2006年8月の日記

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2006年8月2日 水曜日

夏休み映画劇場 その3 キッズ・ムービー特集

 続いては子供向け映画行きます。今みたいに疲れてると疲れるような映画は見たくないし、ましてや、つまんない映画なんか見てる暇はないので、ついキッズ・ムービーを借りてきてしまう。なぜかというに、

子供向けはそれなりに心を込めて作られている。

ということに尽きる。ビデオ屋の棚なんか見ていると、見るからに心のこもってない映画が大量にありすぎるからね(笑)。でも子供にはあんまりひどいものは見せられないから、誰でもある程度ていねいに作るし、それなりの質は保っていると思って。けっこう前に見たものも含まれてるので、記憶もあいまいだけど。

The Chronicles of Narnia (BBC TV) 
『ナルニア国物語』 (テレビ版)

 実は映画はまだ見てない。ていうか、どうせDVDボックスセット買うんだから、もういいか、なんて(笑)。「映画は劇場で」主義の映画ファンからすると邪道だろうけど、私は最近映画館行く気がしない。なぜかというと、寝転がってタバコ吸いながら見られないというのもそうだが、DVDに慣れてしまうと字幕があるのが邪魔で気になってしょうがない。翻訳小説を読むのはぜんぜん気にならないのだが、映画は耳からは原語が聞こえてくるだけに、それと目から入る日本語がぶつかりあって、頭が混乱するし、うるさくてしょうがないのだ。マジな話、私は最近、字幕よりは吹き替えのほうがまだいいです。
 そうそう、「英語脳」なんてよく言われるが、私、DVDで映画見るようになってから、(映画見るときだけだが)英語脳になっちゃったよ。ふだんは(聞き漏らしがあるといやなので)英語字幕で見ているのだが、こないだ字幕を出し忘れてるのに、ずいぶん時間がたってから気が付いて、自分で驚いた。
 さらに、ディズニーというのがやっぱり気に入らなくて、つい二の足を踏んでいたのだが、そしたらビデオ屋で80年代にBBCで制作されたDVDが入っていたので、「見るならこっちが先!」と思って借りてきた。私はBBC信者なもんで。

 しかし大きな誤算があった。「ドラマのBBC」には定評があるが、これだけSFX要素の多いファンタジー、しかも80年代では当然ながらCGは使えない――ということをすっかり失念していたのだ。
 そんなわけで、「もの言うけもの」がすべて着ぐるみなのを見たときは、ショックでかなり引きました。この人たちは知性があるっていうだけで、あくまで本物の動物なんですよね。それが着ぐるみ! おかげでどう見ても、頭の変な人たちが遊んでるようにしか見えん(笑)。
 それにくらべてフォーンやセントールのような半人半獣のクリーチャーは人間にメイキャップするだけですむからまだまし。でもセントールは人間と本物の馬を合成しているのだが、走ると上半身と下半身がガタガタずれる! さすがにアスラン(アスランか、アズランか? ビデオではアズランと言っていたが、とりあえずここは旧来の呼び名で通す)は着ぐるみじゃなくてパペットで、これの出来はけっこういい。困らないのはドワーフだけ。なにしろ「大人でも身長がとても低い人」俳優を使えばいいからね。
 しかしネズミのリーピチープが着ぐるみなのには目まいがした。だってネズミだよ! 確かに原作でも身長30センチの大ネズミという設定だけど、それにしても巨大すぎる。とはいえ、それでも小さい子供よりずっと小さいということは、「身長が極端に低い人」が中に入ってるんだな。そんな役者がいるというだけでもびっくりしてしまう。

 おまけにそれをフィルム撮りじゃなく、鮮明なビデオ撮りしているものだから、よけいチープさが目立つ。ブルーバック・スクリーンの輪郭がくっきり見えてるし! ワイヤで吊られて飛ぶシーンでは本当にぶら下がってるようにしか見えないし! 動物の前足が(人間が入ってるせいで)逆方向に曲がってるし!
 まあ、テレビだし、時代が時代だからしかたないとは言えるが、それを思うと驚異の出来だったのは、前にも書いたジム・ヘンソンの『ストーリーテラー』。あれもテレビで明らかに低予算だし(背景なんてほとんど絵だし)、すべて着ぐるみとパペットで作ってるにも関わらず、安っぽさをまったく感じさせないばかりか、クリーチャーが生きてるみたいに見えた。今さらながらジム・ヘンソンのすごさを思い知らされる。これもジム・ヘンソンズ・クリーチャー・ショップに頼めば良かったのに。
 良かったのはやっぱり役者と衣装。それに城なんか実物を使っているし、ロケが多いのもお金がかかってる証拠。そういうところが重厚にできてるのに、クリーチャーがあれだから一気に冷める。

 が、それでもなお! 原作読んで泣かされたところではちゃんと泣けるあたり(たとえば『朝びらき丸』のリーピチープの口上)、原作の力というものを思い知らされる。

(以下は映画版『ナルニア』の予想も含めて)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のところでも書いたように、思い入れのある作品、長いこと親しんでいる作品ほど、映像で見てギャップに苦しむことになる。特に、この小説はポーリーン・ベインズの挿絵があらゆる読者の脳裏にしみついてしまっているので、それと少しでも違えば、猛反発をくらうことは必定だ。その点、『指輪物語』に感動したのは、映画のシーンがどこを取っても「挿絵そっくり!」というせいだった。はたして映画はどうなってるやら。
 特に四兄弟。エドマンドは絶対、テレビ版のほうが良かったな。ブロンドにソバカス顔で。でもテレビはユースタスがブロンドだったからやっぱり違う。こんな金髪肥満児、ユースタスと違う!(けっこう美少年なんだけど) むしろ映画版のエドマンドがユースタスの感じなのに。ルーシーはテレビ版ではBisのマンダみたいなすごいブスの女の子だったので、映画の方がちょっとまし。確かに姉のスーザンほど美人じゃないという設定だけどねえ。
 でも子供たちは成長するし、「代替わり」するので、まだいいのだ。(大人になるとナルニアには行けないという設定なので、毎回主人公の子供が替わるのだ。しかしピーターたちがまだ子供のうちに七部作完成するのかしら?) しかし「王子様」はやっぱり美形でないと気がすまない私としては、カスピアンとリリアンとティリアンを映画じゃ誰が演じるのかが、今から気にかかる。ちなみにテレビ版では、カスピアンは金髪巻き毛でゲー! リリアンは私好みの男の子で良かったのだが。

The Polar Express (2004) Directed by Robert Zemeckis
『ポーラー・エクスプレス』

 これはクリス・ヴァン・オールズバーグ(Chris Van Allsburg)の絵本のアニメ化作品。オールズバーグは暗くて不気味なところがけっこう好きで、絵本も1冊(『ハリス・バーディックの謎』)持っている。監督のゼメキスは撮れる人だし、夜の町に汽車がやってくるというイメージはステキだし、けっこう期待して見た。

 オールCGだが、人物はモーション・キャプチャーを使って俳優の表情や動きをそのまま再現している。確かにオールズバーグの細密画を動かすにはこれしかなかったかも知れないが、やっぱり顔が不気味だよねえ(笑)。他の絵本ならいいが、これは純然たる子供向けだけに、かんじんの子供が不気味に見えちゃうのはちょっと。ここまでやるなら実写でも良かったんではないか。
 逆にCGでなければ絶対に撮れないのは、アクション部分の現実には不可能なカメラワーク。風に乗って舞うチケットを追うところとか、ジェットコースターみたいな汽車の動きはさすがアニメならでは。風景や建物も美しいが、実写で撮ったとしても、これはどうせCGになるはずだから。

 お話は『チャーリーとチョコレート工場』を思い出した。選ばれた子供だけが、北極にあるサンタの国に招待されて、その中から選ばれたひとりの子供だけが、サンタから直接プレゼントをもらえるってところが。特に金のチケットが『チャーリー』に出てきたのとそっくりだったので。でもどういう基準で選ばれるのかさっぱりわかんないね(笑)。
 ストーリー的には、ポーラー・エクスプレスに乗って北極に行ってプレゼントもらって帰りました、というただそれだけで、優等生の黒人少女とか、生意気なガキとか、いじけた貧乏人の子供とか、いろいろキャラクターを揃えたわりにはドラマというものがないし、お話的にはまるで盛り上がらない。もともとが絵を見るものだから当然と言えば当然だけど、あくまで絵だけの映画だったな。そういや、オールズバーグの絵本って(1枚の絵から想像させるストーリーは別とすれば)普通ストーリーがないよね。そっち方面はあまり得意じゃない人らしい。

Lemony Snicket's A Series of Unfortunate Events (2004) Directed by Brad Silberling
『レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語』

 原作は読んでないが、タイトルがおもしろいので前から気にしていた作品。子供がひたすら不幸にもてあそばれる物語と聞いていたから、ディケンズみたいなのかと思っていた(笑)。『オリヴァー・ツイスト』とか『デイヴィッド・コパーフィールド』の主人公の少年の不幸さなんて、半端じゃないからね。
 で、映画を見たら、ぜんぜん不幸じゃないのでがっかりした。単に、両親が火事で死んじゃって、遺産ねらいの叔父さんに何度も殺されそうになるというだけなんだもん。ディケンズの子供なんて、こんなもんじゃなくいじめ抜かれるぜ!(笑) まあ、しょせん子供向けの童話だからしょうがないけどね。

 三兄弟は長女のヴァイオレット(Emily Browning)は発明家、弟のクラウス(Liam Aiken)は写真記憶の持ち主、末っ子のサニー(双子のKara  & Shelby Hoffmanが二人一役)はまだ赤ちゃんだが、独自の言葉でしゃべり(家族には何を言っているかわかるらしい)、なんにでも噛みつく(笑)。というわけで、この子たちは全員がある種の天才児で、それぞれが特技を活かして、さまざまな苦難を乗り越えるという筋書き。にもかかわらず、その「アイディア」がまるでぱっとしなくてカタルシスがないのだ。こういう一難去ってまた一難みたいなストーリーでは、それをどう克服していくかが見所なのに。この辺だけ見ても、あんまり頭のいい作家じゃないなと。
 で、あんまり頭よくないくせに、タイトルにまでわざわざ自分の名前を冠して、おまけに作者自身が劇中にも登場する(なぜかジュード・ロウが演じている)あたりも、おばかさんっぽい。ま、その程度の原作だから、この程度の映画になっちゃったのか。
 だいたい、不幸せを売り物にしてるが、いくら児童小説でも幸せなだけの話なんてあるか? 「幸せな子供たちが優しい両親のもとで楽しく暮らしました」じゃ、ぜんぜん話にもならないので、いやしくも物語なら、必ず不幸の種はあるのだ。それを今さら強調するからにはどんなに不幸かと思ったのに。

 というわけで、話はつまらない。主演のジム・キャリーはいろいろ変身して見せて、芸達者なのかもしれないが、私としては顔見ただけで頭が痛くなるのでいらない。
 主演の子供たちはいい。見るからに薄幸そうな顔してるところが(笑)。あと、幼児はつねに無敵なので、サニーもいい。
 それこそ19世紀風というか、ゴス風の衣装やセットも好き。エンディングのアニメーションも不気味かわいくて、またちょっとティム・バートンを思わせるが、バートンの絵より好き。

Harry Potter and the Goblet of Fire (2005) Directed by Mike Newell
『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』

 なんか文句言いながら、毎回見てるハリー・ポッター・シリーズ。少なくともこの映画はちゃんとお金かけてるし、美術やセットや子供らを見るだけでも価値はあるので。
 もっとも子供らは成長してきてしまって、全員かわいくなくなってきたのでもうだめかも。とにかくハリーとロンの、あの汚らしい長髪なんなの?
 それで4作目にもなると、だいたいこの作家のワンパターンが見えてくる。ホグワーツの学校生活の一コマを見せるかたわら、そこにヴォルデモート卿の手先が進入してきて、ハリーがやっつけてめでたしめでたしっていう。なんかもう飽きたんですけど(苦笑)。
 今回のネタは三大魔法学校の対抗戦。軍隊式のブルガリアの男子校と、モデル・スクールみたいなフランスの女子校と。何考えてるんだか(笑)。
 とりあえず許せない気がしたのは、たかが試合のために、無関係な第三者の生徒を人質として誘拐して湖に沈め、生命の危険にさらすってところ。それが教育者のやることか! おまけに途中棄権した選手の人質はハリーが助けなきゃ見殺しかい!
 第一試合はドラゴンとの勝負だというのも、ハリーだけ事前に教えてもらえるのも、アンフェアとしか言いようがない。こういうアラがあるだけでもたいしたことない作家だってのがわかる。

 というわけで、なんかボロクソだが、やっぱり『ナルニア』で育った私は、ハンパなガキ向け映画なんか見る気がしないわ。そういや、7月30日に「ミステリとファンタジーとユーモアだけはイギリスの牙城は譲れない」と書いたが、それに童話というのを付け加えるのを忘れていた。アメリカの童話でおもしろいと思ったのってひとつもないんだよね。国民的名作とされる『オズの魔法使い』も、私はぜんぜんピンとこなかったし。

2006年8月3日 木曜日

夏休み映画劇場 その4 アクション映画特集(のはずだったんだけど、男の話だけ)

Batman Begins (2005) Directed by Christopher Nolan 『バットマン・ビギンズ』

 私はアメコミにも、バットマンにも何の興味もないんだけど、やっぱり愛するクリスチャン・ベイル(Christian Bale)が出てるからには見ないわけにはいかないと思って。それに監督がクリストファー・ノーラン(2005年8月13日、2006年2月13日参照)というのもちょっと気になった。

 しかし噂では、今回はコミックっぽくなく大人向けだとか、シリアスでダークだとか聞いてたんだが、私にはやっぱりしょうもないガキ向けのマンガとしか‥‥。そもそもなんでブルース・ウェインがチベットの山奥で修行しなきゃなんないんだか。おまけにその前は中国の強制収容所みたいなところにいるし。リアリティも説得力も必然性もゼロじゃん。そこへ渡辺謙率いる忍者軍団(とほほ‥‥)が出てきたところで、私はまじめに見る気を一切なくしました。

 よって、あとは「男」の鑑賞に徹する。しかしやっぱりすごいなー、クリスチャン・ベイル。『マシニスト』の骨と皮から、ちゃんとアメコミ・ヒーローの体になってるもん。でも他のアメコミ・ヒーローみたいなバカ面じゃなく、知的で品があって影があるところがブルース・ウェインにはぴったりだとは言える。
 それでもバットマンそのものはどうしても好きになれませんけどね。だいたい、アメリカ人って、コウモリとか蜘蛛とか、なんでそういう変なものが好きなんだろう? ここでは「自分がコウモリ恐怖症だから、悪者をこわがらせるためにコウモリの格好をする」という変な理屈がついてるが、べつにこわくねーよ(笑)。私の子供時代なんか、東京の真ん中でも夕方になるとコウモリが乱舞していたし。
 でもコウモリって嫌い。エコロケーション(音波で自分の位置を知ること)のために、耳や鼻や口がグログロに変形して顔が醜いし、かっこわるいし、不潔だから。(空飛ぶネズミですからね。コウモリの密集した洞窟なんて、立ちこめたアンモニアで、ガスマスクしないと入れないほどだし)
 とりあえず、ヒーローはいい。マンガもいい。なのに、なんでアメコミ・ヒーローって、ああいう恥ずかしいコスチュームを付けなきゃならないんだか。おまけに下はタイツだし(笑)、恥ずかしくないのか?

 しかし、見始めて知ったのだが、他にも私の好きな役者がぞろぞろ出てる! 執事のアルフレッドにマイクル・ケイン(Michael Caine)でしょ。年格好から言って、ぴったりね。もっとも本物の英国執事はあんなアクセントじゃないけど。
 悪役の親玉にはリアム・ニーソン(Liam Neeson)。IRA上がりか? 善玉の警官にはギャリー・オールドマン(Gary Oldman)。この人も最近、こういう冴えない中年オヤジの役が多いけど、似合ってるからびっくり。しかし、ゴッサム・シティってイギリスの町だったのか?
 渡辺謙だって、役柄はまぬけだけど、見た目だけはこの手の「謎の中国人」としては抜群に威厳があってかっこいい。なんでこの人を親玉にしないのか? リアム・ニーソンみたいな弱々しげなやつより、よっぽど強そうなのに。彼は序盤であっさり殺されちゃって、なんのために出てきたのか、さっぱりわからない。
 しかし、私の目を釘付けにしたのは上記の人々の誰でもなく、悪徳医師のドクター・クレイン。やたら知ってる顔ばかりの中で、彼だけ最後まで誰なのかわからなくて、画面に登場した瞬間から、「誰なの、この人? 誰なの!」と騒いでいた。とにかく、もう全面的に好み! 特に異様な光をたたえた冷たい青い目が! 声もアクセントもすてきだし、隅から隅まで私好みの(ちょっと変態っぽい)美形! メガネもいいわあ。
 それでエンド・クレジットを目を皿のようにして見ていたのだが、この人はキリアン・マーフィ(Cillian Murphy)くんでした。ほら、『28日後』のリビュー(2006年1月27日付け)で好みだと書いてたじゃない。いやー、こんなところに出てたのか。しかも、キャラクター的にはあの映画より絶対魅力的! (変態っぽい悪役好きなので) 惚れたぜ! 個人的にはジョナサン・リース・マイヤーズ(Jonathan Rhys Meyers)の次ぐらいに好きっ! (気になる人はこのファンサイトに美麗写真がたくさんあります)
 ここで気づいたのだが、この2人はともにアイルランド人。なぜかアイルランドからはたまーにこういう美しい生き物が獲れるんだよね。キリアンには、ぜひ主役でサイコもの撮ってほしいなあ。それとこの手の顔の人はコスチュームも似合うので、『ナルニア』の王子さま役は決まったようなものじゃん!(勝手に決めてる) BBCのリリアン王子がまさにこの手のタイプの顔で好きだったんだよね。名前も似たようなもんだし、いいじゃん。(何がいいんだか)
 というわけで、男しか見てなかった(笑)。これならティム・バートン版のほうがまだましだったな。セットに雰囲気があったし。

Alexander (2004) Directed by Oliver Stone 邦題 『アレキサンダー』

 オリバー・ストーンは毀誉褒貶はあるけれど、私は長年に渡って敬愛している監督。ただ、『ニクソン』あたりからちょっと息切れして、その後の映画は見ていなかった。その彼がなぜか“Alexander”。(すいません。日本語表記で行くつもりだったけど、やっぱり私はどうしてもアレグザンダーをアレキサンダーとは書けません) 長年に渡って、「アメリカの真実」だけを追求してきた「社会派」ストーンが、なんで今さらハリウッド超大作丸出しの史劇?
 というのが気になったので見たかっただけ。ついでにジョナサン・リース・マイヤーズも出てるし。

 で、見始めて目を疑った。これがストーン? しばらく見ないうちに、こういう監督になっちゃったの? というわけで、何を今さらのセシル・B・デミル風の歴史活劇の出来損ないになってしまった。出来損ないというのは、アレグザンダーの短くも疾風怒濤の生涯を描く、んじゃなくて、そのほんの一部のエピソードを、散漫に並べただけだから。間はアンソニー・ホプキンズのいかにも解説風の語りでつないでつじつまを合わせる。なんかバカバカしく長い予告編か、出来の悪い(金だけはかけた)歴史解説番組でも見ているみたい。映画的感動もゼロだし、登場人物にもまるで共感がわかない。
 レンタル用のDVDには解説が何もついていないのだが、ここはぜひストーンの弁明を聞きたかったですな。

 逆に、いかにもストーンらしいなと思わせたのは戦闘シーン。これもデミル風のスペクタクルで新鮮味はまったくないのだが、戦い終えるとみんな傷だらけで、返り血を浴びて全身血まみれになってるのは、従来の史劇じゃありえなかった。「本当の戦争ってのはこういうもんだぜ!」というストーンの叫びが聞こえてきそうだ。確かに本物の戦争を知ってる人ならではの演出だが、だからといってベトナム戦争といっしょにはできない。だって、これだけ古い歴史劇なんておとぎ話じゃない!
 だいたい役者も下手くそで、史劇らしい重みがないよなー。こういうのを見ると、私はすぐ『指輪物語』を思い出してしまうのだが、たとえば、ペルシア軍との戦闘前にアレグザンダーが兵士を鼓舞する場面。『指輪物語』のアラゴルンのシーンとそっくりなのだが、あの勇壮さもなく、緊迫感も悲壮感もなく、ちっとも血が沸き立たない。

 そもそも主演のコリン・ファレルって、何、このタコ? 彼もアイルランド人なのだが、こちらは私がアイルランド人と言われて連想する通りの農民顔のイモ兄ちゃん(笑)。黒々とした下がり眉がいかにも純朴そうで人が良さそうだから、アイルランドの農民を演じるぶんには何の文句もない。でもマケドニアの大王って顔じゃねーだろ! そのイモが、まったく似合わない金髪巻き毛で出てくるだけで、私は吹き出してしまってまったく感情移入できない。時代衣装もまったく似合わないし! 田舎の仮装パーティーじゃあるめーしよー!
 まったくもう、このキャスティングの時点で、この映画はすべてを捨てたも同然だ。アレグザンダーみたいに、どうせどんな顔してたんだかわからないキャラクターなら、いくら美化したって問題ないのに、よりによって何だ、こいつは!

 その埋め合わせをしてくれるはずだったジョナサン・リース・マイヤーズも、いささか期待外れ。もちろん彼は不必要な色気を振りまいてはくれるのだが(笑)、単なる脇役でちらっと映るだけなんだもん。でも、宴会場面で化粧して出てきたときは息を呑むほどきれいでした。彼が演じたカサンドロスはキャラクター的にもぴったりだしかっこいい(傲慢で攻撃的な貴族)ので、もっと見せ場を作ってほしかった!
 逆に、思わぬ拾いものがボゴアスを演じたフランシスコ・ボッシュ(Francisco Bosch)。単なる従者(たぶん)のくせに、やたら存在感があって、最初出てきたときから、「いい男だなー」と思って見ていた。お顔もきれいだが、すばらしい体をして、特に胸がきれい。
 そしたら、いつの間にかアレグザンダーと妖しい雰囲気で、見事なダンスまで披露してくれる。実はこの人は本業がダンサーで、なるほどいい体してるのも当然だ。この人はスペイン人。オフィシャル・サイトはここ。

 そうそう、これはホモ映画でもある。なにしろ同性愛が奨励されたギリシア時代の話だから。それでアレグザンダーの無二の親友で恋人のヘファイスティオンを演じたジャレド・レト(Jared Leto)。これがまた不細工な男で、いや、人によっては好きな人もいるかもしれないけど、私はこういう目玉男は願い下げで、せっかくのラブシーンも興ざめ。ジョナサンやフランシスコがお化粧するとゾッとするほど美しいのに、こいつはくっきり目張り入れてもタヌキにしか見えない。

 とにかく、悪名も高かったが一方でさまざまな偉業を成し遂げたアレグザンダーが、これではただのドンキホーテ――見果てぬ夢を追って、周囲の人に迷惑をかけた狂人――にしか見えないのが最大の敗因。結局、この映画もフランシスコ・ボッシュという掘り出し物を見つけただけでしたな。

 ところでストーンの次作は“World Trade Center”。今度はストーンの「専門」に戻ってくるわけで、これはいやでも期待してしまう。いつかは誰かが映画化するだろうと思ったが、ストーンなら満足というか、彼ならただのお涙頂戴のパニック映画にはしないはず(だよね?)。

 一方、なんだかアイルランド人が気になり始めてしまった私は、アイルランドで最も尊敬する監督、ニール・ジョーダンは何をしているのかな?と検索かけてみたところ、“Breakfast on Pluto”という作品を2005年に撮っているのだが、なんとこれがトランスヴェスタイト(服装倒錯者。男なのに女の格好をする人)の話!
 またかよ! というのも、ちょうど『クライング・ゲーム』のDVDを買ったところなので。(これは傑作です) しきゃも、主演にキリアン・マーフィ! キャー! と言いたいところだが、あいにく、女にしちゃうと『クライング・ゲーム』のディルちゃん(Jay Davidson)ほど美しくもかわいくもないが(ジェイ・デヴィッドソンは服脱ぐまで私も男とはわからなかった)。それでも元がきれいで繊細なだけに、女装もサマにはなっている。
 またもリアム・ニーソン(彼もアイルランド人)も出てるし、お気に入りのスティーヴン・レイも出てるし、これは見なくちゃ!

2006年8月4日 金曜日

夏休み映画劇場 その5

 なんかこの夏の映画特集はハズレばっかり。しかしくだらない映画ばかり見ていると思われてはしゃくなので、ここでひとつ傑作を。と言っても、これも棚ボタで見つけたんだけどね。

The Ninth Configuration (1980) Directed by William Peter Blatty
邦題 『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』

(注意! 重大なネタバレあり)

 これは単にウィリアム・ピーター・ブラッティ監督という名前だけ見て借りてきたビデオ。ブラッティの名前はもちろん“The Exorcist”1本で、永遠に忘れがたい原作者として心に刻み込まれたが、その後に見た“The Exorcist III”で、監督としても非常に優秀であるばかりか、独自の映像・演出センスを持った人だということがわかったので、ずっと気にしていた。
(“The Exorcist III”については、2005年9月22日付けの“Exorcist: The Beginning”のリビューを参照)

 で、例によって作品内容も知らず、当然のようにホラーだと思って見始めたのだが、なんか変! 冒頭、カメラはどこかの深い森の中にそびえるゴシック様式の古城を映し出す。その一室にいる男は苦悩に満ちた表情でじっと窓の外を眺めている。このシーンがえんえんと続き、その間、甘ったるい懐メロが流れているだけ。普通ならタイトル・ロールが流れるシーンだが、それもなし。曲が終わるまで男は身動きもしない。変なオープニングだなあ。
 これだけでもじゅうぶん変なのだが、さらに、いきなり画面はロケットの打ち上げ場のシルエットに変わり、そこに地平線いっぱいの巨大すぎる月が昇ってくる。なんだなんだ? 何が始まるんだ?
 また場面が変わると、今度はいかにも「鬼軍曹」ふうのグローパー少佐(Maj. Marvin Groper - Neville Brand)の号令一下、兵隊たちが中庭に整列している。ここはさっきの城らしいが、駐屯地なのか? しかしそれにしては「兵隊」たちの態度が変だし、着ているものも変。それで最後に全員が叫ぶ。「ヘイル・シーザー!」 見ているほうは思わずガクッとずっこける。

 ここでやっと説明があるのだが、この城は米軍が借り上げて、頭のいかれてしまった軍人を収容する精神病院なのだ。それも一兵卒はいなくて患者全員が将校クラス、みんなIQも高いそうだが、どうしようもないほど頭のタガが外れちゃってる重病人ばかり。しかもここは「実験的」治療と病気の解明を試みている施設なんだという。なるほど。

 そこへ新任の精神科医ケイン大佐(Col. Vincent Kane - Stacy Keach)が赴任してくる。でも、この人もけっこう変。つねに苦渋に満ちた顔つきで、ニコリともしないし、幻覚は見るは、幻聴は聞くは、悪夢には悩まされるはで、こっちのほうが病気なんじゃないの?
 といえば、思い出すのはヒッチコックの“Spellbound”(『白い恐怖』)で、実際、患者たちはあの映画を引き合いに出して、ケインの正気を疑っている。ははあ、そう来ましたか。

 もっとも、ここの連中は全員が変で、全員が軍人というせいもあり、いったい誰が患者で誰がスタッフなのか、見ていてもなかなかわからない。軍医のフェル大佐(Col. Richard Fell - Ed Flanders)なんか、いつもズボンをはかずにパンツ一丁で歩きまわってるし。
 気になったのは、患者たちがみんな、実に素人目にもわかりやすいキチガイ(笑)、それもみんな陽性の明るいキチガイだってこと。顔を黒く塗ってひとりでボードビルをやってるやつもいれば、自分がイタリアの画家だと思いこんでいるやつもいれば、ここは金星だと思いこんでいるやつもいれば、自称多重人格の女装男もいれば、自分はスーパーマンだと思いこんでる黒人もいる(着替えは電話ボックスの中でする)。
 中でも笑えるのは、レノ中尉(Lt. Frankie Reno - Jason Miller)。そう、“The Exorcist”のカラス神父だが、彼は舞台監督になったつもりで、犬だけの劇団で『ハムレット』を上演しようとしている。あんな岩みたいな顔で、こんなにコミカルな役ができるとは思わなかった。

左が主人公のケイン、右は監督が演じるフロム

 もうひとり、顔見てるだけでもおかしいのは、フロム博士(Dr. Fromme)。彼は着任したばかりのケインを出迎えるのだが、「宿舎へ案内してほしい」と言うケインに、「黄色いレンガ道をたどって行け」と一言。そう、こいつこそニセ医者で、フェルがいつもズボンなしなのも、フロムにズボンや聴診器を盗まれてしまうからなのだ。滑稽なキャラクターのフェルに対して、フロムは葬儀屋みたいな顔つきで、まじめくさっているのがおかしい。だいたいいつも「医師団」(ヒゲもじゃの「看護婦」含む)を引き連れて忙しそうに歩いていて、こっちのほうがよっぽど本物の医者らしい。
 それで、このフロムを演じているのが監督のブラッティ本人。あー、やっぱり! 何を感動しているかというと、なぜか、ホラー映画の監督は「メイクいらずのホラー顔」をしていることが多くて、「役者なんか使うより、自分で顔出ししたほうがよっぽどこわい」という法則があるからだ。しかし、こんなひょうきんな芝居ができる人だったとは!

 こういう連中を相手にして、ケインが編み出した治療法は、レノのハムレット論にヒントを得たもの。「ハムレットは本当に狂気を装っていただけなのか? それとも本当に気が狂ってしまったのか?」という議論だが、レノが言うには、「ハムレットは狂気を演じることによって正気を保っていた」のだという。この意見に賛同したケインは、患者たちに彼らの狂気をとことん解放させる。そのためには小道具も取り寄せてやるし(スーパーマンは最初は単にTシャツの胸にSの字を書いただけだったのに、ちゃんとした衣装をもらう)、しまいには自らゲシュタポの軍服を着て「大脱走」ごっこにつき合う。
 というわけで、前半はこの連中がにぎやかなドタバタを繰り広げる。これは本当におかしくて笑える。でも‥‥これってまさかコメディだったの? いや、コメディとしてもよくできてはいるのだが、それにしちゃ、画面のトーンや演出はひたすら暗くて重苦しいし、音楽も暗くて気が滅入るようなものだし、主人公は終始しかめつらをして悩んでいるし‥‥
 だいたい、この舞台となっている城そのものがどう見てもゴシック・ホラーの舞台。いたるところにある不気味なガーゴイルや彫像、それに輪をかけて不気味な磔刑のキリスト像が、いやでも“The Exorcist”を連想させるし、いつ悪魔や幽霊が出てきてもおかしくない雰囲気。見ていると、いったい笑っていいのやら、怖がるべきなのか迷って、こっちのほうが頭が変になりそう。
 とりあえず、『キャッチ=22』(傑作です。見なさい)みたいなナンセンス・ブラック・コメディなのかなあと思って見ていた。でもあれは、さんざん笑わせておいて最後にものすごく深刻なメッセージがあったので、これもそうなりそうな感じ。

 で、想像通り、中盤から話のトーンは変化してくる。自分の方が危ない感じなのに、それでもケインは患者たちを助けようという意志は本物らしく、狂人たちの支離滅裂の話を真剣に聞いてやったり、治療法を模索したりしている。
 中でもいちばん重症と思われるのが、カットショー大尉(Capt. Billy Cutshaw - Scott Wilson)。彼はアポロ計画の宇宙飛行士だったのだが、いざ月へ向けての秒読みというときに発狂して任務を拒絶し、ここへ送られてきたのだ。最初のシーンに映っていたのも彼。ははあ、なんとなくあのロケット発射場のシーンや、邦題とのつながりが見えてきたぞ。
 カットショーはしつこくケインにつきまとい、いやがらせとも思える議論を吹っかける。もちろん狂人のことだから、言ってることは支離滅裂なのだが、聞いているうちに、どうやら彼は神(の不在)という概念に取り憑かれていることがわかってくる。「神は死んだ」と言い張るカットショーに、ケインは「この世の悪を神の不在の理由にするな。どうしてこの世の善や愛を見て、それこそ神が存在する証拠だと思わないんだ?」と諭す。すると、「そんなものがどこにある?」とカットショーは反論する。ケインは人を助けるために自分の命を捨てるような、いろいろな自己犠牲の例をあげてみせるのだが、カットショーは「そんなのは作り話だ。それよりあんた自身が体験した例をひとつでも教えてくれたら、信じてやるよ」と言うのだが、ケインはこれには沈黙するしかない。

 その一方で、ケインは同僚の医者フェルに告白する。彼の兄は多数のベトコンを残虐に殺し、「キラー・ケイン」と恐れられた軍人だったのだが、その兄の見た悪夢を自分も見るようになったというのだ。
 その悪夢とはこういうものだ、ジャングルの中で兵士が彼に声をかける。「大佐、手に何を持ってるんですか?」 彼は兵士を見向きもせず、ひとりごとのようにつぶやく。「まだほんの子供だった。首を針金で切ったのに、彼はそのあともしゃべり続けた」 そして狂ったように天を仰いで咆哮する彼の手にあるのは、少年の首である。
 これはまじ怖い。首をワイヤで切るってのもそうだが、切られた首がしゃべるっていうのも。(しゃべるシーンは出てこないので、これも幻覚かもしれない) しかし、単に兄の残虐行為を表すなら、そんなオカルトめいたことは必要ないはずだが、これはいったいどういう意味なんだろう?
 そういや、“The Exorcist III”でも夢や幻想のシーンがすごかった。タイトルの横に載せたスチルもそういう夢のシーンのひとつ。これはカットショーの夢なのだが、宇宙飛行士が(かなり安普請の)月面に星条旗を立てて、ふと振り向くと、そこに十字架にかかったキリストがいるというもの。こちらはこわくはなく、幻想的なんだが、これまた“The Exorcist III”の「天国行き待合室」のシーンを思い出す。
 しかし、ケインの告白を聞かされたフェルが、彼の部屋を出た後、いきなり泣きだすのも変だ。やっぱりこいつも頭がおかしいんだろうか?

 真相がわかるのは、新たな入所者がやってきたときだ。彼はケインを一目見て、「キラー・ケイン‥‥」とつぶやく。それを聞いたケインは気絶して、意識を取り戻しても彼に会ったことさえ思い出せない。この兵士こそケインの夢に出てきた部下で、兄というのは嘘、ケイン自身がキラー・ケインだったのだ。
 その後、さまざまな秘密が明らかになる。(実際はすべてが謎めいた断片で語られるだけで、これは私が考えて再構成したものである) 書類のミスで同姓同名の精神科医に対する指令がベトナムのケインのもとに届く。それを見た部下が「別のケイン大佐です」と言うのを聞いて、彼は殺人鬼としての古い自分を捨て、別のケイン大佐になりすますことを思いつく。これは罪を逃れるためではなく、自分の中の「悪いケイン」を殺して、「良いケイン」として生まれ変わるためである。意識的な行為ではなく、この時点でもうすっかり気が狂っているのだが、彼は自分がキラー・ケインだったということすらもう忘れている。
 ところが彼の狂気となりすましは軍の上層部にはお見通しで、彼らはそれが一種の治療となることを期待して、ケインを医師としてこの病院に送り込んだのだ。そしてケインは何ひとつ覚えていないが、フェルはケインの実の兄で、精神科医として弟を見守っていたのだ。
 狂っていたにもかかわらず、ケインは真剣に患者たちの治療に打ち込む。彼らを救うことが、自分の犯した罪に対する償いだと、無意識に考えていたかららしい。
 なるほど、それじゃ最後はとうとう狂気に負けてキラー・ケインが本性を現し、古城を血で染めるという筋書きだな、と、こないだ見た“Session 9”(2006年4月24日付け)を思い出しながら思った。しかし物語はさらに意表をつく展開を見せる。

 ケインがキラー・ケインだったということを知って、患者たちはみな驚くが、中でもカットショーは自暴自棄になって逃亡する。最初は心を閉ざしていたカットショーは、少しずつケインの真心と善良さを理解し、彼を信じ、彼に頼るようになっていたのに、ケインの説く「善」が真っ赤な嘘だということになって、よりどころをすべて失ってしまったのだ。
 逃げ出したカットショーが飛び込んだのは、バイカーたちがたむろするいかがわしいバー。そこでカットショーが逃亡した宇宙飛行士だということに気づいたバイカーたちは、みんなで彼を愚弄し、もてあそび始める。錯乱し、おびえきったカットショーは彼らのなすがままだ。
 そこへ助けにやってきたのがケイン。「言うことを聞けば、2人とも無事に帰してやる」というバイカーのボスの言葉に、ケインは黙って屈辱や暴力に耐えるのだが、無抵抗な2人に対してバイカーたちの暴力はエスカレートするばかりで、しまいには集団リンチの様相を呈してくる。
 このリンチ・シーンは本当に怖い。と言っても、タランティーノじゃないので、べつに残虐シーンがあるわけでもないし、血がドバドバ流れるわけでもないのだが、無抵抗の、それも障害者の(ケインだって病気なんだから)人間2人を、健常者が寄ってたかって痛めつけるというのは、見ていてゾッとする。男も女もバイカーたちの誇張された醜さも吐き気がするほどだ。
 いつも言うことだが、超自然の化け物なんかより、生きた人間のほうがよっぽど怖いという証明だ。と、同時に、これこそまさにカットショーが日ごろから熱弁していた「この世の地獄」のようなありさま。そして彼らを助けてくれる者は誰もいないということこそ、神の不在を証明しているように見える。
 そこで、私は「そうか、ここでケインがカットショーの身代わりになって殺されることで、彼はカットショーに神の愛を証明してみせるんだ」と思ったのだが、この予想もまた外れる。
 じっと我慢していたケインだが、バイカーのひとりがカットショーをレイプしようとしているのを見たとき、とうとうついに切れる。発作的怒りに駆られ、よみがえった「キラー・ケイン」は、何十人というバイカーを(女も含め)すべて素手だけで殺してしまうのだ。

 やっぱりなー。でもこれって苦いエンディングだよなー。結局これじゃ、ケインの説いていた善とか神なんて存在しないということになっちゃうんだし。カットショーは助けたが、彼の魂は救えなかったんだし、結果としてケイン自身も救われないことになる。が、しかし映画はまだ終わらない。
 警官隊がケインを連行しに、城へやってくる。しかし、事情を聞いたスタッフ全員が立ちはだかってそれを阻止するところで、私は早くもうるうるしてしまう。
 一方ケインは自室で毛布にくるまって椅子に座り、カットショーと話している。ここで初めて、カットショーは「月に行きたくなかった理由」を明らかにする。彼はすでに何度も宇宙船に乗り込んで軌道を周回した体験はあるのだが、「宇宙はあまりにも空っぽすぎ、月は遠すぎる。神なしでは自分は宇宙でひとりぼっちで、その孤独に耐えられなかった」というのだ。
 ケインはこれを聞きながら、「ショック療法が必要だ」などと、うわごとのように言っている。やがて、「疲れた。もう眠りたい」と言って目を閉じたケインに、カットショーはおずおずと近づき、いとしげに彼の髪をなでてから部屋を出る。すると、毛布の下からポトリとナイフが落ちる。カメラが下へパンしていくと、椅子の下は血の海だ。
 部屋を出たあと、階段の上で座り込んだカットショーは靴についている血に気づき、血相を変えて部屋に戻る。ケインは自分の手首を切って息絶えていた。そして、下の広間に集まった警官や患者、スタッフたちは、死んだケインを抱きかかえて階段を下りてくるカットショーを見る。

 さらに場面が変わって、うららかな美しい天気の城が映る。NASAのプレートを付けた車から降り立ったのは、すっかり正気に戻ったらしく、軍服をきりりと着こなして別人のようになったカットショーだ。彼はひとりで城に入っていくが、ここはもう使われていないらしく、空っぽになっている。ケインの部屋に入ったカットショーは涙ぐみながら微笑みを浮かべ、彼が心の底からケインに感謝していることがわかる。彼はケインの手紙らしきものを広げる。そこにはこんなようなことが書いてある。「きみは証拠がほしいと言ったが、私はきみのために死ぬことができるというのが、その証拠になってくれればいい」
 うーん、なんかこれって普通一般に言う自己犠牲とは違うような気もするが、とにかくカットショーには彼の思いは十分すぎるほど伝わったようだ。そして、これがある種のショック療法になって、正気と神と仕事を取り戻したらしい。

 しかしまだ謎は残っている。たとえば、ケインの遺書。バーでの乱闘から、城へ戻るまでの間、2人ともズタボロになっていたはずで、ケインにはそんなものを書く余裕はなかったはずだが。だいたい、この手紙はどこから出てきたのか? もしケインの死後、発見されたものなら、発見シーンがあってもいいはず。これにこだわるのはもっと謎めいたシーンがあるから。
 車へ戻ったカットショーに運転手が言う。「ここの話は聞いてますよ。人殺しの医者がいたんですって?」 しかし、カットショーはためらうことなく、「彼は神の子羊だ」と答える。それから車に乗り込んだカットショーは、座席の上にメダルを見つける。「これはどこから‥‥?」と言いかけて、彼は満面の笑みを浮かべ、輝くばかりの至福そのものの表情をしたところで、フリーズしてThe End。
 このメダルは元はカットショーのもので、彼がケインにプレゼントしたものだ。ケインは死んだとき、そのメダルを首にかけていた。それがいきなり車の中に現れるってことは、これぞ神の奇跡ということですか? ちょっとそこまでやるのはやりすぎという気もするし、無神論者の私にはやや納得のいかない部分もあるが、これが映画として稀代の傑作だということにはなんの異論もない。
 そもそも私はキリスト教徒ですらないし、ケインが説く神の愛には賛同できない部分が多いし、彼の自殺も完全には納得が行かない。それでもなお、ケインの言葉や行為には胸を打たれる。ということは、もっと根源的で普遍的な部分で訴えかけるものがあるんだよなー。

 というわけで、この映画は私が予想していたような血みどろホラーでも、ましてやドタバタ喜劇でもなかった。これは目には見えない善と悪の戦いを描いた心理ドラマだ。と同時に、もちろん宗教ドラマでもある。しかし、考えてみれば、“The Exorcist”も、“The Exorcist III”もそうだったのだ。するとこれがブラッティが追求してやまないテーマなんだろう。
 しかもそれを、あえて“The Exorcist”とはまったく違ったストーリーで見せる。“Session 9”のところでも書いたように、実はあの手のストーリー展開は何度も映画になっていてめずらしくはない。それを言ったら、ほとんどどんな映画でもそうだ。でもこんな映画見たことない。というオリジナリティだけでもすばらしい。

 さらにブラッティの偉大さをあげていくと、セリフがすばらしい。聞いていて、「うまい!」とうならされるセリフが多く、ここらへんがただの脚本家ではなく、小説家だなーと思わせる。狂人たちのトチ狂った話もおもしろいが、寡黙なケインの口にする金言めいたセリフも忘れられないものが多い。(「悪は狂気の産物ではない。悪が狂気を産むのだ」みたいな) ハムレットや名画の引用もうまい。
 それにコメディ要素に驚いたと書いたが、実は“The Exorcist III”も、ジョージ・C・スコットとエド・フランダースの掛け合い漫才がすごく笑わせた。このほのぼのシーンがあるから、彼らのその後の運命が泣かせるのだが。実はコメディも書ける人なんである。(おまけに演じることもできる)
 さらに、これもすでに述べた映像のすばらしさ。幻想シーンは言うに及ばず、普通のシーンも見る人に不安感を与えずにはいられない強迫性がある。

 役者もいい。いちばんの儲け役はもちろん、カットショーを演じたスコット・ウィルソン。悲哀に満ちた被害者タイプというだけでも好きだが、ラストの晴れ晴れとした微笑みがまたよくて泣かせる。
 主人公のステイシー・キーチは、もう見るからにガチガチの軍人タイプのタフガイというだけでも適役。演技的にはほとんど石のような無表情のままなので、いまいちつまらないが、ケインの担っている重荷を感じさせるためにはこうでなくてはならない。
 “The Exorcist III”でも印象的な名演技を見せたエド・フランダースは、大々大好きなかわいいおじいちゃん。本当に涙が出るほどいい役者だったのだが、彼は1995年に銃で自殺した。合掌。
 お茶目なジェイスン・ミラーと、それに輪をかけてお茶目なブラッティが見られたのは儲けた!って感じ。脇役たちもみんな楽しそうにキチガイ演技を演じていた。

 とにかくブラッティのこの才能は誰の目にも明らかだったようで、ゴールデン・グローブ賞の脚本賞を受賞。他にもいくつかの脚本賞と、スコット・ウィルソンは助演男優賞も取っている。IMDbでは星10個の満点と賛辞がずらっと並んでいる。
 なのに、日本では未公開! 確かに暗いし難解だし、ヒットは望めないだろうが、なんちゅう映画後進国だ。もうアメリカ人をバカにはできないね。
 さらに気づいたのはこれは1980年度作品で、もう26年も前の作品だったのだ。“The Exorcist III”よりもさらに10年前。そして彼はこの2本しか映画を撮っていない。確かに本業は小説家とはいえ、これほどの才能をもったいない! ついでながらブラッティの本で日本で翻訳されたのは“The Exorcist”のみ。やっぱり誰にでもわかる作家じゃないのかも。
 確かにわかりやすい映画じゃないし、(ハッピーエンドにもかかわらず)後味もよくないが、映画に感動させられるってのはどういうことか、久々に思い出させてくれた映画だった。 

2006年8月11日 金曜日

Michael Collins (1996) Directed by Neil Jordan 邦題 『マイケル・コリンズ』

 この映画を見たその日に、イギリスで大規模旅客機テロ(未遂)が起きるというのも、何かの運命か。もっとも、このテロはIRAによるものじゃないけど。
 というわけで、最近、アイルランド映画が気になりだした私としては、これは見なくちゃいけない映画というので借りてきた映画。(ほんとは『プルートで朝食を』がいちばん見たかったんだけど、GEOにはなかったのよ)
 監督のニール・ジョーダンはアイルランドとは関係なく、私のone of the bestの映画監督。でもこれはちょっと手を出しにくい映画だった。テーマからいってものすごく重そうだし、イギリスもアイルランドも好きな私としては、板ばさみでつらそうだし。
 と言っても、最近大学で英国史を教えている私が、アイルランド史についてはU2から学んだことぐらいしか知らない(笑)ので、お勉強のつもりで見た。

 でも見終わっての印象は想像してたのとかなり違った。もっと堅い、政治的な話を予期していたが、ジョーダンは(アイルランド人である以上、当然のことながら)、社会派っぽいものも撮っているものの、私は彼のふわっとしたおとぎ話っぽいところ(でもその裏には必ず皮肉で過酷な現実が隠れている)が好きなんだよね。彼の作品の中でも特に好きな、『狼の血族』、『モナ・リザ』、『クライング・ゲーム』と、すべてそう。
 そもそも、マイケル・コリンズという人物自体、私が考えていたのとはぜんぜん違った。(不勉強ですみません) なにしろ私が知ってたのは、IRA(の前身)の親玉で、アイルランド独立戦争の勇士、しかも31才の若さで暗殺された悲劇の人というだけで、当然ながら、ゲリラ服に身を包んだかっこいい革命家を連想していた。しかし、画面に現れたレイフ・ファインズは、仕立てのいいスーツに帽子という、ロンドンのビジネスマンみたいな格好で、おまけに自転車に乗ってる(笑)。
 だいたい、ジャングルじゃあるまいし、アイルランドで迷彩服着たってぜんぜん意味ないよなあ(笑)。とにかく映画を見て初めて知ったのは、この人はゲリラじゃなくて政治家、おまけに経済的手腕に富み、ビジネスマンみたいに見えても不思議はないのだ。道理で、戦ってないときは、やけに贅沢な暮らしをしていると思った。武力闘争も辞さない強硬派で、血生臭いゲリラ活動(あえてテロとは言いたくない)でも有名だが、彼自身が手を下したわけじゃないし。

 見ての印象は意外なことに、『ゴッドファーザー』そっくりというもの。ジョーダンが描きたかったのもここだと思うのだが、コリンズという人の二面性――ゲリラを指揮して、残忍に敵を殺しまくった一方で、紛争を嫌い、これ以上の流血を避けるために英国と妥協し、そのため、仲間の恨みをかって暗殺された――が、「ファミリー」に対するひたむきな愛や忠誠心とは裏腹に、敵に対しては冷酷非情なゴッドファーザーであるドン・コルレオーネを思い出させるからだ。そして、『ゴッドファーザー』はまさにそこが感動的だったのだが、残念ながら『マイケル・コリンズ』はそこまで行かなかった。
 だって、あれだけ無慈悲に人を殺しておいて、今さら平和と協調を説かれてもなあ‥‥って感じ。しかも、マフィアのドンならしょうがないと納得も行くが、この人は愛国のヒーローだからね。なんかその二面性が頭の中で噛み合わないままなのだ。
 とにかく、かんじんのヒーローがまったく好きになれなかったというのがいちばん痛い。基本的に私が政治家とか軍人というものをまったく信頼していないからかな。
 マイケル・コリンズが好きになれないのは主演のレイフ・ファインズのせいもあるかもしれない。いや、彼は優れた演技者であることは百も承知だが、最近、私が見る映画ってどれも彼が主役で、いいかげん見飽きた(笑)。だいたい、こういう鈍重なもっさりした感じの醜男って嫌い。でかい鼻、小さな目、おまけに鼻梁が高すぎて、サイみたいに見える。べつに醜男はいいのだが、この人は背が高く押し出しがいいので、偉そうな主役ばっかりなのがいや。そういや、フランスのジェラール・ドパルデューに感じが似ているが、私はあの人もいや。

 しかし、今みたいな時代にこういう映画を見ると、何も変わっていないことにうんざりさせられる。血の報復が報復を生み、「自由」を勝ち取ったと思えば、仲間割れして殺し合い、また新たな内戦やテロを生むだけ。これって、まさに今の中東と同じじゃない。もちろん、いちばん悪いのは最初に種をまいたイギリスやアメリカだよ。でも、人類って歴史から学ぶってことをしないのかね? それともこれが人間の性なのか。と、ちょっと暗い気持ちにさせられる。
 若い、子供みたいな兵士を「鉄砲玉」に仕立てて、暗殺に送り込むのも、イスラム過激派がやっているのと同じで、いやーな気分になる。
 この映画自体、IRAとの和解成立を機に作られたのだが(そうでなければ、さすがに制作は無理だった)、その和解はたちまち白紙に戻るし。

 しかし、そこはさすがジョーダン、主人公やメッセージには好感が持てなくても、映画的感動はちゃんと味わわせてくれる。たとえば、マイケルと親友のハリー(Aidan Quinn)の少年のような無垢な友情とか、この二人と三角関係を形作るキティ(Julia Roberts)とのほのぼのした恋愛とか、人情味あふれるエピソードが殺伐とした話の中で救いとなっている。もっとも、共和国成立後、マイケルはそのハリーと敵対関係になって殺してしまう(彼は殺すことは望んでなかったらしいが、同じことだ)あたりがなんとも後味が悪いのだが。
 エイダン・クインは昔からすごく好きな人。ガラス玉のような青い目がいい。この人はアメリカ人だが、アイルランド系。ジュリア・ロバーツは大嫌いだったのだが、生まれて初めてかわいいと思った。最初はせっかくアイルランド人キャストで固めた中に、なんでハリウッド女優を使うんだろうといやな感じがしたのだが、清楚で控え目だが、芯の強いアイルランド女性を見事に演じた。
 あと、映像がすばらしく美しい。マイケルとハリーが海岸を自転車で走るところとか、まるで絵のような情景が何度も出てくる。

 一方、戦争の残酷さもリアルに描かれている。これは意識的なものだと思うが、革命軍とイギリス軍の残虐行為は同等に描かれる。いちばんショッキングなのはあのBloody Sunday(だと思うんだが、調べてもよくわからなかった。だって、Bloody Sundayと呼ばれる事件がいくつもあるんだもの。これも人類の愚行の証明か)のシーン。
 名前は忘れたが、なんとか言うラグビーに似た競技をやっている試合場に、突然イギリス軍の装甲車が乱入してくる。観客も選手も一瞬驚いて凍り付くのだが、選手が試合を続行してゴールを入れると観客は大いに沸く。それでみんなが幸せそうに笑っているところへ、装甲車は無差別に銃弾を撃ち込むのだ。
 でもいちばん泣かされたのはネッド・ブロイ(Stephen Rea)が拷問されて殺されるシーン。スティーヴン・レイが好きだから。マイケル・コリンズに寝返って情報を漏らしていた警官で、いわば二重スパイなのだが、それがバレて殺されてしまうのだ。

 とにかくキャストは好きな人ばかりが出ているのも、この映画が嫌いになれない理由。スティーヴン・レイはジョーダン映画の常連で、ぶたれた犬のような、今にも泣き出しそうな表情が好き。
 一方、イギリス人だが、アラン・リックマンとチャールズ・ダンスが出ているのにも感激! 若いきれいな男もいいが、私はこの手のイギリスじじいに目がなくて。かわいいお茶目なおじいちゃんもいいが、この人たちみたいに堂々として威厳があり、ハンサムだけど悪役顔というのに弱い。二人とも声とアクセントが最高で、死ぬほど色っぽい。(ここにクリストファー・リーとジェレミー・アイアンズを加えてもいい)
 アランは大統領イーモン・デ・ヴァレラを演じる。マイケルのボスに当たるわけだが、腹黒そうに見えるところがいい。ちなみに本物の写真を見たが、かなり似ている。
 チャールズ・ダンスはイギリス軍の司令官で、こっちは完全な悪役。あの冷ややかさがたまらないが、すぐに殺されちゃって残念。

 そしてお待ちかねの美少年はキリアン・マーフィ。いつまでたっても出てこないのでしびれを切らしていたが、彼はデ・ヴァレラの部下で、マイケル・コリンズを暗殺するという重要な役。ここでは前髪を下ろし、いつになく子供っぽく見えるのだが、かわいい!
 そういや、この人もエイダン・クインと同じガラス玉の目の持ち主で、この手の目と言えば、私が最初に思い出すのはピーター・マーフィ(Bauhaus)なのだが、名前からしてあの人も明らかにアイルランド系で、こういう目ってケルト人の特徴なのかしら?
 ところで、今、キャスト一覧を見ていたら、ジョナサン・リース・マイヤーズも出てたんじゃない! コリンズの暗殺者のひとりとして。気づかなかった!

 さすがジョーダンと思うのは音楽も。これは私には非常に重大な要素なのでね。実はアイルランド音楽はあまり好きじゃなくて、それがアイルランドをイギリスほど好きになれない最大の原因なのだが。でもこの映画でテーマ音楽のように流れるトラディショナル・バラッド、タイトルは忘れたが、これはMartyn Bates (Eyeless In Gaza) が歌ってた曲で、個人的に思い入れの深い曲なのでうれしかった。
 『クライング・ゲーム』もそうだったが、こういう手垢のついた懐メロを効果的に使うのがうまい人だ。ジョーダンはインタビューで、「自分が好きな音楽しか使う気がしない」と言っていたが、やっぱり好きというのは大切。

 というわけで、まじめに作られたいい映画なのだが、私はストーリーにはいまいち乗り切れなかったが、内容から言って、見て楽しむような映画じゃないので、これでいいのかも。

2006年8月14日 月曜日

 今朝はうちの近くの旧江戸川で、船が送電線に接触する事故があり、一帯が停電して、電車は止まるわ、うちのマンションでもエレベーターに人が閉じこめられるわで、大騒ぎだったらしい。でも私はその間、ベッドですやすや寝てたので、関係ないもんねー。起きたらエアコンが止まってたので不思議に思ったぐらいで。
 というわけでやっと待望の夏休みだー! 例によって、大学の採点が締め切り日(15日)直前まで終わらなくて。いや、私の場合、なまじ締め切りがあると、「まだ大丈夫」とか言って、だらだら仕事するような気がするが。
 で、これからが本当の休みと思ったとたんに大忙し。家中の大掃除と大洗濯(?)と、たまったコレクションの整理と、日記にも書きたいことがいっぱいあって。なんか私は仕事してないときのほうが忙しいぞ。
 でもそれだけではあんまりなので、今年は夏休みらしい遊びに行くことに決めました。シャチやイルカに会いに鴨川シーワールドに1泊2日! それともちろん幕張の「世界の巨大恐竜博」にも行く。って、ほとんど子供の夏休みじゃん!(笑) いいの、好きなんだから!

2006年8月19日 土曜日

Intermission (2003) Directed by John Crowley 邦題 『ダブリン上等!』

 続いてもう1本アイルランド映画。これはニール・ジョーダンの制作会社Company of Wolvesの第1作。ジョーダンは制作のみで、監督も脚本も新人。
 よくあるタイプの群像劇で、それぞれの悩みや欲望を抱えた、なんの縁もない男女の運命がふとしたことで交錯し‥‥という、あのパターン。特に無軌道でチャランポランな若者たちに焦点を当てるこういう映画は、本来イギリス映画の十八番だったんだが‥‥(ちなみに、ヒットした“Trainspotting”は、その中じゃいちばんつまんない部類です)
 で、その人たちがだんだんドツボにはまって、あわや悲劇に終わるかと見せかけて、実はちゃんと収まるところに収まって、めでたしめでたしという結末まで定石通りで、その意味ではいちおう脚本はちゃんと書けている。だけど、あまりにもよくある話なんで、そこに何かプラスアルファがなくっちゃね。
 イギリス映画がおもしろいのは、出てくるやつが桁はずれに変なやつばっかりで、でも、その世間を一切気にかけない非常識ぶりが、なんともいえず魅力的というところなんだが、言ってみればその変なところを取ってしまったような話で、これじゃなー。
 恋人にふられたことにしろ、夫の浮気にしろ、インポにしろ、本人にとっては深刻な悩みだろうが、他人にとっては(しかもフィクション)「どうでもいいよ」みたいな感じだし。恋人にふられたジョン(Cillian Murphy)が、最後に彼女を取り戻す決めぜりふが、「結婚して、子供をたくさん作って、いっしょに年を取ろう」というのも、「あんたの人生それだけなのかい」と悲しくなるし。
 アメリカ映画だって、ここまでストレートじゃない。やっぱりこの辺がアイルランドの限界かなあ。

 あとはやっぱり役者の魅力で見せるしかない。もちろん私のお目当てはキリアン・マーフィ。(またかい!) 彼は不器用で意地っ張りなために、ガールフレンドにふられてしまった男の子を演じる。なんか、役柄があまりに当たりまえなせいか、「普通の男の子」のキリアンはいまいちだなー。
 いちおう主役の脳天気でちょっと抜けたワル、、レイフ役にコリン・ファレル。“Alexander”のあの人。そうそう、こういう役ならいいんだよ。そのせいか、“Alexander”よりはるかに楽しそうに、生き生きと演じている。これはアメリカ映画だったら、いかにもブラッド・ピットが演じそうな役柄で、だから私はこの人が嫌いなのかも(笑)。と、同時に、彼がやけに人気がある理由もわかる。
 ジョンの親友のダメ男オスカー(David Wilmot)はいかにもという感じの、気弱そうな赤毛。女の子たち(Kelly MacDonaldとShirley Henderson)はなぜか2人ともスコットランド人だが、どっちもかわいい。

 あ、なんかもう書くことがなくなってしまった(笑)。あと、印象に残ったことと言ったら、アイルランド訛りぐらいだな。これは“Michael Collins”もそうだったが、全員がすさまじいアイルランド・アクセント全開でしゃべる。これがスコットランド訛りとそっくりな、のんびり間延びした尻上がり。田舎くせー!(笑) いや、田舎をバカにするわけではないが、ほんとうに絵に描いたような田舎者という感じのアクセントなのよ。やっぱり田舎なんだなー、と、くだらない結論ですみません。

House on Haunted Hill (1999) Directed by William Malone
原題 『呪いの丘の家』 邦題 『TATARI タタリ』

 このなんも考えてない、いい加減な邦題からして疑ってかかるべきだったが、どうしても何かホラーが見たくて、適当にビデオ屋の棚からつかみ出した映画。プロデューサーがジョエル・シルヴァー、ロバート・ゼメキスと大物だから、少なくともお金はかかってるかな?と思って。
 実はこれはウィリアム・キャッスルの同名の映画のリメイク。キャッスルの映画は一度も見たことがないのだが、彼をモデルにした映画『マティネ』(ジョー・ダンテ監督)を見たり、やはりキャッスルに関係したホラー小説を読んだことがあったりして、名前だけはよく知っていた。
 でもって、「ギミック」で名を売った監督だから、なんとなく、エド・ウッドみたいなサイテー映画かと思っていたのだが、けっこうまともなホラーを撮る人なんだということを知った。

 廃院になった精神病院を舞台に、金持ちの夫婦が客を招いて、朝まで生き残ったら100万ドルの賞金(オリジナルでは1万ドル。100倍のインフレ!)を出すという趣向なのだが、当然ながら、客たちもホストもひとりまたひとりと殺されて‥‥という話。
 この夫婦、スティーヴン(Geoffrey Rush)とイヴリン(Famke Janssen)が、殺したいほど憎み合っていて、それぞれこの機会に便乗して策を弄し、相手を亡き者にしようとしているところがおもしろい。誰かが殺されても、それが夫婦のどちらかの仕業なのか、それとも本当に幽霊がいるのかどうかがわからなくて。だから途中まではおもしろかったのだが、フワフワした煙みたいな幽霊が出てくるところで興ざめし、あとはどうでもいいようなくだらないお化け屋敷ホラーになってしまった。たぶん、キャッスルのオリジナルもそうだったんだろうけど。これはむしろホラーじゃなく、実は人間が犯人のスリラーにしたほうが正解だったな。

 とりあえず、私の最大の関心はジェフリー・クームズ(Jeffrey Combs 日本じゃコンブスだのコムズだの呼ばれてるが、私はクームズが正しいと思う)が出てるということ。と言っても、ご存じない方がほとんどだろうが、彼は今どきめずらしいホラー・スター。特に“Re-Animator”(『死霊のしたたり』)のハーバート西、じゃなかった、あれは唐沢なをきのパロディだ、ハーバート・ウエスト役があまりにもはまり役で、私の頭の中ではジェフリー・クームズ=マッド・サイエンティストという図式が出来上がってしまっているのだ。
 どっちかというとつぶらなかわいい目をした、弱々しい小男で、顔だけ見たらちっともこわくないのだが、中身がマッドなんである(笑)。いや、本人がそうだとは言わないが、「もしかしてほんとに危ない人なのでは?」と思わせる迫真のキチガイ演技。それも騒々しいキチガイじゃなくて、静かなキチガイってところがよけいこわい。
 で、彼はやっぱりここでもマッド・サイエンティスト役で、奇怪な人体実験の数々を行い、あげくの果ては暴動を起こした患者に惨殺された精神病院の院長、ドクター・ヴァナカットを演じる。それはいいのだが、何しろ死んじゃってるうえ、幽霊は上に書いたようなモヤモヤなので、彼の登場シーンが少ないのが難点。ちょびひげ生やしたコメディアンみたいななりだし。
 しかし、それでもなお、彼が登場する過去のシーン(だけ)は異常な恐怖感があって、けっこうこわい。古いニュースフィルムだったり、幻覚シーンだったりして、顔なんかほとんど見えないんだけどね。ああもう、プライス夫婦以外の登場人物なんか誰もいらないから、彼を主役に撮ってくれればもっと怖い映画になったのに!

 突っ込みを入れる部分は数限りなくあるが、別に突っ込みたいほどおもしろい映画でもなかったのでひとつだけ。舞台となる精神病院だが、こんなモダンで豪勢な建物、ぜんぜん精神病院になんか見えねえって! こないだ見た“The Haunting”は、映画はカスでもセットだけはすばらしかったのに。
 ここで気が付いたが、“The Haunting”もロバート・ワイズ監督の同名映画のリメイクで、オリジナルの邦題は『たたり』。この映画の邦題はあれのまねか? まぎらわしいが、まあ、どっちもどうでもいい映画ってことで。

Instinct (1999) Instinct Directed by Jon Turteltaub
原題 『本能』 邦題 『ハーモニーベイの夜明け』

 これはなんで借りてきたのか忘れちゃった。アフリカのゴリラって書いてあったから、ゴリラが見たくて借りたのかも。

 とりあえず、お話は「またかよ!」の刑務所もの。アフリカで殺人を犯した人類学者の精神鑑定をしに、若い黒人の精神科医がマイアミにある刑務所を訪れる。
 かんたんに言っちゃうと、“Gorillas in the Mist”(『愛は霧のかなたに』)+“The Shawshank Redemption”(『ショーシャンクの空に』)、それで主人公はレクター博士(『羊たちの沈黙』)という感じ(笑)。どうです? これだけ並べると、いかにも私好みの気の狂った話みたいに聞こえるでしょう?

 とりあえず、このレクター博士、じゃなかった、パウエル博士(Anthony Hopkins)は、アフリカで失踪して、ゴリラの群れといっしょに暮らしていたというのを知って、私はつい、“Human Nature”を思い出し(2006年4月21日付け参照)、裸でゴリラ歩きをするアンソニー・ホプキンズを連想して、頭がクラクラしてきたのだが、残念ながら、彼は自分がゴリラだと思っているわけではない。人間なのに、ゴリラが家族として迎え入れてくれたから感激したのだそうだ。
 それで彼は仕事も地位も妻子も捨て、ジャングルの中でゴリラ・ファミリーの一員として暮らすことに心の平和を見出していたのだが、彼を捜しに来た現地人のレンジャー部隊が、ゴリラたちを射殺したのにかっとなり、二人のレンジャーを殺してしまう。

 と、あっさり書いてしまったが、実は映画では、「なぜパウエルは殺人を犯したのか?」というのが最大の謎として、最後まで引っ張られていただけに、この真相(「家族」を守るため)が明らかになったときは、完全に拍子抜け。何かよっぽどあっと驚くような、やむにやまれぬ切実な事情があったに違いないと思っていたのに!
 家族ったってゴリラじゃん。そのために人殺してもいいのか? どう考えてもやっぱりこの人は病気で、治療が必要なのだが、そのために訪れた精神科医テオ・コールダー(Cuba Gooding Jr.)は、パウエルに心酔し、彼の弟子になってしまう。おいおい‥‥。
 と、白けるのも、パウエルの言うこととやることは矛盾だらけだからだ。そもそも彼は、ゴリラの優しさと平和主義に感動して、暴力的で支配的で、弱者を蹂躙する人間の世界をあとにしたはずなのに、当の本人がめちゃくちゃ暴力的なのはなぜ? 殺人はまだしもとしても、それ以外の場面でも、理由もなくやたら切れて暴れるのだ。それも、彼を助けに来たコールダーを脅えさせたり、襲いかかったりもする。なぜかそこだけレクター博士のまんまなんだよね(笑)。
 しかもむちゃくちゃ強い! ゴリラじゃないと言いながら、体力だけはゴリラ並み(笑)。

 ラスト、彼は今度は刑務所仲間を守ろうとして暴れ、保釈の可能性をふいにしてしまうのだが、コールダーや仲間の手助けで脱走する。狂人が野放しかい? しかもラスト・シーンを見ると、彼はジャングルにたどり着いたらしいのだが、囚人服のままアメリカからアフリカまで歩いて行ったのか? むちゃくちゃだー!

 というわけで、意外やトンデモ映画だったのだが、そもそも動物というものをなんにもわかってない!と私は憤慨する。ご存じのように、私は昔から動物学・生物学マニアなうえ、このところ動物ドキュメンタリーを見狂っているので、動物についての間違った解釈にはめっちゃくちゃイライラするのだ。
 あのねえ、ゴリラが温厚でおとなしいのは、彼らが草食動物で、食物が豊富なジャングルに住み、体が大きく力も強いので天敵もなく、要するにほとんどストレスがない暮らしをしているからだ。そういう恵まれた環境でないと生きていけない動物だからこそ、絶滅の危機に瀕しているわけ。逆に言うと、人間みたいなひ弱な動物がゴリラみたいな性格だったら、とっくの昔に絶滅していた(と思う)。つくづく思うんだけど、進化にむだなものはない。人類がこれだけ繁栄しているのは、ゴリラよりも適応力があったせいで、ある意味、人間は残酷で攻撃的なおかげで生き延びてきたとも言える。それなのに、人類の歴史すべてが間違いだったかのように言うパウエルは、とても人類学の教授とは思えない。

 私が大嫌いなのは「人間中心主義」というやつ、つまり、なんでも人間を基準にして、それを動物に強引に当てはめようとする考え方だ。たとえば、パウエルは動物園の檻に入れられたゴリラ(それも自分が捕まえてきたやつ)を見て、人間の非道を力説する。私も動物園の動物はかわいそうだと思っていた。でも動物学を勉強してすっかり考えが変わった。
 確かに人間なら、あんなふうに檻に閉じこめられたら精神的におかしくなってしまう。だから動物もそうだとなぜ言えるのか?
 動物の生きる目的ははっきりしている。「できる限りたくさん子孫を残すこと」、それだけ。そのために――まず自分が繁殖可能な年齢まで生き延びるために餌を見つけ、捕食者の手から逃れる、配偶者を見つけて手に入れる、子供を産んで、成長するまで彼らに餌を与え、捕食者から守る――野生動物がどれだけの想像を絶する艱難辛苦に耐えているかは、見るたびに感動してしまう。
 ところが動物園に入れられた動物は、餌は必要なだけただで与えられる、捕食者はいないので自分が餌になる心配もない、病気になれば治療してもらえるし、暖冷房まで与えられ暑さ寒さに苦しむこともない、おまけに配偶者も人間が連れてきてくれて、子供なんか生まれれば大喜びされる。これって動物にとっては天国じゃないだろうか? 実際、飼われている動物は野生とはくらべものにならないぐらい長生きするし。
 もちろん檻に入れられた動物は最初はパニックになる。捕まるということは自然界では「食われる」ということを意味するし、天然の罠(深い穴に落ちるとか)にはまれば死が待っているからだ。でもよく話して聞かせれば、どんな動物でも自然の中で自由に生きるよりは、動物園に入るほうを選ぶんじゃないか? もちろん動物には人間の言葉はわからないし、たとえわかったとしても「想像する」という能力がないから、選ぶにも選べないけど。
 同様に、広い海とか、大草原とか、人間の感覚で言うと「自然で自由ですてき」と思える場所も、そこで暮らす動物にとっては、ちっとも住みやすくない劣悪で過酷な環境だというのも、これまでは知らなかった。捕食者から隠れる場所がないからである。外海で、たとえば水中をふわふわ漂っている人間が捨てたビニールのゴミであっても、小さい魚にとっては貴重なオアシスになって、そのまわりにたくさんの魚が群れている様子とかも、見ると考えさせられてしまう。あの魚たちは、何を犠牲にしても水族館の水槽に入るほうを選ぶだろうな。
 というわけで、「自由」とか「幸福」という人間の基準を動物に当てはめるのは完全に間違ってるのだ。証明終わり。つい、かっとして長々書いてしまった。
  そもそも、ゴリラが人間を「家族」として受け入れるなんてことはありえないです。この映画のパウエルも、どっちかというと「ペット」(笑)。

 ところで、ゴリラはおとなしいが、チンパンジーは暴力的というのは知っていたが、「『殺人』を犯す動物は人間だけ」というのは嘘だというのも、BBCのドキュメンタリーを見ていて初めて知った。チンパンジーの世界には「殺人」が存在するのだ。なんの理由もなく、1匹のチンパンジーを群れの仲間が寄ってたかって攻撃し、しまいには殺してしまう。チンパンジーが小型の猿の群れを襲って子供をむさぼり食うシーンなんかも相当ショッキングだったが、それはまだ生きるためというので納得が行く。
 でも、この仲間殺しは集団リンチそのもので、見ていて本当に気分が悪くなった。やっぱりチンパンジーは嫌いだ。類人猿は嫌いと言ったが、ゴリラはわりと好き。赤ちゃんはかわいいし。この映画でも、パウエルが赤ちゃんゴリラを助ける場面や、ボス猿がパウエルを助けようとしてレンジャーに襲いかかる場面は、「クサいなあ」と思いつつもけっこうホロリとさせられちゃったし。
 でもさあ、このレンジャーって、そもそもパウエルを助けに来たんでしょ? それにこの人たちだって家族のために働いているわけでしょ? それを殺しちゃうなんて、やっぱりパウエルという人間はゴリラ以下、彼が軽蔑する人間以下としか思えない。それとも何か? 黒人はゴリラ以下だから殺してもいいのか?

 というわけで、映画のテーマにはまったく納得できなかったのだが、それ以外の部分でいいところもないではない。それはパウエルの刑務所仲間の囚人たち。ここは精神障害の重罪犯ばかりを収容する刑務所なのだが‥‥でも精神異常者なら無罪のはずなのに。まあ、日本でも重罪犯の刑務所はキ○○イばっかりだそうだから、懲罰主義ってやつは同じだな。とりあえず、この囚人たちがいい。
 やたら陽性で明るかった『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』の精神病患者たちと違って、ここの人たちはどっちかというと自閉症とか知恵遅れの感じで、おどおどした小さい子供みたいなところが妙にかわいい。私の好みは「おもらし男」(笑)。看守や囚人仲間のボスに虐待されていたその連中が、パウエルの行動に勇気をもらって看守に歯向かったり、パウエルを守ろうとして立ち上がるところは、これまたかなりクサい演出ではあるが、けっこう感動した。
 これはけっこう危ない発言だが、キ○○イ(今さら伏せ字にしたって‥‥)はかわいいのである。障害児の親が、我が子を普通の子供よりずっとかわいいと思ったり、天使のようだと思うのも無理はない。というのも‥‥(以下、誤解を招く表現があるので、検閲削除)
 そういう人たちを主人公にしたコメディで、『ドリーム・チーム』という映画があるのだが、これは私のお気に入り。あの人たちもかわいかったが、わりと芝居しすぎの感じもあり、こっちの人たちのほうがもっとかわいい。主人公二人はどうでもいいから、この人たちをメインに映画を作ってもらったら、ずっと感動的でおもしろい映画になっただろうに。

 ちなみに大笑いしたジョークも。囚人のひとりのデブは、隣のおばさんが悪魔だと信じ込んで殺してしまったのだが、「悪魔というのはどういう姿をしているんだ?」というコールダーの質問に、「『エイリアン』を見たことあるかい? シガニー・ウィーバーの?」 これに対して、コールダーが「ああいうでかい虫の化け物みたいなのかい?」と聞くと、いかにも恐ろしそうに声を震わせて、「違う。シガニー・ウィーバーそっくりなんだ」(笑)
 言いやがったな、このデブ! 確かに「隣のおばさん」かもしれないが、シガニーは強くてかっこいいもん!(熱烈なファン) もちろんこれはシガニー主演の『愛は霧のかなたに』に引っかけたジョークなんだろうが、笑った。

 えーと、結論だ。「家族を守るためなら人を殺してもいい」、というのがこの映画の主張らしいが、これはジャングルの掟ではない。アメリカの掟だ。やっぱりアメリカ人ってゴリラ以下だな(笑)。

2006年8月20日 日曜日

暑いのこと

 例年だと、今頃は「暑い暑い暑い暑い」という言葉が並ぶのだが、今年はそれが出ませんね。いや、暑いことに変わりはないけど、今年は毎日強風が吹いてるし、最高気温はそれほどでもないし、雨がよく降るのでまだしのぎやすい。とはいえ、この湿度は耐えがたいけどね。
 おかげで、朝晩は外へ出ると肌の露出した部分が冷えてゾクゾクする、くせに、脳や内臓はゆだってる、というわけで、気持ち悪いことに変わりはないけど。私が暑さが嫌いで寒さが好きなのも、寒いのも確かにつらいけど、少なくとも気持ちは悪くないし清潔だということに尽きる。
 そんなわけで、相変わらず外出するのは日が落ちてからという、吸血鬼みたいな生活を続けている。それでもなお、冷房なしで生きられるのは5分が限度。町を歩いていても5分経過すると、店に入って体を冷やしてからまた外へ出る。家では当然24時間クーラー付けっぱなし。そうでもしないと間違いなく倒れる。今も夜中の1時にスーパーへ買い物に行って帰ってきたのだが、この暑さの中、街路でたむろってる若者の神経がわからないよ。
 そういや、「冬、寒くて布団から出るのがおっくう」という人がいるが、うちは冬場は朝日がさんさんと差し込んで、温室みたいな暖かさなので、その心配はまったくない。でも、夏はクーラーの効いた寝室から出るのがいやで、出たとたんにめまいがして倒れそうになる。
 軟弱ですって? まあそうかもしれないけど、これでも私は家庭用クーラーなんてない時代の生まれで、しかも真夏の生まれだから、暑さには強いはずだったんだけど。やっぱり年かなあ、それとも東京が異常に暑くなったせいか。比較的涼しい西葛西でこれだから、ここより暑い町での暮らしなんて想像もつかない。でも年取るとこらえ性がなくなるってことは言えるね。おかげで果てしなく眠れる(笑)。ちゃんとシエスタ(昼寝)もしてるのに、もう眠くなってきたのでまた寝ます。ほとんど冬眠ならぬ夏眠状態。ああー! (店の)仕事はたまってるのに!

2006年8月25日 金曜日

 でも寝てばっかりいるわけじゃありませんよ。Mansunのベスト盤“Legacy: Best Of”発売を機に、Desperate Iconsを更新しました。さらにStrangelove RecordsではこのCDのDVD付き英国限定盤を出血価格で予約受け付け中! Strangelove Recordsはカタログも更新しましたので、ちょっと見てやってください。

2006年8月30日 水曜日

 うひーん! 忙しい! もうあくせく働くのには飽き飽きしたので(と言うと、なんか金持ちのセリフみたいに聞こえるね!)、この夏休みは思い切りなんにもしないでぐだぐだと過ごそうと思っていたのに、最近なぜかてんてこまい。理由は3つある。人使いの荒いお客2名と、Mansunのせい。

 ひとりはカナダ在住のイギリス人、スコット。彼は昔からのお客で、メールはおもしろいし、いい人なんだが、すごいファッション・アニマルで、日本のブランド(ヒップホップ系)を買いあさっている。私としては完全に畑違いの分野で、カタログを訳してあげたり、サイズの心配をしたりでけっこう気を遣う。もっとも、私はふだん、この手の輸出代行には1件10ドルしか手数料を取らないのに、「いろいろしてもらって悪いから」と言って、その3倍も4倍もはずんでくれるから、やっぱりいい人なんだけど。
 しかしおもしろい人なんだわ。品物が入荷したと知らせると、「試着してみたかい?」と言う。そんな、新品の高価なブランド服、しかもお客様のものを試着なんかできるわけないじゃない。と私が言うと、「いいからぜひ着てごらん。クラブに行くときでも着てみるといいよ」と言うのだ。私はもういいかげんな年だし、女だってことは言ってあるのに。もうクラブ通いするような年じゃないんですけど、私。(笑) だいたい、XLの男ものを外へ着ていけっていうの?(笑)
 しかもそれだけでは飽きたらず、「お礼として1枚プレゼントしたいから、このカタログから好きなのを選びなさい」と言うのだ。気持ちはうれしいが、報酬としては多すぎるし、私が自分で買って請求書を彼に送るのも気まずいし、そもそも男物なんか着れない(家では着てるが)と辞退したのだが、なかなか引き下がらない。
 「だったら、27日は私の誕生日だからカードでも送って」と言ったら、それなら何かプレゼントを贈ると言う。うれしいけど、いったい何を送ってくるのかちょっと不安(笑)。
 スコットがこんなに大げさに感謝するのはわけがあって、(これが私の商売人としてのいちばんの売りなのだが)いろいろと細かいところに気を遣ってあげてるからだ。バーゲン品を捜してあげたり、ショップのサーバが落ちたときには、電話で取り置きを頼んだりとかね。あんまり喜ぶから、「私はプロだから当然よ」と答えたら、「君みたいな本物のプロには会ったことがない!」とまた大絶賛。実は嘘なのに(笑)。プロだったらこんな手間のかかることはしない、っていうかできない。アマチュアだから(しかも好意を持ったお客さんだから)できることなのにね。

 だからスコットはかわいいほう。容赦なく人をこき使うのは、前にも書いたピクチャー・ディスク・コレクターのベルギー人、アンドレ。ほら、ヤフオクで変な軍歌や童謡のSP盤を買いあさってると言った人。その数がとんでもないうえに、だんだん要求がエスカレートしてきて、手紙を訳せとか、レコード会社に問い合わせてくれとか、人に電話してくれとか、ほとんど毎日、秘書同様にこき使われている。
 普通なら、こういうお客さんは早々にお断りなのだが、黙って言う通りにしているのは、この人も払いがいいから(笑)。年齢も50過ぎだし、買い物の値段を見ればお金持ちだと言うことはわかる。(ああいうのが3万も4万もするのよ!) とりあえず、お金持ちには親切にしておくことにしている(笑)。
 彼は奥さん同伴で9月に来日するのだが、そのときお礼に食事をおごってくれるそうだ。でも串焼きだっていうんでちょっとがっかりしたけど、そこは客単価が1万円もする高級店らしい。私は食べ物には興味ないので、どうせならお金で払ってくれたほうがうれしいんだけど、とりあえずお客のご機嫌取りに行ってきます(笑)。
 しかし今ふと悪い予感がしたんだけど、このぶんだと来日中はめちゃくちゃこき使われるような気がする。まあ、そしたら1日1万円ぐらいの日当要求するけどさ。

 逆にお金にはまったくならないので、悲鳴をあげているのがMansunの新譜。もしかして、これが最後のMansunアルバムになるかもしれないし、Mansunで儲けようという気はあまりないので、ファン・サービスのつもりで限定盤を2800円(ほぼ仕入れ原価)で予約販売したのだが、これにStrangelove Records始まって以来の注文が殺到しているのだ。せいぜい5、6人と見ていた私は大誤算。Mansunにまだこれだけファンがいたということを知ってうれしい悲鳴だが、売れれば売れただけ私は損をするので、半分は本当の悲鳴。
 しかし、価格を決めるとき参考までにアマゾンとHMVの予約価を調べたのだが、DVDの付かない通常盤がアマゾンで4026円、HMVで3204円というめっちゃくちゃな値段だったのはなんでか?(価格はつねに変動するから今は安くなったかも知れません) おそらくうちに注文が殺到したのは、この価格差のせいもあるだろうが。
 とりあえず、これで9月18日の発売日から、品物が届くまで私は眠れない日が続く。そもそも1枚のCDをこれだけ大量注文したのが初めてで、ちゃんと届くか気が気でない。カードの決済日までにポンドがこれ以上値上がりしたり、税関で関税取られたりしたら、完全に持ち出しになるのでそっちも心配。こんなことならもう少し高く設定するんだったと、今になってちょっぴり後悔するが、それでもファンに喜んでもらえるならいいか。
 それに受注・発送も心配だ。私は事務能力ゼロで、普段でもたった2件の注文でもごっちゃにして、間違った人に送りそうになったりするのに(だから必ず発送前にダブル・チェックしてますが、そこで気が付いて梱包のやり直しなんてことはよくある)、これだけ多くの注文をうまくさばけるだろうか? 今は必死に帳簿作りをしているが、なまじ慣れないことをやると、きっとミスするような気がする。お金を払ったのに商品が届かないなんてことになったらどうしよう? まあ、黙ってる人はいないと思うので、あらためて送ればすむことだけど、なんか取り越し苦労がしんどい!

 で、もちろんその間に普通のお客さんも来るので、結果として毎日働きづめの感じ。でも時給にしたら最低賃金も行かない。つくづく好きでなきゃやってられない商売です。

2006年8月30日 水曜日

Sin City (2005) Directed by Frank Miller & Robert Rodriguez 『シン・シティ』

 またもアメコミ原作(しかも私は聞いたこともない)、それに私はアメリカのバイオレンス・アクションにはうんざりしているので、見る気はまったくなかったのだが、たまたま海外の友達2人(前述のカナダのスコットと、香港のジェフリー)から、「これは最高! 絶対見るべき!」というメールをもらったので、まあ話の種にと思って。それで見ての感想はというと、スコットに送ったメールの一部を引用すると、

Graphics are great but the story is, well, typial boys' fantasy, all muscles and no brain.

というもの。これだけじゃあんまりなので、少し解説しよう。

 私は知らなかったが、フランク・ミラー(原作者。監督も兼ねる)というのは、アメリカじゃ有名な漫画家らしい。アート好きのスコットは映画よりも原作の熱烈なファンで、原画がほしいなんて言ってる。(彼とはもともとFutura――UNKLEのアートワークをやっている、アメリカのグラフィティ・アーティスト――が縁で知り合った)
 すでに皆さんご存じと思うが、日本のマンガ文化は世界でも類を見ない固有のものである。アメリカじゃマンガはあくまで子供のもの。だから、バイオレンスやセックスの入ったマンガ、シリアスなストーリー性のあるマンガは、それだけで衝撃的なのだ。
 ミラーという人はまさにそういうマンガを書いているらしい。「Manga」もこれだけグローバルになると、当然ながらまねする人が出てくるわけね。だから彼のマンガのセックスもバイオレンスも、モノクロの白と黒のコントラストが強烈な画面も、アンハッピー・エンディングも、明らかに日本のマンガ(しかもまた『子連れ狼』!)の影響をもろに被っている。
 彼が自分の作品を「グラフィック・ノベル」と称しているのも、コミックとは違うという意識だろう。(コミックというのは、その名の通り、もともとギャグ・マンガのこと) 外人にとってはそれだけでも衝撃的なんだろうが、あいにく日本人にとってはあたりまえという感じで、何も目新しさはない。残念ながらその時点で、2人とは違ってかなり醒めた目で見てしまうのはしょうがない。

 監督のロバート・ロドリゲス(監督はタランティーノを含めて3人いるんだが、いちおう元々はこの人の映画)は、クウェンティン・タランティーノの盟友だが、私はそのB級版としか見ていなかった。私はそもそもタランティーノをぜんぜん評価してないし。
 彼はけっこう鳴り物入りでデビューしたので、その出世作“Desperado”を見たのだが、あまりに荒唐無稽でアホらしいマンガ(ほら、タランティーノと同じでしょ?)なのであきれて、それきり無視していた。もっとも、タランティーノと組んで作った“From Dusk Till Dawn”は、そのパッパラパーなところが楽しくて、けっこう好きだけどね。

 タイトルのSin City(本当の名前はBasin City)を舞台に、ストーリーは異なる人物を主人公にした3つのエピソードから成っている。で、ストーリーは基本的に全部同じ。前述のメールに書いたように、「筋肉たっぷり、脳みそちょっぴり」のタフガイが、愛した女(売春婦2名とストリッパー)のために命をかけて戦う話。
 この辺の、定石通りのストーリー展開がいかにもアメリカで、私は「あーあ」という感じ。おっと、ストーリーはかなりレイモンド・チャンドラーも入ってるが、私はハードボイルドというのも子供っぽいと思って嫌いなのだ。

 でもいいところもないではない。それはやはり前述のようにグラフィック。人物以外はすべてデジタルで撮ったというのを聞いて、オールCG映画にもうんざりしている私はぜんぜんそそられなかったし、「原作の画面そのまま」というのも、「要するにバックは絵だということじゃん」と思って、かなり安っぽいものを想像していたのだが、見たら、想像とはまったく違った。
 最初こそ、「白い血」(なにしろ白黒ですからね。血が黒かったら見えない)や、殴られるとワイヤーで吊られて吹っ飛ぶあたりに「やれやれ‥‥」と思ったが、シーンによってはモノクロ・デジタルが非常に効果的で美しい。ライティングを工夫して、光と影の使い方も巧みだし。ドイツ表現主義のような、と言ったらほめすぎだが、少なくともこれを普通に実写のみで撮ったらそれこそマンガになってしまうところを、かろうじて踏みとどまったという感じ。前にほめた『ダーク・シティ』の撮影と美術を思い出したな。

 アメコミ原作というと、役者が分厚いメイクをして出てきて、いかにオリジナル・キャラクターにそっくりかを競うのがおきまりだが、これもそう。各エピソードで主役をつとめるのは、ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライブ・オーウェンの3人。
 とりあえず、ブルース・ウィリスがダイ・ハードなヒーローを演じるのは「またか!」という感じで、うんざりしている(『ダイ・ハード』は大好き)私としては、もうどうでもいい人だが、確かに似合ってるのは認めざるを得ない。『ダイ・ハード』のウィリスが良かったのは、限りなく絶望的な状況で、とぼけたユーモアがあったからなんだが、それがないぶんいまいちだな。
 クライブ・オーウェンはイギリス人だが、このタイプの暑苦しい男は大嫌い。でも、この映画を見て、意外といい男だなと思った。
 しかし、いちばんびっくりしたのはミッキー・ローク。かつてのセックス・シンボル、スケコマシ俳優のなれの果てがこれか! あまりにメイクが分厚いので、いくらなんでも素顔はここまで崩れてないだろう(べつに若い頃もハンサムじゃなかったが)と思って、素顔を見たら、それも別の意味で同じぐらい崩れてたので驚いた。これもメイクにしか見えん! だって別人じゃん!
 干されてるという話は聞いてたが、この顔と体じゃ、普通は役つかないよ。しかし、いっそここまで崩壊してしまうと、かえって使えるというか、整形手術の失敗もむだではなかったみたい(笑)。彼はもともとつぶれたハスキーボイスなのだが、それも有利だし。

 しかし、だいたいにおいて私はヒーローよりも悪役のほうが好きなのだ。それでアメコミではフリークっぽい悪役がつきもの。これも例外ではない。
 役者で私がいちばん感心したのは、ジャッキー・ボーイ役のベニチオ・デル・トロ。すげー顔! これこそメイクだろうと思ったら、これが素顔でした(笑)。こんな顔の人間がいるというだけでもすごい。
 「カニバル・フロド」にも大笑い。あの天使面のイライジャ・ウッドをこういう役に使うという悪意がいい。セリフもなく、人食ってるところを見せるわけでもなく、ただにんまり笑っているだけの役だが、「ダルマ」に免じて許してやろう。
 それにくらべると、すっかり枯れきって、狂気も迫力も失せたルトガー・ハウアーを見るのはつらかった。
 「イエロー・バスタード」はぜんぜんどこがいいのかわからない。単に黄色いハゲっていうだけじゃん。こわくもないし、強そうでもないし、グロでもないし。
 ところで、メイキングを見ていたら、特殊メイク担当者が「モノクロだからアラが見えなくて楽だった」と言っていたが、イエロー・バスタードはどう見ても、お面かぶってるようにしか見えなかったぞ。というわけで、メイクはお粗末、でも役者の素顔がそれを上まわってすごかった(笑)。

 女はどうでもいいっす。この手のおねーちゃんには興味ないので。エロもなかったし。
 “Alexander”に出てたロザリオ・ドーソンはやっぱりきれいだとは思ったけど。私は強い女が好きなので、彼女が率いるフッカー自衛団なんて気に入りそうなものだが、ぜんぜん強そうにも見えないし、かっこよくないんだもん。単にチャラチャラした格好のねえちゃんたちが、銃持ってかっこ付けてるだけ。私は女ならやっぱり「武闘派」が好きだね。
 あと、こんど変な日本人女が日本刀持って出てきたら容赦しないからね。

 以上、かなり辛辣なことを書いてしまったが、映画としてはなかなかよくできていて楽しめる。ロドリゲスでこれだけできれば上出来。もちろん“Kill Bill”よりはるかにおもしろい。

 ところで、見ながらすごく重大な疑問が頭から離れなかったのだが。何かというと、スコットとジェフリーはなぜ私にこれを見ろと言ってきたのかということ。確かに見て損した気はしないが、私は彼らとは音楽の話以外したことはなくて、もちろんこの日記が読めるはずはないし、私がどんな映画が好きかなんて知るはずがないのだ。おまけに私が女で、いい年だということは知ってるのに。(さすがに本当の年は言ってないが、「あなたよりずっと年上」(2人とも30才前後)とは言ってある)
 にもかかわらず! 人の両手両足切り落としてダルマにして犬に食わせたり、「武装解除」とか言って(笑)、生きた人間のチンポを素手でむしり取ったりする映画、私なら、絶対50才の女性にはすすめないけどなー(笑)。いや、相手が若い女性だったらなおさらだ。
 私は大学では「映画通」だと思われているので、よく同僚に「なんかおもしろい映画ある?」とか聞かれるが、ちゃんと相手の年齢や好みを考えて答えるよ。「いっしょに映画行こう」と誘われたら、文学的で退屈でお芸術っぽい映画(ケン・ローチとか)にするよ。
 なのに、なんで私がこういうのが好きだってわかったんだろう?(笑) いや、べつにダルマやチンポむしりが好きってわけじゃないが(笑)。期待のバイオレンスだが、これまた日本のマンガにくらべるとおとなしいし、手や首が飛んだりするのは映画じゃもうあたりまえって感じで少しも驚かない。ただ、上記のシーンはこれまでなかったタイプなので、(普通ないよなー、やっぱり)、「おっ!」と思っただけ(笑)。

 会ったことのないメール友達の困ったところは、自分が好きなものは相手も好きだと勝手に決めてかかるところなんだよね。そしておうおうにしてそれが当たってたりもする。しかし、私ってなんなの?と少し悩んでしまった。確かに私は昔から、女の子同士より男の子とのほうが話が合って好みも似てたが。
 だから昔は男子学生とウマが合って、よく盛り上がっていたが、最近の日本の男の子は保守的で頭が固くて退屈になってきたので話してもぜんぜんつまらない。そうじゃなきゃ「萌え〜」とか言ってるし(苦笑)。だから外人の男の子と話がはずむのかもしれない。

2006年8月31日 木曜日

『ハウルの動く城』 (2004) 監督 宮崎駿

 前にも書いたように、私はこの原作(『魔法使いハウルと火の悪魔』)は読んでいないが、ダイアナ・ウィン・ジョーンズは1冊読んで投げ出した。それに宮崎信者でもない。だから、この映画にもまったく期待していなかったが、これほどひどいとは思わなかった。
 理由は単純でプロットの完全な破綻。「話がわからない」という人が多いが、わかるも何もぜんぜんお話になってないのよ。
 ファンタジーでいちばん大切なのは世界の構築と論理である。絵空事の世界だからこそ、その世界や約束事がちゃんとできていないと、すべてが瓦解してしまう。『指輪物語』のために、詳細な歴史はもちろん、そこで使われる(文法まで含めた)言語まで作り上げてしまったトールキンは極端な例だが、ファンタジー作者がいちばん気を遣うのもそこである。なのに、この映画にはそれがまったくない。登場人物の意図も性格もめちゃくちゃだし、エピソードの多くが無意味としか思えないし、誰がなんで戦争しているのかもわからないし、「じゃあ、戦争やめましょう」で終わっちゃうのも笑止千万。
 これは原作がそうなのか? いくらなんでもそれで本が世界的に売れるとは思えないので、これほどひどいはずはないが、そういやウィン・ジョーンズを読んだときも、ぜんぜん世界ができてないし、ストーリーにもなってないと思ったから、まあこんなもんなのかも。適当にいかにもファンタジーっぽい素材を並べただけで、何も起こらないまま終わってしまう感じ。
 そういや『千と千尋』も後半が完全に破綻してたし、あれを思い出すな。『ナウシカ』(原作のマンガのほうしか読んでない)もけっこう穴だらけだったので、宮崎駿の責任もあるだろう。もしかして、この人ってお話書けない人?

 まあ、これだけひどいと私なんぞがわざわざ突っ込む必要もないので放っておいて、IMDBの評を見るとおもしろい。満点の宮崎信者と、星1つの酷評(理由はやっぱりプロットが意味不明というもの)とに完全に二分されてるのね。
 それに西洋ものの原作をアニメ化するという落とし穴もある。当然、海外では原作を先に知っている人が多いわけで、「見て失望した」という人も多い。想像してもらうとわかると思うけど、あなたが白人だったとして、子供の頃に読んで、頭の中にすっかりイメージが出来上がっているのに、いきなりアニメ顔(っていうか醤油っぽい宮崎顔)の主人公たちを見せられたら、そりゃショックだよね(笑)。
 少なくとも、火の悪魔カルシファーは「大きな目のかわいい小さな炎じゃない!」というのは、設定から言って納得できる。外国人ファンがHowlがHauruになっちゃった!と言って嘆くのもわからないではない。
 そういや、ハウルとソフィの関係が、やけにハクと千尋の関係に似ているのも気になった。荒れ地の魔女も『千と千尋』の魔女そっくりだし。この辺も宮崎駿の創作?

 あと、声優(特に木村拓哉)に文句付ける人が多い(れっきとした「信者」であるうちの弟も)が、私は英語版で見たのでわかりません(笑)。

 それで問題は新作『ゲド戦記』だよね。原作は御大アーシュラ・ル・グインだし、名作の誉れ高いファンタジーだが、私はこれも『指輪物語』や『ナルニア国物語』にどっぷり浸っていた少女時代に、ものすごい期待して読んで、ものすごくつまんなかったんで失望した記憶がある。そもそもル・グインって(私の専門のSF作家なのでほとんどすべて読んでるにもかかわらず)1冊もおもしろいと思ったものないし。
 ま、この人はもうだめでしょう。『ゲド戦記』はけなすのが楽しみだから見るつもりだけど。

The Thirteenth Floor (1999) Directed by Josef Rusnak 邦題『13F』

 これはいちおう原作(“Simulacron 3” by Daniel Galouye)がSFで、読んだことがあるので見ただけ。いわゆる「ヴァーチャル・リアリティもの」、「シミュラクラ・テーマ」の典型で、何も目新しいものはないが、原作はそれなりに筋の通った話だった。

 いきなりネタバレだが、コンピュータの中に意識を持ったヴァーチャル住民の住む完全なヴァーチャル世界を作りあげた科学者が、実はこの世界もコンピュータ上で動いているヴァーチャル・リアリティにすぎないと気づく、というお話。
 この手の話はSFには腐るほどあって、そこをいちいち突っ込むのはやめにするが、私はどうしても『ダーク・シティ』を思い出しますね。(2006年2月21日の日記参照) もちろん『ダーク・シティ』はヴァーチャルじゃなくて現実に存在するんだけど、住人がだまされていて、主人公だけが気づくというのがいっしょ。ヴァーチャル・タウンが1930年代に設定されているというのも『ダーク・シティ』と同じだし、町から外へ出られないというのもいっしょ。でも違いは‥‥いや、やっぱり最初から始めよう。

 見始めてすぐに気が付いたのは、基本設定(この世はコンピュータ上の仮想世界)と主要登場人物の名前だけを残して、それ以外のストーリーは原作とはまったく違うオリジナルになっていること。それが原作よりおもしろければいいのだが、ぜんぜん気の抜けたつまらない話になってしまっている。せっかくちゃんとした原作があるのに! まあ、映画版もそれなりに話の筋は通っているが、ただ単につまらない。
 たとえば、この手の話のキモは、主人公の覚醒につれて、現実感覚が崩壊していく場面だ。確固たるものだと信じていたものが徐々に崩れていくとき(ほんの些細な矛盾に始まって、昨日会った人が今日は存在しないとか、あったはずの建物がないとか)の、クラクラするようなめまい感覚がいちばんおもしろいし、原作でもそういう描写が多かった。
 ところが映画ではそういうのはすべてカット。映画の主人公がこの世界は現実ではないと知るのは、こういう場面である。彼は車で町を出て隣町を目指す。ところが通行禁止の道の向こうに見えたものは‥‥ワイヤフレームの風景だった!

 あのー、私はCGとかVRのことはろくに知りませんが、現実とまったく区別が付かないほど精巧なVR(もちろん見た目だけではなく、触覚や味覚や匂いもある)が、ワイヤフレームで描かれているとはとても信じられないんですが‥‥
 それも黒地に緑の線が光るやつ。『トロン』を思い出してほしい。『トロン』のせいかどうか知らないが、これって、映画の「コンピュータ」のお約束ね。さすがに昔みたいに、でかい金属の箱に豆電球がたくさんピカピカ点滅していて、パンチ・テープを吐き出す「スパコン」は見なくなったが、それと大して変わってないみたいな。
 『トロン』の時代ならいざ知らず、今どき(まして最先端のプロが)、真っ黒け画面のディスプレーで仕事するかよ! もしかしてMS-DOSでプログラム書いてるのか?(笑) そういや、『マトリックス』もそうだったが、あれはまだレトロで統一してたからいいようなもんの。
 『マトリックス』で思い出したが、VRにジャック・インするための装置も変だ。あんな日焼けマシンみたいなもので、光当てただけでどうして電脳空間に入れるの? いささか乱暴だが、『マトリックス』みたいなインプラントを使うならわかるんだけど。もちろん原作では詳細には書かれてないが、そんなことはなかった。
 さらに突っ込むと、自分でプログラムしたVRに入って主人公がびっくりしたり、とまどったりするのも変だ。できるまで中がどうなってるか知らなかったのか? これももちろん原作では、VRの中の世界は「現実世界」ですべてモニターできる。
 この調子で突っ込んでいくときりがないのでやめるが、『13階』というまるで怪談みたいなタイトルも変だよねえ。(単にこの会社がビルの13階にあるというだけで、話にはなんの関係もない) 原作は『シミュラクロン3号機』という装置の名前をタイトルにしていて、シミュラクラの話だということがすぐわかるようになっていたのに。

 というわけで、SFのこともコンピュータのことも何も知らない映画製作者が、「なんとなくSFっぽい」イメージを並べてみただけの映画であることがすぐわかる。と思ったら、製作者はあのローランド・エメリッヒ! なるほど、そういうわけか(笑)。くどいようだが、原作はまともなので、ここまでギタギタに作品を改竄された原作者がかわいそうとしか思わなかった。

Oliver Twist (2005) Directed by Roman Polanski 『オリバー・ツイスト』

 御大ポランスキーのディケンズ映画。いちおう品質は保証付きだが、私としては「少年狩り」のつもりで見た(笑)。イギリス人の子役は念を入れてチェックしてるのだ。今かわいくなくても、クリスチャン・ベールみたいに大成する場合もあるし。「美少年いじめ」も楽しいし!
 という不純な観客の下心とは裏腹に、映画は実に手堅く作られている。撮影も衣装も重厚だし、画面は美しいし、役者もみんな名演技だし。
 ディケンズの映画化で必ず問題になるのは、あの長大な原作をどうやって2時間の映画に収めるかだが、そこもまずまず無難にこなした。ただ、やっぱりあらすじみたいになっちゃうのはしょうがないね。おかげでオリバーの苦難があまり感じられなくて、私としては物足りない。

 そこで期待の主人公、バーニー・クラーク(Barney Clark)くんだが、なかなかかわいい。でも演技もルックスも「おおー!」と思わせるほどではなかったな。これなら『デイヴィッド・コパーフィールド』のダニエル・ラドクリフのほうが、圧倒的な愛らしさと傷つきやすさでましだった。
 でもダニエルみたいな男の子は成長すると用なしだが、この子はけっこう一癖ある美貌で、むしろ大人になってからのほうが味が出ると思う。
 役者で断然目立ってたのは名優ベン・キングズリーが演じるフェイギン。というか、この人ひとりで目立って、他は全部かすんでしまったような気も(笑)。

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