2005年8月の日記

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2005年8月3日 水曜日

 くぅーん(泣く)。あいかわらず明けても暮れても、学生の英語レポートを読み添削する毎日が続いてます。自分で出した課題とはいえ、なんてことしちまったんだろ。ひとり分30分なんて甘かった! 下手するとひとりに2時間ぐらいかかって、それが80部。おまけに学生の書いたものって日本語でさえ読むのが苦痛なのに、それが英語! しかもほとんど全行に赤入れて直さなくちゃならない。これなら私が自分で80部の英語レポート書いた方がはるかに早い。
 以前、通信教育やったときに懲りてるはずなのにね。でもあれは数は多かったけど短いし、ほとんどが0点に近かったから楽だったんですよ(笑)。それにくらべて今やってる早稲田の法学部は、なまじまじめでよく勉強するので、いっぱい書いてくれちゃって(苦笑)。おかげで夏休みになったらあれもやろう、これもやろうという計画はすべて先延ばし。夏休みにこれだけ勉強したのは生まれてから初めてだ(笑)。ならば自分の勉強にもなっていいかというと、あいにく、でたらめ英語ばかり読んでると自分の英語もあやしくなってくるのが困る。

 しかし、ただでさえ身動きもできないほど狭い部屋で、こうやって一日中机にかじりついていては本当に病気になってしまう。と思って、先日は無謀にも真っ昼間にサイクリングに出かけ、炎天下を3時間全速力で走りまわってきた。いやーーーー、あちかった。海岸へ行けば少しは涼しいかと思ったが、ぜんぜん涼しくなーい!(残念ながら葛西の海は泳げない) 風だけはめちゃくちゃ強くて、かいた汗がたちまち蒸発するのでくしゃみばかりしてたけど。でも運動量としては相当なもの。自転車から降りたらひざがガクガクしたし。が、疲れたのでちょっと昼寝と思ったら6時間も寝てしまうのではやっぱりだめですか?

 まあ、暑さにも一種極限の喜びはありますけどね。飲兵衛ならキューッと一杯というところだろうが、私は飲めないので、冷やしたスイカにかぶりつくときとか。スイカを食べているとなんか妙になつかしい気がする。
 前に私はレトロ趣味はないって書いたけど、夏休みというとすごくノスタルジックな記憶がある。学校のプール、流水で冷やしたスイカ(さすがにうちのほうはもう井戸はなかった)、花火(花火大会と路地でやる線香花火と)、お祭りと山車と夜店(私の夏のメインイベント)、縁台での夕涼み、金魚売りの声、すだれ、蚊屋、風鈴の音。クーラーと引き換えになくしたものばっかりですね。
 小学校のころの夏休みは、40日が40年ぐらいの長さに感じた。永遠に終わりのない夏休み。それが年とともにだんだん加速的に短く感じられるようになって、今は始まる前に終わりそうです。

 あー、なんか音楽のことも書きたいなーと思うのだが、なんかこういうイライラガシャガシャしてるときに音楽って聴きたくないんだよね。いちおう、新譜も買ってはいるんだが。Nine Inch Nailsはシングル聴いて失望したんだけど、アルバムはダンスミュージックとしてけっこうかっこいいような気がしたので買ってしまった。Oasisはあいかわらずだなー。というか、ますます投げやりになってこない?(笑)
 Coldplayはシングルとか一部だけ聴くといつもいいなーと思うのだが、アルバムを通して最後まで聴くことができない。いつも途中で退屈しちゃって。これって英国版「大人のロック」の典型だよね。実にツボを押さえてるっていうか。でも同傾向のバンドでは私はStarsailorのほうがずーっっとおもしろいし、泣かせるし、かっこいいと思うのだが、例によってStarsailorは忘れられそうな気配で、Coldplayのほうはますますビッグになっている。どーして! 少なくともボーカルの個性とうまさは桁違いでしょうが!
 ちなみに「大人のロック」って言い方すごく嫌い。私はQueenもEric Claptonもデビューしたときから聴いてるが、彼らだって若いときはまぎれもない「若者のロック」だったし、目いっぱいとんがってたぞ。単に本人とファンが年取ったからと言って、音楽までが老化するわけじゃないと思うのだが。

2005年8月10日 水曜日

早稲田に熱帯雨林を見る話

 んも〜!というぐらい忙しいが、どうにか採点の仕事のほうはメドがついてきて、そろそろ夏休みが見えてきたかなというところ。
 暑さも死ぬ死ぬと言っているうちに、そろそろ峠を越えてきた。嘘だと思うでしょ。いや、西葛西じゃ夜はもう気持ちのいい風が吹き始めたのよ。でも昼間、この町を一歩出れば、あいかわらずの灼熱地獄。とうとう今日は幻覚を見てしまった(笑)。

 殺人的な暑さを予期して早稲田で地下鉄を降りたところ、確かに頭がじーんとしびれるほど暑いけど、大量のにわか雨が降った直後らしくて、町は一面の水浸し。でも何よりびっくりしたのはこの匂い。ねっとりと濃厚な、むっとするほど甘ったるい香りが町全体に漂っている。こんなの初めて。なんの匂いなんだろう? 草いきれにも似ているけど、草なんか一本もないところなのに。雨の匂い? そうかもしれない。なんか、熱帯雨林の真ん中にいるようだ。
 めまいがするような暑さと、肌にまとわりつく湿気と、この匂い、それにびっしりと茂った頭上の街路樹から雨のように降り注ぐ水滴に打たれているうちに、本当に自分が熱帯雨林にいるような気がしてきた。そうなると、セミの声と車の騒音がまるでジャングルに満ちる「ケケケケケ」というサルや鳥の声に聞こえてきて、こうなると私の頭に浮かぶのは、えーと、タイトルをど忘れしたが、JG Ballardの小説の、ロンドンが熱帯雨林に変わってしまう場面。目の前のアスファルトがバリバリとひび割れ、そこからのびた植物がたちまちビルを覆い尽くしていく様子が、本当に目に見えるような気がした。
 不思議なことにこうなると、私の脳はエンドルフィン全開になってしまい、なんかすごい気持ちがよくなってしまった。暑いのは暑いけど、なんか自分が大地に包み込まれているようで気持ちいい。あー、こういうふうに滅びていくのもいいなーと思って。(Ballardの小説はすべて世界の終末を描いているのだ) その後、吉祥寺へ行ったら、単に暑くて不快なだけに戻っちゃったけど。

寒いのも気持ちいいの話

 ところで外気温が下がってきて、うちのエアコンはどこがいけないのかわかった。勝手に止まるって言ってたでしょ? どうして止まるのかと思ったら、設定温度(ふだんは28度。これ以下だと私は寒い)が外気温と同じぐらい下がって、アイドリング状態になるじゃない。そうすると止まってしまうのだ。部屋があったまったらまた動き出してくれればいいんだが、そうはならなくて、たちまち締め切った部屋の温度は急上昇。外が涼しいなら窓を開ければよさそうなものだが、私は暑さより湿度が我慢ならない。
 そこで、止まらないようにするには設定温度をうんと下げておけばいいのだ。そういや、去年壊れたと騒いでいたのも夏の終わりだった。おかげで私は部屋の中で震えるはめに。しかし、これだけ暑さに苦しめられると、脳の中に「寒い=快感」という回路ができてしまい、ブルブル震えながら「あー、気持ちいい」と言っている(笑)。なんか暑すぎると人間って快楽原則だけで生きるようになるみたい(笑)。快と不快だけで生活が構成されるみたいな(笑)。

商売の話

 というところでいきなり現実に戻って、大学の仕事が一段落したら、お店の更新もやらなくちゃ。この夏はけっこう買い込んだので、大量の新入荷品がたまってるし。ところが、これがあまり気乗りがしない。というのも、この夏は商売がさっぱりなんですわ。だいたい向こうの奴らはみんなバカンスに行っちゃうので、確かに夏は売り上げが減る季節だが、それにしても全滅状態。
 というような話をRoberto(元コレクター仲間で、今は同業者)にしたら、彼のほうもまったく同じだそうだ。どっちかというと彼の方が元手をかけているので、より深刻みたい。Robertoはその理由をひとえにiPodのせいだと言う。「でも、私らの客はコレクター中心だから、関係ないんじゃない?」と反論したが、絶対間違いないと言い張る。彼はもう10年以上もウェンブリー(イギリス)のレコードフェアに通っているが、ブースの数も出品数も年々減っていると言う。
 うーむ、私の友達はほとんどがコレクターなので、インターネットでダウンロードするからもうCDは買わないなんて人は知らないし、私としてはほとんど実感ないんだが。やっぱりそうなのかなー。確かにお店の売り上げはずーっと右肩上がりだったのが、昨年ごろから落ち込み始めているが。
 私たちって滅び行く人種なのでしょうか? でもコレクターがいなくなることは絶対にないし、商売敵がつぶれて行って減れば、かえって有利かも。なんて頭がゆだってるので楽観的なことしか考えられない。

The MusicのDVDの話

 今日、自分用に買ったのは、The MusicのライブDVD。そう、私が急性難聴になったときのやつ(笑)。日本で撮ってるからジャパン・オンリーだと思っていたのに、英国でもリリースされたのでびっくり。日本盤はおまけ映像がつくそうだが、とにかく安いのでとりあえず英国盤を買う。
 ところで当然ながら気になるのは「私は映ってるかしら?」ということだよね(笑)。まだちょっと見ただけだが、さすがにあのモッシュの中ではいてもわからないや。客席がアップになれば、私は前から3列目ぐらいにいたし、とにかく周囲の子より頭ひとつ高いし、見えないはずないのだが。
 と思いながらブックレットを開いたら、ちょうど私のいたあたりの客席の写真が! わっ、いたっ! いるじゃん、じゅんこ! 右手前にドラムが2つ並んでいるのだが、ちょうどそのドラムの上にさらし首状態で、でっかく横顔を見せているのが私じゃない?と、なんか確信がない。自分の顔もよくわからないやつ(笑)。たぶん、私だと思うんだけどねえ。髪型もメガネも鼻の形も同じだし、だいたいこれだけ背の高い女は私しかいないはず。
 ただ、茶髪に見えるのがちょっと気になる。まあ、もともと髪は黒くはないですけどね。光線の具合ってこともあるし。もうひとつ気になるのは、自分で言うのもなんだが、私にしてはやけに若く見えること。最近じゃ、コンサート会場へ行くと、(年のせいで)もう浮きまくってるんじゃないかと心配になるのだが、これなら若い子に混じっててもぜんぜん違和感ないじゃん! 言っとくけど、私、この人たちのお母さんの年なんですからね。(下手するとお母さんたちの方が若い)
 しかし、年なんてものは(特に私ほどの年になると)気持ちの持ちようでガラッと変わるのだ。だいたいにおいて、疲れて落ち込んでると老婆にも見えるし、気分が高揚していると若くも見える。そしてコンサートというのは私がいちばん絶好調で燃えるときなので、若く見えても不思議はない。実際、コンサート後にトイレで鏡を見て、お肌つやつやお目々ぱっちりであまりに若々しいのでびっくりしたこともある。あー、フジロックやっぱり行きたかった! そしたらまた若返れたのに(笑)。
 とりあえず、The Music仲間のDavidに「これ、私よー!」とメールして自慢する。 というわけで、これが私です。たぶん(笑)。

2005年8月12日 金曜日

 ちょっぴり時間ができたので、ビデオ屋の100円セールに行って、DVDを借りてくる。レンタルビデオなんて借りたのは2年半ぶりぐらいじゃないか? なら劇場で見てるかというと、ほとんどLOTRしか見ていないという貧しい映画生活を余儀なくされているのも、忙しすぎ金がなさ過ぎる(し、映画は私にとっては音楽には及びも付かない二次的なものだ)からだ。よって、この映画評も映画マニア(でもあった)昔ならはるかにましなものが書けたはずだが、今は時間もないし資料もないので、例によっておちゃらけで済ませる。

映画評

24 Hour Party People (2002)  Directed by Michael Winterbottom

 だいたいにおいて「専門」領域だけあって、私は音楽映画と名がつくものは、見る前は「キャストが似てない!」とかさんざんぶーたれているものの、見ればつい引き込まれてしまって感動するのが常だった。
 古くは「私の人生を変えた一本」である、“Woodstock”を始め‥‥驚いた? いや、60年代はアメリカも好きだったのよ。というか、ガキなんでアメリカとイギリスの区別なんてつかなかった(笑)。でも実際、あのころはアメリカの方がかっこよかったし。その後も、とにかく自分のジャンルの音楽映画でありさえすれば、“Sid & Nancy”でも、“The Doors”でも、“Velvet Goldmine”ですら涙が出るほど感激した。まったくジャンル違いでもScorseseの“The Last Waltz”ですら感激したな。(実はRobbie Robertsonは好きだった)

 そこでこの映画も、キャストの顔を見たときは「似てねー!」と叫んだけど、見れば絶対感動するはずと信じていた。だってマンチェスターだよー! 何を隠そう、いやべつに何も隠してはいないが、イギリスと言っても私にとって音楽的にいちばん縁が深いのはマンチェスターでありまして、いつの時代も私のナンバーワン・バンドはマンチェスター出身だったと言ってもいいぐらい。(ちなみに今はPuressenceがそうだ)
 まして、そのマンチェスターの最盛期を描いた映画とくれば、これで感動するなというほうが無理でしょう。私はこの時期にわざわざマンチェスターまで行っちゃったんだもんねー。それで、町中に音楽が流れ、レイヴのバイブレーションが充ち満ちているのかと思ったら、単に暗くて汚くて寒々とした、ゴーストタウンみたいな町だったので、かえって納得して帰ってきた(笑)。

 確かに最初はワクワクした。Sex Pistolsの初のマンチェスター公演(観客は42人)から始まるのだが、その観客の顔ぶれが、後のマンチェスター・ミュージック・シーンを担うそうそうたる人たち。(ただし役者はみんなぜんぜん似てないので、名前を言われないとわからない) ほんとかよ? これって創作でしょ?と言いたいところだが、実のところは小さな町(東京や大阪とくらべれば)なので、音楽やってるやつなんかみんな顔見知りというのもあり得ないことではない。(実際、マンチェスター者というだけでみんな仲良しなところを見るとそうみたい)
 中でも個人的に大受けしたのは、冒頭のHoward Devoto(元Buzzcocks、Magazine、Luxuria)のエピソード。この日記の読者は「Mansunといっしょにやった人」としてしか知らないだろうが、私はそのはるか前から彼のファンだったのだ。それでHowardというと、あの特異なルックスのせいもあって、私は気むずかしい哲人という印象を持っていたのだが、この映画では「Tony Wilsonの奥さんを寝取った男」として登場する(笑)。そんな過去があったなんて知りませんでした。昔は若かったんだねえ。あたりまえだけど。
 だが、残念ながらおもしろいのはそこまでだった。

 というのも、この映画はMadchester映画でもなければ、レイヴ映画でもなければ、Joy Division=New Order物語でも、Happy Mondays物語でも、Factory物語でもない。実のところは「Tony Wilson物語」なのだ。
 なんでー!?と叫びたくなるよね。いちおう映画の中ではSteve Coogan扮するTonyが、「これはぼくの物語じゃない。マンチェスターとマンチェスター・バンドの物語だ」と言うセリフがあるのだが、それとは裏腹に、ミュージシャンはほんのちょい役。最初から最後までTony Wilsonがカメラの真正面に立って、自分の半生をしゃべりまくる。「主役級」のミュージシャンも、セリフすらほとんどなくて、Tonyの後ろでたむろってるだけ。なにこれー!

 Ian Curtisにしろ、Shaun Ryderにしろ、あれだけ映画向きの「キャラが立った」人物が目白押しのマンチェスターで、その人たちを背景人物におとしめてまで、何が悲しゅうてTony Wilsonを主人公にしなくてはならないのだ? というのも、これぐらいキャラが立ってない男はないのだ。
 Factory Recordsと、伝説のクラブHaciendaの創設者兼オーナーと言えば、当時の私たちには神のごとき存在に思えたが、実際はそんなたいそうなものではなかった。彼を一言で言えば、「金の卵を見つけたのに、その卵を手の中で腐らせてしまった男」でしかない。
 FactoryでもHaciendaでも、経営感覚の完全な欠如を見せつけられただけ。だいたい、社長というのも名ばかりで、会社とすら言えないような会社だったらしい。なにしろ、London Recordsに身売りするときも、契約書を見せてくれと言われて、契約書なんかぜんぜん交わしてないことが発覚したんだから。結局は、ローカル・テレビのリポーターの道楽でしかなかったんだよね。実際、Factoryをやりながらもずっとテレビの仕事は続けていたようだし、今はまたその仕事に戻ったというし。

 こんな男を主人公にしてなんになる? これならまだ(Sex Pistolsのマネージャーの)Malcolm McLaren物語でも作ったほうがましだ。(少なくともあちらはキャラが立ってるから) こんな映画作るぐらいだったら、New Order物語にすればまだ泣ける話になったのに! いや、Happy Mondays物語だって、Peter Saville物語だって、私は十分泣けるぞ。いっそのこと、Bez物語でもいい(笑)。

 というわけで、Factoryを語るなら当然避けて通れないドラマチックな部分はおざなりに語られるだけ。Ian Curtisの自殺のシーンなんて、ファンが見たら泣くよ! テレビを見てると思ったら、次の場面ではIanがぶら下がっていて、すぐに葬式のシーンに移ってしまう。なんでこうなったのかなんて、何の説明もなくて、Ianを知らない人が見てもなんの印象にも残らない。残されたバンドの苦悩も、Ianなしで再出発するまでの経緯も何も出てこない。
 Happy Mondaysの解散に至るまでのドタバタだって、私はこれはリアルタイムに逐一チェックしていたからよく知ってるのだが、それこそ冗談みたいな突拍子もないエピソードがたくさんあったのに、それもぜんぜん出てこなくて、バンドがバルバドスで遊んでいるところを映しておしまい。
 そういう大事なエピソードをほっといて、TonyがGranadaで撮っていた、どうでもいいような番組がひっきりなしに出てくるのもうっとうしい。そして物語はとりとめもなく、だらだらと終わる。

 とどめに音楽映画としても最低。音楽映画の楽しみは音楽である! ファンにとっては自分の好きな音楽がスクリーンから流れると言うだけでも涙を流して感動できるものなのに、なぜかこの映画を見ていてもぜんぜん感動しなかった。これなら当時のライブ映像だけ流してくれたほうがまだまし。
 また音楽映画特有の楽しみとしては、役者がモデルそっくりに歌う芸達者ぶりを見るということがある。これまで見た音楽映画は(本人が登場するものを除き)全部そうだった。なのに、この映画の役者たちは、似せようという最低限の努力すらしていない。まあ、Ian Curtis(Sean Harris)のステージ・アクションだけはまあまあかな。でも声がぜんぜん違うじゃん! Ianはあの通りドスのきいた低音だったのに。Bernard Sumner役の人(John Simm)は本物より歌うますぎるし(笑)。(単に音痴じゃないというだけ) それを補うためか、ときどき当時のライブ映像やビデオ・クリップがはさまるのだが、これも逆効果。だって、役者と顔も歌も違うから、ぜんぜん同一人物に見えないんだもん。そもそも、未だに現役でバリバリやってる人を役者に演じさせること自体に無理があったのかも。
 ただ、ちらっと出てくるMark E Smith(The Fall)だけはそっくりだなと思ったのだが、これは本人でした(笑)。私も、こんな宇宙人みたいな顔の人がそうそういると思えないので、たぶん本人だろうと思ったのだが、昔とぜんぜん顔が変わってないのでまさかと思っていた。そうか、宇宙人は年とらないんだ。

 Haciendaの熱気もぜんぜん伝わってこない。ただ、「セットでエキストラが踊ってますわなー」というだけ。本当にあの当時のマンチェスターはこんなもんじゃなかったんだから! 私はほとんどフィルムでしか知らないが、それでもあの狂的な熱はビンビン伝わってきた。
 ついでにどんどんイチャモンを付けると、Madchesterの時代を描きながら、Stone RosesもInspiral Carpetsも名前すら出ないというのは、いくらなんでもひどすぎる。それを言うなら現在の人気ナンバーワン・バンド、(にして、マンチェスター精神――むちゃくちゃでいい加減――の偉大なる体現者)Oasisにだって触れてもいい。もちろんOasisのデビュー以前の話だが、当然ながらGallagher兄弟は存在していたわけだし、音楽シーンに関わってもいた。私は当然、Inspiral CarpetsのローディーをやってるNoelの姿が見れると期待していたのに!
 Factoryバンドにしても、出てきたのは、New Orderと、Mondaysと、ACRと、Drutti Columnだけじゃないか。個人的にはNorthsideに期待してたのに。

 結局のところ、最後まで見ていちばん感動したのは、New Orderの“Here To Stay”が流れるエンド・タイトルだったというのが、この映画のどうしようもなさを物語っている。
 熱烈ファンの私ですらこうだから、当時を知らない人やマンチェスター・シーンそのものを知らない人が見たら、最初から最後まで退屈なだけで、ぜんぜんわけがわからないんじゃないか。
 そういや、ところどころに出てくる幼稚な遊びも気になった。Shaunの前にBezと書かれたUFOが飛んできたり(苦笑)、Tony Wilsonの前に神様が現れて、「Shaun Ryderはキーツ以来の詩人だ」とまったく信憑性のないことを言ったり(苦笑)。だいたいこの神様、Tonyの顔してるんだが、思い上がりもいい加減にせいって言うか。Tonyがカメラに向かって直接話しかける演出も合わせて、なんか頭の悪い学生の自主制作映画みたいで、Michael Winterbottomみたいなベテランのやることかよ! もっとも彼の映画っておもしろいと思ったためしはないんだが。
 まあ、このでたらめさといい加減さがマンチェスターっぽいと言えば言えなくもないんだが。

 あとおもしろかったのはトリビア的なことだけね。先のHoward Devotoのエピソードがそうだし、Mondaysのステージに飛び入りしたあのおじさんは誰なんだろう?という長年の疑問が解けたし。

 結局、見終わって残ったのは痛恨だけ。こんな映画に100円も出したというのもそうだが(苦笑)、こんな能なしが経営してたんでなければ、Factoryはつぶれなくてもすんだのにというのが、私が当時からずっと持っている怨恨。(Factoryのことは、こよなく愛していたので)
 これは根に持っているのでここにも書いてしまえ。Factory倒産の理由は明白だ。長年の放漫経営に加えて、最大のドル箱のNew OrderとHappy Mondaysに湯水のように金を与えて好き放題やらせた結果、連中はドラッグに溺れるだけで、ぜんぜんレコードを作らなかった(苦笑)。当然だわな、マンチェスター者の場合。それにHaciendaの赤字と、これまた不必要に大金をかけた新社屋の建設がワンツーパンチになったわけ。バカとしか言いようがない。
 ただ、あれだけはやっていたHaciendaが赤字というのが、私にはわからなかったのだが、その理由は映画を見てわかった。つまり、クラブというのは入場料より飲食させて儲けなきゃならないのに、Haciendaの客はぜんぜん酒なんか飲んでくれなかったのね。Eをやるだけで。ところが店ではドラッグは売れないので、潤うのは売人だけ。その売人同士の争いがしまいには銃を使った抗争に発展して、ドラッグと犯罪の温床として警察からもにらまれてしまい、閉店せざるを得なくなったわけ。これまたしょうもない話。

 ほんと、Tony Wilsonにしろ、バンドにしろ、しょうもない奴らばっかり。なのに、彼らが作ったものはあまりにも偉大すぎる、というわけで、そもそもマンチェスターなんか映画にしようってほうが無理なんだよ。終わり。

 明日は“Kill Bill”の予定。

2005年8月12日 金曜日

映画評

Kill Bill : Volume 1&2 (2003)  Directed by Quentin Tarantino

 何を隠そう、私は映画だろうと小説だろうとマンガだろうと、メッタクタ強いヒロインが出てくる話が涙が出るほど好きである。もひとつ、女に関して言うと、私は大女フェチである。よって、背が高くて強くてかっこいいお姉ちゃん(おばちゃんでも可)が暴れまくる映画なら、たいてい何にでも熱狂できる。
 私の映画ヒロイン・オールタイムNo.1が『エイリアン』シリーズなのもそのせい。確かにブスだしおばさんだけど、Ripleyさん(Sigourney Weaver)、とにかく強くてでっかくてかっこいいんだもん。

 さらに私はUma Thurmanの長年のファンでもある。理由はもちろんでかいってこともあるが、これだけ美人なのに、「私好みの変な映画」にけっこう出ているせいもある。その辺、単なるキンパツ美人じゃなくて、実はけっこう頭いいんじゃないかと思えて親近感が持てる。(Sigourney Weaverは当然ながらすごく頭がいい)
 さっきから美人と言っているが、異論のある人もいるでしょうね。いや、Uma Thurmanは絶世の美人だ。べったりお化粧すると、それこそ昔のハリウッド映画女優みたいな古典的な美人。なのに、なぜかほとんど化粧っ気なしの汚れ役や野生児みたいな役(この映画がまさにそうだ)を進んでやるあたりも好き。
 実はDaryl Hannahも好きなのだが、(理由はもちろんでかいし色物だから。それだけかい!)、彼女も美人だけど、あっちはいかにも通俗的なブロンド美人でしょ? その点、Umaはきりっとした気品と風格があって、こっちのほうが通好み。さすがに最近は多少、年の衰えが見えてきたが。
 しかしほんとでかいね(笑)。Tarantinoだって大男なのだが、(ヒールを履いてるとはいえ)その彼よりはるかにでかい。あのでっかいDaryl Hannahより頭ひとつでかい。いったい身長何センチあるんだ? 資料によると6フィートって書いてあるけど、絶対うそ! 6フィートは楽に超えてるはず。しかもその体で贅肉ゼロのスーパーモデル体型! (これまた年のせいか、ほーんの少し肉ついてきたけどね) うらやましい、じゃなかった、私もできればこうありたいという理想の体型。(あー、ちなみに私が大女好きなのはもちろん自分がそうだからである)

 というわけで、実はこの映画には内心かなり期待していた。ほかが全滅でも、せめてUmaちゃんだけ強くてかっこよければいいやと思って。でも反面、きっと失望するだろうという不安もあった。理由はこいつ、Tarantinoのクソやろーのせいだ!

 Tarantinoをバカだのカスだの×××野郎だのと罵ることは実は無意味である。だって、ねらってやってるんだから。よって、彼の映画にいくら突っ込みを入れてもむだなだけ。それはわかってるのに、毎回見てしまって、毎回罵倒してるんだよね、私は。
 つい見てしまうのは、やっぱり心のどこかで同類だという意識があるから。つまりおたく(いい年こいて大人になれなくて子供のままの人)ってことですけどね。その意味ではいっしょだし、B級大作映画(ってなんだ?)そのもののキャスティングを見てもときめくし、ストーリーを聞いてもときめくし、スチルや予告編を見てもときめくんだが、映画を見るとたいていがっかりする。なんかこの男とはことごとく好みが食い違うんだよなー。似たようなアホンダラでも(最近違うんですか?)David Lynchなんか、初めて“Eraserhead”を見たとき、「これこそ私の求めていた監督だ」と思ったのに。
 Tarantino脚本でも、他の監督が撮った映画だとぜんぜんそんなことないので――From Dusk Till Dawnとか、Natural Born Killers とかすごく好きだった――まあ要するに監督としては能なしなんだが(笑)、こういうやつに金出して好きなようにやらせるバカや、それを見て喜ぶバカがいるからしょうがない。

 もちろん、ぜんぜん才能ないとは言ってない。確かに脚本家としてのある種の才能はあって、だからお話は書ける。これだって、話の筋や、セリフの断片だけ取り出せば、なかなかよくできている。(だから予告編だけだと感動するわけ) なんて言うか、こいつのやることは、モナリザ(ほめすぎですか? だったら適当な絵に置き換えて読んでください)を描き上げたあとで、そこにマジックでベタベタとヒゲを描いたりメガネを書き加えちゃうのと同じ。それをまた芸術と勘違いしてほめるバカがいるから、本人は増長するわけ。

 だから、普通なら当然入るはずの突っ込み――「日本刀持って飛行機に乗れるか!」とか、「中国と日本をごっちゃにしてる!」とか、「悪役はかっこよく死んでほしいのに、O-Ren Ishiiの最後(カッパ)はあんまりだ!」とかいうのはなしにしておいてあげる。本人が承知の上でわざとやってることだから。

 私が頭に来るのは‥‥えーと、あまりにたくさんありすぎて忘れちゃったが、たとえば、栗山千明がなんでコギャルの格好してるのかと思ったら、深作欣二(に捧げられている)の『バトルロワイヤル』へのオマージュなんですね。オマージュっていうか、まんまやんけー! まるっきり意味のないコスプレで浮きまくってるし、恥ずかしいだけ!
 それとか、Kiddoが娘と初めて会う(普通なら)殺伐とした戦いのあとの心温まる感動の場面。彼女は母親らしく娘に添い寝していっしょにビデオを見るのだが、「何見たい?」と言うと、『子連れ狼』! それは子供じゃなくてきみの趣味だろうが! (この映画はスプラッタ描写でハリウッドでも評判になり、もちろんそれはそっくり“Kill Bill”の中でもパクってる)
 要するに、かんじんのテーマやストーリーをぶちこわしにしても、どこでも自分の趣味全開。まあ、その意味でも典型的おたくだけど、それを押しつけられる観客こそたまったものじゃない。これまでもその傾向は大だったが、これがいちばんひどいんじゃないか? まさにTarantinoの作ったTarantinoのためのTarantino映画。よって、おもしろがるのはTarantinoだけ(苦笑)。
 “Being John Malkovich”(『マルコヴィッチの穴』)って映画あったじゃない。(ちなみに私はJohn Malkovichを崇拝しているので、この映画も大好き) Tarantinoの映画って、全部“Being Quentin Tarantino”だと思うね。ほら、レストランへ入ると、ウェイトレスも客も全員マルコヴィッチの顔してる場面。私はTarantino映画を見ていると、登場人物が全員Tarantinoに見えてくる。だって、子供だろうが、女だろうが、コギャルだろうが、セリフが全部Tarantinoの言葉で、まるでTarantino本人がしゃべってるみたいなんだもん。だからTarantinoが好きならいいが、きらいな人間には耐え難い。

 あ、なんか途中で結論が出てしまったが、そんなわけで最初はけっこう楽しく見ていた。でも最大の見せ場である「青葉屋の死闘」が始まったところですーっと引いて、あとは苦虫を噛みつぶしながら見ていた。
 何が悪いって、栗山千明のコギャルや、手下が全員、昔のマンガに出てくるギャング団みたいなマスクかぶってるのもそうだが、これはわざと狙ってやってることだからまだ許そう。日本が舞台で、日本のヤクザのはずなのに、演じてるのが中国人だから、攻撃するときのかけ声が「ホワチャー!」とカンフー映画そのものなのも許そう。
 何が許せないってあのバンドだ、バンド!( The 5,6,7,8's ) 私がThe Brideだったら、ヤクザなんかほっといて、真っ先にあの連中を血祭りに上げて帰る(笑)。やっぱ気の合う人と合わない人ってのは、こういうところに露呈するもんだなー。
 というわけで、それまでThe Brideの活躍を手に汗握って見てたのが一気に冷めて、あとはもうまじめに見る気がしなくなった。

 そうそう、それでかんじんのUma Thurman。私としてはほかはなんにもなくても良かったのだ。Umaさえ強くてかっこよければ。確かに強い。あと、彼女が女だからといって手加減されずボコボコにされるところもすごい好き。なのに、なんかかっこよくないんだな、これが。
 ほとんどマンガって意味では(監督がおたくで、カンフー映画とかアニメに影響受けてるところも)、これは“Matrix”と比較されるべき映画だろう。それで“Matrix”といえば、私には何を置いてもTrinityちゃん。彼女がいるから、他のアラにはすべて目をつぶってあげた。(でも2と3はちょっと) あんまり運動神経良さそうに見えないCarrie-Anne Mossにあれだけできたんだから、彼女よりはるかにスタイルのいいUmaがやればどんなにか!と期待してたんだよ、私は。
 なのになんかかっこわるーい! Trinityの得意技「空中回し蹴り」なんか、そこだけ何度リピートして見てもいいぐらいステキなのに、あれに匹敵するような決めがない! チャンバラにしろ、カンフーにしろ、「秘技五点掌爆心拳」(北斗の拳か!)にしろ、いちおうそつなくこなしはしたが、決まらないんだなー。こういうものは理屈じゃなくて美学なんだから、やっぱりTarantinoに美意識期待するのが無理だったか。むしろ、私は彼女がゲンコで人ぶん殴るのを見ている方が楽しかった。
 衣装もよくないし。黒革(これもフェチ)にくらべて、黄色いジャンプスーツなんてバカみたいだし、せっかくあれだけ長い足をもう少しかっこよく見せてほしかった。

 しかし、私はやっぱりカンフーだめだわ。バカらしいだけでちっとも強そうにもかっこよくも見えなくて。そもそもやたら宙に舞うワイヤー・アクション、宙を飛ぶってことは、その間、方向転換も加速も減速もできなくて隙だらけ、おまけに全身を敵の目前にさらすことになり、格好の的になるだけだってぐらい、べつに格闘技ファンでなくてもわかるじゃん。なのに、こういう映画の敵は、その間ぼーっとしてただ見ててくれるんだからね(笑)。
 先にマンガっていう点では同じと言ったけど、それでも“Matrix”はまだ許せたのは、あれがVRで、つまりうそっこだという了解があったから。でもこれ、いちおう現実世界の話なんでしょ? ありえねー!
 さらに格闘シーンについてイチャモンを付けると、私は血がドバドバ出て人がバタバタ死んでくれればそれだけでけっこう満足なんです。でもこんなんじゃ満足しない! 血は「ピュッピュッ」という感じで、水芸じゃあるまいしって感じだし、はらわたもドバッっと出てほしいところを「ペロン」と出る。ふざけてんのか、おっさん? ちなみに本当の意味のスプラッタ(血やはらわたが飛び散ること)で、私がいっとうすごいと思ったのは、アカデミー賞監督(笑)Peter Jacksonの“Braindead”でした(笑)。
 いや、しかしマジで、あれだけ人切ったら床は一面血の海で、ぬるぬるして、走るどころか歩いただけでみんなすべって転ぶよ。The Brideは返り血浴びて全身血みどろにならなきゃおかしいのに、きれいなもんだし。こんなのぜんぜんリアルじゃねーよ。(もちろん細かいことを言ったら、日本刀というのは一度人を切ったら、刃こぼれしてぬるぬるになって切れ味は大幅に衰えるのだ)

 そんなわけで、期待のUma Thurmanがあんまり魅力的に見えないので、むしろDaryl Hannahのほうがかっこよく見えてきてしまった。彼女ももともと好きなんだけど、いかにも大味なアメリカ女って感じで、なんかキャピキャピしたブロンドという印象があっていまいちだった。ところが、年を取ったせいですごみのある顔つきになってきて、むしろこっちのほうが私好み。
 キャラクター的にも私はこの人の方が共感かんじるなー。たとえば、彼女が片目を失ったのは、カンフーの老師Pai Meiにバカと言ったせいなのだが、あんな根性曲がりのクソじじい、殺してやったほうがよっぽどためになる(笑)。
 よって、私のハイライトはこの二人のキャット・ファイト。Kiddoに目玉えぐられたあと、ギャーギャーわめきながら暴れまくるのがかわいかった(笑)。この人には今後もB級ヒロインとして期待。
 かんじんのBillはどうなのかって? うーん、David Carradineも好きなんだけど、しゃべる言葉がTarantinoそのもので、ついあの顔がダブってしまっていまいち。

 ストーリーもねー。なんでThe Brideはあんな目にあったのか?というのが謎だったのだが、私は当然、殺しがいやになって組織を抜けようとした罰なんだと思ってた。(あ、その点“Nikita”にも似てますね) ところが実際は、愛するKiddoに逃げられ、あまつさえ腹ボテで他の男と結婚しようとしていることを知ったBillが嫉妬したせいだったんですね。結局、この二人の痴話ゲンカかよ! その巻き添えくらって殺された他のメンバーやヤクザのほうがよっぽどかわいそうだ。しかもBillは弁解して“I overreated.”と言う、もうここでガクッですわ。
 ラストも疑問。そもそも、Kiddoが足抜けをはかったのは、妊娠を知って、子供を切った張ったの殺し屋の世界には置きたくなかったからでしょう? で、Billを殺して、一見これからは母子で幸せに生きていきましょうと言うエンディングだが、この子って、寝る前にディズニーじゃなくて子連れ狼のビデオをせがむような子だし、ペットの金魚は「どうなるか知りたくて」足で踏みつぶしちゃうし、どこからどう見ても両親の血を濃厚に受け継いでるっていうか(笑)、将来殺し屋になるのは確実じゃない。ぜんぜんハッピーエンディングじゃない!
 実は“Natural Born Killers”も似たようなエンディングだったのだが、私はあれには涙したのだ。というのも、実はぜんぜんハッピーなはずなくて、子供の代になってもこの人たちは修羅の道から抜けられないのが明白だったから、かえってかわいそうで。なのに、こちらはそんな余韻はまったくなし。バカ。

2005年8月13日 土曜日

 いやー、久々なせいか、鬼のような勢いで書いてるなー。いつものヨタ話と違って、私の「批評」は金払って読む価値ありですよ。それをただで読めるんだからありがたく読みなさい。と、なんでいきなり女王様口調かというと、どうも昨日の気分が尾を引いているらしい(笑)。

映画評

Memento (2000)  Directed by Christopher Nolan

 この映画は前から興味を持っていて見たいと思っていた。理由は気鋭の英国新人監督の問題作ってところと、主演がGuy Pearce(ボディビルダー上がりで“Neighbours”出身なんて、普通なら最も嫌うタイプだが、“Priscilla”のオカマ役がかわいかったので許す)と、Carrie-Anne Moss(愛するTrinityちゃん)というところ。
 さらに主人公は妻を殺されて自分も殴られたショックで、前向性健忘症というめずらしい記憶障害(古いことは覚えているが、事件以降の記憶は10分間しか続かない)になってしまうのだが、以前から神経学に興味があって、特に記憶関係の本を読みあさっている私はこの病気についても読んだことがある。おまけに、いつも「ニワトリ並み」(ニワトリは三歩あるくとすべて忘れるという俗説から)と言っているように、自身、なんかの記憶障害じゃないかと心配している私としては、他人事とは思えないという縁もある。
 なのに劇場で見なかったのは、「まあ、たいした作品じゃないだろうからビデオで十分」という読みがあったからだが、さて見ての感想は。

 えーと、いや、確かに悪い映画じゃないよ。監督・脚本のNolanはいかにも頭いい人だなって感じがするし、Guy Pearceはすばらしい熱演だし。ただ、“Kill Bill”みたいに明らかに頭悪い映画には何も言う気がしなくなるが(でも言ってるが)、こういう「どーだ、賢いだろう?」みたいな映画にはつい突っ込み入れたくなっちゃう悪い癖が(笑)。

 ズバリ、この映画の魅力は次の2点に尽きる。

1) 過去10分しか記憶のない男を主人公にしたサスペンスというアイディア。
2) 観客に主人公の経験を共有させる編集の巧みさ。

 それで1のアイディアだが、言っちゃ悪いがこれはそう独創的なものではないのである。どうやらフィルム・ノワールに元ネタがあるようだし。記憶喪失や「偽の記憶」を仕掛けにした映画なんて、それだけでジャンルができてしまうぐらいたくさんある。
 Nolanはそれでも、単なる記憶喪失じゃなくて、前向性健忘症という特殊な記憶障害を使ったところがユニークだと主張しているが、小説まで入れれば、実はこのアイディアもそうめずらしくはない。この記憶力のない私でもすぐに思い出せるのは、どっちも前向性健忘症じゃないが、Dan Simmonsの傑作SF『ハイペリオン』(ハヤカワSF文庫で読めます)に出てくる「時間を逆向きに生きる少女」のエピソードがそうだし、健忘症にふさわしく作者もタイトルも忘れてしまったが、『プレデターズ』というホラー・アンソロジーに入っていたアルツハイマー症の男を主人公にした短編がある。それで困ったことにどっちもこの映画よりずっとおもしろいのだ。
 「時間を逆向きに生きる」というのは、SFではこれまたよくあるアイディアだが、もちろん完全に逆転したら、ウンコをお尻から入れて口から食べ物を出さなくてはならない。(汚い例ですまん) しゃべる言葉も逆回しになるので人とコミュニケーションも取れない。それじゃ話にならないので、『ハイペリオン』では1日単位で時間が逆行する。つまりこの少女にとって、昨日は明日なので、過去のことは何ひとつ思い出せない。なら未来を覚えているかというと、そんな因果律に反することはありえないので、彼女にとっては「現在」しか存在しないという、この映画の主人公Leonardとよく似た境遇なのである。
 また、アルツハイマーの人も古いことは覚えているのに、直前のことは覚えていない――「朝ご飯まだですか?」 「さっき食べたばっかりでしょ、おじいちゃん」みたいな――という点で、Leonardの症状によく似ている。この完全にボケたじいさんが主人公で、ぜんぜんわけのわからないまま殺し屋に追われたりするサスペンスなのである(笑)。
 でまあ、そういうのが記憶にあるから、私はべつに目新しい話とも思わなかったし、話自体もあんまりできがいいとは思わなかった。

 映画の話に戻ってその2、編集は確かに巧みである。特に最初のほうは何がなんだかわからなくて頭がクラクラするような感覚を味わった。が、しばらく見ているとからくりがわかってしまうのね。つまりこの映画は普通の時間順で撮ったお話をシーンごとにバラバラにして、それをあとの方から順に、時間の流れとは逆の順番で見せる。(各シーンはつながりが見えるように最初と最後が少しずつダブっている) つまりラストシーンが冒頭に出てくるわけ。そうすると観客は過去に何があったのかわからず、登場人物が誰なのかも、なんでこうなるのかもわからないというLeonardと同じ体験をするわけだ。
 これだけではちょっと見え透いてると思ったのか、その間に、Leonardが電話で誰かに、彼の記憶力が正常だった時代の思い出(彼の顧客だったSammyという男の話)を語るシーンが、やはり細切れにされ、ただしこちらは正しい時間順で挿入される。これによって、さらに時間感覚が混乱する仕組み。
 確かになかなかおもしろい趣向だが、一度それに気付いてしまうと、最初の幻惑感は薄れ、むしろまだるっこしい気がしてきてしまうのね。特にデジャビュみたいに同じシーンが何度も繰り返されるからよけい。私は見ながら、「ラストではきっといきなり病気が治って、正常な時間で一気にクライマックスに突き進むんだろう」と思っていたのだが、そんなことはなく、結局最後までこの調子で、物語はギクシャクと行ったり来たりしながらプツンと(オープニングシーンで)終わる。
 うーん、これは策に溺れてエンタテインメント性を犠牲にしたというか、はっきり言って見ててかなりしんどいし飽きる。実はDVDには全エピソードを普通の時間順に直した「謎解き編」がついているのだが、これを見てもたいして独創的でもおもしろい話でもないし。

 さらに突っ込ませてもらうと、Leonardはこんな状態でも、妻をレイプし殺した犯人をひとりで捜して、復讐することを計画している。そこで記憶力を補うため、彼は知ったことをメモし、ポラロイド写真を撮り、絶対忘れてはならないことは自分の体に刺青している。
 ハンデを負った主人公がいかにしてハンディキャップを克服するかというのは、いちばんおもしろい見せ場になるはずだよね。ところが、この作戦がぜんぜん役に立たず、Leonardは悪人たちの思うままに翻弄されるだけなのだ。というのも、これじゃぜんぜんダメでしょうが、あなた!
 第一にメモに日付がない。よって、矛盾する内容のメモが見つかった場合、どっちを信じていいのかわからない。しかもそのメモが非常に短くてあいまいなものだから、どう解釈していいか困るときもある。
 刺青っていうのも、確かにビジュアル的にはかっこよくて映画向きのアイディアだとは思うが、なんでわざわざそんな面倒なことするのよ(笑)。だいたい刺青彫るのに時間がかかってその間に忘れちゃうし、服の下にある刺青は裸にならなきゃ読めないし、メモがたまって体中耳なし芳一状態になったらあとはどうするの?(笑)
 常識で考えて、いちばんいいのは詳細な日記を付けることでしょう。それならバラバラのメモと違って時間順もわかるし。テレコに吹き込むという手もある。それなら書くより早いし、他のこと(車の運転とか)をしながらでも録音できるし聴けるし。

 ちなみに前記の小説ではどうやって解決していたかというと、まず『ハイペリオン』の女の子は、一日の出来事をすべてテープに吹き込む。そして目が覚めたらまずそのテープを聴くことから一日を始めるのだ。
 アルツハイマーの人のほうはもっと手が込んでいる。これは近未来の話なので、すでに家庭用コンピュータでもかなり精巧なAIが使える。自分がアルツハイマーを発病したことを知った主人公は、まだ頭が働くうちに、AIを自分でプログラミングして、ボケ老人アシスト装置を作り上げる。つまり、朝起きたら、コンピュータが「服を着なさい」、「浴室へ行きなさい」、「歯を磨きなさい」というふうに、やるべきことを全部指示してくれるのだ。AIだから、「今何が見えていますか?」とか「何を持っていますか?」というふうに質問して状況を推測し、適切な行動を指示することもできる。これのおかげで、彼は誰にもアルツとは気付かれないまま、仕事をしたり、危機を切り抜けたりするのだが、もちろんAIは全能じゃないので、判断を誤って危地に追い込まれたりもするわけ。
 どっちもSFという違いはあるが、どう考えても刺青よりは合理的だよね(笑)。

 他にも些細だけど疑問な点が。たとえば、銃を持った犯人に追われて、車で逃げようとしても、彼には駐車場の車のうち、どれが自分のかわからないのである。そこで走りながら懐からさっとポラロイドの束を取り出し、ちらっと一目見ただけで自分の車を見つけて飛び込む。これってすごい才能じゃん!
 私自身、記憶力のなさに困ってあれこれ工夫したこともある。でもメモなんて絶対ダメ。書いたそばからなくす(笑)。手帳を付けていたこともあるが、これも手帳に書き込むのを忘れるうえ、手帳を捜すのにかかる時間があまりに長すぎて、その間に何を思い出そうとしていたかも忘れてしまう。まして駐車場から1台の車を捜すなんて、私には難行苦行なのに、この人は苦もなくやってのけるのである。記憶力いいじゃん!(笑)

 というわけで、やっぱりアイディアだけの映画だったなー。主人公になんの救いもないところが後味悪かったし。

 これだけじゃなんだから、いいところも書こう。いちばん泣かせるのはSammyの妻(というのは実は偽の記憶で、Leonard本人の妻の話なのだが)のエピソード。夫が記憶を回復しないことに絶望した妻は、自分の命を賭けて記憶を取り戻させようとする。彼女は糖尿病患者で夫がインシュリンの注射をしてやっていたのだが、短時間にわざと何度も注射を頼むのだ。(夫の方は注射した記憶がないのでそれには気付いていない) うまくすれば自分が妻を殺そうとしていることに気付いて記憶を取り戻すだろうし、取り戻せなければ自殺したほうがましだからだというわけだ。この愛と絶望の深さは本当に泣かせる。

 Guy Pearceの熱演は前述の通りだが、Carrie-Anne Mossも良かった。彼女は悪役で、わざとLeonardを挑発して殴らせ、(すぐに殴ったことも忘れている)Leonardにその傷を見せてボーイフレンドにやられたと嘘を付くのだが、よい子のTrinityを見慣れていた私には、彼女がいかにも悪女らしく汚い言葉で男を罵るのが快感でした(笑)。この人、意地悪そうな顔してるから、こういう役が似合うんだわー。(悪女も好き) やっぱり美人だし。でも髪はやっぱりあの短髪のほうがすてきなのに。

 というわけで、才能ある人なのは確かなので、Christopher Nolanは次回作に期待しよう。

2005年8月14日 日曜日

映画評

Spider (2002)  Directed by David Cronenberg

 さて、映画週間のトリは(ほんとは20本ぐらい借りてくるつもりだったのだが、初めての客は5本しか借りられなかったので)、私が世界中でいちばん愛する映画作家David Cronenbergの登場である。なんかこれまで4本とも、心ならずもボロクソ・リビューになってしまったので、最後ぐらいは愛と賞賛で締めくくりたかったのだが‥‥その前に。

 もうCronenbergについてここであれこれ書くつもりはない。(そういうのは自分の日記でさんざん書いちゃったので) とりあえず、全面的にぜんぶ好き!というだけで十分だろう。
 実はこの映画は予備知識ゼロで見た。いや、知ってたのはPatrick McGrath(英国の作家)原作ということだけで、彼の作品は“The Grotesque”しか読んだことがないのだが、この小説も映画化されていて、それがもう死ぬほどおもしろかったので、これにも期待していた。何が現実で何が幻想だかわからないという作風も、あまりにもCronenberg向きだと思ったし。ちなみに“The Grotesque”の主演はStingである。音楽的にはとっくに飽きてしまったんだが、彼の出る映画はぜんぶ変でおもしろいので(おまけに悪魔的誘惑者という役柄もいつも同じような気がする)、なるべく見ることにしているのだが、その話はまた別として。

 で、どこから話そうか。とにかく見始めてすぐ思ったのは、まるで“Memento”のあとにこれを持ってきたのは意図したみたいだということ。なにしろこれも記憶、それも偽りの記憶についての物語なのだ。主人公は記憶障害の“Memento”に対して、こちらは精神分裂症患者(あー、最近は違う言い方するんだっけ? 忘れたからいいや)。どっちにしろ、「あてにならない語り手」であり、すべてが主人公の視点から描かれるため、観客にも何が本当で何が幻想なんだかわからないというところもそっくり! たとえば、(いきなりネタバレですまんが)、“Memento”の主人公は実は自分が妻を殺してしまったのに、その記憶を封印して他人の出来事として覚えているのに対して、この映画の主人公は、少年期に父が母を殺して、娼婦を妻として連れ帰ったという妄想を抱き、その継母を殺したつもりで実の母を殺してしまう。

 というところで、さすがCronenberg、やっぱりぽっと出の新人とは出来が違う、とほめ上げたかったところなのだが‥‥うーん。
 いや、作品としては完璧なのよ。“Memento”のようなアラは一切ないし、演出にしろ演技にしろ、こっちのほうが1枚も2枚も上手。ただ‥‥

 これがCronenberg? ほんとにー? というぐらい、最初から最後まで暗く重苦しく難解なゲイジュツ映画なのだ。いや、Cronenbergが芸術じゃないと言うつもりはないよ。ただ、彼の場合それだけじゃなくて、いかにも私好みのアレがあったから、Cronenbergは特別だったのに。
 つまり、お得意の血みどろもはらわたもゲロゲロ・シーンもなし。殺人場面ですら抑えた調子で淡々と上品に描かれる。あのぶっ飛んだ幻想シーンもなし。ある意味ほとんどすべてが主人公の幻想なのだが、それが徹底した暗いリアリズムで描かれるだけ。その他、変態性欲もガジェットもないし、私がCronenbergのトレードマークと考える要素が何もない。まるっきり別人の作品みたい。
 前作“eXistenZ”が(映画としての出来はあまり良くなかったが)、全編Cronenberg印の映画だったので、よけいとまどいが大きい。どうなってるの? 年取っていきなり「シリアスな」映画が撮りたくなったのだろうか? いやいや、別に私もグチャグチャや変態性欲が見たいだけではないし、いちおうテーマ的にはいつものCronenbergだから、まあいいんだけど。だけど、正直言って「おもしろい」映画ではないし、DVD買って何度も繰り返し見たいという映画じゃないなー。

 役者についても一言。Ralph Fiennes、Miranda Richardson、Gabriel Byrneと、いずれも英国人の演技派ばかり揃えた役者陣は、全員がむずかしい役柄を熱演。特にRalph Fiennesのキ○ガイ演技はGuy Pearceなんか目じゃないやと思わせる。それもセリフもほとんどなく(ブツブツ口の中でつぶやいてるだけ)表情と体だけで狂気を表現するんだからむずかしいよね。Miranda Richardsonは(少年の考える)やさしい聖母のような母親と(少年の考える)アバズレの娼婦の二役で、これもありがちだがむずかしい。父親を演じるGabriel Byrneはこれまた少年の頭の中の鬼のような父と、ごく普通の父親を演じ分けなくてはならない。あ、この二面性もCronenbergの一貫したテーマだわね。
 そういうわけで演技陣はいずれも名演なのだが、私、この人たちみんな顔が好きじゃなくて嫌いなんだよね(笑)。

 Cronenbergが好きなのは(先に述べたようにすべて好きなんだけど)キャスティングのセンスの良さというか、よりによって私が気が狂うほど好きな役者ばかり使ってくれることだったのに。“Videodrome”のJames Woodsでしょ、“The Dead Zone”のChristopher Walkenでしょ、(“The Fly”はなかったことにして)、“Dead Ringers”と“M. Butterfly”のJeremy Ironsでしょ、“Naked Lunch”のPeter Wellerでしょ、“Crash”のJames Spaderでしょ、それに“eXistenZ”のJude Law。もう私を喜ばせるために選んでるとしか(笑)。
 まあ顔ぶれを見てもらうとわかるんだけど、この人たち、全員同じタイプで、要するに知的でハンサムだけど影があって危険な感じの性格俳優。私がたまたまそういう人が好きっていうだけだけど。これであとはEdward Furlongと、Edward Nortonと、John Malkovichと、Viggo Mortensenを使ってくれれば私のオールスターってぐらいで(笑)。
 それで主演男優が異様に色っぽく撮れてるのに、なんかいつも女優がぱっとしないので、私はこの人は隠れホモだとずっと思ってるんだけど。あ、別にエロを出さなくても異様にエロチックというのもCronenbergの良さ。
 でも、Ralph Fiennesって、どっちかというと優等生の健康優良児タイプじゃない。やっぱりなんか違うよね。そういや、エロチシズムもぜんぜんなかった。

 とは言え、Cronenbergにはまだまだ期待してしまう。次作は“A History of Violence”と言って、もう予告編も見ちゃったんだけど、やっぱりおもしろそう! しかも主演はViggo Mortensen! どうして私の好みがわかるの? うれしー!(うれし泣き) そうなんだよ、この人はアラゴルンなんかより、やっぱりこういう映画に使ってあげるべき人なのに。
 さらにそのあとの予定もすでに決まっていて、これがMartin Amis原作の“London Fields”! だからなんで私の好きなものばっかり! 実は私はこの小説で論文書いて、これはちゃんと出版もされてるんです。(『現代英米小説の担い手たちV』 弓プレス) あいにくエログロナンセンスはないけど、ものすごい傑作。なにしろ論文書くために私は徹底的に読み込んでるし、どういう映画になるのかすごーい楽しみ。
 まだキャストが発表されてないんだけど、誰になるのかなー? もちろん上に書いた人たちだとうれしいけど、これまたロンドンが舞台の小説だから、アメリカ人じゃ無理だな。残念ながらイギリス人役者は数が限られてるから、キャスティングがむずかしいなあ、なんて私が心配してどうする?

 というわけで、惚れた弱みでまたワクワクして終わってしまったが、なんか映画評があっさり終わってしまったので、ついでにおまけに入っていたCronenbergインタビューを見た感想も。
 インタビューではあいかわらず実存主義哲学をとうとうと述べている。すごい頭いい人なんだよね。そういう人がああいうゲロゲロを撮るってところがまた好きだったんだけど。
 でも、さすが年とったなあ。それでもステキだけど。おっと、実はCronenberg役者って、みんな彼自身の投影。彼自身が知的でハンサムだけど影があって危険な感じの人なんです。そこにも惚れたね。本人は自分の撮るキャラクターと自分自身はぜんぜん違うといつも言ってるけど。
 私は監督も顔で差別するからね(笑)。Tarantinoが許せないのは、ああいう下品で脳天気な醜男が許せないから(笑)。ちなみにCronenbergも出たがりで、役者としてもけっこう映画に出てるけどやっぱりステキです。

2005年8月18日 木曜日

夢の話 「キル・ビル以外」

 『キル・ビル』を見たせいで夢を見た。「私が映画を見るのは単に夢の材料にするためである」と前に書いたことがあるが、それはまんざら誇張でもない。映画はただ見るだけより、自分が主人公になって体験する方がおもしろいに決まってる。しかも、夢がおもしろいのは「実写」というだけでなく、自分が監督でもあるので好き勝手に話やキャストを変えてしまえるところだ。

 この夢では、ブライドは私を失望させた罰で消されてしまっている。ビルも出ない。その代わり、お気に入りのトリニティがメンバーに入っている。メンバーは女3人と男2人の5人。女は私と、トリニティと、東洋人の女の子。じゃ、私は東洋人じゃないのか? 自分は見えないのでよくわからない。ルーシー・リューと栗山千明はやはり気に入らなかったので消されたのはわかるが、ダリル・ハンナは残しておいてほしかったのに。それとも私がそうなのか? 男はジャン・レノ似の中年(もともと好きだったが、テレビでハリウッド版『ゴジラ』を見てしまったせいか)と、若い男(黒髪で青白い美形)。トリニティはさすがにあの衣装は着てなくて平服(?)だが、やはり短髪であのサングラスをかけている。
 映画ではユマ・サーマンがみんなのリンチにあうが、夢ではこの5人が殺し合う。ただし、犠牲者は決まっていなくて、1人を4人が追い詰めて殺すこともあれば、中の2人が結託して残りの奴らを殺すこともある。というわけで、Vol.3どころか4も5もあって、殺されてもまた復活するらしい。
 場所が日本の普通の駅前商店街(アーケードとかがあるやつ)というのも変。私たちのたまり場はなんかみすぼらしい定食屋で、そこにたいてい数人がたむろっていて、殺しの相談もそこで行われる。どうもビルがいないので、殺しのターゲットがおらず、暇をもてあました殺し屋たちが勝手に殺し合っているらしい。そういや、町の人たちは目の前で殺戮が繰り広げられていても、まったく動揺もせず、警察が呼ばれることもないのも変。
 でも殺し自体は純粋な快感。夢の中では当然私は無敵のスーパーウーマンなので、ワイヤーもなしに空飛ぶし(笑)、商店街を縦横に駆け回って「敵」を追い詰め殺すことに純粋なプレデターの喜びを味わう。
 しかし初めて殺すことに葛藤が生まれたのは、トリニティが標的になったとき。トリニティちゃんは好きなので殺したくない、でも殺しに参加しないと仲間の恨みをかってしまう(さんざん殺してるくせに)。そんなわけで、仲間といっしょになって彼女を追いながら、うじうじと悩んでいるところでぷつんと終わり。
 (『メメント』や『スパイダー』の夢でなくてよかった)

2005年8月23日 火曜日

映画コレクションの話

 お店は完全な夏枯れ。遊びに行く金もないので、暇にあかせてコレクションの整理に取りかかる。これがまあ、泣きたくなるほど面倒で時間がかかる。なにしろCD1枚しまうのに(ふだんは買ってきたときの袋に入ったまま放ってある)1時間はかかるんだから。なぜかって? とにかくたくさんありすぎるので、たとえばNew OrderならNew Orderのコレクションを全部捜し出してチェックし直して、重複がないかとか(あるいは重複のように見えても微妙にバージョンが違わないか)調べなきゃならないんですよ。もちろんデータベースも作ってあるのだが、それもあてにならないので。それをやってると、バシバシ重複が見つかる一方(あー、また千円損した!とか)、抜けもボロボロ見つかっていやんなっちゃう。

 それと同時に、久しぶりに映画を見たせいで、映画コレクションも気になる。いや、正確にはとてもコレクションなんていえるもんじゃないです。映画のコレクターってのはそれこそ倉庫建てちゃうような人たちだから(笑)。自分でも集めるつもりはなかったんだけど、これだけ長生きしてるとパンフが山のようにたまってしまって。昔はどんなヘボ映画でも、見たのはすべて買ってたけど、それもやめて特定の監督の作品に限るようにしてたんだけど。
 問題は最近、映画はレンタルでばかり見てるので、すごい好きな映画なのにパンフが欠けてるのが多いのが気になる。これも買おうと思えば買えるんだけど、高いから中古でしか買わないので、ミニシアターのやつとかはなかなか見つからなくて。でも最近、ロメロの『ドーン・オブ・ザ・デッド』(オリジナルのほう)を280円という格安で見つけてちょっとうれしい。(パンフの相場なんて知らないけど、これなんかはまず数千円はするもの)

 一方、映画ソフトはそれこそとてもじゃないけど私の資力では追いつかないので、集めるつもりは毛頭ないんだけど、それでもLDがかなりたまっている。というのも、本当に死ぬほど好きな映画は「買っておかないと二度と見れないかもしれない」という恐怖がつねにあるもんで。おかげで、ちょっとしたカルト映画のコレクションができてしまった。グリーナウェイとか、ホドロフスキーとか。こういうのって発売されても数が出ないから、どれも一時は専門店じゃ1万5千円ぐらいのプレミアがついてたやつなんです。好きな映画は同じのが3枚ぐらいあったりもする。ワイド・スクリーン版とか、ディレクターズ・カットとか、出るたびに買ってたから。べつにコレクションのつもりじゃなく、単に見たいから買ってたんだけど。
 ところが、LDはすたれ、DVDの時代に。うーむ、困った。これがCDならぜんぜん困ることないんですよね。同じタイトルを10枚持ってたりしても喜んでる(笑)。でも映画でそんなことする気はまったくないし、だいいち資金的余裕がない。LDはあるんだから、それでいいじゃないかという気もするが、でもDVDも魅力。
 何がいいって、字幕が消せること! 私は日本語字幕がいやで、そのためわざわざ輸入盤を買ったりしてたんだから。それに英語字幕もすごい便利。これって英語のいい勉強になるし。あと特典映像も魅力だよねー。好きな映画ならメイキングでもアウトテイクでもインタビューでもなんでも見たいし。オーディオ・コメンタリーも好き。
 そんなわけで、今はポチポチ、LDで持ってる映画をDVDで買い足しているところ。今日も2万6千円のアレハンドロ・ホドロフスキーのボックスセットを注文してしまった。2003セット限定(この3はなんだ?)だって言うんだもん。これも買わなきゃなくなる! まあ、これは自分へのお誕生日プレゼントということにしよう。
 だったらピーター・グリーナウェイは? と捜したら、ボックスセットはもうプレミア付いてる! まあ、これは3本しか入ってないからいらないけど。こういう監督のは(1枚ずつ買うのめんどくさいから)全作品ボックスで出してほしい。

2005年8月24日 水曜日

ホドロフスキーのボックスの話

 昨日注文したホドロフスキーのDVDボックスが早くも届く。ほんと便利な世の中になりましたなー。でも通販には意外な落とし穴が。そう、梱包である! 私は自分が通販商売やってるから、梱包にはめちゃくちゃうるさいのだ。今日も箱開けたとたんにいやな予感がした。私ならボックスセットはいちばん梱包に気を遣うのに、まして2万円超えるボックスなら、いやがうえにも厳重に梱包するのに、これはプチプチでくるんだだけ。しかも、それが大きすぎる箱に入っていて、中でガタガタはね回る。案の定、ボックスの角が一か所つぶれてるし、中のDVDが2枚ケースから飛び出して、新品なのに傷が付いてるー! (コレクターは細かいことにうるさい) まったくこれだから、高価なアイテムはむしろ中古を自分の目で確かめて買った方がいいと思っちゃうんだよな。ネットでとにかくいちばん安いところを捜して買ったから、あまり文句は言えないんだが。

 そこで本当ならここで、ホドロフスキーがいかに偉大かをとうとうと語りたいところだが(今の若い人はホドロフスキーなんて言っても知らないだろうし)、それはすでに自分の日記の映画評でやっちゃったので、また書く気がしない。(それにこの辺はいつか出版したいという野望を持っているし) そこでどうでもいいことを書く(笑)。

 実はわざわざ高価なボックスを買った本当の狙いは、特典として付いてる「ホドロフスキー監修のタロットカード(の復刻版)」だった。実は私、タロットに凝ってたことがあるんですよ。いや、べつに占いに興味があるわけじゃなくて、単にデザインがおもしろいし、紙ものが好きだから。しかし、これはかなり当てはずれ。ホドロフスキーのタロットというなら、どんなにおどろおどろしいものかと思っていたが、デザインはごく普通(でわりと稚拙)だし、サイズがミニチュアだし、まるでぱっとしないんだもん。
 逆に儲けたと思ったのはパッケージデザイン。豪華だし、イラストもかっこいいし、これはLDよりすてき。だけど、出し入れ面倒(笑)。ディジパックって壊れやすいし場所取るし、紙ジャケボックスにしてくれればいいのに。

 もうひとつ、儲けたと言っていいのか悪いのかよくわからないのは、日本盤だけの特典として付いているホドロフスキー・インタビュー。なにしろ神様、っていうか導師みたいな人だから、その人の肉声インタビューがこれだけ長時間聞けるというだけでも感動、のはずだったんだが、この通訳、フランス語ちゃんとしゃべれるの〜?
 これまた映画のイメージだけで、なんか不気味な変人を想像していたが、画面に出てくるホドロフスキーは優しそうな好々爺。しかも、小さい子供に話すようなしゃべり方をするのでなんか変だと思っていたが、それはどうやら通訳が小さい子供並みの語学力&理解力だからだということが見ているうちにわかってきた。『ファンドとリス』のヒロインが「パラリセ(障害者」だと言うのを「リセ(高校)の女の子」と勘違いするぐらいはまだ愛嬌だが、当然なんらかのリアクションをするべきところで黙ってるし、リアクションもなんか変。いちいち相手の言ったことを繰り返したり、なんか知恵遅れの人みたい。ホドロフスキーが一言ごとに「通じたかな?」と気を遣ってしゃべってるのがよくわかる。けっこういい人じゃん(笑)。
 それ以外にも猫を熱愛しているところや、「折り紙もやってるんだ。見せてあげる」と言って、(すごく上手な)折り紙の恐竜を見せたりするところもかわいくて、ますますこのオヤジに惚れてしまった。
 それにしても、もう少しましな通訳いなかったの? まあ、それでもないよりましだけど、これなら質問状渡して勝手にしゃべらせたほうがましだった。

 ただ収穫もあって、(もっとも、少し見ただけでいやになって、全部は見てないけど)、『エル・トポ』が『子連れ狼』だってのは、言われるまで気付かなかった! そういや、日本の映画やアニメやマンガが好きなのは、タランティーノやウォシャウスキー兄弟(『マトリックス』)とも共通してるんだが、同じものに影響受けても、できたものがこれだけ違うってところがなんとも。(もちろんタランティーノやウォシャウスキー兄弟はマンガだが、ホドロフスキーは――マンガチックだけど――芸術なのである)

 これだけじゃなんだから、これもこのボックスでしか見られない幻のデビュー作、『ファンドとリス』についても一言。見ていて、なんかなつかしいなあという郷愁に駆られた。こういう「シュールレアリスム映画」、若いころ好きでよく見てたんだよねえ。ブニュエルとかフェリーニとかに熱狂して。(こういうものばっかり見ていたからこういう性格になってしまったのかも)
 ただ、あの頃との違いも痛感した。昔は何しろビデオなんてなかったから、私はすべて劇場で見ているのである。この手の映画を真っ暗な劇場で、他に気を散らすものもなく、集中して見るのってけっこうつらい(笑)。画面の世界に完全に没入しちゃうから。それでそのめくるめくような違和感と幻惑感を楽しんでいたのだが、やっぱり自宅で見てもあの感じは二度と味わえない。

 ところで、ウォシャウスキー兄は性転換して女になるらしいですな。それってけっこうクラクラする。

2005年8月25日 木曜日

レコード評

Patrick Duff - Luxury Problems (Harvest, 2005)

この曲は書きたくなかった
だってきみは古い親友だし、きみを愛してるから
若かったころ
僕たちは一心同体だった
財布を共有し、着るものを共有し
他の誰にも明かしたことのない痛みを分かち合った
牢獄を俺たちは家庭にした
僕たちふたりきりで
あらゆる困難と窮地を切り抜けてきた
きみは僕の手を引いて
僕を助け、僕は狂ってなんかいないと感じさせてくれた
崖っぷちで手を伸ばし
僕たちは誓った
何があっても変わるまいと

でも今、今では何もかもすっかり変わってしまった
悲しいけれど、ある意味では悲しんでもしかたがない
人は誰でも変わらずにはいられないから
Runaway brothersの時代は終わったのさ
今でも覚えてる、きみの結婚式の日
なんかすごく変な感じがした
教会の外で、僕たちはちょっとした口論をした
どっちも相手のことを責め立てて
なのに今、こうやって久しぶりに会ったのに
ふたりとも何を言っていいかわからないなんて
どっちも突っ立ったまま自分の靴を見つめ
どうしたらいいのかもわからない
きみには仕事がある――それはわかる
きみには妻がいる――僕にはバンドがある
こんな歌を書くことになるなんて思ってもみなかった
僕たちがこんなに変わってしまうなんて思ってもみなかった
友よ、きみのことは決して忘れない
死ぬまでここで手を差し伸べながら

――Strangelove “Runaway Brothers”――

 ‥‥Patrick Duffのソロ・アルバムとはほとんど関係ないのに、つい全曲を長々引用してしまいました。いや、これは大人になってすっかり進む道が違ってしまった少年時代のダチ公に捧げるある種のラブソング(ついでに同性愛的気配も濃厚)だってことはわかってるんですよ。でも、こないだのTearsといい、これといい、「昔の恋人」に久々に再会すると、いやでもこの歌の文句を思い出してしまう。

(すぐ余談が入るのだが、この詞ってSmithsの未発表曲だと言われても信じるぐらいMorrisseyそっくり! youはてっきり彼女だと思わせて、You've got a wife.というのを聞くまで相手が男だとわからないあたりとか。ところでMorrisseyそっくりといえば、Strangelove同志のソミヤさんに教えてもらったのだが、The Boyfriendsという、まだCDも出てない新人バンドなんだが、これがSmithsそっくり! フル・サウンドクリップがあるので、興味のある人は聞いてみて。こっちも名前からしてホモっぽいなー。ちなみにボーカルはこわい顔したスキンヘッド! でもひとり美形がいて、もしかしてこれがギタリスト? だとしたらそこもSmithsに似てるんだが)

 というわけで、このリビューは書くと予告したものの、書きあぐねて放っておいたら、熱心なファンの方(ソミヤさん)から催促をいただきました(笑)。そこで約束したからには書きます。でもPatrickは私の最愛のアーティストのひとりなので、(いつかは出るかもしれない)Paul Draperのソロをけなせないのと同じで、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまうのは勘弁してください。

 これは元StrangeloveのPatrick Duffの初のソロ・アルバムである。Strangeloveについては、Mansunの登場でお株を奪われてしまうまでのほんの短い期間、私のナンバーワン・バンドだった、ってことはもうあっちこっちに書いてるからもういいや。読者の皆さんならご存じのように、たしかに私はMansunのおかげで人生を棒に振った、じゃなかった、人生が変わったが、実はそれはMansunじゃなく、Strangeloveだったかもしれないのである。お店の名前にStrangelove Recordsと付けたのも故あってのことだ。(だいたいMansun Recordsなんてマヌケな名前にはしたくなかったし)

 それで私はプロモが出てすぐに買ったのだが、それが届いてからずっと、なんと言ったらいいかわからなくて呻吟しているわけである。前置きがやたらと長いのでお気づきのように、やっぱり現物を前にしちゃうと、何を言ったらいいのかわからない、というところまで、あの歌の文句そっくり。

 この話はこの日記にはたしか書いてないから、まずはStrangeloveとのなれそめから振り返ろう。〈逃げてる、逃げてる〉 うるさい!

 Strangeloveは、私とは何かと因縁の深いBristol出身。1992年10月に地元のインディーSarmonから“Visionary EP”でデビュー。93年2月にリリースしたセカンド・シングル“Hysteria Unknown”が高く評価され、注目を集めた。その勢いで、Blurで当てたFoodと契約、1994年8月にデビュー・アルバム“Time For The Rest Of Your Life”をリリース。これをSuede、Manics、Radioheadらの先輩格のグループが口を揃えて絶賛し、ツアーのサポートに抜擢した、というあたりで私もその名を知った。

 実は私が最初に買って聴いたのは1996年のセカンド“Love & Other Demons”(関係ないけど、6月17日参照)である。(ファーストは東京中捜しまわったのだが、どこにもなくて、あとからイギリスから買った) ちょうどそのころ、レコード・コレクターとして開眼した私は、やっぱり集めるなら、いちばん好きなひとつのバンドに絞ろうと思って候補を捜していた。もちろん、ManicsやSuedeも好きだったけど、当時Manicsのレア盤はすでに値段が上がりすぎて私には手が届かないし、Suedeは逆にレア盤というのがあまりなくてつまらないという事情があった。
 それなら、将来超大物になりそうなバンドを、デビューしたときから追っかけてればすごいコレクションができるんじゃないかと思ったわけだ。ひそかに自分にはA&R(モノになりそうなバンドを捜してきて契約するレコード会社のスカウト)の才能があるんじゃないかと思ってたしね。
 そこで私が最初に白羽の矢を立てたのがStrangeloveだったわけ。ただ、幸か不幸か、その直後にMansunを知ってしまったのよね。それでMansunに入れあげ、せっかく見つけたはずのStrangeloveはかすんでしまった。もしStrangeloveをファーストから聴いていたんだったら、話は逆だったかもしれないのに。
 それでまたその直後にPuressenceを知って(実はPuressenceがこの3バンドの中ではいちばんキャリアが長い)、「しまった!」と思ったという話はすでに書いた。(ちなみに今――まだあるなら――いちばん好きなバンドはやっぱりPuressenceである)
 ところがMansunはアルバム3枚で解散。Strangeloveもアルバム3枚で解散。Puressenceがどうなってるのかわからないのだが(新譜が完成間近という話は聞いたが、いつもそういう噂を聞いてから3年ぐらいかかるので)、下手するとこれも3枚でいなくなるかも。私の先を見る目なんて、まあそんなもんです。 当たったのはUNKLEぐらいか。

 ああ、忘れてならないが、私がStrangeloveに入れ込んだのはもちろんルックスのせいもある。蒼白な広いひたいにかかるダークヘア、夢見る大きな瞳、傷ついたような表情、異常なぐらいの長身痩躯に細い長い足と、典型的なSuede型(笑)。Tearsのところで「BrettとBernardは双子みたい」と書いたが、当時の日記にはPatrickについて「Brettの生き別れの弟」なんて書いてある。プレスには「19世紀の肺病病みの詩人」とも呼ばれた。やってる音楽と風貌がこれだけ一致してる人もちょっとめずらしい(笑)。(本人は非常に物静かで礼儀正しい人だそうです) 見るからに傷つきやすそうな被害者タイプなのと、危険な死の香りのするあたり、よくRicheyともくらべられてた。
 なんか年とったらだんだん変な顔になってきて、額もますます広くなってるようだが(笑)、その点、今も美しいSuede組には負けちゃったな。Richeyはいいよね。彼は失踪直前がいちばん美しかったし、私の目には永遠にその姿のまま(ただし坊主前)だし。

 とにかく、Strangeloveのファーストはすごかった。今、Mansunの“Grey Lantern”とどっちがすごいかと言われたら真剣に悩むな。でもタイプが違いすぎるんで、どっちとも言えない。Mansunはやっぱりポップなところがすばらしいんだけど、Strangeloveは毛頭コマーシャルな音楽じゃないし。唯一、共通点があるとすれば、完全無欠でまったくなんのアラもない、それこそスリーブから歌詞からすべて計算し尽くされ、完成されきったアルバム、新人にしては成熟しきったアルバムということだろうか。(で、経験から言って、こういうファーストを作っちゃうバンドはあぶないのである)
 すでに私はセカンドを聞いてわかったつもりになっていたんだけど、「こんなはずがない。これがこんなにいいはずがない」と足が震えるほどのアルバムで、当時英国で「世紀の名盤」とうたわれたのも当然とうなづける。
 よくゴスと言われたけど、なんかもうそんなジャンルは超越している。ただただ、壮大で、ドラマチックで、迫力があって、かっこよくて、凛とした気品と知性がみなぎっていて、そして壮絶に美しい。やはりStrangeloveの魅力を一言で言えば、この危険で凄絶なまでの美しさだろう。特にタイトル曲でもある“Time For The Rest Of Your Life”を聴いたときの、足下の地面がぱっくり裂け、地の底に引きずり込まれるような感じは忘れられない。(比喩がこわいって? だってお世辞にも明るいアルバムじゃないんだもん)
 一生忘れられないような決めぜりふってあるんですよね。Manicsだったら、“Motorcycle Emptiness”のエンディングの‘All we want from you are the kicks you've given us’というところ、Mansunだったら“Legacy”のエンディングの‘Nobody cares when you're gone’というところ、それでStrangeloveはやっぱりこの曲のサビの‘No-one will love you in a thousand years’というところ。なんかネガティブなセリフばかりですまん。どうしてもこういうのに弱いもんで。
 確かに千年後、この人たちの誰ひとり、覚えてる人間はいないだろうな。Manicsだけはうまくすれば‥‥とは思うけど、MansunとStrangeloveは皆無だろう。だからこそなんらかの形で少しでも保存したいというコレクター本能が働くんだよね。店の名前にStrangeloveと付けたのも、どうしてもこの名前をどこかに残したかったからだし。

 というわけで、ファーストは文句なし。セカンドではこれに意外な甘さとポップ性が加わった。これはこれで、私は悪いことじゃないと思った。いよいよ本気で売り出そうというんだなという感じで。このバンドに惚れ込んだSuedeが大々的にプッシュしてくれた(レコーディングにもBrettとRichardがゲスト参加。後にギタリストのAlex Leeが後にSuedeに迎えられたところを見ても、Strangeloveは弟分という感じだ)せいもあって、前途は洋々に見えたのだが‥‥
 そして満を持して出した(はずの)サード・アルバムは、なぜかいきなり「ロック」に目覚め、英国では「Patrick Duffご乱心」とか言われて、それまで熱烈支持してくれたプレスにもさんざん叩かれた。これが原因で結局解散に至ったんじゃないかと思う。この経緯、なんかMansunにも似てるが、Mansunと違って、私はこのサードも好きだったんだけどねえ。
 ただ、その私も「なんか違うなー」という違和感は感じていた。夢のように美しいバラードを書ける反面、攻撃的な荒々しい部分はファーストからあって、それはそれですごい迫力でかっこよかったのだが、なんかこのアルバムではその攻撃性が粗くて、とんがってて、薄っぺらで直情的なのである。Strangeloveと言えば「美と知性」で売ってたバンドだけに、これはややショックだった。結局、そのままなしくずしに解散に至ったのも、このアルバムの不評がたたったとしか思えない。その辺、やっぱりMansunに似ている。

 その後のPatrickがどうしていたかというと、すぐにMoonという新バンドを結成したものの、このバンドは7インチ1枚のみ(それもレコード契約が取れず、オンライン通販のみ)を出して解散。このシングル(およびライブで聴いた他の曲)が死ぬほど良かっただけに、私は地団駄踏んでくやしがったのだが、そのあとは契約先を捜しながら、細々と小さいクラブでひとりでアコースティック・ギグをやる日々が続いていた。
 私にとってはこれだけ大切な人の、これだけ待ちに待ったアルバム、どれほど期待していたかわかってほしい。

 最初に届いたのはプロモだった。だからクレジットもなんにもなく、詳しいことはわからなかったんだが、レーベルがHarvest(EMIの傘下)なのを見てびっくり! メジャーじゃん! 私は当然、出るとしても聞いたこともないローカル・インディー、悪くすればMoon同様、自主制作でネットで売るだけ、となるのを覚悟してたのに。そうなったときは、直接掛け合って、Strangelove Recordsにも置かせてもらおうとまで思ってたんですよ、私は。なのに、いきなりメジャー! どうなってるの?
 うーん、これは喜んでいいはずなんだが、なんか心からうれしいと思えなくて、むしろ不安を覚えたのはなんでだろ?

 とにかく中味の話に行く前にデータ。通常盤を手にしたときもけっこうあせった。なんなの、この安っぽいスリーブ? Strangeloveの3枚のアルバムのスリーブはどれもアーティスティックですてきだったので、この落差にがっくりする。セピア色の写真で、Patrickが鏡の前で薄笑いを浮かべているだけのものだが、この写真がしょぼいし、ロゴも安いし、彼は絶対笑っちゃいけないタイプのミュージシャンなのに。あえて弁護すれば、50年代の古いレコード・ジャケット風を狙ったというところだろうが、単に安っぽいだけ。(ブックレットの中はけっこうきれいです)

 さらに気になる参加メンバーは、腹心のギタリストAlex Leeが加わってるのは前から知っていた。うんうん、Anderson=Butler、Draper=Chad同様、Duff=Leeも切っても切れない間柄ってやつだよな。(結局、Bernardのことも許してるらしい) Strangeloveのメンバーで参加しているのは彼だけ。
 それ以外には、解散したPortisheadのAdrian Utleyが参加している。おお! Bristolコネクションってやつだな。Jim BarrもPortisheadのツアーメンバーだった人だし。当然ながらPortisheadも好きだった私は悪い気はしない。というか、これは期待以上かも‥‥という予感がしてきたのだが‥‥

 で、中味についても私はある程度予想を立てていた。Moon以降はずっとひとりでアコースティックでやっていたし、当然、ソロはアコースティック主体、バラード中心になるだろうと思ってた。ソロになるといきなり地味になるのはほとんど不変の法則だし。しかし、シンガーとしてのPatrickはむしろアコースティック・バラードで良さが際だつ人なので、それはぜんぜん平気、と思っていたのだが。
 さらに、Portisheadの元メンバーが入っていること、Alexは直前までSuedeにいたことなんかを考えると、そこにゴージャスで、ドリーミーで、ソフィスティケートされた、文字通りluxuriousな音になるんじゃないかと思ってワクワク‥‥。こりゃ下手するとStrangeloveよりいいかもよー。

 で、いそいそとCDをかけて、1曲目を聞いたとたん、絶句!!!

 ぎゃっ、これはなんだ!??? あー、びっくりした。とにかくしみじみした美しいバラードを予期してたもんで、最初CD間違えたかと思っちゃった。というのも、1曲目“Married With Kids”はまるでガレージ・パンクだったので。何が起こったんだー! だいたい「シンガーのソロ・アルバムの法則」を完全無視してるじゃん!
 うーむ、でもよく聴けばこれってStrangeloveのサードでやってたのの延長だな。ただし、うんとシンプルでチープな。これも衝撃。なにしろStrangeloveといえばゴージャス!って感じで、音がチープなんてことはなかったのである。なのに、まるで自宅録音みたいに薄っぺらで安っぽい音。普通なら、やっぱり「お金なかったんだろうな」と同情するところだが、お金なんかあったはずのない初期シングルだって十分ゴージャスだったことを思うと、これは意図したものとしか思えない。なんで!
 2曲目の“Mirror Man”はヒステリックなギターが吠え、Patrickが吠える、陰気なゴス。うーん、これはかなり実験的といえばいえるけど‥‥
 3曲目の“Fucked”でやっとバラードが出てくると、「あー、やっぱりPatrickだ」と、ちょっと胸をなで下ろす。でも確かに美しいけど、あのヒリヒリする緊張感がないなー。タイトルもあんまりだし。
 4曲目の“In My Junkie Clothes”はマウスハープで始まるが、これもいやな感じ。ハモニカ嫌いなんだよ! カントリーみたいで。ここでまたガレージ・パンク(のちょっと静かで品のいいやつ)に戻る。ああああー! 次の“Song To America”はまたバラードに戻って、でもこれもマウスハープが入ってアメリカっぽいのがいや。(ちなみに私はあらゆる音楽の中でカントリーがいちばん嫌い。でもって、アメリカの音楽は私にはみんなカントリーに聞こえる)

 なんかこの調子で1曲ずつやるのはいやになってしまったのでまとめてしまうと、この調子で、パンクっぽい曲とバラードが交互に出てくる。でも全体に言えるのはとにかく音がチープで、ザラザラしていて、ささくれだって粗っぽいと言うこと。だからガレージパンクみたいに聞こえるわけだが。まあある意味、非常に若々しい音とは言えるな。最近の新人にはこういうのよくあるし。
 しかしくどいようだが、StrangeloveというのはSuede直系のバンドで、しかもあのBristolバンド。という先入観があるから、よけいこの落差がこたえる。確かによく聞けば、声(Ian Curtisに似たビロードのような低音)はたしかにPatrickだし(当たり前)、メロディラインも彼のものなんだが、それ以前にサウンドが! 曲が!
 好きな曲もないわけじゃないんですけどね。“King Of The Underworld”はこれもバラードだが、いかにもPatrickらしい「お話風」の歌で、民話かダーク・ファンタジーのようなおもむきがある。でも以前の彼を思わせるのはこれ1曲だけと言ってもいい。

 あー、何が起こったんだ? 「ご乱心説」は本当だったのか? でもMoonはすごい良かったし、ソロ・ギグだって良かったのに、アルバムになるとなんでいきなりこうなるの? というところで、最初のあれに戻るわけである。悲しいけど、人は誰でも変わらずにはいられないのだ。

 生物学に「進化の不可逆性」という法則がある。たとえば鯨はいったん海から上がって陸上生活に適応したあと海へ戻ったわけだが、水中ではエラ呼吸のほうが便利だからと言って、肺がまた退化して浮き袋に戻るということはありえないわけだ。同じように、私は「バンドの不可逆性」というのがあると思う。
 あるミュージシャンに向かって、「なんでまた○○のような曲を書かない?」と言ってもむだなのは、これまでもさんざん体験してきたから。それでもなお、私はこのアルバムを3分聴くと、Strangeloveのファーストを聴き返して、これがほんとにあのPatrickなんだってことを再確認せずにはいられない。

 まあいい。彼は新しい道を歩き始めたんだし、あの歌にもあったように、私はそれでも彼を愛し続ける。ただ、こうなると、Paul Draperのソロがどうなるのか、なんかめちゃくちゃ不安になってきたんですけど‥‥。
 おっと、ついでだからPaulのニュースも。彼はCorporation:Blendという新人のプロデュースをするそうです。最近、Mansun関係のニュースなんてぜんぜんチェックしてなかったんだけど、親切な内外のファンの方々が教えてくれました。みんなえらいなー(苦笑)。
 私としてはプロデュースなんかどうでもいいんだけど、とりあえず彼がまったく音楽に関心失ったわけじゃないのがわかって一安心です。

2005年8月29日 月曜日

年の話

 27日は私の誕生日で、おおお‥‥とうとう大台に乗っちまったよー! 50だぜ、50! 信じられる? 私は信じられませんね。これは若い人には想像もつかないだろうけど、時間って年齢と共に加速するんです。前に小学生の夏休みは10年ぐらいに感じられたって話したでしょ? この年になるとそれが1万倍ぐらいに加速する。正直に言うと、「寝て目が覚めたら20年ぐらいたっていた」という浦島太郎気分。だから鏡を見てがくぜんとするわけ。これじゃ次に目が覚めたら70才で、総白髪のおばあさんだよ。嘘じゃないって。私の同年代の人はみんなそう言うから。
 でも年を取るのはべつにそれほど気にならないの。問題なのは頭の中味がその加齢に追いつかないこと。肉体年齢はともかく気分的には、私はどうしても自分がまだ30ぐらいにしか感じられない。さすがにそういう人は同世代でもあまりいなくて、それは私が(ちゃんとした)就職とか、(ちゃんとした)結婚とか、子育てとか、人並みのことをみんなパスしてきちゃったせいかもしれないけど。
 まあ、だからといって悩んでもしょうがないから悩まないことにしてますけどね。でも唯一心配なのは、将来老人ホームとか入っても、周囲の人とまったく話が合わないんじゃないかということ(笑)。まあ、それもネットがあればいいか。ネットは年齢関係ないから。でも老人ホームにインターネットがなかったらどうしよう? って、今からそんなこと心配してどうする!

映画とDVDの話

 幸い(幸いじゃないって!)お店も暇なので、勝手に夏休みということにして、ここ数日は映画三昧の日々を送っていました。こないだDVD借りて見たのが引き金になっちゃって。映画って見始めるときりがないんだよね。
 で、何を見ていたかというと、すでに持ってる映画ばっかり。しばらく埃をかぶっていたLDを取っ替え引っ替え見て、ついでに自分へのお誕生日プレゼントと称してどっと買い込んだDVDを見て。もっとも買ったと言ってもすでにLDで持ってるのばかり。繰り返し見たいような映画ってどうしても限られちゃうし、どうでもいいような映画たくさん見るより、本当に好きなのだけ何度も見たいんだもん。(その点、音楽も同じ)

 で、わざとこれまでは(ほしくなるので)足を踏み入れないようにしていた中古DVDショップをいろいろ見て歩いたんだけど、値段の付け方めちゃくちゃだなあ。同じのが店によって3倍ぐらい値段が違うし。どうもまだ中古市場が確立してなくて中古価格が定まってないみたい。定価から千円引いたぐらいの値段で売ってるところもあれば、980円均一で投げ売りしているところもあるし。
 そんなわけで、あせって買う必要もないということで、安いのだけ(ホドロフスキーのボックスだけは高かったけど、それでも新品が中古屋より安かった)選んで買ってきました。『マトリックス』のボックスと、クロネンバーグの『ビデオドローム』と、ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のトム・サビーニ版リメイクと、『キャッチ=22』と、いずれも(『マトリックス』を除く)「私の人生を変えた」思い出深い映画ばかり。
 で、ほんとはここで長いリビューを書きたいんだけど、そんな暇も気力もないので、またどうでもいいことを書く。

 “Matrix”のことはボロクソ言ってるくせに、なんでボックスセットなんか買うのかって? これは買いたくなかったんだよねえ。というのも、1だけは大好きなので、すでに持ってる英語版ボックスセットと“Matrix Revisited”の2枚がダブっちゃうし、2と3はいらないから。でも、3作とそれぞれのメイキング、それに“Animatrix”がついて、おまけにもうあと3枚の特典ディスクがついてこの値段は安すぎるし、やっぱり3部作なのに1しか持ってないのもなんだし、“Matrix”が頭に来るのはプロデューサーと監督と脚本がバカだからだけど、それ以外は全部好きなので、メイキングとか見てるぶんには楽しめるし。まあいいかと。(言い訳が長い!)
 実を言うと、いちばん興味をそそられたのは、オーディオ・コメンタリー(長いので以下、ACと略)。もちろん1はちゃんとしたACの付いたのを持ってるんだけど、このボックスセットはそれとはまた別に、「“Matrix”を好きな哲学者」によるACと、「“Matrix”を嫌いな批評家」によるACが付いてるというじゃありませんか。これってすごいおもしろそう。いや、哲学者の勝手なこじつけのヨイショなんかつまらないのはわかってるんだけど、あれだけ突っ込みどころの多い“Matrix”を、アンチ“Matrix”の批評家がメタクソけなすのを聞きながら見るのもまたオツなものじゃないかと(笑)。
 というわけで大いに期待して見始めたんだけど、ダメだ、こりゃー! こいつらバカじゃ! 気の利いたことなんか何ひとつ言わないし、逆にACに突っ込みたくてイライラするだけ! これなら自分で突っ込み入れながら見てるほうがよっぽどおもしろい。
 ちっ、やっぱり映画評論家なんてバカばっかりだ。というか、なんでだめか見ているうちに気が付いた。悪口リビューがおもしろいのは(ちなみに私のはすごくおもしろいと評判です)、愛があるからなんである。前にほめた『トンデモ本の世界』(最初の3冊ぐらい。あとはつまらん)がおもしろいのは、そういうバカ本を著者たちが心から愛してる(にも関わらず身も蓋もないことを言う)からだったし、私もそもそも自分が好きじゃないものは(見ないから)けなさない。
 なのに、この哲学者や批評家たちは単にお仕事だからしゃべってるだけなんですね。これじゃおもしろいわけがない。逆に監督やキャストのACがおもしろいのは、(たとえヘボ映画でも)当事者にはそれなりの思い入れや愛があるからなんだよね。どうせ意表をついたAC付けるなら、どうしてファンや映画おたくにやらせない? その方がどんなにかおもしろいこと言うはずなのに。個人的には他に科学者とSFマニアによる突っ込み編も聞きたかった(笑)。

 ついでにACの話を続けると、期待外れだったのは『キャッチ=22』。監督のマイク・ニコルズと、なぜかスティーヴン・ソダーバーグの対談になっていて、すげえ!と思ったんだけど、この人たち、二人ともすごい無口なの(笑)。だから、話が続かない。ACで沈黙するなー! それにソダーバーグはせめて相槌ぐらい打てよ。映画見ても頭わるそうなやつだとは思ったけど(笑)。
 逆に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のトム・サビーニはしゃべりまくってくれてうれしかった。彼自身がおたくっぽいから当然か(笑)。

 で、『マトリックス』に話を戻すと、なんで1が良くて、2と3がダメかよくわかりましたよ。脚本のアラは数あれど、とにかくあのビジュアルと世界観はすばらしかった。特に私が好きだったのはすべてが非現実的で無機的なところ。なのに、2になったとたん、いきなりその世界がガラッと変わってしまうんだもん。のっけから、ネオとトリニティはやりたい盛りのガキみたいに発情してるし(苦笑)、モーフィアスは三角関係だなんてイメージぶちこわし! この人たちは何があってもクールで無表情で(おまけにいつでもサングラスをしているからまったく表情が見えない)、エージェント・スミスのほうがよっぽど人間らしいというか(笑)、この人たちのほうがロボットかなんかのように見えたのに。
 もちろん、マトリックスに対してザイオンの人間くささを出したかったのはわかるけど、1と同一人物とは思えない! その思いっきり臭いメロドラマに、「ザイオンの盆踊り」が始まったところで、私はまじめに見る気をすべて失いました(苦笑)。機械と戦争している未来世界というから、私は『ターミネーター』(これも1と2しか認めてない)の未来世界みたいなのを想像していたのに、こいつら戦時下の緊張ゼロじゃない!
 あと、メロヴィンジアンとその女房みたいな、思い切り無意味でアホくさいキャラ出してきたり、この調子でけなしてるともうきりがないからやめるけど。でもメイキングを見ていてまたしょうもないことを知ってしまった。あの高速道路のカーチェイス・シーン、私はどっかの高速を使って、車はほとんどCGだろうと思ってたんだけど、わざわざこの映画のために、何キロもある高速道路のセットを作ってしまったのね。
 あんな無意味なシーンのためになんという資源と時間の浪費! なんで無意味かというと、まずあれじゃ単なるアクション映画のカーチェイスと何も変わらないということ。マトリックスらしさはまるっきりない平凡なカー・アクションで、あんなの刑事物とかの普通のアクション映画でもいくらでも見られる。(それにしちゃ不死身すぎるが、『ダイハード』みたいなアクションものでも、2以降の主人公は人間とは思えない不死身になっちゃったから、今さらこれぐらいじゃ誰も驚かない) ぜんぜんクールでも無機質でもないし、マトリックス空間ならもっともっと異常なアクション見せてもらわなくちゃ。
 おまけに、最大の見せ場――トラックの上での格闘シーンとトラックの正面衝突――はCGと合成で撮ってるから、せっかく実写にこだわったのに、ぜんぶがうそっこに見えてしまう。私が監督ならあのシーンは丸ごとカットだが、あれだけお金かけちゃったらそうもいかんだろうな。とにかく2と3は半分はカットした方がいいシーンばかりで、合わせて1本でちょうどいい。

 あと、『マトリックス』を見ていて、ものすごい不快なのは、「愛」の表現。そう感じるのは、ホドロフスキーを見たあとからだからもしれない。これは『リローデッド』のリビューでも書いたけど、発想が中坊なみなんだよ! 煎じ詰めれば要するにやりたいだけ(笑)。中学生ならともかく、大人はこれではちょっとね。「愛のためなら死ねる」みたいなのも失笑するのみ。まあ、ハリウッド映画の「愛」はすべてそうだけどね。(そういや、アニメもそれで嫌い)
 ここでホドロフスキーを引き合いに出すのは(知ってる人は)意外に思うかもしれない。私も昔は「なんじゃこりゃー、アハハ!」と言いながら笑って見ていたのである。でも「大人になった」今、3本続けて見て、これはどれも愛の映画なんだと気が付いた。もっともかなり宗教入ったスピリチュアルな愛だけどね。これとか、前に書いたマルケスの『愛その他の悪霊』みたいなのこそ、大人のラブストーリーだと思うんですけど、たぶんそう思う人はかなりの少数派だろう。私はこういうのでさめざめ泣けるんだけどなあ。

 泣けると言えば、私はゾンビ映画を見ておいおい泣ける人間である。よりによってモンスターの中でもいっとうかっこわるくて情けなくてばっちくて醜いゾンビで! もちろんジョージ・A・ロメロの『リビング・デッド』3部作の話だが。
 とかなんとか言ってたら、知らない間に『ドーン』はリメイクされ、おまけにロメロはなんと新作『ランド・オブ・ザ・デッド』が公開されているじゃないか! (私は世の中のことにうといのである)
 リメイクにはなんの興味もないが、(サビーニ版はあくまでロメロの映画だったし、『ドーン』は完璧な映画なので、リメイクしても意味がない)、ロメロが続編(なのかどうかもよく知らないが)を撮ってくれただけでも感動の嵐! これは絶対近日見に行って書きます!

2005年8月31日 水曜日

 『ランド・オブ・ザ・デッド』見てきました。これとロメロのゾンビ映画については、夏休み特集として近日公開予定!

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