私はそれをハリウッド超大作で湯水のようにお金をかけて、有名監督に撮らせてみたい。が、無理だろうなあ。

2006年12月25日 月曜日

Gosford Park (2001) Directed by Robert Altman 『ゴスフォード・パーク』

 今日は大物行きます。映画を意識して見始めた少女時代、私はイタリア映画に夢中だった。確かにイタリア映画の黄金時代でもあったが。中でも私の御三家はフェリーニ、パゾリーニ、アントニオーニの3人。これにベルナルド・ベルトルッチを加えてもいい。それからアメリカに興味が移って、神ともあがめた新御三家はキューブリック、コッポラ、そしてこのロバート・アルトマンの3人だった。(個人的にはアルトマンじゃなくてオルトマンだと思うが、いちおう国内での通例の表記にならう) キューブリックはこの世を去り、コッポラはとっくに脳軟化症と化した現在、アルトマンがバリバリの現役というのは驚かされる。
 もっとも御三家と言っても、アルトマンは他の2人よりはちょっと落ちるという認識だった。それというのも、他の2人は私が気が狂うほど好きな映画(キューブリックは『2001』と『時計じかけのオレンジ』、コッポラは『ゴッドファーザー』と『地獄の黙示録』)を残しているのに対して、アルトマンは発狂するほど好きと言える映画がなかったせいである。(個人的にすごく思い入れがあるのは、『M*A*S*H』は当然として、『三人の女』と『ゴッホ』)
 でもその一方、他の2人には「こんな愚にもつかないクソ映画撮りやがって!」と怒り狂った駄作もあるのに、アルトマンはそういうのがない。(まあ、『ポパイ』をどう考えるかにもよるが) ある意味、コッポラとキューブリックが天才(だったこともある)のに対して、アルトマンは名人芸的な器用人なんだと思う。
 それでもさすがに最近は私のほうが息切れして、すべては見てなかったんだけど、これはアガサ・クリスティ風の英国ミステリというのに、「えっ?」と思ったので見た。

 設定はまあよくある「アップステアズ−ダウンステアズもの」。アップステアズというのは上階に住む主人のことで、ダウンステアズというのは階下に住む使用人のことである。というわけで、イギリス貴族のカントリーハウスを舞台に、ハウスパーティー(と言っても、泊まり込みで何日も続くのである)で起こった殺人事件の話。こういうのはどっちかというと私の専門なので、わっと喜ぶかと思いきや、やはりそれなりに冷めた目で見てしまう。

 とはいえ、アルトマンと言えば群像劇、というだけのことはあって、まずはキラ星のごとく主役級のスターばかりを揃えたキャスティングに目を奪われる。スターと言っても、ハリウッドで活躍しているイギリス人スターではなく、もっぱら英国演劇界や映画界のスターというあたりも渋い。しかし、この辺の人はめったに見れないだけに、久しぶりに見た人たちがすっかり年を取っているのにあらためて嘆息したりして。ヘレン・ミレンなんて、私はまだ60年代の彼女のイメージが頭に焼き付いてるので。
 で、そのスター連が貴族と使用人に分かれているのだが、これ、誰を誰と入れ替えてもまったく違和感ないね。というのも、貴族と労働者階級のアクセントを使い分けられるというのが、英国役者の絶対条件だから。とりあえず、役者は全員死ぬほどうまい。この人たちの演技を見るだけでも見る価値はあると言えるのだが。

 やっぱり好きなのはヘレン・ミレン。若いころの彼女はたいして美人でもなく、鈍くて大味な感じのブロンドで、ちっとも好きじゃなかったのだが、年取って水気が抜けたらがぜん私の好みのおばさんに。なにしろ私は「イギリス人のおっかないババア」愛好者なもんで(笑)。この家政婦なんてまさに適役。
 男優なら一押しはチャールズ・ダンスだったのだが、彼はほとんどセリフすらなくてがっかり。でも、お気に入りの怪優リチャード・E・グラントがまさにリチャードらしい怪しげな役柄で出ていたのでいいとしよう。
 『シン・シティ』でちょっと見直したクライヴ・オーウェンも重要な役柄で出てるが、やっぱりこの男は好みじゃないな。スティーヴン・フライの刑事もハマりすぎだし、いちおうヒロイン(?)のケリー・マクドナルドは飾らない初々しさがいいし、アラン・ベイツ、デレク・ジャコビといったおじいちゃんたちは涙が出るほどいいし、イギリス人キャストはとにかくすばらしい。
 アメリカ人キャストはわりとどうでもいいっす(笑)。ライアン・フィリップのスコットランド訛りは、劇中でも「あやしげな訛り」と言われていたが、私もそう思ったし、偽者だってことはすぐにバレてしまう。

 というわけで、役者はいい。アルトマンの演出もまた、まさにいぶし銀の冴え。何気ないシーンでも、構図、照明、カメラなど、すべてが憎たらしいぐらいうまいなあと思って見ていた。話がミステリのせいか、ヒッチコックを思い出させる。映画学校の教科書にしたいような映画だ。
 そういうテクニックが映画のすべてなら、これは実に完璧な映画。だけど映画の命はやっぱりお話! それでお話はと言うと、ぜんぜんおもしろくない。

 そもそも私はアガサ・クリスティもたいしておもしろくないと思うし、ミステリとしては完全な駄作。謎解きなんてあってないようなもので、たかが田舎出のメイドにやすやすと解けちゃうんだもんね(笑)。そのメイドが犯人のところへ行って、「あんたがやったんでしょ」と問い詰めるあたりは、「やめてよー!」と頭を抱えた。
 また、ミステリにつきものの過去の因縁話(生き別れの息子!とか)も、思い切り古くさいメロドラマ。登場人物は絵に描いたようなステレオタイプ。いくら1930年代が舞台だからって、話までレトロにしなくてもいいのに。

 あー、やっぱりアルトマンも年かねえ。ていうか、なんで今さら英国ものなの? これこそまさに、非イギリス人が「イギリス映画」を撮ろうとして失敗した典型的な例だろう。あんたはジェイムズ・アイヴォリーか?
 確かにディテールは実にリアルだ。屋敷、室内のセット、衣装、家具調度から食器に至るまで、入れ物は実に立派。だけどぜんぜん魂がこもってないために、単に、ちょっと見てみたいけど、めったなことでは見れない貴族や召使いの暮らしぶりを覗き見るという、単なる覗き見趣味の映画になってしまった。

 断っておくが、本物の「イギリス映画」はぜんぜんこんなんじゃない。少なくとも私の好きなイギリス映画は違う。これを見ていて思い出したのは、アラン・ベイツが殺される貴族を演じた『グロテスク』という映画。(スティングも魅力的な役柄で出てました) 同じ貴族と召使いのミステリでも、あのエキセントリックさ、残酷さ、それとは裏腹なほのぼのした情感、粋なユーモア・センス、何もかも、この映画とは違いすぎるし、おもしろすぎた。なのに、『グロテスク』は日本ではDVDすら発売されていない。そういうものだ。と、もはやあきらめムード。

2006年12月29日 金曜日

買い物の話

 寂しい年の瀬を迎えているじゅんこです。寂しいのはもっぱら懐具合(笑)。なにしろ大枚をはたいたMowaxものがほとんど売れないうえ、自分ではバンバン大きい買い物をしてしまったので。もうこういうその日暮らしはやだ!とか言いながら、買うから悪いんだけど。
 なにしろ店の売り上げも含めた月収(平均)18万円、ボーナスなしの、ホームレス並みの収入。税金とか光熱費とか、自動引き落としされる分を除くと、月に使えるお金は10万円前後。この10万円から食費も交通費も被服費もお小遣いも出さなきゃならない、自慢じゃないけど日本の最貧困層に属する私にとって、1万円というのは大金なんです。なのに、クリスマスから年末にかけて、3000円台のハードカバー本を8冊、1万円のジャケット、それにDVDボックスセットあれこれを買ってしまったものだから。もちろんこのほかに、店の仕入れ(と称した、実質自分のコレクション)には10万円以上を使っている。
 それだけ使って、よく貧乏とか言えるって? いやもうヤケクソ(笑)。ていうか、弁解させてください。(誰に弁解してるんだ?)

 まずは本だけど、本はもう本当に買ってないんです。私は活字中毒者なので、以前は1日1冊は買って読んでたのをやめたのは、お金よりもスペースの問題。もううちは物を置ける限界なので、CDを取るか本を取るかというので悩んで、結局音楽が優先されたわけ。CD集めは半分商売だし、売るときも本は二束三文なのに、CDならある程度まとまったお金になるという理由もあるけど。
 でも本当に読みたい本がないのも事実。私はもう一度読んだら売るような本は買わない。そんなのは図書館で借りれば十分。本で買うのは一生ものの本だけ。つまり何度も何度も読み返してボロボロになるまで読むような本。それでそんな本はめったにないんだよね。だいたいうちにあるだけでも、もう一生飽きないほど持ってるし。

 でもリチャード・ドーキンスの新刊は買わないわけにはいかなかった。(あいかわらず生物学に凝ってます) 『祖先の物語』上下、各3200円。これは私的には決して高くない。本当にすばらしい音楽に値段が付けられないのと同様に、最高の英知に値段は付けられない。専門書はまず古本屋に出ないので、新刊で買うしかないし。
 これはなんと生命40億年の歴史。大きく出たねえ、ドーキンス先生。しかも、通常の進化論の本とは逆に、現在から過去へと遡って書かれている。祖先というのはもちろん我々のご先祖さまのことで、チョーサーの『カンタベリー・テイルズ』にならった生命史の巡礼の旅。その途中で次々、ご先祖様と合流して、巡礼団が膨れ上がっていくのだ。この画期的なアイディアだけでも6400円は惜しくない。
 ただあえて難を言えば、教科書的な内容なので、内容的には他のドーキンスの本ほどオリジナルで斬新な感じはしない。それに、人間が出発点なので、進化の系統樹で人間と重ならない生物はオミットされちゃうのはちょっと残念。もっとも、人類のご先祖様と言えば、すぐに猿を思い浮かべるが、40億年というタイムスパンを扱っているので、上巻の終わりにはアホロートルまで行ってしまう(笑)。哺乳類より原始的な生物のほうがおもしろいと思う私はうれしいけど。
 でも、世間には目立たないけどそういう生物のファンもけっこういるんですね。というのも、書店の生物学の棚を見ていたら、カイアシ類の本とか、クマムシの本とか(虫ではない。ドーキンスもファンらしく、「ペットにしたいほどかわいい」と書いている)まで出てるんですね! 読みたい! でもさすがに買って読むほどマニアじゃないです。
 CGで描いた想像上の「ご先祖さま」の絵がたくさん入ってるのもうれしいけど、これ元はカラーでしょ? 原書はカラーだったらくやしいな。

 それ以外はすべて、ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』シリーズ。
 『ハリー・ポッター』のヒットで、二匹目のドジョウをねらった翻訳物のファンタジーが、それこそ掃いて捨てるほど出たけど、私はいったい誰が買うんだろう?と思っていた。というのも、みんな『ハリー・ポッター』をまねした分厚くて重くてかさばるハードカバー本で出たからで、それもたいていはシリーズものだから、すごい出費と重さになる。日本の住宅事情で、あんな本並べておける家はそうはないぞ(笑)というのは別としても、高い金出して読んだらつまんなかったというのでは泣くに泣けない。
 そして、私の経験から言うと、ファンタジーぐらいクズの多いジャンルはないのだ。日本の「ファンタジー」と称する文庫本なんて、ケッ!って感じだし、それを言ったら翻訳物も同じ。なにしろファンタジーに関しては、私はいちばん多感な少女期に、最高の本物だけを読んで育ったから、ちょっとやそっとじゃ我慢できない。
 でも、あれだけたくさん翻訳される中には、きっといいものもあるんだろうなとは思うのだが、困ったことにファンタジーというのは、宣伝文句だけ読んでもぜんぶ同じに思えるんだよね。耳慣れない変てこなカタカナの固有名詞ばっかりが散りばめられ、剣と魔法がどうしたとか、魔法使いと王女と竜がどうしたとか、それだけ読んだらどうでもいいバカな話としか思えない(笑)。もちろん他人の書評なんか私は一切信用してないし。
 だったら作家名で選ぶしかないが、これまたクズが多すぎるせいで、このジャンルは私もあまり読んでないし。

 ただ、このシリーズだけは気になっていた。ジョージ・R・R・マーティンは元はSF作家としてデビューしたのだが、デビュー時から「書ける人」としてマークしていた人だから。その後、SFでは食えなくなって、多くの作家がホラーやファンタジーへ鞍替えしていったが、この人もそうだった。でもSFが書けるからって、ファンタジーも書けるとは限らないし、だいたい本業でもあくまで中堅作家という感じで、そんなものすごくおもしろいってわけでもないし、だいたい高いし重いし(笑)。
 でもやっぱり気になったので、1巻の上巻のみ、ブックオフで見つけたとき買ってあった。それで読んでおもしろかったら続きも買おうと。ところが例によってうちの混沌の中で、せっかく買った本はすぐに行方不明に。ようやく最近「発見」したので読んでみたところ、いいじゃん! これまでのマーティンの本の中でいちばんいいじゃん! これは揃えなくちゃ!と思ってショップを検索したら、なんと1巻の下巻はすでに絶版。
 マジかよ、ハヤカワさん! だってまだ完結もしてないシリーズを途中で絶版にしちゃうなんて! 実際、ハヤカワから出たシリーズものは完結しないままのがたくさんありますけどね。もっとも、この第1巻が絶版になったのは、文庫版が出たかららしい。でも2巻と3巻はハードカバーしか出てないのに、これまた完結前に文庫になっちゃうというのはどういうわけ?

 それでさんざん考えた。もちろん、文庫のほうが安いし、電車で読むにも便利だし、場所も取らないし、私は文庫のほうがありがたい。ならばハードカバーは売っちゃって、文庫で揃えるか? でも本当に最後まで文庫化されるかどうか、あてにならないし、ハードカバー版もまだ完結してないのに、文庫で読めるのはずっと先になる。
 それでも金欠の折り、もう文庫でいいやと思って、本屋へ行ったら、なんとハードカバーでは上下2巻本の第1巻は、文庫では5分冊に! 第3巻はハードカバー3冊だから、これが文庫になったら7冊ぐらいかよ。本棚に文庫がずらっと並ぶところを想像するとまた頭が痛くなる。
 とにかくファンタジーもSFも純文学も、最近の海外小説は異常に長い。これは私にとってはぜんぜん問題にならないばかりか、本は厚ければ厚いほどうれしい私は歓迎なのだが、この分冊で出すという日本の習慣は、シングルを2枚、3枚セットで出すイギリス盤CDと同じぐらい頭に来る。だって、それだけお金もかかるし、場所も取るし! どうして1巻は1巻で出してくれないの? もっとも、この厚さで1巻本だったら重くて手が疲れてしょうがないが、原書なら3冊なのが、7冊に化けるのはどうしても納得がいかない。
 それでも数十冊の文庫買うよりましと思って、下巻は古本で捜すことにしたが、アマゾンじゃ高い店はこれに12800円付けてる! うーむ、絶版本にはプレミアが付くというのは忘れてた。CDなら自分もやってるし、当然と思ってたけど、私が古書を買うのは単に安いからで、なんかピンと来ないのだ。しかもこんな出たばっかりの新しい本! でも続きが読みたさに負けて、とうとう5000円で古本を購入。えーん(泣)。おまけに届いたときはきれいだったが、読んでいるうちに背割れしてしまった。これは前の持ち主が手荒に扱ったせいで(上巻もやはり同じことになった)、私の本は絶対こうはならない。
 そんなこんなで懲りたので、プレミアが付く前にと思って、残りの巻はすべて生協で注文するはめに。でも1割しか安くないし、再販価格というのも(日本盤は貴重というか、少なくとも海外で買うより安いという意識があるからか、これまたCDではそう思わないのに)腹が立つ。
 こういうとき、音楽や映画なら迷わず輸入盤を買う私だが、本だけはそうもいかない事情があるんですわ。というのも、最近年のせいかめっきり視力が落ちていて、洋書のあの細かい字を追うと頭痛がしてくる。(耳はまだ大丈夫だから、映画やDVDは平気なわけ) おまけにファンタジーは変てこな固有名詞や専門用語が多くて、ものすごく読みづらいし、ペーパーバックは元から印刷がかすれたり、紙が安くてデコボコだからそれが光を反射してよけい読みにくいし、すぐにページが茶色くなったり、ページがバラバラになって、長期保存や繰り返し読むには向かないし、そんなこんなでもう最近はペーパーバックは買えないのだ。かといって、ハードカバーは送料が高いので翻訳と同じになっちゃうし。結局なんかえらく高い買い物になってしまった。

 言い訳がやけに長いが、それでも購入を決意した『氷と炎の歌』とはどういう本か?
 ファンタジーで私がこのところ、ずっと凝っているのは私が勝手に名付けた「残酷なファンタジー」というやつである。というと、一頃はやった(で、日本ではすぐにすたれた)「ダーク・ファンタジー」を思わせるが、私の考えではダーク・ファンタジーというのは、単にホラー風味のファンタジー。私が言う「残酷なファンタジー」とはリアルなファンタジーのことである。
 だいたいにおいて、ファンタジーの世界設定の多くは中世ヨーロッパを元にしている。つまり時代劇である。ところが、現実の中世ヨーロッパはきわめて野蛮な時代だったし、中世ヨーロッパ人なんて、現代人から見ればまるで野蛮人。なのに、その連中が現代人みたいなものの考え方をし、行動をするのは変だと思うのだ。
 それにファンタジーと言えば「剣と魔法」が代名詞ってぐらいで、必ず剣や斧や槍での戦いの場面があるが、これも切ったはったの世界だからして、血とはらわたにまみれた残酷な戦いのはず。歴戦のヒーローや戦士ともなれば、全身傷だらけ、どころか、腕の1本や2本なくしていて当然という世界だ。なのに、ファンタジーの戦いでは、テレビの時代劇や、映画の史劇並みに血が流れない。
 ちなみに、ダン・シモンズの『イリアム』(おっと、これもリビューを書くと言って書いてないけど、こっちもまだ翻訳は完結してないのでごめん)がえらいと思ったのは、古代ギリシア人がいかに野蛮人だったかをきっちり書き、戦闘シーンではちゃんと血とはらわたまみれになるからだ。
 その意味で私が感動したファンタジーは、サイモン・R・グリーンのシリーズ(翻訳は1巻のみ出た)やデイヴ・ダンカンの『力の言葉』シリーズだったが、マーティンのこのシリーズはそれをさらに上回るリアルさ!

 暴力や殺人や裏切りや略奪や侵略や強姦や拷問が日常茶飯事だった世界、それがたいして悪いことでもなかった世界。人権とか人道とかいう言葉は存在もせず、力だけが支配する世界。5才の少年が「大人の男」として振る舞うことを要求される世界。そういう殺伐とした世界をマーティンはきっちり描いてみせる。
 もっとも、それよりさらにひどい世界はフランク・ハーバートが『デューン』ですでに描いている。しかし、王家の親子兄弟親族一同が互いに憎み合い殺し合う『デューン』は、いささかやりすぎでリアルじゃないし(これじゃ血統が絶えてしまう)、あまりの暗さと救いのなさに、私でも気分が悪くなって最後まで読む気が失せたが(笑)。
 だから、出てくる登場人物も現代人の目には違和感がありすぎて、これじゃとても感情移入ができないと思いながら、読んでいるうちに、悪役も善玉もそれぞれの人間性が見えてきて、なんかいとおしく思えてくるというあたり、前に書いた『ゴーメンガースト』に通じるものがある。
 今、善悪と書いたが、はっきりした善人・悪人の区別がないのもいい。だいたい、現代の善悪の概念を適応することはできないし。いちおう1巻では主人公らしく思えた北方の支配者スターク家の領主エダード公は、この中じゃ最もまともな人物に思えたが、早々に殺されてしまう。善人は長生きできない世界なのね(笑)。
 お話はその雪と氷に閉ざされた領土を持つスターク家(氷)の子供たちと、ドラゴンを操る南方の古代王朝の最後の生き残り(炎)の王女との戦いになりそうだが、なにしろまだ1巻目を読み終わったばかりなので先はわからない。とりあえず、ここまでは「ファンタジーじゃないじゃん。異世界が舞台になってるとはいえ、戦国小説じゃん」という帯の文句がズバリである。
 実際、ここまではファンタジーらしいところはほとんどない。実は最後、謎がすべて解けるとSFになるんじゃないかと私は期待してるんだが。私はこのぐらいの厚さの本は1日で読んでしまうのだが、まだ最終巻が出ていないせいもあり、(中断されるのがいやなので)ゆっくり読むつもり。

 DVDはもう思い出すのも気が重いぐらいたくさん買っているのだが、最近買ったのは今NHKでやってる『プラネット・アース』のボックス。もちろんこれは輸入盤を買うつもりだったが、見ると日本盤はボックス2セットで7枚組なのに、BBCのほうは5枚組なのだ。えっ? でもコンプリート・セットと書いてあるのに。
 そうか、NHKのは緒方拳が出てくる無関係な映像が付いてるから、そのぶん長いんだな。そんなのいらないやというので、迷わず英国から買った。なにしろ日本盤は27930円なのに、輸入盤は日本への送料入れても5800円で買えるんだもん。これはまだ届くのを待ってるところ。

 これだけ買えば当分緊縮財政が続くはずが、つい洋服まで買ってしまった。それもすでに着ないコートやジャケットがいっぱいあるのに、ダウン・ジャケットなんか。だって、最近寒いし、軽さと暖かさでダウンにまさる素材はないんだもん。
 ダウン・ジャケットはすでにいいのを持っている。それもブランドもののスコッチハウス(もちろんアウトレットで買ったんだけど)。防寒用のヘヴィ・デューティな衣服といえばやっぱりイギリス製品だからね。ところがこれはいくらなんでも暖かすぎて、東京の冬には暑すぎるのだ。男物なので大きすぎるうえ、ダウンがぎっしり詰まってるから、着るとまん丸にふくれた雪だるまかミシュラン・マンみたいになってしまう(笑)。脱いで手に持とうとしても、片手では抱えきれないぐらいかさばるし。
 それで最近あまり着るチャンスがなかったが、普段用に安い国産のジャケットを買おうと思い立った。それで近所の2000円から3000円のを見て歩いたんだが、安いやつはダウンとは名ばかり、入ってるのは綿ではないか。綿入れなんか着て歩けるか!と、変な見栄を張って(実際問題として、東京の寒さなんかペラペラの綿入れで十分なんだけどね)、私としては高価な1万円もするやつ(もちろん、この値段だと本物の羽根)を買ってしまった。
 たまにがんばって新品の服を買うんだから、体にぴったりのやつがほしかったが、例によっての妥協。15号だと肩や胸や丈や袖はちょうどいいんだが、腰やお腹のあたりはダブダブに余ってしまう。結局、大きいサイズって肥満サイズなんだよね。まだ肥満体ではないとちょっとほっとしたりして。でも、どうせ前は閉めないし、つんつるてんよりはましと判断して買う。それでも雪だるまよりはよっぽどかっこいいし。
 色は白。白は汚れが目立つからいやなんだけど、もう黒い服はどうしてもいやだった。私みたいに古着ばかり着ていると、サイズがないせいもあり、なぜか黒ばっかりになっちゃって。まあ、ダウンは家で洗濯できるからいいや。

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